26 虚しい

 


 あの年下の従兄弟いとこは、幼い頃からいつも笑っていた。処世のために身に着けた笑みだったろう。あれは、自分とはまた違う意味で腹のつかめない男になった。

 顔に大きなあざがあり、人見知りで、物腰が柔らかい。体格は頭抜けて優れているが、必要がない限り、人に威圧感を与える事はなかった。

 そう見えるよう、振る舞える男なのだ。

 すいどろは、困ったように笑いながら浩宇こううに代わって火薬の調合を済ませてくれた。隣でいやそうな顔で口元を曲げていた保食うけもちが、少し面白かった。そして、保食を見ている時だけは、水泥の肩の力も抜けていたように思う。

 彼等二人の関係は、見る事のなかった自分達兄妹の鏡のようにも感じられて、ただそれだけで浩宇は少し安らいだ。


 それももう、邑毎むらごと失われた。

 

 璋璞しょうはくの隊を分断するためにおとり役をになったくぐいもまた、不器用で可愛げのある男だった。第二拠点に向かった振りをしてわざとつかまり、半散華刀はんさんげとうを使って差し向けられた璋璞しょうはく隊を殲滅せんめつさせる。火薬を使わないだけで、彼に課せられた筋書きは、浩宇が蓬莱ほうらいでやったのと同じ事だ。


 皆殺しである。


 彼もまた不死石しなずのいしを外した者である。やってやれない事はない。やるかやらないかだけの話だ。そして彼ならやる。それが保食のためにできる唯一の事だからだ。

 鵠は事あるごとに保食に粉をかけていたが、浩宇の眼からすればそれは妹を揶揄からかいながら可愛がるそれの域を出ないように思えた。

 保食は勘の鋭い子なので、その辺りの差異を敏感に感じ取ったのだろう。一切に受ける様子がなかったのは、気の毒やらおかしいやらで、見ていて飽きなかった。改めて当人達に確認する事もなかったが、やはり近くに璋璞しょうはくがいたのではその差異は歴然過ぎた。

 白髪白髭鬚ししゅ偉丈夫いじょうふの姿を思い出す。

 幼い頃から見知ってきた男だが、あれ程までに情動に身をがす姿を目の当たりにさせられる事になるとは思わなかった。その対象となったのが保食だと言うのにもかなり驚かされた。

 本気の葛藤かっとうという物は、隠していてもにじみ出るものだ。浩宇達からすれば途方もない時間を生きてきたはずの彼が保食を前に困惑と自問自答を繰り返している様は、敵対関係である事さえ無視できれば、一層いっそ小気味よい程だった。男としてはある種の感動すら覚える。そこまで一人に入れめるというのが奇跡に近い。

 まあ、手に入らぬがゆえの執着か、とも思うが。

 彼は常にゆるやかで包み込むように保食を扱ったが、彼女を見るその眼の奥に押し込めた本心は、隠そうとすればする程にいや増す。そっと肩に添えられただけのてのひらめられた欲望とそれを押しとどめる理性とのせめぎ合いは、雄としての本能を通り越して、けだもの焦臭こがれくささの域にあった。璋璞が、自身の立場を幾度となく振り返り、押しつぶしてきた本能の血肉は、やがて腐敗し、周知のものとなる。気取けどらぬ者などない程に。それはやがて保食自身にも届く。意識せざるを得なくなる。

 器のつぐひめだからではなく、仙山せんざん最強の剣豪だからでもなく、ただ己と言う人間を、身も心も食らい尽くさんばかりにほっされる。その感情を間近で浴びる事によって彼女自身の形も否応なく変えられてゆく。自分と言う人間のとらえ方自体が変わってしまう。



 無条件に存在を望まれ、お前だけだと肯定され認められる。――それは、禁断の快楽だ。一度それをその身に受け入れてしまえば、もう引き返せなくなる。

 その拒否とは即ち、自らによる自身の価値の否定を意味するからだ。



 つまり焦がれるとは、発するも受けるも身を持ち崩すものなのだ。

 理屈など通らない。情動のうずを生んだ本人にも制御など出来ず、また求められる者も引き寄せられてしまう。

 隠し切れなかったのは、璋璞しょうはくの耐性が薄弱だったからではないだろう。求める事を止められない。消し去れない。その度合いが常軌をいっしていた。ただそれだけだ。

 そうだ。保食と璋璞しょうはくは――置かれた立場が悪かった。全てはその一言に尽きるのだろう。しかしそれは誰しもある程度はそうなのだ。同情する気はないが、璋璞しょうはくの人柄は割と気に入っていたので、多少は気の毒に思わなくもなかった。

 浩宇は静かに空を見上げると、ふ、と笑った。

 自分はいつもこうだ。周りの人間の事にばかり思考を巡らせて、ついぞ自身についてかえりみる事がないまま、とうとうこの日を迎えてしまった。


 ――恋情か、と笑った。


 存在しなかった訳ではないのだろうが、恐らくそれを思考の俎上そじょうに上げる事を、他でもない自身が拒絶していたのだろう。

 彼等の葛藤かっとう垣間かいま見て、それに関してわずかばかりの所感を持つ。そこで留めておきたかった。そこで自身はどうなのかと振り返ってしまえば、最早引き返せない袋小路にはまるのは明白。浩宇はそれをなんとしても回避したかったのだ。


 むなしいから。

 太刀打ちなど、できるわけがなかったから。


 この世に心残りが全くないとは言わないが、それもまあ、誰しも同じ事だろうから、引き際が見極められる分有難いと思い、それ以上考える事をよした。それが己のつまらない本音だろう。

 砂を蹴る音がする。

 馬だな。単騎だ。ざっと下馬した長靴の音が追って届く。崩れた壁の向こう側に人影が現れる。それは浩宇の姿を認めると、一瞬歩みを止めた。真っ直ぐな眼差しは、もう何の迷いも宿していなかった。


 ――ああ、本当にきれいな娘だ。


 そう言われる事を嫌うのを知っているから、本人の前で口に出した事はないけれど。心からそう思った。

 浩宇はやはり狐のように目元を細めて、ふふ、と笑った。


「やあ、保食」


 保食は、無言のままそこに留まっていた。




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