25 蔡浩宇



         *


「ふぅむ」

 と、疲労交じりの吐息が、男の口――いや、鼻から漏れ出た。



 さい浩宇こううはその色の白い狐顔をすすで汚したまま、玄関先にぼんやりと座り込んでいた。他でもない、保食うけもち蓬莱ほうらい滞在時に使用しているほこらの邸の玄関である。

 浩宇は、胡乱うろんな視線をちらりと彼方かなたに向けた。彼の座する場所からは、崩れた門に焼け焦げた植栽が見えている。崩落ほうらく間際まぎわの壁にはばまれて視界には入らないが、その先にある蓬莱ほうらいむら全体はすでに爆散している。



 壊れているのは家屋ばかりではない。壁の向こうに横たわる遺骸いがいの大半は五体をとどめず、また数知れない。

 五邑ごゆうのものはない。全て姮娥こうが黄師こうしの遺骸だ。土埃つちぼこりに混じる血腥ちなまぐささに、浩宇は自らの鼻の頭の皺を深くした。

 ただ、臭かった。

 

 

 今倒壊をまぬかれその姿を保っているのは、もうこの邸と裏手にある祠しかない。

 その事実に、ほんのかすかだが、愉快な気持ちになった。浩宇は、一人薄く口角を上げる。これまでの溜飲を下げられたような気がした。



 ――ずっと、高熱に溶けた赤い鉄泥を飲み込まされているような、そんな心地で生きてきた。



 蓬莱ほうらいは、さいが先祖代々身命しんめいして護って来た邑だ。それを自らの手で破壊し尽くすというのは、ある種恍惚こうこつを誘発する快楽だった。こういった破壊を実践できる者も、またそれを決断できる立場となる者も少ないだろうが、浩宇は偶々たまたまその星回りの元に生まれ落ちた――それだけの事なのだろう。

 浩宇は――顔立ち性格共に、一癖も二癖もある人物だと思われていたし、自身にもその自覚があった。彼は、彼の父親に非常によく似ていたし、父もまた祖父によく似ていたらしいから、家系なのだろう。年の離れた妹である梨雪りせつは、生まれてすぐから母によく似たかわいらしい顔をしていたので、並べてみても兄妹だとは誰にも思われなかったろう。ただし、生まれたばかりの赤子の彼女が『色変わり』しない事を知って、今直ぐ邑から出そうと必死に言い募った彼のお陰で、この兄妹が長じて並ぶ事は只の一度もなかった。

 義弟に当たった寝棲ねすみに言わせれば、赤の他人と言われた方がまだ納得がいくそうだ。思えばあれも失礼な男だった。


 彼がってから、もう随分になる。


 梨雪と寝棲の二人が出会ってから思い合う仲になるまでにはまたたく間も必要なかったが、夫婦めおとになるまでには随分と紆余曲折うよきょくせつがあった。梨雪の『色変わり』がないという特性は、仙山にとっては重大な意味合いを持っていたからだ。

 寝棲が親友である虎欣こきんとともに、えいしゅうさんぽう合祀ごうしを確認に行くという大任を請け負った意図は誰の眼から見ても明らかだった。任務成功のあかつきには梨雪を妻に欲しい。そう麻硝ましょうに談判するつもりだろうと誰もが確信していた。――そして、虎欣こきんにも同様の思惑があった事を、ごく一部の人間だけが知っていた。

 それは重大な秘密であった。梨雪と寝棲以上に、口にする事をはばかられた秘事中の秘事だった。――それも最早、全て喪われた事ではある。

 しかし、彼等は事前にそれをほのめかす事なく旅立った。そして虎欣こきんの死亡が確認され、同じこころざしを持って旅立ったはずの二人の運命は大きく道を分かたれる事になった。

 果たして、寝棲の帰投後、梨雪は彼の妻とする事を認められたが、事前に交渉を経ていた訳ではないそれは、却って二人の重荷となった。



 虎欣こきんの死亡と、藤之ふじの保食うけもちという一人の少女の命が、寝棲が勝ち取った成果を喜ぶ事に蓋をしたのだ。寝棲が虎欣こきんの望みを知ったのは、正に自らの婚礼の前夜だったのである。



 保食の犠牲なしに彼等の婚姻は成立し得なかったし、また、結ばれる事のなかったもう一つの恋が己等の影でちた事は、二人の上で大きな重石おもしとなった。そして、それを見て見ぬふりが出来る程、彼等は無頓着むとんちゃくにも薄情にも出来ていなかったのだ。

 結果、寝棲は『かん』のにえとなる事を麻硝ましょうに自ら申し出た。

 契約を前提とせずに与えられたは、やがてそれと等しい何かで返さなくてはならないのではないかという不穏ふおんを産む。その果と、他に割り振った搾取さくしゅが大きければ大きい程、その不穏は大きく育つ。彼等が善人であるが故に、重みは弥増いやます。



 そして、そのそもそもの種をいた浩宇もまた、無自覚に己の生を生きる事はできなかったのだ。



 土埃と血腥さの中で、浩宇は懐かしい子守歌をせながら口遊くちずさむ。

 蓬莱の民は、既に逃走を済ませている。保食うけもちくぐいの出立の直前に、最終の馬車を出し終えていた。

 だから、浩宇はずっと一人で邑にいた。

 その後に舞い戻った璋璞しょうはく隊の一小隊を、浩宇は全て刀で切り伏せた。完膚なきまでに全兵を散華さんげとうで切った。浩宇は不死石しなずのいしを安置していないので、それは赤子の手をひねるより容易たやすい事だった。だから、この一小隊は文字通り殲滅せんめつしている。それから、黄師禁軍に蓬莱の中を探られて仙山せんざんまつわる情報を奪われてはならないので、この邸と祠以外の建物は全て爆散させた。

 爆薬の作り方は保食から教わった。仙山にかつていた一人の少年から作り方を教わったのだと言う。そしてそれを文書の形で伝えてきたのだ。文字自体も彼から学んだのだという。保食が文書にして伝えてきた戦闘、戦略、武器に関する情報は膨大だった。彼女の中にあったいくさと言う名のうずめ火は、文書化される事でここまでの分量だったのだと初めて明確化され、浩宇のみならず周辺は舌を巻いた。

 文書には、この火薬というものに如何いか死屍しし散華さんげを混ぜるか、そのこつつぶさに書き出されていた。それは明らかに特殊な技法と精製がされていて、門外不出と言われて当然と思えるほどのものだった。それほどの精度のものが、分かりやすく、かつ再現しやすくまとめられていたのである。

 どうにもならなかったのは、浩宇が致命的なまでに手先が不器用だった事である。

 どうやっても調合が上手くいかない。湿気しける。入れすぎる。足りなすぎる。こぼす。その繰り返しでついに浩宇がんだところに助け手を差し伸べてくれたのが水麒すいきだった。



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