23 大師長


 保食うけもち蓬莱ほうらいにいる内は、禁軍右将軍である璋璞しょうはくもまた宮中に不在である事を意味する。事を起こすのに、それ以上の好機はなかった。


 保食、紅江こうこうの二人はふもとにある厩舎きゅうしゃへ馬を預けると、徒歩で南東側中腹にある中央大講堂を目指した。道中、いくつかある岐路きろの先には精舎しょうじゃが立ち並ぶ。標高が高くなればなるほど、そこに起居する神子みこの所属階層が上がる仕組みだ。

 二人が高臼こううすに入ったのは、俗に東門と呼ばれる断崖の切れ目からであるが、その断崖が終わる南端側からいただきを目指すと、黄師こうしの起居する兵舎が姿を現す。

 これは、精舎しょうじゃに続く東門に対して、南門と呼ばれた。

 こちらには巨石を組んで作られた文字通りの門がある。中央大講堂は、東門南門のどちらから登っても同程度の距離の場所に建立こんりゅうされている。

 西側には、そもそも半在家の信者が多く居住していたが、近年は更に民が増えていた。その多くが、水源汚染を受けて避難してきたものである。

 北側は州に接しているが、その間には国土随一の難所が横たわっており、人足にんそく踏破とうはできる状態にない。結果、この二地域間における直接の往来はなく、周辺もさびれている。しかし、見方を変えればこの地理的条件は比類なき堅守けんしゅと言えよう。故に、かつてせきぎょくとその最側近に当たった如艶じょえんが起居した方丈ほうじょう――通称月長げっちょう殿は、ここに建立こんりゅうされている。月長殿といただきにある赤玉の御座みくらは、大回廊で結ばれていた。


 間もなく中央大講堂へ至ると言う頃に、前方から駆けつけてくる姿が散見された。瓊高臼付きの黄師達である。


大姐ダージェ。無事の御帰投お喜び申し上げます」


 拱手しながら膝を折る彼等に、紅江こうこうは「うん」とだけ頷く。次いで黄師達は顔を上げると立ち上がり、保食うけもちのほうへ目を向けた。

藤之ふじの殿も。ご無事でなにより」

「ありがとうございます」

 軽く頭を下げて見せると、黄師達は「皆様お待ちです」と先をうながした。先に立った紅江こうこうに続き保食も歩みを進める。


 中央大講堂はやや急な斜面に足代あししろを組んで建てられている。けたゆき十七けん梁間はりま十四間六尺。二階層の重層建築となっており、上階からは北東から南西までが広く見渡せる造りになっていた。その大扉だいひは常に開け放たれたままになっている。――立場及び貴賤を問わず、この大扉をくぐった者を高臼こううすは拒まない――という原理原則が、そこにはめられていた。

 保食が脚を踏み入れると、そこには見慣れた男の顔が待ち受けていた。

 ぐ、と胸がつかえる。歩みを止める。



麻硝ましょう



 麻硝の表情は――硬かった。

 保食の表情もまた厳しい。じっと麻硝の片目を見据えたまま一つ首肯して見せる。彼の眼帯姿はいくら見ても慣れる事がない。外套の内に隠れているので左腕の損傷を目に入れる事はほぼないが、やはり彼を前にすると、その事実を忘れ去ったままにしておくことは出来なかった。彼が負傷を負ったのもまたこの瓊高臼山なのだ。

「……紅江こうこう、本当にありがとう」

 麻硝の礼に、紅江は頭を振る。

「いえ、これでようやとう大姉だいしさい大哥ターゴーのお役に立てました」

「保食」

 かつかつと長靴の踵を鳴らしながら近づいた麻硝が、その声音を低くした。



「――何故戻った」



 身も蓋もない言葉に保食は真っ向から答える。

「決まってる。あたしが、あたしを生きるためだ」

 麻硝は、その美貌を溜息交じりに歪めながら、視線をいしどこに落とした。

「俺はね――これ以上娘をうしないたくはなかったんだよ」

「勝手な事を。……あたしは、一度たりとてあんたの娘になった覚えはないよ。人を身代わりにしないで」

「お前が去ってくれていれば、後の事は俺で引き受けられたんだよ。――思う者と共に生きてゆくという道を、お前には示したつもりだったし、俺は、そちらを選んでほしかった」

 「は」と、保食の唇から失笑が漏れた。

「いい加減にして。人を後悔の復讐に使わないで」

「――復讐、か」

「非情に徹した結果がああだったんでしょう? だったら、あたしにも最後までそうしなさい」

 麻硝の右眼が、悔恨の色を浮かべて、ゆっくりと伏せられる。

「沙璋璞は殺さない。鸞成皃らんせいぼうが言う以上、それは必ず護られる」

「あたしに言わなくていい。そんな事は上層部でだけ話して」



「ほんとうに、残念だ。――お前にたくすぞ」



 保食の肩を軽く叩くと、麻硝は「行こう」と常になく固い声で言い切った。


 大講堂の内には更に扉がある。そこを空けてくぐると、ちゅうたつ慈琳じりん等が既に待ち受けていた。皆一様に硬い表情をしている。

 保食は彼等には一瞥もくれずに堂内中央へ進み入ると、大階段の半ばにたたずむ一人の姮娥こうがを見上げた。

 それは、白一色のしん猩々しょうじょうの帯を巻き、そこへ同じく猩々緋の飾り紐であしらった翡翠ひすいあか瑪瑙めのうはいぎょくを右側へ下げている。翡翠は大輪の菊の飾り彫り、赤瑪瑙は玉環だ。黄師というより神子側の装束に近い。白髪は短く整えられていた。姮娥こうがの民にしては珍しい事だ。どちらかといえば華奢な男性、と判別されそうな容姿ではあるが、実際どうなのかは知らない。大振りで美しい目鼻立ちをしているが、保食にはどうでもよかった。ただ、その声が女性のように高い事は知っている。

 保食はこくりと生唾を飲み込む。


げっとう大師長」

「待ちくたびれましたよ、藤之ふじのさん」


 月桃、と呼ばれた姮娥は、にぃ、と胡乱うろんな笑みを浮かべた。

 ゆっくりときざはしを下る姿は優美そのもの。蓬莱ほうらいへ向かう直前の会合で彼と隣り合って座した時に感じた悪寒と寒気を思い出す。

 月桃は伏し目がちに一階にまで下り来ると、小首を傾げながらにこりと再び笑んだ。



璋璞しょうはくは切れましたか?」



 極めて――極めて上品な声での問いに、保食はぐっと詰まる。その様を見るや、月桃は器用に片眉だけを上げて「おやおや」と笑った。

「その様子だと、やはり殺せませんでしたか。情に厚い人ですね、貴女は」

「月桃殿」

 横から麻硝が口を挟む。

璋璞しょうはくには生きてえいしゅうへ向かわせる策を採ると言う話になったはずです。計画通りに任をこなした者をあまりなぶらないでいただきたい」

「分かっていますよ。これでも十二分に感謝の意を示しているつもりなのですが」

 ころころと笑ってから、すぅとその眼を細める。



「毒と知って水を汚したり、子を成しにくいと知って凌辱したり、不死と知って切り刻んだり、男心をもてあそんだり、本当に五邑ごゆうの方々は我々とは思考が違って最も効果的かつ合理的な手を思いつくのがお上手だ」



 大講堂の内がしん、と静まり返る。誰も何も口に出す事はできなかった。彼の麾下達ですらそれは同じだった。


 高臼こううす黄師こうし大師長、げつとうとはこういう人物なのだ。


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