20 銀糸



 本来、身の内に不死石しなずのいしを安置されていない五邑ごゆうの民と姮娥こうがの民とでは、その膂力りょりょくにおいて歴然たる差異が出る。つ、保食うけもちの戦闘技術はと比べるべくもない練度れんどの高みにあった。

 しかし、沙璋璞さしょうはくは保食との戦闘を一騎打ちで対等にこなした。やはり禁軍将軍位に就く者として遜色ない力量の主なのだ。

 人徳の評価が先に立ちがちだが、本来璋璞しょうはくはその統率力と闘神の如き剛腕によって鳴らした人物である。打ち合いの始めは、その剛力で保食を圧していた、


 かに見えた。――しかし、じわり、その流れが変わる。


 確かに、両者互角に近い膂力りょりょくを備えていた。しかし、保食は不死石を安置せざる五邑なのである。

 璋璞が持たず、保食が持つもの。



 それこそが、常人の六倍の膂力に加えた、六倍の身軽と反射速度だった。



 剛腕で敵を璋璞しょうはくのような剛の者にとって、その一撃で敵が倒れないという場面に遭遇そうぐうする事がそもそもない。渾身の力で振り下ろした打撃が弾き返され、かつ同様の剛腕が自身を上回る速度で襲い来る。攻めていたはずの剣戟が受ける側に回ってゆく。それに気付いた時の衝撃は璋璞しょうはくを戦慄させた。いまかつてこれ程までに生死の境を垣間見た丁々発止ちょうちょうはっしを経験した事がなかった。

 突如、保食が馬体をひるがえし背を見せけ出した。璋璞しょうはくの駆る馬頭がやや逆に向いていた事でわずかな隙が出来たのだ。我知らず「該死くそ」とらしからぬ言葉が口のから漏れる。ぎりと歯を食いしばり璋璞が手綱を強く引くと、馬は棹立さおだちになりいなないた。前肢が地に降りた時には、既に保食とは五馬身程の距離が出来ている。抜かった。


 ――この小娘がっ!


 璋璞しょうはくが保食に向けて馬を駆り立てたと時を同じくして、保食が馬の鼻先をこちらへ変えた。そして全力でこちらへ駆けてくる。

 すわ、馬の疾走を加えての斬撃ざんげきを狙う気か――と璋璞しょうはくは笑んだ。おもしろい。こうまで真っ向勝負を挑むか。「ジャー!」と声高らかに璋璞もまた保食へ向けて駆け出した。

 馬蹄が地を削り、容赦なく粉塵ふんじんき上がる。

 向かい合うのは、修羅と修羅だった。

 これを受けずば己も最早一武人とは言えまい。駆けながら璋璞しょうはく連弩れんどを投げてた。馬体を両脚ではさあぶみに立ち、両の手で刀を八相はっそうに構える。保食は、璋璞しょうはくの右手へと駆けてくる。

 璋璞は――腹を括った。これは器の娘などではない。禁軍ひいては国を揺るがす賊軍ぞくぐんの中核をなす武人だ。生かしてはおけない。すれ違い様に必ずその胴を薙ぐ! 確かに、そう思ったのだ。

 が、


 ――自身が狙う保食の胸の中心に、己で付けた桜のあとがある事を思い出した。


 それがいけなかった。

 次の瞬間、保食が何かを口にくわえているのが見えた。てんらんの色だった。それが手綱に巻きつけられていると気付いたのが、僅かばかり遅かった。



 勝敗は刹那に決した。



 保食の上体が馬体の右側に沈み、璋璞しょうはくの横薙ぎにした太刀が空を切る。

 保食が自身の全体重を手綱に巻きつけた風防を歯噛みしたもので支えられたのは、体勢を沈めると同時に手綱へ左足首を絡めていた事と、保食が軽い女性の体であった事。加えて、不死石を安置せざる五邑ごゆうの身軽さがあったが故だった。

 しかし、その膂力りょりょくは常人の六倍。保食がいだ刀は、璋璞しょうはくの右脚諸共、馬の胴を前脚から後脚まで真っ直ぐに切り裂いた。



 二騎がすれ違った直後、両騎手は地に墜ちた。



 衝撃と共に土埃つちぼこりが舞う。

 璋璞しょうはくの乗馬は――断末魔を上げて絶命していた。

 背中から振り落とされた璋璞しょうはくは、呻きながら自身の下肢を見た。右足の膝から下は切り落とされ失われている。視線を動かすと、千切れた脚は、地に手をつけ起き上がろうとしている保食うけもちのすぐ手前にあった。両者砂埃を吸いせ返りながら、勝敗の様をつぶさに見る。

 保食は咳き込みながら口元を拭いつつ立ち上がる。僅か口角に血がにじんでいた。そして、おもむろ璋璞しょうはくの右脚を拾い上げた。

 感情のうかがえない目が璋璞に投げかけられる。無造作に脚を掴んだまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。見れば、保食はその右足を引き摺っていた。雑木林で捕らえた時に痛めたものだろう。その時璋璞しょうはくの内に去来したのは、ああ、かわいそうに、という、実にその場に不釣り合いな思いだった。砂と泥に汚れた勝者が、璋璞しょうはくの眼の前に彼の脚を放り投げた。

「返す」

 璋璞しょうはくは笑った。「律儀な事だな」と零した彼に、保食は、ただ静かにとても厭な顔をした。彼女のそんな表情を見るのは初めての事だった。

 自身の持つ刃から滴り落ちる血を一べつすると、保食は一振り払ってから自身の外套で拭い、さやに納めた。そのままなんの前置きもなく璋璞しょうはくへ背を向けると馬に向かい歩き出した。そんな保食のさまに、地に落ちた璋璞は、くつくつと笑った。聞いた保食がちっと舌打ちする。

「何がおかしいのさ」

「ここまで強かったなら、何故今まで俺を討たなかった」

「さあね。そんな事まで丁寧に教えてやる程あたしは親切な馬鹿じゃないんだよ。あんたのその御大層な肩書で想像してみな」

「――飽くまでも、民衆の内から起きた暴動、その範疇に納めるためか」

 今更に思い至った璋璞は、己の不明に失笑した。

 これだけの腕があれば、本来なら間違いなく出会った刹那に勝敗は決していただろう。それほど保食うけもちは――強かった。これまで戦場で幾度となく合いまみえてきたはずの青き鬼神が、いっそ可愛らしく思えるほどに。

 禁軍と黄師こうしは、この七年の内に起きた暴動の全てを民の反乱と判断してきた。何故なら、あれで命を失う兵がなかったからだ。姮娥こうがの下々の民は、死屍しし散華さんげを使った武器を持たない。故に、軍師に致命傷を与える事はできなかったのだ、と。

「――切っても切ってもたおれぬ軍を丸ごと一人でほふり去れるだけの腕を持ちながら、あえて幾度も重ねて対峙たいじする徒労に甘んじるなど、お主程の武人が耐えられようものか。してや、死屍散華を持つ五邑ごゆうの民であれば尚更――」

「あんたは」

 保食は璋璞の言葉を遮り、その脚を止めた。

 背を向けたまま、ぼそりと女の低い声が問うた。



「あんたは、自身の武を振りかざす為に武人をやってんの?」



 璋璞は、虚を突かれた。

「――否、そうでは、ないな」

 溜息が、保食の肩をわずかに上下させる。

「ねぇ将軍。軍の動かし方を考えるのはあんた等、頭部の仕事よね。あたし等一兵卒がやる事は、その為の材料を頭に提示する事だけ。使い道を考えるのは、あたし等がやる事じゃない。そんな事は、何に属しようが変わらないでしょうが」

「そう、その通りだ」

「御存知でしょうけれど、一応あたしは器の候補者なのよ。あたし自らに戦場で深追いをさせて万が一にもうしなってみなさいな。戦略的にこれ以上の損失はないでしょうが。――あんたなら、あたしをそんな風に使った?」

 そうは言うが――と璋璞は思う。それでも、内心に忸怩じくじたるものが無かろうはずがない。しかし自身の立場を理解し吞み込み耐えたこの一武人に対し、自身はその剥き出しのままの傷口に塩を塗り込むような真似をしたのだ。

「愚問だった。詫びる」

 保食は一瞬だけ振り返りかけ、しかし思い止まると再び馬に向かって歩き出した。

「そんなのいらないわ。あんた等軍勢と自勢のけたが違い過ぎて、それ以外の策を選びようがなかった。切っても切ってもたおれないあんたに、あたしが勝手に及び腰になって最後まで戦い切れなかったってだけよ。――いつもね」

 馬のくびを叩いてから、保食はあぶみに足をかけ馬上の人となる。手綱を引いて璋璞の側に馬の腹を向けると、静かに彼を見下ろした。

「あんたなら、その脚も二日くらいで元に戻るでしょ。――麾下きかも直ぐに追いつく」

 その時、二人の視線が確かに結ばれた。これまで交わしてきた物とはまるで違う、張り詰めた銀糸のような凄絶さで。



 この二十五年、偽りとたばかりと疑いのを介し、確かな呼気と体温に触れる程の近さにいた。その繋がりこそがこの銀糸なのだと、二人は理解していた。



 璋璞は、引きしぼられるような思いで保食を見詰める。

「今ここには、お主と俺しかいない。既に仙山せんざんの事は明らかとなった。お主にとっても、俺に止めを刺せる千載一遇の好機なのではないか?」

 保食は、静かに、一度ゆっくり瞬いた。そして、手綱を引いて璋璞に背を向けた。

「――生憎と、散華さんげとうの持ち合わせがないんだよ」

 璋璞は激痛を堪えながら半身を起こした。無理に力を入れたのに任せて右足からの失血が増す。

保食うけもち!」

 思わず――保食は馬に二の足を踏ませてしまった。そんな彼女の様を見て、璋璞は何の含みもなく、ただ望んだままその名を呼んだ。

「保食……うけもち」

 手綱を握る彼女の両の手は強張こわばり、込められた力の分震えた。璋璞の眼には、それが確かに映っていた。

「保食、最後に顔を……もう一度、顔を見せてくれないか」

 手綱を握る手に力が籠る。

「やめてよ」

「保食、たのむ、うけ」



「――あんた、ここ五年くらい、ずっと薫香くんこういてたでしょ」



 唐突な、そして思いがけぬ指摘に、璋璞は微かに息を漏らした。

「なに……」

 保食は背を向けたままうつむく。

「『真名まな』の力は『発露はつろ』。その近くに身を置いた者は、自身の残虐性を際限なく増幅させられ、それに翻弄ほんろうされる事になる。五邑ごゆうの民も、姮娥こうがの民も関係ない。帝壼宮ていこんきゅう内に方丈ほうじょうを置いてんだから、当然あんた達も例外じゃない。その香は、『発露』の影響を減らすためのものだよね」

「何故お主がその事を」

「捕らえた黄師に吐かせた。四肢を一本ずつ切り落とし、回復したら次の一本、それが戻ればまた次をと続けていたら、五周目で吐いたよ」

「なんとむごい事を……」

「ああ、酷いだろうよ。性根からして腐りもするさ、あたし達は。なあ、あんたは想像した事もないだろ。『色変わり』しなきゃ器にされてバラバラ。まぬがれても方丈に放り込まれてありったけの『色変わり』しない男共の子を産まされる。こんな理不尽にどれだけ憎悪して死んでいくか。それが『色変わり』なき女の末路だ。あんたこそ今まで何人もそんな女見てきたんだろうが。そいつらは黙ってにこにこ受け入れたか? そんな女しかいなかったからびっくりか? ――冗談じゃないよ。あたしは、あたしの命と体の使い道くらい自分で決められる!」

 保食の激高に、璋璞は言葉を失った。

仙山せんざんはな――姮娥こうがの民を殲滅せんめつさせる為に立ち上がったんじゃないんだよ。あたしらは五邑ごゆうの代表なんかじゃない。でも姮娥こうがでもない。あたし等は、この大地で生を受けた、ただの民だ。一個の無力な人間だ。だから決して殲滅戦には踏み込まなかった。それをやりだしたら遅かれ早かれ全面戦争になる。……それぐらいわかるだろうがあんたなら! こんな事態になってまで、なんであんた等は異地いちの帝とせきぎょく白玉はくぎょくを元の座に戻すべく交渉し直さない⁉ 民の為に不死石しなずのいしを取り戻す事が最善じゃないんか⁉」

 璋璞は、保食の低い怒声に含まれた、引き裂かれるような思いをんだ。彼女の怒りが、只々ただただ憐れだった。

 一呼吸おいて、保食は改めて馬上で姿勢を正した。

「――あんたのその香の効能も万全じゃないらしいね。宮城にいる奴等は、もう大概皆おかしくなってるんだろうよ。あんたの精神力だから今でも何とか持ち堪えられてるだけだ。――否、もう十分におかしかったんだろうな。『発露』なんかに惑わされたから、あたしなんかのくされた酌婦の真似事まねごとに血迷った――それだけだ」

「保食」

「巷に死屍散華の解毒薬が出回っていると聞いた」

「な――なに」

「さっさとそれぐらい探し当てなさいな。――『発露』が抜ければ忘れるわよ、こんな色欲まがいの一時の気の迷い。それで本来のあんた自身を取り戻して……全部なかった事にすればいいんだわ」



 保食が馬で駆けて行くのを、璋璞はただ黙って見詰めた。馬影が視界から姿を消すと、再び仰向けになって倒れ伏し、天を仰いだ。

 今こうして一対一の対峙を果たしても、保食は璋璞に対して散華刀を振るわなかった。今は持ち合わせていないと言ったが、それが真実ではない事を、璋璞は既に知っていた。

 彼女が扱っていた刀は両刃造りだった。その色の違いから、通常の刀と散華刀を合わせて鍛造した代物である事が見て取れていた。――つまり保食は、刃先を返す事で、姮娥こうがの民を切るか切らぬか選べたのだ。

 失血で意識が朦朧もうろうとするに任せ、璋璞はその両掌で自身の額を抱えた。

 璋璞の矢が彼女の胸元を射た瞬間、あの飴玉が転がり落ちた先に見せた表情の意味を思った。

 分かっていた事だ。理解していたはずだ。器とされる彼女等の憎しみは浴びて当然と重々に承知していた。そんな女しかいなかったからびっくりかと嘲笑交じりに問われた。確かにこれまでの女達は際で抗う事などなかった。ただ、力をその身に受け入れ、運命を受け入れ、その肉体の所有権を白玉に譲り渡す刹那、その眼に宿ったあの光を、それに射竦いすくめられたあの瞬間を、忘れた事はない。

 如艶じょえんが選択した道を、共に歩む事をあやまりだったとは今尚思っていないが、この胸に残る痛みに名を付けるとしたら、それは悔恨以外の何物でもなかった。



 銀の糸が、切れる音を聞いた気がした。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る