20 銀糸
本来、身の内に
しかし、
人徳の評価が先に立ちがちだが、本来
かに見えた。――しかし、じわり、その流れが変わる。
確かに、両者互角に近い
璋璞が持たず、保食が持つもの。
それこそが、常人の六倍の膂力に加えた、六倍の身軽と反射速度だった。
剛腕で敵を
突如、保食が馬体を
――この小娘がっ!
すわ、馬の疾走を加えての
馬蹄が地を削り、容赦なく
向かい合うのは、修羅と修羅だった。
これを受けずば己も最早一武人とは言えまい。駆けながら
璋璞は――腹を括った。これは器の娘などではない。禁軍ひいては国を揺るがす
が、
――自身が狙う保食の胸の中心に、己で付けた桜の
それがいけなかった。
次の瞬間、保食が何かを口に
勝敗は刹那に決した。
保食の上体が馬体の右側に沈み、
保食が自身の全体重を手綱に巻きつけた風防を歯噛みしたもので支えられたのは、体勢を沈めると同時に手綱へ左足首を絡めていた事と、保食が軽い女性の体であった事。加えて、不死石を安置せざる
しかし、その
二騎がすれ違った直後、両騎手は地に墜ちた。
衝撃と共に
背中から振り落とされた
保食は咳き込みながら口元を拭いつつ立ち上がる。僅か口角に血が
感情の
「返す」
自身の持つ刃から滴り落ちる血を一
「何がおかしいのさ」
「ここまで強かったなら、何故今まで俺を討たなかった」
「さあね。そんな事まで丁寧に教えてやる程あたしは親切な馬鹿じゃないんだよ。あんたのその御大層な肩書で想像してみな」
「――飽くまでも、民衆の内から起きた暴動、その範疇に納めるためか」
今更に思い至った璋璞は、己の不明に失笑した。
これだけの腕があれば、本来なら間違いなく出会った刹那に勝敗は決していただろう。それほど
禁軍と
「――切っても切っても
「あんたは」
保食は璋璞の言葉を遮り、その脚を止めた。
背を向けたまま、ぼそりと女の低い声が問うた。
「あんたは、自身の武を振りかざす為に武人をやってんの?」
璋璞は、虚を突かれた。
「――否、そうでは、ないな」
溜息が、保食の肩を
「ねぇ将軍。軍の動かし方を考えるのはあんた等、頭部の仕事よね。あたし等一兵卒がやる事は、その為の材料を頭に提示する事だけ。使い道を考えるのは、あたし等がやる事じゃない。そんな事は、何に属しようが変わらないでしょうが」
「そう、その通りだ」
「御存知でしょうけれど、一応あたしは器の候補者なのよ。あたし自らに戦場で深追いをさせて万が一にも
そうは言うが――と璋璞は思う。それでも、内心に
「愚問だった。詫びる」
保食は一瞬だけ振り返りかけ、しかし思い止まると再び馬に向かって歩き出した。
「そんなのいらないわ。あんた等軍勢と自勢の
馬の
「あんたなら、その脚も二日くらいで元に戻るでしょ。――
その時、二人の視線が確かに結ばれた。これまで交わしてきた物とはまるで違う、張り詰めた銀糸のような凄絶さで。
この二十五年、偽りと
璋璞は、引き
「今ここには、お主と俺しかいない。既に
保食は、静かに、一度ゆっくり瞬いた。そして、手綱を引いて璋璞に背を向けた。
「――生憎と、
璋璞は激痛を堪えながら半身を起こした。無理に力を入れたのに任せて右足からの失血が増す。
「
思わず――保食は馬に二の足を踏ませてしまった。そんな彼女の様を見て、璋璞は何の含みもなく、ただ望んだままその名を呼んだ。
「保食……うけもち」
手綱を握る彼女の両の手は
「保食、最後に顔を……もう一度、顔を見せてくれないか」
手綱を握る手に力が籠る。
「やめてよ」
「保食、たのむ、うけ」
「――あんた、ここ五年くらい、ずっと
唐突な、そして思いがけぬ指摘に、璋璞は微かに息を漏らした。
「なに……」
保食は背を向けたまま
「『
「何故お主がその事を」
「捕らえた黄師に吐かせた。四肢を一本ずつ切り落とし、回復したら次の一本、それが戻ればまた次をと続けていたら、五周目で吐いたよ」
「なんと
「ああ、酷いだろうよ。性根からして腐りもするさ、あたし達は。なあ、あんたは想像した事もないだろ。『色変わり』しなきゃ器にされてバラバラ。
保食の激高に、璋璞は言葉を失った。
「
璋璞は、保食の低い怒声に含まれた、引き裂かれるような思いを
一呼吸おいて、保食は改めて馬上で姿勢を正した。
「――あんたのその香の効能も万全じゃないらしいね。宮城にいる奴等は、もう大概皆おかしくなってるんだろうよ。あんたの精神力だから今でも何とか持ち堪えられてるだけだ。――否、もう十分におかしかったんだろうな。『発露』なんかに惑わされたから、あたしなんかの
「保食」
「巷に死屍散華の解毒薬が出回っていると聞いた」
「な――なに」
「さっさとそれぐらい探し当てなさいな。――『発露』が抜ければ忘れるわよ、こんな色欲
保食が馬で駆けて行くのを、璋璞はただ黙って見詰めた。馬影が視界から姿を消すと、再び仰向けになって倒れ伏し、天を仰いだ。
今こうして一対一の対峙を果たしても、保食は璋璞に対して散華刀を振るわなかった。今は持ち合わせていないと言ったが、それが真実ではない事を、璋璞は既に知っていた。
彼女が扱っていた刀は両刃造りだった。その色の違いから、通常の刀と散華刀を合わせて鍛造した代物である事が見て取れていた。――つまり保食は、刃先を返す事で、
失血で意識が
璋璞の矢が彼女の胸元を射た瞬間、あの飴玉が転がり落ちた先に見せた表情の意味を思った。
分かっていた事だ。理解していたはずだ。器とされる彼女等の憎しみは浴びて当然と重々に承知していた。そんな女しかいなかったからびっくりかと嘲笑交じりに問われた。確かにこれまでの女達は際で抗う事などなかった。ただ、力をその身に受け入れ、運命を受け入れ、その肉体の所有権を白玉に譲り渡す刹那、その眼に宿ったあの光を、それに
銀の糸が、切れる音を聞いた気がした。
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