19 一騎打ち


         *


 保食うけもちは蒸州の南西側、州ざかいきわを北西へ向けて駆けた。身を隠せるものが何もない地を延々と行く逃走は気がくものだ。しかし、選んだ馬が思う以上によく走った。背中をい上がる焦燥はやがて風に吹かれげ落ち、行く手ははばまれる事なく、この人馬は目指した場へと辿たどり着いた。

 誰も立ち寄る理由がないような荒野の只中ただなか、唐突にぽつんと立ち枯れた木が一本ある。その根本に小さな石のほこらがあった。そこからやや離れた場所で馬から降りると、保食うけもち風防ふうぼうを外してふところの奥に押し込みつつ祠へ向かい歩いた。じゃくじゃくと、土と砂利を踏む音がやけに耳に五月蠅うるさい。過敏かびんになった神経にさわるのか。


 祠を前に、静かに膝を突いた。


 それは、五邑ごゆうのそれとは異なる、赤玉信仰特有の形をした祠だった。白玉の祠は木製だが、赤玉のそれはほとんどが天然の石を積み重ねて作られている。びょうほどの物ともなれば話はまた変わるが、日々にちにちの民間信仰ではこちらの方が馴染なじみ深い。

 大きな石を無造作に積んだだけに見えるそれは、内側には本来石が祀られているはずだった。当然不死石しなずのいしだ。だが今や跡形もない。水を得る為に十分な石の支給が得られなかった民が、已むに已まれず持ち去ったのだろう。気の毒な話だ。


 五邑の民も間違いなく理不尽な苦難を背負わされているが、最大の割を食っているのはせきぎょくを失った姮娥こうがの民だ。そして七年前にそこを突いたのは、他でもない仙山せんざんだ。

 あそこまで追い詰めれば、さすがの月朝も看過できずに動くだろうと思われた。五百年に渡り死屍しし散華さんげに海が染められたのは月皇にとっても想定外の事態だったろうが、それが水源にまで及んだのであれば不死石しなずのいしを取り戻す事を優先せざるを得ないはず。仙山はそのすべを持ち合わせないが、如艶等には異地いちの帝との再交渉が可能なはずなのだ。始めたのが彼等なのだから当然そうだろう。姮娥こうがの全ての民の生存が掛かっている。もはや一刻の猶予もなく、選択の余地などない。流石のじょえんせきぎょく白玉はくぎょくを元の状態へ戻し、白玉の継承を終わらせるだろう。民を思えばそうせざるを得ない。否そうなるはずだ――そう読んだ。



 しかし月皇は動かなかった。

 仙山は、麻硝ましょうは、読み損ねたのである。



 朝廷に比べ戦力の薄い仙山が用意できた最大の戦略は悪手となった。今、その結果がもたらした光景に保食うけもち達は直面している。

 州庫の補給優先もりながら、黄師こうし直轄の農民は、自身では口にも出来ない死屍しし散華さんげにまみれた食物を育てて五邑ごゆうに下ろさなければならない。彼等自身の飢えは癒されない。憎悪の育たないはずがあろうか。仙山は、己等が為した事を今つぶさに目前にさらされている。月朝が倒朝の為に選んだ悪手が、異種の民同士の間に憎しみという名の種をいたとするならば、仙山が為したのは、そこに水を注ぎ育む事だ。

 積もり積もった憎悪が芽吹くのは瞬く間の事だった。姮娥こうがが五百年かけてようやく辿たどり着いた民からの回答を、仙山はたった七年で物にしようとしている。



 同罪だ。

 我々は同じ罪を背負っている。民の為と銘打めいうった自らの大義の為に、肝心の民に苦難を背負わせている。



 だからこそ、もう投げ出す事はできない。報いねばならないのだ。

 保食は祠の内のばんじゃくを持ち上げた。その下には空洞があり、そこには琅玕ろうかんの小箱が隠されていた。かたり、と小箱の蓋を開けると、その中には米粒程の大きさの白い石がいくつも盛られていた。

 保食は、静かにそのさざれ達を見つめる。

 これは、蓬莱の積み重ねてきた反逆の証だ。この一粒一粒が、数多あまたの親の覚悟を物語る。我が子がその手に血を分けた子を抱くという明日を断ち切る――壮絶で傲慢な覚悟だ。この中に、保食という命の種子もある。もう取り戻すつもりもないものだ。これを手放したお陰で、今の自分の強さがある。

 保食は蓬莱と仙山を移動するたびにここへ立ち寄った。ここで自身の運命と向き合い、自身の意志を再確認する事で、いつも前を向いて進む事ができた。

 蓋をし、板石を元に戻すと、合掌して瞼を閉じた。

 ありがとう。行ってきます。胸中でそうつぶやいた時だった。



 ――ど、



 と、頬の横をかすめたものがあった。はっと目を開けて、見れば目の前の祠に矢が一本刺さっている。はじかれるように立ち上がると続いて二射が浴びせられ、保食は刀でそれをぎ払った。一射は払えたが一射は保食の胸元を掠めた。上衣が割かれ、懐に隠していた飴玉が転がり落ちる。

 それは、とてもゆっくりとした落下に見えた。

 弓が放たれたとおぼしきかたを見れば、連弩れんどを構えた甲冑姿の男を背に騎乗させた単騎が向かってきている。



 璋璞しょうはく



 保食うけもちの内で瞬時に血潮が沸き上がった。全身の筋肉が反射的に動いた。やや離れた場所に留め置いた馬に向かって駆ける。

 雄叫びを上げながら近付く璋璞しょうはくの剣戟が届く間際に、保食は馬上へ駆け上がった。

「うけもちぃぃぃぃっ‼」

 がん、と重い音が響く。保食は璋璞の振り下ろした太刀を真っ向から受け止めた。紛れ間もない殺意! そして敵に対する憎悪の発露。ああこれだ。何時も見てきた戦場の璋璞しょうはくの顔だ。皮膚の全てが熱波を浴びた様にざわりと高揚し――次いで、やっと安堵した。



 そうだ。この男は、こうでなくては。



 幾重にも重なる剣と剣のぶつかり合いにこぼれた破片が火花の如く散る。鍔元つばもとの競り合いを経て両者相互に一旦馬身を退しりぞけた。

 保食の喉元を汗が伝う。ひそかに辺りの気配を探るが璋璞しょうはく以外の騎影は影も形もなかった。

 ふっと笑う。

「あんた一人か! よく間に合ったな!?」

「お主こそ、こんなところで悠長に暇をつぶす時間があるとよくも思えたものだな!」

 再び振り降ろされた大刀を、保食は受け流すことなく真っ向から受け止めた。骨の髄まで痺れる重い剣技に、保食は――胸の内がたぎった。ああ、強い。この男はやはり他には類を見ない剣豪だ。ぎりぎりと刃毀はこぼれするのにもまた胸がおどる。

 自分は、やはりどうしようもなく戦場にて血がたぎるのだ。骨の髄から兵士なのだと、腹の底から痛感する。討ちたい。切り伏せたい。この強い山を崩して、壁を踏破したい、この先へ行きたい――



 見た事のない先が見たい!



 狼のような鋭い眼光でにい、と笑った保食に、璋璞しょうはくは思わず剣をはじいて飛び退いた。寒気と共に、どくどくと血潮が全身を駆ける。長く知るはずの娘が、まるで別の獰猛どうもうけだものにしか見えなかった。その時璋璞しょうはくの身の内を駆けたのは、まごう方なき恐怖だった。


「――ねぇ、知ってた?」


 がいん、とやはり重く固い音で、今度は保食が打ち下ろした刀を璋璞が受ける。



「あんたと戦場でやり合うのは、これが初めてじゃないってこと」



 押し返された刀が保食の胴に向けて薙ぎ払われる。保食は刀をひるがえし受け流すと璋璞しょうはくから距離を取った。

 璋璞はその表情を険しくする。

「どこかで剣をまじえた事があるとでも言うのか」

 保食は懐に押し込んでいた青い肩掛けを、ずるりと引きずり出した。勢いそのまま、ばさりと羽織る。



 鮮やかなてんらんの色をまとい、左手にした刀を天高く掲げる。その色彩と動作には、幾度となく遭遇そうぐうした覚えがあった。



「この青に見覚えは?」

 璋璞はわずかに眼をすがめた。青の色――そう言われて思い出す者は一人しかいない。青で頭部と口元を覆い、鋭い眼光を放つ目元だけを表に出した、鬼神の如き武人。

 襲い掛かるその鬼と一騎打ちになり、肝を冷やした事も一度や二度ではない。それがまさか、こんなに長く見知っていた娘が――傍で見守っていた娘が、その正体であったとは。

「あれが、お主だというのか」

「そうだ」

 璋璞しょうはくの身の内にざわりと冷たい物が走る。

「――では、お主は不死石しなずのいしを身の内に安置されなかったのだな」

 保食は獣の笑みを浮かべた。

「そうだよ! 何一つ命を産む事のない、戦うばかりが能の駄馬だ!」

「各地で起きていた民衆の反乱は、お主達がそれを装ったものか。ならば州城に襲撃をかけていたのもお主等だろう。――道理で腕の立つ者が多かったはずだ」

 両者の間に、剥き出しの戦意が火花を散らした。



「これで、やっと決着がつけられるな、右将軍」



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