16 忸怩


         *


 保食うけもちを乗せた移送車を前方に見据えながら、璋璞しょうはくは静かに馬を常歩なみあしで進めていた。

 蓬莱ほうらいの監視をになうのは、璋璞しょうはく直属の騎兵中隊である。四小隊の内、一隊は仙山せんざん第二拠点側へ、一隊は蓬莱へ差し戻した。現在保食を移送している本隊は、残りの二隊で編成されている。


 状況としてはかんばしくはない、万一この道中に反乱民の急襲などが起こりでもしたら、いかに散華さんげとうを所持していようが、この百人前後と数にとぼしい隊では一溜りもないだろう。北上していた保食を雑木林の中で捕らえた後、現在隊は帝壼宮ていこんきゅうへ向けじょう州の西を南下している。兵の表情は硬い。



 この辺りは――より危険なものが出没するのだ。



 近年、巷間こうかんささやかれている噂は本当の事だ。いわく、残虐なる悪鬼が跳梁ちょうりょう跋扈ばっこし、無辜むこの民を襲撃し、それを死に至らしめていると言う。

 如何いか姮娥こうがの民が不死の身であろうと、肉体の大半を食い荒らされてしまえば修復などできない。

 軍師もこれを放置している訳ではないが、手が及んでいない事は事実。あれは、反乱民とはまた違うもののような気が璋璞しょうはくにはしている。あまりに常軌じょうきいっしているのだ。

 いつ何時なんどき襲い来るか知れぬ反乱民に悪鬼あっき羅刹らせつ。ただでさえ今の隊は、決して警戒をおこたれぬ、器たる娘の移送の最中さなかにある。隊の緊張は否応なしに高まっていた。

 目の前を行く移送車を見て、璋璞しょうはくは密かに歯噛みする。



 ――難題が山積し過ぎだ。



 如何いかな璋璞と言えども、これで内心叫ばずにおらりょうか。

 先帝弑逆しいぎゃくより現朝を悩ませ続けてきた先朝遺臣団である白浪はくろうが、かつての敵対国である妣國ははのくにと結託し、その係累であるとして、先帝の一交を使者に立てて送り込んできたのだ。宮城内は蜂の巣をつついたような有様である。更にまずい事に、妣國ははのくにの領土内には、先帝の遺児が控えているというではないか。目的は争う事ではないと白浪はいうが、その背後に素戔嗚すさのおがいるという事実が何よりまずい。

 ――恐らく、白浪は、素戔嗚が白玉に関わる事が如何いかに重大事であるのかを理解していない。知っていればそこに手を出すなどあり得ないからだ。表の地に住まう者として、これに勝る悪手はない。知らぬ上でその力を借り、こちらへ交渉しようとしている。



 最悪だ。



 璋璞しょうはくは、如艶じょえん瓊高臼にこううすにて最高位の神子みこを務めていた頃から彼の事を知っている。

 その如艶じょえんはく瓊環けいかん三交后さんこうごうにと求められた時、瓊高臼にこううすは文字通り大山たいざん鳴動めいどうの様相をていした。結果として白皇が求めたのは如艶じょえんの能力とその求心力であった為、子を求められる事はなかったのだが――その結果、別に求めた交が宇迦之うかのだった。

 あれは、広くすいれいの名で知れ渡る、しょう軍にその人ありうたわれた、名工のほまれ高き建築士であった。辺境に生まれ落ち、辺境に育った名も無き雌性だったが、その造る物は堅牢さにおいて突出し、その評判は宮城にまで聞こえる事となった。それがまさか素戔嗚の娘であったなどと誰が予測できたろう。


 その宇迦之の産んだ瓊環けいかんの子が、妣國ははのくににいる。


 時が満ちぬまま、地獄の蓋が開こうとしている。

 秘さざるを得なかった事が更なる秘事を呼ぶ。最早、如艶じょえんの手にも負えない段階にまで来ているのかも知れない。

 五百年だ。五百年を待った。本当はもっと早くにこの白玉の継承を終わらせる事ができるはずだった。しかし事はそう容易たやすくはなかった。

 自発意志で『かん』のにえになる事を受け入れるという条件が、ここまで難となるとは思われなかったのだ。

 姮娥とは違い、五邑は直ぐに死ぬ。瞬く間に朽ちる。だから、同胞が救われるためには一個体が贄として果てるなど造作もないと――その程度の儚い命だと――姮娥は、高をくくっていたのだ。



 五邑の民も民なりに、その生にしがみついて当然なのだと――彼等もまた同じ人間なのだと――理解していなかったのである。



 異地の帝との誓約が為らない限り、せきぎょくいただきに取り戻す事はできない。

 忸怩じくじたる思いばかりつのる。

 己等の見通しが甘かったばかりに、無力であるが故に、その結果として、こうして白玉の継承をさせ続けなくてはならない。



 ――保食うけもちに犠牲をいる事を決めたのは、他でもないこの俺だ。



 彼女が仙山に加わっている事までは流石さすがの璋璞も掴んでいなかったが、その行動に裏がある事は薄々勘付いていた。おとないの前に飴玉の小細工をして彼女に渡したのも、どう動くかを見る為だった。三日目の酒宴の席では、酔わされた振りをしてどこまで探りを入れてくるのかも試した。

 しかし保食は動かなかった。

 微かな涙と温もりを璋璞の胸に残しただけだった。

 己の抱いたものは根も葉もない疑惑だったかと思わぬでもなかった。否、只の取り越し苦労だと、そう思い込みたかったのかも知れぬ。己は知りたくなかったのだ。動いてほしくなかった。知らぬままでいたかった。

 しかし、事はもう看過かんかゆるさぬ段階に来ていたのだろう。

 動いたのは、七日目の夜だった。

 恐らく、あの夜は蓬莱ほうらいに仕組まれたのだろう。気付けば己は保食の邸の前にたたずんでいた。ただの酔いではそこまでにならないだろう。それが保食の手引きによるものかどうかは知れなかったが、璋璞はそれに乗った。実際の璋璞は、然程泥酔してはいなかったのだが、そういうフリをした。


 湯浴みを終えて当然の刻限に、急に男におとなわれた女の困惑は――あまりに蠱惑こわく的だった。

 

 思う以上に自分は逆上のぼせあがっていた。ぼろぼろとこぼすべきでない言葉を重ねた。そして保食もまた常とは違い、警戒しながらもどこか本音に近い物を語っていた。そんな気がした。

 闇の中、璋璞の手を引く保食の手は――微かに震えていた。

 それまで自分達は、のらりくらりと核心をけて、言葉たわむれでのみ関係をよそおってきた。その程度なら幾らでも積み重ねて行けた。しかし、奥の間の戸を閉めてしまえば、もう歯止めは利かなくなる。それを、保食自身も分かっていたからだろう。

 ぴしゃり、と音がした時に、璋璞の内は真っ二つにかれた。

 一つは冷酷だった。この娘が隠しているものを暴こうとした。その肉体のはがねごとき事には薄々勘付いていたが、その実際は感嘆に値するものだった。これは間違いなくなんらかの武人である。そして、病弱であるというのはたばかりであると確信する。訪ねる度に発熱し弱まっている事も何らかの術によって為されているのだろう。更にはこれが保食単独の意志で維持され続けているとは考え難い。取りも直さず、その事実は蓬莱が『色変わり』なき娘を器として出さずに済ませる方法を画策かくさくしているという事実に直結する。

 突如気を失ったのは誤算だった。気付けば邑長邸のしとねの中にいた。

 起き上がった自身の頸から、翡翠の首飾りがころりと姿を現しても疑問を抱かなかったのは、あれがうつつだと理解していたからだ。手の中に落ちた藤色の石を眺めて思い出したのは、抗い難いもう一つの本音だった。

 己は何をしているのだと心底自身を嫌悪し、褥の内で頭を抱えた。

 湿り気を帯びた髪の香りと、吸い付くような肌に酔いからではなく眩暈めまいがした。

 躊躇ためらいがちに、かすかに下唇をまれた瞬間ときたがが外れた。何もかもかなぐり捨てて、衝動に任せ動いた。震える身体を本気で組み敷こうとした。己はずっとそうしたかったのだ、と、身の内から震えが来る程に痛感した。

 暗闇の中、色を仕掛けようとしてそこまでの覚悟もなかった娘の幼気いたいけさに、却って自身の情欲が蜷局とぐろを巻いた。

 三日目の夜に自身の胸に紅を塗り付けたのは、己はお前のものだという恰好を示す為の偽りに過ぎなかったのに対し、自身が彼女の胸の中心に赤い吸い痕を残したのは、確かにこれは俺のものだと主張したいが為だった。


 ――ずるい。


 そう、確かに保食はそう言った。吐息交じりに言葉が出ている事に彼女が気付いていたかは知れない。震える声はあまりにか細かった。確かに、己は狡いのだろう。彼女に己を所有させる気などなかったくせに、彼女は己の所有だと、そうあるべきだと心底思っていた事が行動に現れたものだからだ。自身の誠意と覚悟は与えない癖に、相手にはそれをも当然のような顔をして求める。その強欲さに怒りすら湧く。

 彼女の生半なまなかな覚悟を甘いと眺めながら、衝動を突き通せなかったのは己も同じだった。

 結局、己は如艶じょえんを見捨てられない。彼が背負った物を共にかつぐと決めた時からずっと降りられない船に乗っている。

 それが、璋璞しょうはくの衝動を最終的には殺してしまう。

 常に引き返せる地点を探り、それ以上前へは進まずに素知らぬ顔で船に戻る。本当はこんな浅ましい男を、世は禁軍中最も徳と仁義に厚いと評するのだ。吐き気がした。

 きっとこれからもこうやって己はこの道を進む。そして保食が白玉の器となり切り刻まれる様を黙って見送るのだろう。あの、理不尽な運命に対する怒りに光る眼を見詰めながら、璋璞しょうはく自身の心が切り刻まれるのを黙って受け入れるのだ。

 しかし。

 甲冑の内に下がる石の丸みを感じながら、璋璞しょうはくは人知れず眉間に深い皺を刻んだ。

 別たれ難いという思いがこれ程までに強いとは思わなかった。この行動と不合理に名前を付けるとしたら、それは一つしかないだろう。そしてそれは、あまりに己に分不相応な、過分に贅沢な幸福と不幸だった。



 砂煙を上げて単騎が璋璞しょうはくの二小隊を追ってきたのは、じょう州を抜けるか否かといった頃の事だった。火急の伝令であると後方から璋璞しょうはくの元へ報せが回った時、璋璞しょうはくの身の内に、厭な予感といった生半可なまなかな表現では済まされない悪寒が走った。



 ――それは、白浪により、てい州の州城であるせいかいじょうとされたという一報であった。




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