12 出立


 薄霧けぶる翌朝――禁軍の出立は早かった。

 出立の直前に璋璞しょうはく保食うけもちの元へ再び足を運んだが、傍仕えの女が現れるきり。それが玄関先で伏して口上した。

つぐひめ様におかれましては、只今は白玉はくぎょく様へのお参りの最中にございます」

「――刻限は、如何いか程かかろうか」

「さて、わたくしめには何とも。姫様の参拝はお時間がかかりますれば……」

 こうべを垂れたまま、女がおもてを上げる様子はない。璋璞しょうはくは吐息を漏らすと「分かった」と答えた。

此度こたびは……これでつと伝えてくれ。息災で、と」

「承りましてございます」



 璋璞しょうはくきびすを返すと門をくぐって立ち去った。その間際、女はおもてを上げた。その眼は、璋璞しょうはくの襟元に朱色の紐がちらりとあったのを見逃さなかった。

 武人の背が乳白色の彼方へと消える。一度ゆっくりまばたくと、やおら女は立ち上がり、玄関脇の小部屋に足を踏み入れた。


 そこには、障子を背に腕組みで立ち尽くす襦袢姿の保食うけもちがいた。


「お帰りになられましたよ」

「――ああ」

「昨夜の夢は、うつつとご理解なさっているようでしたが?」

「だろうね」

「さぁて、このあととがにはならないのかしらね」

 女が突如声色を変えた。つい、と指先で保食の胸の中央を突く。保食は厭そうな顔で手を払うと「やかましいわ」と口元を歪めた。

「ねえ保食、いざとなったらこれで右将軍に手籠めにされました、器にはなれません、これが証拠ですってできないの?」

「無理」

「どうしてよ」

 保食はにやと嗤った。



「あれはね、はらに種を注がれなければ問題にはならないんですってよ」



「あら、そうなの?」

「こちとら何年黄師こうしから拷問で情報引き出してると思ってんのよ。璋璞しょうはくが吐かなくてもとっくに承知よ。――要するに、精を混ぜると生来せいらい生粋きっすいの生命と肉体ではなくなるから駄目なんだって」

「んもう、そんなにれた言い草しちゃ駄目よ? 貴女が兵として生きるのは別に構わないんだけど、貴女強いから。でも、女を棄てるのと下品になるのを混同しちゃいけないわ」

 保食は苦笑しながら肩を竦めた。

「あたしは義姉ねえさんみたいには生きられないからね」

「同じ女と言えど、違うものよねぇ。あたしにはあんたの運命を肩代わりはしてあげられないし」

「そんなのは結構だよ」

「わかってるわ」

 女はふわりと笑うと、腕を伸ばして保食の身体をやわらかく抱いた。甘い、茉莉花の香りがした。

ままならないわね。男と女って」

 義姉の腕の中で、保食は小さく笑った。

「わざわざ出立前にまでおとなってくれた。声も聞けたし、いとままでも惜しんだ素振りをしてくれた。もう十分。義姉さんも、そろそろ支度を」

「ええ。行くわね」

「世話になりました」

「こちらこそ。――どうか、命を惜しんでね」

「うん。ありがとう。旦那さんと仲良くね」

「任せといて」

 義姉は大輪の花のような笑みを浮かべて手を振ると裏口へ姿を消した。

 ――これで、もう彼女と顔を合わせる事もあるまい。

 保食は顔を上げると、腰紐を抜き解いた。



 禁軍が蓬莱ほうらいを発ったのは卯の刻を過ぎた頃であった。

 浩宇こううが邑囲いの城門の前で全ての馬影が丘陵の果てに消えたのを確認すると、門の内から一つの影が差した。

 保食である。

 砂にまぎれる外套を羽織った下には、慣れた甲冑が纏われていた。

「――全員出たのね」

「ああ」

 頷くさい浩宇こううの隣で、保食うけもちはじっと、馬脚が搔き立てたであろう砂煙を見詰めていた。

むらの皆は?」

「抜かりはないよ」

「昨日の酒は水麒すいきの仕業よね」

「さあて、僕は何も」

「――やっぱり。あんたも一丁噛んでたな」

 保食は厭そうに口元を歪めて、浩宇こううの腕を拳で小突いた。浩宇こううは眉間に皺を寄せて殴られた箇所をさする。

「痛いなぁもう。お前、ただでさえ怪力なんだからやめなさいよ」

「殴られるような事をする方が悪い」

 と、後方から「保食うけもち」と声が掛けられた。振り返れば二頭の馬を連れたくぐいがいる。緊張に満ちた麾下の顔に、保食もぐっと腹に力を入れ直した。

 己は、仙山せんざん藤之ふじの保食うけもちだ。これ以降は、一切の迷いは捨て去らねばならない。

「待たせた、鵠」

「ああ」

 馬に寄り、その頸を叩いてから、背に乗せて置かせた自身の愛刀を包みから抜き取り鞘から出す。両刃の色が鉛色と白銀に違うのは、すいどろに作らせた半散華さんげとうだからだ。手入れも申し分ない。

 次の瞬間、保食は跳躍した。

 宙高く舞い上がり回転する。そして着地の間際に半身を捻り、切っ先を鵠に向けて振り下ろした。対する鵠の動きもまた劣らず俊敏だった。下げ緒を引きながら左肩先に突き出ていた柄を掴み引き出し、腰を落として剣戟を受け止める。鵠は、にいとわらうと「酒も薬も問題なく抜けてるな」と保食の腹に虎趾こしを蹴り込んだ。保食の右腕の籠手がそれを弾き、左から再び頸元へ剣を振るったものを鵠も抜き切った剣で受け止める。

 瞬く間の手合わせに、浩宇こううは眼を細めて笑った。

「全く、若人わこうどは元気一杯だな。本当に今から生死を賭けた戦いに挑むのかね?」

「当たり前だろ。何言ってんだ長」

「まさかあんた、酒がまだ残ってるんじゃないでしょうね?」

「信用がないなぁ」

 浩宇こううは頭を掻きながらしょぼくれた顔をして見せ、ちら、と小首を傾げながら笑った。

「死出の旅路は僕も一緒。あっちで先に待ってるからね。会えたらでいいんだけど、梨雪りせつと子供達によろしく言っといて。じゃ、保食。また後でよろしくね」

「――ああ」

 飄々と言い放つと、浩宇こううは踵を返し、ひらひら手を振りながら邑長邸へと歩いて行った。

 保食と鵠は――静かにその背を見送ると、静かに頭を垂れた。

「じゃあ、行くわよ」

大姉だいし

 呼び止められ保食が視線を向けると、鵠は真顔で「必ず生き延びてくれ」と強く低い声で言った。に、と保食は笑んで返す。



「あんた、あたしを誰だと思ってんのよ。妣國ははのくにの化物でもない限り、誰もあたしには勝てないわ」



 言い捨てながら保食は馬上の人となった。鵠もそれに続く。

 二騎は禁軍が発った南門とは逆の北門から蓬莱ほうらいを出立した。

 これより、保食は仙山せんざんの大本営へ至る帰途を辿る。璋璞しょうはくの密書から知り得た仙山殲滅作戦の報の内訳も麻硝ましょうに告げねばならない。

 一方、鵠は伝令役として第二拠点へ走らせる。璋璞しょうはくの隊よりも鵠が一騎で裏の街道を走る方が早い。中途に配置し待機している仙山の分隊と合流し、先に鳥を飛ばせば報せは尚早く届く。璋璞しょうはくは黄師の大隊がすでにうん州へ向かっていると言っていたが、彼が大隊というならばその数三千は下らないだろう。大所帯であればあるほど行軍は遅くなる。その利を逆手に取るのだ。

 しばらく馬を走らせ距離を稼げてから保食は西に曲がる。鵠は南に進路をとる。時間との勝負ではあるが、急いて全体を危険に晒す事は何があろうと避けねばならない。保食自身も中継地点に配備してある拠点に入り次第鳥を飛ばす。

 二騎は駆けながら春の匂いを嗅いだ。

「大姉!」

「何⁉」

「本当に、悔いはないな⁉」

くどいなぁ! 何回言わせんのよあんたは⁉」

「このまま仙山に骨を埋めるんだな⁉」

「だからそうだって言ってるでしょうが‼」

「じゃあ、全部の片が付いたら嫁に来い‼」

「それも厭だって言ってんでしょうがしつこいなあ!」

「しつこくなきゃこう何年もお前の麾下やってられるかよ! 俺は諦めねぇからな!」

「もう行きなさい!」

 眉間に皺を寄せてしかめっ面を鵠に向けると――鵠は笑っていた。笑って手を振ると、馬の向きを変えて行ってしまった。保食はしばらくの間その駆けて行く様を見送ると、小さく「ありがとう」と呟いてから手綱を引いた。




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