11 吸い痕



 璋璞しょうはく自身の言葉通りに、外れたたがの始末は闇の中では難しい。

 保食うけもちは――恐らく本当の意味では理解してはいなかったのだ。男の本気の衝動の強さという物を。そして、それを自らもうくるを欲していた時の激しい眩暈めまいを――身に走る、溺れるほどの愉楽ゆらくを。

 璋璞の動きが突如性急な物に変わった。覆い被さる唇に唇をむさぼられ、きつく舌を吸われ、全身の血が逆流する。そのまま璋璞は保食の喉笛に食い付いた。襟元が暴かれ、酒精で汗ばんだ男の手がじかに腹をまさぐった時に、ついに保食の腰が抜けた。震えた膝のまま崩れ落ちかけた体を璋璞の腕が支え、そのまま床に横たえられた。

 襦袢の裾を脚で割られ、璋璞の手が内腿を這い上がる。僅かな恐怖と抵抗、抗い難い高揚、そして誤魔化しきれない悲しみが、涙になってまなじりに浮かぶ。


 ――これは、手練てれんではない。

 

 保食は、ぐ、と腕に力を入れて璋璞の胸を押しやった。

「保食」

「璋璞様は、どちらへ向かわれるのですか」

「それは」

「私はどちらの方へご無事をお祈りすればよろしいのですか」

「――ならば、南南西に」

 じょう州の南南西にあるのはうん州だけだ。これで決まりだ。第二は確かにその在所を禁軍に掴まれている。

「そこへは、どうしても璋璞様が参らねばならないのですか?」

「俺しか動けんのだ。禁軍も黄師こうしも、多くは帝壼宮ていこんきゅうから動かせん。今は白浪はくろうの使者が宮城にとどまっている」

「――は?」

 保食は全身に走った緊張が肌の上に現れないように必死でこらえた。聞き間違いかと思った。しかし、璋璞の眼は澄んでいる。偽りや誤魔化しなどは一切浮かんでいない。


「白浪、ですか」

「そうだ。白浪は妣國ははのくにと結んでいる」

「あの、その、それは、皇が停戦を為されたこくの……?」

「そうだ。その使者の護衛の大半が妣國ははのくに素戔嗚すさのおの手のものだ」


 ふと、璋璞の呼吸が変わった。ざわりと寒気が走る。いけない。ここまでだ。保食が白浪について知っているはずがないのだ。これ以上この話を続けるのはまずい。これ以上は探りを入れている事を気取られる。保食は線を引いた。もういい、ここまで聞き出せれば十分だ。後は怖じ気付いた事にしてここから抜け出せれば――それこそ夢ではなかったと知れても春の夢で終われる。月皇の名を出せば如何いかに酔っていようがひるむはずだ。そう思い口を開きかけた途端――再び口を塞がれた。

 今度こそ、本当に逃れようのない、息の止まりそうな口付けだった。

 胸を推していた右腕が掴まれ、袖口から璋璞の手が這い入る。前腕から肘を辿り二の腕の更に奥までをまさぐられ、呻き声を上げながら左の手で胸を叩いた。がくがくと震えて下半身に力が入らない。必死に顔をそむける。

「璋璞、さま。いけません。これ以上は……っ」

「なぜだ。これは夢だろう?」

「璋璞さま……っ!」

 胸元に降りた璋璞の唇が保食の心の臓の上に落ちる。小さな痛みと共に吸いあとを残される。――それは、先日璋璞の胸に紅を残したのと同じ場所だ。

 ずるい。それはあまりに狡い。



 ――俺には言われたくねぇかも知れんが、お前こそ惚れた男がいるんと違うか?



 突如、遠い昔に聞いた八咫やあたの言葉が耳の中によみがえり、保食は息を呑んだ。

 いやだ。こんな時に思い出したくない。

 頭の芯がしびれる。流されてしまう。

 と、その時、ふわりと甘い香りがどこかから漂い鼻孔びこうをくすぐった。璋璞の薫香とはまた違うものだ。

 保食は息を呑むと、眼を固くつむって息を止めた。再び璋璞のくびに腕を回し強く力をめる。璋璞の手が保食の腰紐を引き解き、しゅるりと絹の走る音が保食の耳朶じだに届いた。開かれた前に薄ら寒い風が吹き込んだ次の瞬間――ずしり、と、璋璞の身が保食の上にくずおれた。

 保食は璋璞の意識が完全に失した事を確認してから、その手に握られた腰紐を取り返しつつ、熱く重い身体の下から這いいでた。苦しいのを必死でこらえて、急ぎ引き戸を開けその向こうへ顔を出す。頬に冷たい風が当たると同時にようやく息を吐き出し、吸った。くらくらと眩暈がした。

 部屋に充満していたのは、生まれたばかりの赤子の体内に不死石しなずのいしを安置する時に使う嗅ぎ薬の匂いだった。それも、かなりの濃度のものをそのままいたとしか思えない匂いだった。

 呼吸を整えながらふいと顔を上げると、薄闇の中に立ち尽くす男の影があった。さっき閉めたはずの障子はわずかに開けられ、御簾みすも上がっていた。

 影は保食に近寄り、腕を掴んで助け起こすと、彼女の手から腰紐をすくい取った。暴かれたままの保食の前を閉じようとした手が、一瞬止まる。何をみとめられたのかに気付き、保食が眉間を険しくしながら手で隠すと、影は「桜の落とし物だね」と笑った。男は保食の襟元に手を伸ばし合わせ直すと、そのまま手際よく紐を彼女の腰に結び直す。きゅ、という音を立てたあと、「できたよ」と小声でささやいてから薄く微笑んだ。

 保食はちらと背後を振り返った。璋璞は完全に気を失い横たわったままだ。その姿を確認すると、保食はさらりと落ちてきた髪を掻き揚げて溜息を吐いた。

「茶番を仕掛けた挙句に嗅ぎ薬で救出劇って――一体いつからこんなに手際が良くなったのよ、あんたは」

 影は――水泥は、にこりと微笑む。

「それは、八咫やあたのお陰かな」

「――随分と古い名前を持ち出すのね」

「古い? 彼は、懐かしむための過去なんてものに落ち着けるような、そんな可愛らしい物じゃなかったでしょ?」

 やわらかな指摘に、「そうね」と保食は苦笑がてら肯定した。

「ねぇ保食、一応断っておくけど」

「なに」

「上がったのが悲鳴だったからめたんだからね」

「……は?」

「だから、いらなかった?」

「――なにが」

「嗅ぎ薬。邪魔をした?」

 保食は、ぱちんと手の甲で水泥の頬をはたいた。

「あんた、こんなお膳立てをしでかしただけの仕事は果たせたんでしょうね?」

「もちろん」

 保食は盛大に溜息を吐くと「ならいいわ」と吐き捨てるように零した。そして、眼の色を厳しくする。

「――白浪が月朝に使者を出していたとはな……道理で禁軍の動きが性急なはずだ」

「今夜中に動くかい?」

「いや駄目だ。いてしくじりたくない」

「そうだね。そう言うと思ったよ。大丈夫。しでかしただけの分は、ちゃんと働いたから」

 保食は皮肉な笑いを浮かべた。

「本当に、腹が立つくらい仕事ができる男よね、あんたって」

 水泥は、ただ黙って笑った。見慣れた感情を読ませない微笑に、保食は悪態を吐きながら髪をばりばりと掻いて、再び奥の間へと戻った。

「ぼくが運ぼうか?」

「いやいい」

 眉間に皺を寄せてから、保食は璋璞を軽々と抱え上げた。足取り軽くを横切りがてら水泥に「人払いだけは手伝って」と言い放ち、半端に開いていた障子を足先で開き、廊下を進んでいく。

 このまま邑長邸まで自分が運ぶから、余人よじんに気取られぬよう手伝いをしろというのだ。見え隠れする複雑な保食の矜持きょうじに、水泥はさみしい笑みを浮かべた。

「――夢の中ですら、素直になれないなんてね」


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