10 箍、外れる



 無言のまま並ぶ二人の狭間はざまでは、一体何が起きているのだろうか。

 保食うけもちの視線は庭に向けられている。が、ひやりとした夜の底を見通せるはずもない。そもそも映す気にもならぬ。そんな心持ちではいられない。

 そこに横たわる空気に、質量があるのだ。

 溜息が漏れそうになる。その空気の上では、もうすでに何も隠せていない気がする。その存在の手触りがあまりに確かすぎるのだ。少なくとも、保食うけもちにはそう感じられている。そこでの二人は、互いに、けだもののように、あらゆる本音をかささらけ出している気がする。

 だのに、当の沙璋璞さしょうはくは酒精の吐息をこぼしながら、相変わらずぼんやりと微笑んでいるばかりなのだ。


 憎たらしい。

 本当に、この男はなんて憎らしいのか。


「右将軍だからという理由で拒まないのは、おいやですか」

 ぽつり、そう問うと、璋璞しょうはくは、「うん?」と保食の方へ顔を向けてから「ああ、そうだな」と、やはり笑んだ。

「俺は、いやなんだろうな。きっと」

無体むたいな。じゃあ、あたしにどうしろっておっしゃるんですか」

「何も。ただそのままでいてほしい」


 さわり、と風が流れる。


すこやかであってほしい。できるだけ長く、そこにいてほしい。春先と秋口には、こうしてお主をおとなえるように――」

「無理ですよ。無理言わないで下さい。あなたと違って、あたし短命なんですから」

「――そうだな。お主の言う通りだ」

 璋璞の頬に自嘲の笑みが浮かぶ。

「以前、えいしゅうの長とも話した事がある。お主等の命は本当に儚い。共に歩めるつもりでいてはならんと――そう、頭では分かっているのだがな……。こうも長く関われば、俺とて情が移る」

「璋璞様」



「お前を、失いたくないんだ」



 再び一陣の風が流れた。残り僅かな桜が散り行く。

 ぎゅ、と保食は唇を噛み締める。

「――でもそれは、あたしが白玉はくぎょくに選ばれずに、他の誰かが犠牲になる事、ひいては白玉の継承が続く事を意味するでしょう」

「そうだな……俺は、残酷な事を望んでいるな」

 璋璞の手が保食のそれに伸ばされた。熱の籠る手を、保食は拒まなかった。

「璋璞様は、身勝手です」

「そうだな。俺は身勝手だ。今宵のお主が常になく素直な物言いをするのと同じくらいに、俺にも率直な心はある。それが身勝手なだけだ」

「もう、お心がそのまま口から出てらっしゃるのでは?」

「夢のなかでくらい、思う事を言うてはいかんか?」

「――構いませんけどね」

 と、璋璞が庭先に視点を定めて「ん」と立ち上がった。やや覚束おぼつかない足取りで唐突にしゃがみ込む。

「どうなさいました?」


「――これは、お主のものではないか?」


 璋璞が指先につまんでいるものを見せる。「ああ」と保食の唇から思わず声が漏れた。

 それは、保食の翡翠だった。

 先日切れた時に集め直しはしたが、どうにも一粒足らなかったのだ。結果的につづまった数珠は、今や保食の手首きっかりの寸法となっている。その見つからなかった粒を璋璞が見つけたというのが、皮肉にも、示唆的にも思えた。

「璋璞様が見付けてくださったのですから、それはもう璋璞様のものです。お持ちください」

「そうか。もらって良かったか」

 保食は溜息をいてから璋璞の元へ歩み寄ると、手を引いて室内へ上げた。戸棚から朱の紐を一束取り出す。その場で片膝を突き、その上でつい、と文字通りの端緒たんちょを引き出した。その拍子に、ふとすそが割れて自らの白いももが露わになった。そこへ、璋璞の強い視線が刺さったのを見逃さない。自らの身の内にいた軽いざわめきは見ない振りで、さっと手早く整えて隠した。

 一粒きりの翡翠を朱の紐に手早く編み付けて、ぷつり、不要な長さを歯で噛み切った。目の前で吊り下げ確認する。仕上げたのは首飾りだ。ついと立ち上がり、璋璞の首に下げた。

「人にはお見せにならないで下さいましね」

「うむ。そうだな」

 じっと、双方見つめ合う。

「――明日にはもう、討伐へ?」

 璋璞は、ふいと真顔になった。そして、保食の唇に三指を当てる。

「口に出してはならん。どこに耳があるやも知れん」

 真顔のまま、酔漢の取り留めなさで、璋璞は保食の唇を指先でもてあそぶ。保食は触れられたまま「夢の中ですのに?」と薄く笑った。

 ぐぅと、胸の内が握り潰されたようだ。


 ああ。

 これはもう。

 腹を――くくれ、と言う事か。


 保食は璋璞の指に手をかけて、自身の唇から放した。きびすを返すと、濡れ縁の御簾みすをおろし、すい、と障子を閉める。璋璞に背を向けたまま、上唇をちらとめる。そこに、触れた璋璞の指の感触が残っている気がした。

 室内の闇が、ふうと濃くなる。

 璋璞のかたわらへ戻ると、彼の指先に自身の指先をからめ、そっと手を引いた。



「では、誰にも聞かれぬよう、隠れてしまいましょう」



 璋璞は余程深酒させられたらしい。手を引くと大人しくついてきた。奥の間に続く引き戸を開けて、更に深い闇の中へ連れ込むと、ぴしゃりと戸を閉めた。そこで璋璞が保食の手をぐいと引き寄せた。足元が覚束おぼつかない璋璞に保食が引きられたのだ。よろめいた保食の身体を璋璞が受け止める。闇の中、濡れた髪が璋璞の鼻先をかすめた。

 ぐ、と保食の両肩に武骨な手が置かれる。

「保食――闇の中は、よくない。たがが外れてしまう」

 ふふ、と保食の笑い声が落ちる。それはどこか悲しいものだった。


「まだ春の夢の内ですよ――過ぎればなかった事になると、そう申し上げましたでしょう?」


 保食は指先を上に伸ばし、璋璞の頬に、ひげに触れ、そのまま胸へ這わせると自身の身を璋璞の腕にゆだねた。

仙山せんざんの第二拠点とやらへは、大勢で参られるのでしょうね。――大きないくさになりますか」

「ああ、既に黄師の大隊が向かっている」

 璋璞の腕が保食の背に回された。きつく引き寄せられる。熱を持った男の手が、薄い襦袢の上から保食の背筋を辿たどる。思わず引き起こされたかいに、ぞくりと胎の内が引きしぼられた。我知らず漏れた甘い吐息と共に、背が弓形にる。

 焦った。

 幾夜となく繰り返した妄念とはまるで違う。

 本物の愛撫とは、こんなにも生々しいものなのか。

 己からこんな反応が引き摺り出されるなんて、思ってもみなかった。

 その過敏さに驚いたのは璋璞しょうはくも同じだったらしい、一瞬、背の上で指先は動きを止めたが、ややあって、再び動いた。行き着いた先は――髪だった。

 保食の髪に触れて、ゆっくりと掻き揚げる。その感触を、まるで指先で舐めるように味わっているのが分かる。保食の眉間に皺が寄せられるが、それも闇の底にまぎれてしまう。


 ――駄目だ。こんなのいてしまいそうだ。

 

 保食は、一度きつく眼をつむってから、今度こそ本当に腹を括った。

 璋璞の背に回していた腕を外すと、爪先立ちになりながら武人らしい太いくびからめ直した。保食、とささやいた璋璞の下唇を甘くむ。一瞬璋璞の身が強張こわばったが、もう保食を拒みはしなかった。背に回された腕の力が増す。



 はじめて合わせた唇は、わずかにかわいていた。


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