9 柘榴 


         *


 五日目と六日目は、璋璞しょうはくおとないもなく、ただ静かに過ぎ去っていった。おおよそ、この二日間はそうなると決まっている。保食うけもちもそうと承知の上で、その内にくぐい水泥すいどろに今後の動きを指示し、自身も酒と薬の量を少しずつ減らす。

 その二日を過ごす己の胸の内に、ぽっかりと開いた穴がある事を保食が自覚したのは、果たして何時の頃からだったか。


 例えるならば、それは柘榴ざくろのような手触りの穴だ。

 甘く、い、そして飲みくだしにくい。


 それは恐らく、璋璞のかたわらにある時に感じている事と同じ、ある種の居たたまれなさが凝縮されたものなのだろう。

 それが胸の内に浮いているのだ。

 その穴を持てあまし、保食は己の身をしとねの内で、ぎうときつくいだく。ふとした瞬間に触れてくる、ごつごつといたみの激しい武人の指先の熱や、薫香くんこうではなく、璋璞しょうはく自身の肌の匂いを思い出す。その気配をして――己が指で、自身の首筋に触れる。

 保食――そう、低く甘い声で、男は己の名を呼ぶ。それは耳の奥ではなくて――はらの内に響くのだ。

 身の内から、はしたなくも熱い物が込み上げる。その場所が、ぞくりと、うずく。

 

 甘い熱にまみれた溜息を、ふるえながら吐き出す。

 

 否定など、当の昔にあきらめた。二十五の女の身体に、あの男の色香は毒だ。

 惚れた男に組みかれたいと望んで何がいけない。

 分厚い筋肉におおわれた背中に、爪を立てたいとのぞんで何がまずいというのか。

 あのりょうてのひらが、夫々それぞれ己の両の膝裏を強くつかむのだ。そうして、膝と胸が着くほどに、ぐいとこの身を折りたたむ。いきおい腰がわずかに浮く。熱に浮かされ情欲にまみれた男の眼差しが、ねっとりと己を見下ろす。あられもなくさらされた秘所を目前にして、ごくりとその喉仏を鳴らす。その時、きっとあの白髭鬚はくししゅは、己の乳首にゅうしゅたぶらかすように撫でるのだ。

 そんな事を観想して何故ゆるされない。うずく場所を探られて、みしみしと、ちからくで割り込まれる事を希求して――


 結局、嘆息たんそくで終わる。

 妄念にもてあそばれるだけの、滑稽な女のひと

 そのむくわれなさに、一人虚脱するしかないのだ。


 むかえる最後の日、目の前に現れる男は、いつも清潔でやわらかな微笑を浮かべている。保食が妄念の内によごした男など、どこにも存在しない。低く深い声音で別れを告げる璋璞を前に、こちらも清廉潔白なフリをして、乙女の微笑みを浮かべて。


 馬鹿野郎。

 どうして奪わない。


 涙ぐんで見送るのは、名残惜しいからではなく、悔しいからだ。

 いつも。



 七日目の夜の空気は、底冷えが強かった。

 ちゃぷり、と湯のおもてで、天井から落ちたしずくねる。

 ぼんやりと、その滴の生んだ波紋はもんながめながら、保食うけもちは顔の半分を湯舟に沈めた。


 こぽり、とひとつ、小さなあぶくを吐く。


 この日は何故か、常よりも時間をかけて、ぬか袋で己の肌をみがいた。かけた時間と手間の分、知らぬ間に湯もぬるんでいる。


 ――もしかしたらという予感は、はじめからあったのかも知れない。


 だから、そうして湯を使っている時に、突然そばづかえの女が璋璞しょうはくおとないを知らせて来た時も、驚きはしたが、さしてあわてはしなかった。それでも幾分かはいて湯から上がる。

 ざばり、と湯があふれて流れた。

 少なからぬ焦燥は、ある。肌身を伝う水滴をぬぐうための手元がもたつく。璋璞が七日目の昼にやしきを訪うのは常の事だったが、今回はそれがなかったのだ。

 保食うけもちは――暫時ざんじ躊躇ためらってから、女に邸から出るよう言った。女は小さく首肯すると、そのまま脱衣所を出て行った。

 保食は、ふぅと浅く強い息を吐き出す。先日は裏にくぐいを控えさせていたが、今日はすいどろと共に任を委ねていた。



 つまりこれで、邸内には本当に璋璞しょうはくと自分の二人だけになるのだ。



 待たせていると聞いた離れまで、小走りに回廊を渡る。湿しめり気が残る肌の上にまとった襦袢じゅばん姿を見せるのも、れ髪を見せるのも初めての事だ。

 廊下の角を曲がると、先日のように濡れ縁に腰掛けて待つ璋璞しょうはくの姿が目に入った。そのあまりの無防備さに、保食は思わず、表情や態度を取りつくろいそびれた。困惑顔をそのまま向けた保食に、振り向いた璋璞は笑った。保食は、本心から溜息をこぼした。


 今年の桜は、散り急ぎ過ぎたのだ。


「こんな刻限に、先触さきぶれもなくいらっしゃるなんて……」

「うん? いけなかったか?」

「いけませんよ。こんななり御前ごぜんに出たくはなかったです」

「でも、追い返しはしないのだな」

「そんな事――わたくしに出来ようはずがございませんでしょうに」

 璋璞の目が、庭に向けられた。



「俺が右将軍だからだろう」



 保食は呆気あっけにとられた。我が耳を疑った。

 璋璞がこんな物の言い方をしたところを、己はついぞ見た事がない。まるでなじるような、責めるような色を含んだ言葉だ。誤解でも聞き間違えでもなんでもない。璋璞は、己が禁軍だから拒まないのだろうと、そう言ったのである。何を言っているのか。当たり前じゃないか。それが本来当然の事だろう。それが自分達の間に横たわる関係だ。しかし、彼はそれが不服だと言っているのだ。

 これは――間違いない。


「璋璞様、まさか、御酒ごしゅを召し上がっていらっしゃいましたか?」

「うん? ――ああ、お主の所の下男が運んできたのだが」

 

 思わずぐっと喉を鳴らした。すいどろだ! やられた。選ぶ自由があるだどうだとうそぶきながら、あれはこういった事を素知らぬ顔でやるのだ。恐らくは今頃、邑長邸に留まる禁軍全員が飲まされてつぶされている。その上で璋璞一人がここへ来るよう仕込みをしたはずだ。


 ――鵠や浩宇こううでは、ここまで滅茶苦茶な真似はしない。

 

 保食は眉間に皺を寄せた。溜息をこぼすと、ゆっくりと璋璞しょうはくに歩み寄り、その隣に並んで座った。

 水泥が運んだと言うならば、璋璞が口にしたのは、いつも保食が薬と共に飲んでいるやたらと度数の高い古酒のはず。璋璞は先日の酒宴より明らかに酔っていた。泥酔と言ってもいい。

 状況的にややまずい、という事は頭では分かっていた。まだ自分も完全には酒が抜けていない。

 それでも、璋璞の体温を近くに感じられるこの瞬間に、保食の身の内は柘榴ざくろのようにうずいた。

 湿しめり気の残る保食の肌と、璋璞からこぼれ出る酒気しゅきが、ねっとりと粘り、からみ合うのを感じていた。



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