7 授乳


 隴欣ろうきん三交さんこうである紅江こうこうは、てい州で仙山せんざんの手に落ちた。今より八年前の事である。せいかいぐ近くのばく県。この県城侵入に邪魔だった橋を落とした時に、その落下に巻き込まれた。彼女にしてみれば不幸で偶発的な事故である。

 しょう軍の一兵として捕らえたのだが、彼女の実際の身分しんぶん瓊高臼にこううすの黄師だった。それも――最奥さいおうと言っていいほどの深部に席を置く人物だったのである。


 せきぎょくいただきである瓊高臼の情報は、実際にそこに関わる者からでなければ引き出しがたい。故に、紅江こうこう捕縛ほばくは、仙山にとって僥倖ぎょうこうと呼ぶに等しかった。彼の山は信仰のかなめである。その内情はほとんど表に出る事がない。知りようがないのだ。それを知り得る者を掌中しょうちゅうに得るなど、幸運と言わずとしてなんとしよう。


 その難は、帝壼宮ていこんきゅう如艶じょえんそば近くにはべ黄師こうしも例外ではない。


 同じ黄師こうしの名が付くとはいえ、もはやそれは別物の性格をびている。つかえるあるじが違うからだ。

 帝壼宮の黄師はげつじょえんに。

 瓊高臼の黄師は大師だいしちょうにその忠誠を誓う。

 ぞくことなれば、名は同じでも、もう互いに実情は見えなくなる。

 疑心は暗鬼をしょうずる事もあるだろう。長年、両者間にそういったものがあった事はいなめない。事実、双方に間諜かんちょうは飛び交う。そして、相互にその事実を黙認してきた。

 本来的な黄師がどちらかと言えば、当然大師長につかえる瓊高臼の黄師だ。彼等はせきぎょくまつりと護持ごじり行う。如艶じょえん白瓊環はくけいかん三交后さんこうごうに望まれ俗世に降りたと同時に、一部がその供に付いた。本来は璋璞しょうはくもその内の一人である。ここで彼等の道――もとい、命運は分かたれた。

 帝壼宮側の黄師の残虐性について声高こわだかに語られる事はない。分離後に増やされた兵も多く、両黄師の乖離は深まる一方だ。また、如艶じょえんの先帝弑逆しいぎゃく簒奪さんだつがまつろう以上、それについて語る事は不敬かつ反逆の意を含み置くものとなり兼ねない。



「――この八年で、両者間の状況は、更に悪化の一途を辿たどりました」



 露涯ろがい保食うけもちの自室にて、紅江こうこうは苦し気に、そう保食に語って聞かせた。

 保食はただ黙ってうなずき、紅江が吐き出す言葉を受け止め続ける。

 室内は変わらず薄暗い。女二人は、夫々それぞれ向かい合わせの椅子に座したまま、重い時と空気を共有する。

「本当に――ここまでになるとは、誰も思わなかったのです」

 震え声でつぶやきながら、紅江はゆっくりとうつむく。彼女のうなじを見下ろしながら、保食は、ちらとその視線を己のかたわらに立つ男へ向けた。男は黙ったまま、ただうなずく。その顔面は――右頭部から頬にかけて赤黒くれ上がっていた。

 そもそも虜囚りょしゅうとして扱っていた紅江である。彼女が保食へ向ける感情は、敵愾心てきがいしんをその核と見て間違いあるまい。しかし、そんな風に言葉を引き出せるほどに関係は変わった。

 変えたのである。――他でもない、このすいどろが。


 元来、すいどろは拷問などの非情な手段を嫌う。に隠れて囚人に食事を運んだり、傷の手当をするなどは日常茶飯事だった。保食うけもちはこれを黙認し、えて彼の好きなようにやらせた。つまりは二人で役割を分けたのである。あめむち。これは明白な程に、有用になる。

 自然、皆彼にほだされ気を許す。物腰や言葉が柔らかい事もその効果に寄与きよした。紅江こうこうもまたその例にれない。さんの直前に、水泥の手引きという事で密かに彼女を隴欣ろうきんと再会させた。更にその後、水泥からの嘆願で、鍵はつけるものの二人を同室に住まわせる事を保食が許可した、という事にした。許すだけの効果があると判断したからである。保食が許した、という事実を作る事の意味もまた大きい。


 果たして、保食の読みは当たった。


 出産の前後をて、紅江こうこうは水泥を完全に信頼した。産婦の扱いに困らない程度には、彼は蓬莱ほうらいさんたずさわってきている。邑長ゆうちょうの家系の者の常ではあるが、それがここで生きた。ぽつりぽつりと、彼女が語り始めたのはこうだった。

 紅江こうこうしょうぐんに潜伏していたのは、その軍内に反乱分子があるという噂があったからである。しかもその背景にはせきぎょく帰還をたくらむ信仰があるという。その真偽を確かめる為に、紅江は彼女の上役から勅命を受けてその任に着いていた。

 彼女の直属の上役は、思いがけぬ大人物であった。



 黄師の頂点――大師長げつとうその人である。



 禁軍は皇帝の為の軍。宮廷の黄師もまた、如艶じょえんの白玉前提体制を維持するためのもの。

 対する廂軍は、より民に近い存在だ。

 反乱分子があるという噂は事実だった。降り積もった不満と、かつての信仰穏やかな時代への回帰願望が、その勢力を拡大させていた。

 この問題に帝壼宮側の黄師は動けない。こちらはより如艶じょえんと白玉に近い立場にある。万一潜入などをして事が露見した場合、入ってはならぬ亀裂が民との間に入る。故に先んじて赤玉のいただきが動いた。乖離があるとはいえ、両者赤玉のである事に変わりはない。動ける方が動いたのだ。八年前までは――まだ、何とか双方に残っていたのだ、同属であるという意識が。


 彼女の三交さんこうである隴欣ろうきんが同じくてい州にいたのは、彼女等が同陣営に属しているからだ。紅江こうこうが探り、宮廷付き黄師に潜入している隴欣ろうきんがその伝を受け、更に隴欣ろうきんからもう一人の三交であるきむ慈琳じりんという人物にたくされ、それが月桃げっとうに上げられる手筈となっていた。


 反乱分子は、臨赤りんしゃく、を名乗っている。


 保食うけもち紅江こうこうから臨赤の名を聞いて、すでに七年近くが過ぎている。しかし、いま巷間こうかんにその名は流布るふしていない。仙山の他の者がその存在について伝聞を得るという事もない。余程上手く立ち回っているのだろう。恐らくは上層に余程の策士がいる。


 恐ろしい事だと保食は思う。


 紅江こうこう隴欣ろうきん慈琳じりんとの間にした子は、すいどろが主だって養育していた。

 保食が最も驚いたのは、月の民は授乳をしないという事だった。

 そもそも生物的に乳汁にゅうじゅうが生成されないらしい。彼等からすれば母親の体液を摂取すると言うのは共食いに近い印象があるらしく、水泥が聞いたところ、本音で言えば五邑ごゆうの民の授乳育児は嫌悪を通り越して恐怖に近いものらしい。それはそうだろう。赤子が母の身を喰らっているのだから。

 授乳が不要ならば世話は誰にでもできる。

 水泥は、赤子の頃から保食の面倒を見ていた事もあり、滅法めっぽう子守が上手かった。だから、はじめは本当にうまく事が回っていたのだ。

 状況が変わったのは、一年を過ぎた頃だった。

 豊来ほうらいと名付けられたその子は――成長が早かった。

 その寿命の長さと比例すれば、月人つきびと異地いち人のそれよりも余程早く赤子の時期を脱する。しかし、少なくとも立ち上がるまでには優に五年は要するものらしい。

 が、豊来ほうらいは生後一年にして歩き出した。およそ異地人のそれと変わらぬ速さである。理由は紅江こうこうにも分からなかった。

 紅江こうこうの困惑は大きかったが、隴欣ろうきんのそれとは比較にならなかった。それは困惑ではなく絶望だった。



 ――かつて保食が脅し文句として彼に聞かせた言葉が大きく影を落としていたのである。



 隴欣ろうきんは――三交さんこうの置き換わりを疑ったのだった。そしてその対象を水泥と見定めたのは、紅江こうこうが水泥に対して完全に胸襟きょうきんを開いていたからである。それまでは好ましく感じていたものが一転してあだとなった。

 当然水泥にはそんな事をする理由がない。これは清廉潔白せいれんけっぱくの人物である。紅江こうこうも身の潔白を主張し続けた。何よりも――本来はそんな事を疑うはずもないのだ。月人は匂いで雌性雄性も交の有無も嗅ぎ分ける。疑うべくもなし、また間違う事もないのだ。

 しかし、隴欣ろうきんの心は、既に他者の言葉を受け入れられる状態になかった。彼は一時期、方丈ほうじょうにて『真名まな』の監視にいていたのである。



 『真名』の特性は『発露はつろ』。隴欣ろうきんは――既に大きくその精神を持ち崩していたのだ。



 事が起きたのは、豊来ほうらいが三歳を過ぎてすぐの頃だった。珍しく落ち着いて椅子に座っていた隴欣ろうきんそば豊来ほうらいけ寄り、その膝に手をおいた。


爸爸ぱーぱ


 その時、丁度室内には隴欣ろうきん豊来ほうらいしかいなかった事が悪かった。室外で洗濯をしていた水泥と紅江こうこう隴欣ろうきんの悲鳴と豊来ほうらいの泣き声を聞きつけ血相を変えてけつけると、頭を抱えて叫びながらうずくま隴欣ろうきんと、彼から離れた壁にぐったりともたれ掛かる豊来ほうらいがいた。豊来ほうらいは後頭部から血を流していた。

 泣きながら隴欣ろうきんに問いただす紅江こうこうの背中を見ながら、水泥は急ぎ豊来ほうらいを抱え上げて外に飛び出た。幸い豊来ほうらいは月の民だ。一刻程で傷もえ再び立ち上がり遊びだしたが、水泥はふるえながら、もう限界なのだと保食に告げた。

 隴欣ろうきんは、紅江こうこう豊来ほうらいから離れ、再び独房にこもった。

 彼が自ら選んだ事だった。

 この頃には、捕らえた他の黄師達も、一部はある程度自由に行動できるようにしていた。現在に至っては仙山に加わった者すらいる。八年という月日にはそれだけの長さがあった。


 いつかは起きる事だったのかも知れぬ。しかし起きてはならぬ事だった。水泥は彼等の事を常々気にめ心を痛めていた。だからこそ、保食はこの文を握りつぶす事に決めた。

 水泥がにえとして動く事が避けられなくなった今、加えてその心に余計な影を差すような事はなるべく避けたい。身勝手かも知れないが、それがいつわらざる保食の本心だった。

 離れにまで戻ると、保食はくぐいに向き直った。

 真っ直ぐな美しい目が、きらと光る。



璋璞しょうはくに仙山の事が知られた」


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