6 烏が、中枢に辿り着いた


        *


 四日目の早朝に浩宇こううやしきへ一人戻って行った璋璞しょうはくを、保食うけもちは玄関先で見送った。

 淡く霧がけぶる。璋璞しょうはくが振り返るたびに、保食はたもとおさえて手を振った。その手首で、するりとふじ色の数珠じゅずれてすべりおちた。


 男の広くあたたかな背中が朝霧の向こうに消えた頃、保食の背後から「――結局、お前の手管てくだじゃ、あの爺はくずせなかったな」と、小さな声が掛けられた。保食は、振り返りもしなかった。

 柱の影から、くぐいが姿を現す。

 鵠の鋭い眼差しが、保食の襟足えりあしした。女のくびの細さは、馥郁ふくいくたるなまめかしさをくゆらせる。そんな鵠の思いを知ってか知らずか、保食は、ふいとその視線を足元へ落とした。

 自然、うなじの可視が、深くなる。

 保食は、その細い指先で自身の黒髪をげ、甘くぬるい溜息をいた。鵠は――眉間に皺を寄せる。

 本当にひどい女だと、心底そう思う。そんな彼女の仕草しぐさふくまれる意味を、察する事ができぬほど、くぐいにぶくはない。

 彼自身もまた、何度目か分からぬ溜息をこぼした。


「――あの爺、瓊高臼にこううす黄師こうしてからの、宮中の禁軍入り、だったな、確か」


 くぐいの問いに、「ええ」と保食は首肯する。

「まったく、私も迂闊うかつよね。寶刀ほうとうの秘密とからりを知る程の中枢にいたとまでは思わなかった。それならたぶらかされてくれる訳がない。――ほんと、無駄な労力を払わされたわよ」

 まるであきらめのような、甘い吐息交じりの自嘲の言葉だ。それを聞かされる男の身にもなれと鵠は言いたい。そんな事、言えはせぬが。

 歩みを進め、保食の隣に鵠は立った。ちらと視線を向ける。頬が朱に染まっているのは紅のためではないだろう。全くの女の横顔だった。こんな顔を、この女は自分に向けた事がない。その事実に、鵠は腕を組みながら、くっとわらった。動作に現れる本音と言うのは――時に残酷だ。何一つ真実を隠せやしないのだから。



あやまてば取り返しがつかない、か。流石さすがの将軍様だ。随分ずいぶんとお上品な言い回しをする。――あの調子なら、どこまでが純潔の限度なのかもよく分かっておいでなのだろうよ」



 限度、というその言葉が指す意味を、当然保食も知っている。微かに伏せられた目元を、長い睫毛の影がいろどる。

 

 匂うような色香だった。むしられる程に残酷な。

 

 保食からそれを引き出したあの姮娥こうがの将軍に、鵠はただ、煮立にたつような殺意をいだく。それを表に出せるはずもないまま、己は、このしんがいつか蒸散して消えるのを待つばかりなのだろう。そんな己を鵠は――嗤った。


「――ねぇ鵠」

「なんだ」

麻硝ましょうは、璋璞しょうはくが知っていた事を把握はあくしていたと思う?」

 鵠は、ふいと視線をらした。

「さあな。だがこうと知れた以上、梨雪りせつの存在を明かしたところでどうせ使えないと判断される事が確定した訳だ。――お前、また一歩うつわに近付いてしまったな」

 長い溜息と共に保食は顔をしかめた。

「あんたも本当しつこいね。あたしは梨雪にはやらせないって最初から言ってきた」

 保食はきびすを返して玄関の内に入った。鵠も後からついてくる。



 梨雪は既に寝棲ねすみとの間に二人の姉弟きょうだいもうけている。そして、七年半前の挙式以来、保食うけもちは梨雪の前に姿を見せていない。

 二人の婚姻によって、梨雪は、保険としての器候補からすら外された。結果として、彼女がそれまで背負っていた荷も、全て保食に投げ渡された事実は否めない。式の間ですら、梨雪はその表情をわずかに曇らせていた。

 それだけで、十分に保食には後悔が残っている。

 折角好いた男と添えたと言うのに、折角の晴れの日だったというのに、あんな顔をさせていていい訳がなかった。

 姉とも慕った人だったのだ。彼女は。

「お前も本当に、役務に忠実だな」

 諦めたように鵠は苦笑を漏らした。保食の前につ、と何かを差し出す。細かくたたまれたふみだった。


「何、これ」

露涯ろがいからだ」


 思わず、保食は深くまばたいた。

すいどろには」

「見せていない」

「どうして」

「見て判断しろ。俺は、お前に先に見せるべきだと思った」

 保食は文を開くとその文面に目を通した。――途端、眉間を険しくする。ややあってから文を鵠に返す。

「処分しておいて」

「……いいんだな」

「ああ」

「だが、伏せたところで知れるのは時間の問題だぞ」

 保食は、ついと顔を上げた。真正面から鵠の眼を射すくめる。



「水泥がこれを知る事はない」



 常にない明確な言い切りに、鵠が息を呑んだ。

「おい、まさか」

「水泥を露涯ろがいに戻らせる事は、もうない」

 その言葉の意図するところは明白だった。それは、白玉はくぎょく奪還作戦の実行に移る事を意味していた。

「どこで――いや何時いつから決まっていた」

 保食は視線を庭に投げたまま、小さく溜息を吐く。



「ここに来る前からだ」



 鵠が苦々しいものを口のに浮かべる。

「――第一の麾下きかが聞いて呆れるぜ。そうか、それで俺じゃなく、水泥だけがお前と共に総本山へ何度も足を運んでたってわけか」

「策の漏洩ろうえいが一切禁じられていた。お前を軽んじた訳じゃない」

「分かってるさ。――決定打はなんだ。聞いてもいいか」

 すい、と保食の指先が南へ向けられる。

「『真名まな』の在処ありかが判明した。それに」

「それに」



「――からすが、中枢に辿たどいた」



 鵠がびくりと全身を強張らせる。

「本当か」

 保食はこくりと首肯して見せてから腕を組んだ。

「それ自体は一昨年すでに聞いていた。昨夜、沙璋璞も認めたから間違いはない。禁軍がここから撤収し次第、私は予定通りに動く。お前にも頼みたい事がある」

 鵠は硬い顔をして、小さく頷いた。

 保食は、文に書かれていた事を思い返し、内心舌打ちした。これは、そうでなくとも水泥には伝えられない。



 隴欣ろうきんが死んだ。自死だと記されていた。

 水泥が作った散華さんげとうを使っての事とあった。



 保食のに、かつて、自らの手でその眼球をつぶし、手足を割き、挙句あげく、脅迫を持ってその心を折り、口を割らせた男の赤い姿がよみがえる。



「――ねえ、女の命を白玉はくぎょくに食い散らかさせるあんた等と、女の命を子種に食い散らかさせる私等五邑と――一体どっちがマシだと思う?」



 濡れたいしどこに刃で縫い留めた隴欣ろうきんに向けて、保食はそんな言葉を投げたのだ。

 わらってしまう。

 そんなもの、どちらも羅刹らせつの所業以外の何物でもないに決まっている。

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