5 密書



「意味は、理解したな」

「はい」

「包み紙は」

「全て灯火とうかべました。これが最後です」

 保食は、近くにあった灯火にそっと包み紙を差し出した。ちり、とはしから燃え上がる。飴を乗せていた小皿の上に移すと、端から赤くめるようにして燃えたが、それもやがて消え、黒い燃えかすだけが残った。

 璋璞から渡された飴玉の包みには、全て内側にふみしたためられていた。一つずつ開き確認して、その内容に保食は静かに焦燥しょうそうした。

 璋璞から渡された飴は全部で八。その包み紙は、全て保食へ宛てた密書となっていた。



『水源汚染、不是白浪』――水源を汚したのは白浪ではない。

『叛徒出生的仙山。領導弓削麻硝』――まつろわぬ民より出し仙山。これを率いるのは弓削麻硝。

『包括員嶠残党』――員嶠いんきょうの残党を含んでいる。

『仙山第二基地位於雲州舊方丈』――仙山の第二拠点が、雲州の旧方丈にある。

『黄師將在不久的將來進軍這裡』――近くこれに黄師が進軍する。

『宮中有聲音懷疑蔡氏的參與』――蔡氏の関与を疑う声が宮中に在る。

『你必須永遠不會離開豪宅』――お主は只管邸内にて籠る様に。

『需要證明清白』――関与なき事を明かせるよう。



「わたくしは、何があろうとここで静かにしていなければならないと」

すれば儂でもお主一人くらいはかばいきれよう。時が来ぬ限りは、帝壼宮ていこんきゅうに迎え入れ、我が公邸の内で過ごせるよう猊下げいかに求める事もできる」

「――次の器の継承時期は、何時頃と」

「恐らくは、あと五年」

 保食は、小さく息を呑み込んだ。近くはないが、遠いとは言えない現実に、我知らず掌を握りしめた。

「こんな大変な折に、蓬莱へお越しいただいてよろしかったのですか? 今、禁軍での最高位にいらっしゃるのは璋璞様であらせられるのに」

「ああ、お主等にはまだ話していなかったか」

 保食は、思わず真顔で璋璞の眼を見詰めた。

「何かございましたか」

「儂の右将軍と同格の左将軍はいまだ空位であるが、この上位である大将軍位は、一昨年まったのだ」

 保食の胸の内が、ざわりと波打った。

 こくりと、生唾なまつば嚥下えんげする。



「――大将軍が、いらっしゃる。宮中に」



 璋璞の視線は静かだった。

「ああ。大将軍はたぐいまれなる智将でな、禁軍にこころざしたのは三年前と月日は短いが、それ以前は黄師こうし大師長の御傍おそばられた。禁軍へ移られたのも大師長よりの推挙すいきょによるものだ。その博識とるいを見ない智略によって、大師長の元では最側近としての働きをされていたと言う。禁軍においても数々のぎょがたい戦況を疾風しっぷうごとく勝利へ導いてこられた。相貌そうぼうは若くあるが見識深く、ともすれば老獪ろうかいとも取られかねぬ容赦のなさと手段を選ばぬ恐ろしい一面がある。――儂のような日和見ひよりみな兵とは格が違うのだな。猊下の信任も厚く、異例の抜擢ばってきとなった」

 璋璞は再び手酌で酒杯につるりとした酒をぐ。保食は、胸の前で両掌を固く握りしめた。

「――その、御方の名前は」

 璋璞は桜をぼうと見詰めながら、酒杯を空にして答えた。

らん成皃せいぼう殿だ」



 矢張やはり、少々酒が過ぎたらしい。

 濡れ縁で淡い眠りに落ちた璋璞しょうはくの頭を膝に乗せながら、保食うけもちはゆっくりと団扇うちわでその身に風を送った。その額に落ちかかった前髪をでつけると、思いのほか張りのある髪質に気付く。

 長い白髪と、同じく長い白髭鬚ししゅであるから、五邑ごゆうの民の目からはかなりの年嵩としかさに見えるが、こうして間近にしてその肌に触れると、存外にもまだ若いのだという事実に気付かされる。その実年齢は千だの万だのを数えるのだという事は承知しているが、どうしても己等おのれらしゃくに引き合わせて考えてしまう。おのれ詮無せんなき事をするものだと、自嘲じちょうを禁じえない。



 ――一体、そこに何を見出みいだしたがっているのか、己は。



 小さく溜息をつくと、団扇を床においてから、そっと重心をかたむけ、片手を斜め後ろについた。なぐさみに膝上の白い髪を撫でる。ふわりと香る残り香に、胸がきしんで痛んだ。

 本来、邑長ゆうちょうの家系の出身ではない保食に、白文を知る機会はない。教えたのは無論璋璞しょうはくだ。



 ――否、本当はもう一人いる。



 保食は、かつて仙山せんざんにいた一人の青年の事を思い出していた。あれは、まだ少年と言ってよかった。そんな年嵩としかさだったはずだ。

 彼と邂逅かいこうしたのは、もう七年も前の夏の事になる。

 極々短い期間に知己ちきとなり、その人柄に触れ、またたく間に別れて、以来顔を見ていない。



 底知れぬ深い暗い、少年の双眸そうぼうばかりが記憶に残っている。



 璋璞しょうはくの髪を撫で続けながら、ふいと天をあおいだ。桜の花弁は散り続け、それが、はらはらと璋璞しょうはくの上に降り注ぐ。浅い眠りに、まぶたの内で瞳が動いているのが分かる。温かい呼吸。薄い耳朶じだ。少し癖のある鷲鼻わしばな。かっちりとした額の生え際。

 こんなに、こんなにこの人は自分の前で無防備でいていいのだろうか。こんなに警戒が無くていいのだろうか。こんなに温かい命を、こんなに美しい人を、こんなにくだらない手管てくだを軽くとがめる程度で見逃しゆるしてくれる人を、菓子に密書までまぎらせて救おうとしてくれる人を――自分はいつかきっとほふるだろう。

 と、撫でつけていた保食の手を璋璞しょうはくが優しくつかんだ。薄っすらと眼を細めて微笑みかける男に、保食の胸は再び軋んだ。


 

 ――皇の為だけのわたくしなのですか?



 もし、あの時仙山行きを選ばなければ、蓬莱の『色変わり』なき娘としてだけ生きていたら、こうしてこの人に触れる瞬間だけを待ち焦がれて生きる人生で終わる事もできたのに。



 ――璋璞様とこうしてお会いできる一時だけが、唯一、まことの、只一人の女として息ができるわずかな時間なのでございます。



 何を馬鹿な事を言っているのか己は。女としての時間なんて、人生なんて、はじめから失われているのに。

 保食は、璋璞しょうはく只々ただただ見詰みつめた。

 ひたすらに、美しくあでやかな微笑だけを浮かべ続けた。


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