4 妖艶


         *


 春のよい、天はうらいろに染まる。



 璋璞しょうはく蓬莱ほうらいへのおとずれと共に、空気中にはぬくみが増し、つぼみころびかけていた庭の桜は一晩で満開となった。

 三日目の夜、今日は具合が良いからと保食うけもちは璋璞を引き留め、えんでささやかな二人だけの酒席をもうけた。

 常ならば璋璞の身から外される事のない武装も姿を消し、かたわらに太刀たちを置くほかは薄手の深衣をまとうのみ。保食うけもちべにみどりの地に銀糸で藤花とうかを刺した上着を羽織り、珍しくまなじりと唇にべにを差していた。


 保食うけもちは、璋璞のかたわらで彼が空けた瑠璃るりの酒杯に清酒せいしゅそそぐ。

 そして、その保食の肩から落ちかけた羽織はおりを、今度は璋璞が掛け直す。


「今日は本当に顔色がいいな」


 柔らかくささやきながら、その指先で保食の頬に触れる。酒精しゅせいためか、今は璋璞の指の方が熱をびている。くすぐったそうな顔をして、保食はわずかその指先に頬をこすり付けた。その関節の一つに、小さなささくれがある。自らの頬をこすったそれに思わず唇を寄せかけて――思いとどまった。

 一陣の風が吹いた。薄い白紗はくしゃの花弁がはらはらと散り落ちる。その内の幾枚かが保食の上に降りかかった。幾ばくかが髪を飾り、べにを乗せた唇の上に一枚がとどまった。相好そうごうくずした璋璞がその一枚を指先ですくい上げると、花弁と共に紅の色がその拇指ぼしに移った。

 紅はそのまま指にとどまり、はらりと花弁だけが散り落ちる。保食の両の手がその指に伸ばされる。

 紅をぬぐうのかと思われたが、そうではなかった。かすかに逼迫ひっぱくした色を双眸そうぼうに浮かべながら、保食は璋璞の手を包み込むように両掌にらえ、その拇指を璋璞自身の唇にぬぐわせた。

 困ったような、とがめるような視線を送る璋璞に、保食は視線を伏せた。


「桜です。桜が悪いのです」

「これが花のたわむれだと?」

うつつでは都合がつきませんでしょう」

「――全て、春の夢か」

「そうです。全ては桜が見せる夢です。散れば今宵こよい起きた事など、全て消え去りましょう」


 璋璞は眉根を寄せると、自身のえりを深く広げた。先程紅を移した拇指で、保食の唇を今度は強くなぞる。先よりも多い紅をそこにすくい取ると、自身の広げた胸元の中心――心の臓の上にり付けた。


璋璞しょうはく様」

「これで、ゆるしてはくれぬか」

「やはり、わたくしではいけませんか」

「お主自身がどうこうではない。それは以前にも話した通りだ」


 このやしきで保食のそばに着くのは、日中身の回りの世話をするそばづかえの女が一人きりだ。それから、邑長邸との連絡役を務める男と、下働きの男が一人。言うなれば、この三人しか出入りが許されていないのだ。――それも、今宵は既に人払いを済ませてある。



 今ここにいるのは、保食と璋璞の二人きりなのだ。



 保食が、また目元を伏せる。

「ええ、うかがいました。何度もかずに言わせてしまいました。器となる娘には純潔が求められるから、と。――ですが、それを黄師こうし如何いかにしてあばくというのでしょうか。赤玉様にならう事は、それ程までに璋璞様にとって大切な事なのですか」

 璋璞は保食の両肩りょうけんてのひらを乗せた。幾許いくばくかの逡巡しゅんじゅんた後、璋璞は苦し気に重い口を開いた。

白玉はくぎょくの力を、一体の器の内にとどめ置く事は難しい」

「――ええ。特に、我等が蓬莱ほうらいのお守りする『かんばせ』は、決して他とあわせたままにしてはならない、と」

「保食。器はやはり人。神を長くその身に留めたままにする事はできんのだ。余程の器でなければな。故に、その器を永らえさせるために切り分けほうとした。かつては五十の時を数えた器もある。しかし、合祀ごうしが進むにつれ、器の維持される期間も短くなった。――たなかったのだ」

 保食の、硝子ガラスのように美しく透き通ったまなこが、ぱちりとまたたく。

「もたなかった、のですか」

 璋璞の口元が、微かに険しい色を浮かべる。



「お主も、否、蓬莱ほうらいのお主だからこそ分かるだろう。白玉の――死屍しし散華さんげは増えるのだ。故に器を切り分け五邑に分散し、各邑の民に参拝さしめ、これを削らせた。――削り続けて、なお増してゆく。どれほど毎日削ろうと際限がない。あふれすぎた死屍散華は器の命をも削り、急いてその身を朽ちさせる。我等姮娥こうがにとってこの五百年とは、死の危機にひんしてなおおさがたい悪夢だった」



 震える保食の指先が、自身の口元を覆う。

「――では、器足り得る娘の数が減った、というのは」

「正しくはない。入れわりの頻度ひんどが増したというのが実際だ。増え続ける死屍散華の為に器の身が長くは保たず、短期間で変えてゆくよりなかった。結果、数が足りなくなった」

 璋璞の表に苦渋が満ちる。

「これをわずかなりとも延命させるためには、五邑に分け、それぞれの地で死屍散華を減らし続けるより他に手立てがない。これ以上の合祀ごうしまかりならぬところにまできておる――故に、切り分けをさない継承は――望めないのだ」

 保食の肩に乗せられた掌に力がこもる。

「璋璞、さま」

「――よいか、神たる白玉を宿した器を切り分ける事が出来るのは、不死石しなずのいしより生み出された一振りの寶刀ほうとうに限られる。この寶刀が切れるのは、純潔の者だけなのだ」

 保食は、びくりとその身をふるわせた。璋璞の視線は、保食の双眸そうぼう最奥さいおうさぐる様に、じっと動かなかった。



「一度あやまてば、なかった事にはできぬ」



 保食は苦し気に双眸を閉ざすと、はらはらと涙をこぼした。

「ごめんなさい」

「保食」

「ごめんなさい、知りもしないで我儘わがままばかり言って……困らせてしまって」

 震える両の手で璋璞の襟元をつかみ、保食はその胸の上にひたいを預けた。璋璞は片腕で保食の肩を抱き寄せる。


「今宵は、酔いが回る。舌が軽くなり過ぎた」

「春の夜ですもの」

「花が散れば、なかった事になるか」

「ええ」

 

 保食はゆっくりと璋璞の腕の中から身を放すと、かたわらの酒盆の上に酒杯と共に置かれていた一つの紙包みを手に取った。

 先日、璋璞が保食に与えたあめを包んだものだ。保食自ら包みをき、それを璋璞に差し出す。微かにおとがいを上げて、薄く唇を開く。璋璞は意をみ、飴玉をつまむと保食の口中に差し入れた。保食は飴玉ごと璋璞の指先を口中へ受け入れ、その指先に残るとうをちらとめ取る。



 夜桜の下、保食は満開の花のように微笑んだ。まなじりに、光る物がわずかに残っていた。



 保食は口の中で飴玉を転がすと、璋璞の手に残されていた包み紙を自身の手に取り、いとおしそうに両掌の上に乗せて、それに視線を落した。

 保食が舌先で飴玉をもてあそぶ間、璋璞は手酌てじゃくで酒をぎ、杯を進めた。口中の飴がけ切ると、保食は「ふふ」と笑った。


「それで、最後の一粒か」

「ええ」


 保食は微笑み、再び掌中の包み紙を見下ろした。



「――『員嶠いんきょうの残党を含む』」



 ぞっとする程に妖艶ようえんな声色で読み上げられたその文言に、璋璞は視線一つ向けなかった。

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