3 薫香


 璋璞しょうはくを見送って半刻もした頃、邑長ゆうちょう邸から使いが来た。

 用件は簡潔である。今宵こよいはもう、将軍がこちらへ来る事はないとの報告だ。

 使いが庭先で片膝を突きつつ奏上する。女は、それをしとねの内で聞いている。


 つまらなそうにすがめられた瞳の前に、す、と前髪が一条こぼれた。


 ぞっとするほどに美しい女だ。その身に血の通う事を疑われる程の美貌である。当代随一と言ってもいいだろう。その作り物めいた肉に生があるとかろうじて分かるのは、硝子ガラスのように美しいその両のまなこに、ぎらりと激しい意志の灯火が宿るからだ。


「わかった。下がって」


 女のにべもない言葉にも慣れたもので、長邸付の下男は頭を一つ下げると、またたく間に庭先から姿を消した。

 女は唇を曲げながら視線を上向けた。見やるねりいろの天を、つるりと一羽の鳥が行く。黒い。それで単純にからすかと判じた。

 次の瞬間、鳥がいた。――烏乎ああ、と。


 やはり、烏か。


 頭をばりばりとむしってから、女――保食うけもちは、溜息をきつつしとねから立ち上がった。かすかに足元がふらつく。増した苛立いらだちに「糞」と毒づきながらふすまを蹴り上げた。

 毎度の事だが、この酒はきが強い上に、翌日に持ち越しやすいのだ。体から酒精が察知されにくい特殊な薬と合わせて含むため、はたから見れば高熱にあえぐ病態としか思えない有様を作り出してくれる。

 間違いなく、璋璞は明日もここへ保食の様子を見に来る。だから酒を抜く訳にはいかない。これが半年に一度、およそ七日間程、保食に課せられた責務なのだ。

 それを始めたのは、蓬莱ほうらい邑長ゆうちょうさい浩宇こううだ。

 浩宇は、梨雪りせつの年の離れた兄である。彼女を仙山に隠す事を言い出し、また実行した張本人でもある。

 蓬莱が『色変わり』なき娘を出した事がない――というのは、勿論たばかりであるが、その本来の意味は、器になった者がないという事だ。本当にただの一人も『色変わり』なき娘が生まれなかった訳ではない。


 そうであったとしたら、それはあまりに不自然極まりない。


 そんな明白あからさま法螺ほらを吹けば、黄師こうしのみならず、他邑たゆうからも疑いの目を向けられる事をまぬがれないだろう。それを回避するには、生まれた『色変わり』なき娘をなかった事にするか、もしくは病弱な娘を装わせるしかない。継承してもすぐに死んでしまいそうだと判断されれば、選抜時に脱落させられる。しかし、そうそう都合よく病弱な『色変わり』なき娘しか生まれないと言い張り続けるのも無理がある。蓬莱に向けられる疑いの目は、近年ますます強まっていた。


 それを真実として押し通す事を可能にしたのが、仙山から持ち込まれた特殊な丸薬だった。


 それを作ろうとして生み出された物ではない。本来は飲み過ぎた酒を早く抜くような薬はできないかとたわむれに調合していた中で生まれた副産物だった。寒冷地で深酒が過ぎる事の多い仙山ならではの発想と言えよう。

 それは、吐息や体臭から酒精を消し去るという、なんとも奇怪きっかいな作用を産む薬だった。

 その存在を知った浩宇は、その狐に似た目を輝かせた。

 強い酒を浴びる程に飲み、その上でこの薬を飲めば、やまいを装えるのではないかと、きらりひらめいたのだ。彼は喜び勇んで早速試した。無論自身で。そして即時昏倒した。半年試して最適な分量を見つけ出し、意気揚々と、当時六歳だった保食に吞ませた。

 やはりというか、当然というか、保食は昏倒した。

 成人男性の酒量と幼児に与えてよい分量が同じである訳がない。

 保食の母にしこたま殴られて、浩宇はすごすご帰って行った。が、りずに翌日にもまた酒と薬をもって現れた。


 あれは、そういう男なのだ。


 狐面で、どこか抜けていて、腹立たしいのになぜか憎めない。この蔡浩宇というとぼけた邑長が、保食は決して嫌いではなかった。飄々ひょうひょうとしていてあきらめが悪くてつかみどころがない。不信の眼差しで見る保食の前で、矢張りにへらと笑ってつまらない菓子を差し出す。つたない手作りの風車かざぐるまを手に目の前で走って見せる。何度母に追い返されても懲りずにやってくる。そんなこの男にほだされてしまったのも、まあ無理からぬ事だったのだろう。

 ある程度の分別が付くようになって後、保食は、改めてこの浩宇という男について考えてみた。この男は、保食の事は邑に残したのに、自身の妹は仙山に逃したのだぞ。身内優先もはなはだしい。邑長の権を乱用し、自らの家系を先んじたとそしられようが弁解のしようがないだろうが。実際、邑の内にはそんな声もあったし、その事実をよくよく加味もしてみた。

 ――が、やはりどうしても憎む事が出来ない。

 保食が内密にでも仙山に加われたのは、浩宇が許諾したからだ。これだけいう事を聞いてきたのだから少しぐらいは我儘わがままを聞け、打倒月朝のこころざしある仙山に加入させろと、詰め寄り無理を押し通したのだ。流石に困った顔をしていたが、結局それを聞き入れるのだから――やはり掴み切れぬ男だ。

 本来、浩宇がこうも必死になって薬の分量を探ったのは、保食の命を白玉の犠牲にしない為である。そんな事は重々承知の上で、保食は我を通したし、浩宇もそれを受け入れた。


 周りからどう見えていたかは知らない。だが少なくとも、保食にとって自分達の関係は全て納得ずくのものだったのだ。共犯、と言ってしまっても良いくらいの。


 重い溜息をもう一ついてから、保食は部屋の片隅の戸棚へ向かった。手にしていた飴をその引き出しの内にしまい込む。

 すると、先程からその様子を見ていた男が、部屋の壁に肩を預けながら、呆れたように笑った。

 麾下きかくぐいである。

 くぐいは保食直属の麾下で、彼女が蓬莱と仙山間を移動する時の護衛と、相互間の伝令役を兼ねている。先程、この邸付の下男を装い、璋璞を部屋まで案内したのも彼だ。



「保食よ、お前、よくもまああれだけしどけない姫君をよそおえるものだな。仙山でのお前を知る身からすれば、全身に怖気おぞけが走るわ」



 鵠の言葉に、保食は舌を打ちながら先程も蹴ったふすまを彼に向けて更に蹴飛ばした。そしてしくじった。酩酊めいてい感が抜けない状態でする事ではない。足元がもつれる醜態を鵠の前にさらし、苛立ちから更に舌打ちする。


五月蠅うるさいな。知ったこっちゃないんだよ! こっちは酒で頭回らない中あのじじいが滞在するこの七日の間に、どうやって今の帝壼宮ていこんきゅうの状況を聞き出すかと、作戦実行の手筈てはずを整えるので手一杯なんだよ! 気分が悪いならとっとと出て行きな!」


 切った啖呵たんかに鵠が肩をすくめる。

「おお怖。今のその面、璋璞しょうはくに見せてやりたいぜ」

「なに? 今から爺の前で実はわたくし兵でございの開帳しろっての? あんた、むらごと殲滅せんめつ食らいたいわけ?」

「心配すんな。お前一人いれば逆にあっちが壊滅するわ」

 くぐいはひらひらと手を振りながら部屋を後にする。眉間をしかめていた保食はその場に立ち尽くしたまま、ふ、とその表情を解いた。

 額に浮かんだ汗を袖で拭いながら、先程璋璞にそうされた事を思い出し、再び眉間に皺を寄せ、自身の掌に視線を落した。そこには一つだけ残しておいた紙包みがあった。

 カサカサとその包みを開き、しばらくそれを静かな眼差しで見つめてから、細い指先でつまみ上げ、ひょいと口の中に放り込んだ。


「――あまい」


 包み紙を手の内で握りつぶし、保食は腕を組むと柱に頭を預けて、御簾みすの外を静かに眺めた。

 口中でからころと固く甘いものをころがしながら、保食はそっとまぶたを閉じた。璋璞の肩でふわりと香ったものを思い出す。

 ――甘い薫香くんこうが焚き絞められていた。保食がまだ幼い頃には、璋璞が香を纏っていた事など、一度足りとてなかった。

 あれは、何時頃から始まったのだったか。

 保食の硝子のような瞳が庭先を見つめる。

 


 戦場の璋璞は、悪鬼の如く強い。

 あれ程勇猛果敢で、血の香りこそ相応しい男が甘い香をまとう。その意味を苦々しく思いながら、目前に迫る焦燥とその危難に、保食の心は静かに乱れた。



 春の間際は、戦を呼ぶのだ。


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