「（はい、辻（つじ）の手前で富山の反（はん）魂（ごん）丹（たん）売（うり）に逢いましたが、一足前（さき）に矢（やつ）張（ぱり）此（この）路（みち）へ入りました。）

（ああ、然（そ）う、）と会心の笑（えみ）を洩（もら）して婦人（おんな）は蘆毛の方（ほう）を見た、凡（おそ）そ耐（たま）らなく可笑（おか）しいといったはしたない風采（とりなり）で。

　極（きわ）めて与（くみ）し易う見えたので、

（もしや此家（こちら）へ参りませなんだでございましょうか。）

（否（いいえ）、存じません。）という時忽（たちま）ち犯すべからざる者になったから、私（わし）は口をつぐむと、婦人（おんな）は、匙（さじ）を投げて衣（きぬ）の塵（ちり）を払（はろ）うて居る馬の前足の下に小さな親仁を見向いて、

（為（し）様（よう）がないねえ、）といいながら、かなぐるようにして、其（そ）の細（ほそ）帯（おび）を解きかけた、片（かた）端（はし）が土へ引こうとするのを、搔（かい）取（と）って一寸（ちよいと）猶予（ためら）う。

（ああ、ああ。）と濁った声を出して白痴（ばか）が件（くだん）のひょろりとした手を差（さし）向（む）けたので、婦人（おんな）は解いたのを渡して遣（や）ると、風呂敷を寛（ひろ）げたような、他愛（たわい）のない、力のない、膝の上へわがねて宝（ほう）物（もつ）を守護するようじゃ。

　婦人（おんな）は衣（え）紋（もん）を抱き合（あわ）せ、乳（ちち）の下でおさえながら静（しずか）に土間を出て馬の傍（わき）へつつと寄った。

　私（わし）は唯（ただ）呆（あつ）気（け）に取られて見て居（い）ると、爪（つま）立（だち）をして伸（の）び上（あが）り、手をしなやかに空（そら）ざまにして、二三度鬣（たてがみ）を撫でたが。

　大（おお）きな鼻（はな）頭（づら）の正面にすっくりと立った。丈（せい）もすらすらと急に高くなったように見えた、婦人（おんな）は目を据え、口を結び、眉を開いて恍惚（うつとり）となった有（あり）様（さま）、愛嬌も嬌態（しな）も、世話らしい打（うち）解（と）けた風（ふう）は頓（とみ）に失（う）せて、神か、魔かと思われる。

　其（その）時（とき）裏の山、向（むこ）うの峰、左右前後にすくすくとあるのが、一ツ一ツ嘴（くちばし）を向け、頭（かしら）を擡（もた）げて、此（こ）の一落の別天地、親仁を下（しも）手（て）に控え、馬に面して彳（たたず）んだ月下の美女の姿を差（さし）覗（のぞ）くが如く、陰（いん）々（いん）として深（み）山（やま）の気が籠（こも）って来た。

　生ぬるい風のような気勢（けはい）がすると思うと、左の肩から片（かた）膚（はだ）を脱いたが、右の手を脱（はず）して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着て居た其（そ）の単衣（ひとえ）を円（まろ）げて持ち、霞（かすみ）も絡（まと）わぬ姿になった。

　馬は背（せな）、腹の皮を弛（ゆる）めて汗もしとどに流れんばかり、突（つつ）張（ぱ）った脚もなよなよとして身（み）震（ぶるい）をしたが、鼻（はな）面（づら）を地（ち）につけて、一（ひと）摑（つかみ）の白（しろ）泡（あわ）を吹（ふき）出（だ）したと思うと前足を折ろうとする。

　其（その）時、頤（あぎと）の下へ手をかけて、片手で持って居た単衣をふわりと投げて馬の目を蔽（おお）うが否（いな）や、

　兎（うさぎ）は躍って、仰向けざまに身を飜（ひるがえ）し、妖（よう）気（き）を籠めて朦（もう）朧（ろう）とした月あかりに、前足の間（あいだ）に膚（はだ）が挟（はさま）ったと思うと、衣（きぬ）を脱（だつ）して搔（かい）取（と）りながら下腹を衝（つ）と潜（くぐ）って横に抜けて出た。

　親仁は差（さし）心（こころ）得（え）たものと見える、此（こ）の機（きつ）かけに手（た）綱（づな）を引いたから、馬はすたすたと健（けん）脚（きやく）を山（やま）路（じ）に上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん、──見る間（ま）に眼（がん）界（かい）を遠ざかる。

　婦人（おんな）は早（は）や衣服（きもの）を引（ひつ）かけて縁側へ入って来て、突然（いきなり）帯を取ろうとすると、白痴（ばか）は惜（お）しそうに押（おさ）えて放さず、手を上げて。婦人（おんな）の胸を圧（おさ）えようとした。

　邪慳に払い退（の）けて、屹（きつ）と睨（にら）んで見せると、其（その）ままがっくりと頭（こうべ）を垂れた、総（すべ）ての光景は行（あん）燈（どう）の火も幽（かす）かに幻（まぼろし）のように見えたが、炉にくべた柴（しば）がひらひらと炎（ほ）先（さき）を立てたので、婦人（おんな）は衝（つ）と走って入（はい）る。空の月のうらを行（ゆ）くと思うあたり遥（はるか）に馬（ま）子（ご）唄（うた）が聞（きこ）えたて。」