高野聖／泉鏡花

十七

「優（やさ）しいなかに強みのある、気軽に見えても何処（どこ）にか落（おち）着（つき）のある、馴（なれ）々（なれ）しくて犯し易からぬ品の可（い）い、如何（いか）なることにもいざとなれば驚くに足らぬという身に応（こたえ）のあるといったような風（ふう）の婦人（おんな）、恁（か）く嬌（きよう）瞋（しん）を発（はつ）しては屹（きつ）度（と）可（い）いことはあるまい、今此（こ）の婦人（おんな）に邪（じや）慳（けん）にされては木から落ちた猿同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えて居たが、いや案ずるより産（うむ）が安い。

（貴僧（あなた）、嘸（さぞ）おかしかったでござんしょうね、）と自分でも思い出したように快く微笑（ほほえ）みながら、

（為（し）ようがないのでございますよ。）

　以前と変（かわ）らず心安くなった、帯も早（は）や締めたので、

（其（それ）では家（うち）へ帰りましょう。）と米（こめ）磨（とぎ）桶（おけ）を小（こ）脇（わき）にして、草履を引（ひつ）かけて衝（つ）と崖へ上（のぼ）った。

（お危（あぶの）うござんすから、）

（否（いえ）、もう大（だい）分（ぶ）勝手が分（わか）って居ります。）

　ずッと心得た意（つもり）じゃったが、扨（さて）上（あが）る時見ると思いの外（ほか）上までは大（たい）層（そう）高い。

　軈（やが）て又例の木の丸太を渡るのじゃが、先刻（さつき）もいった通り草のなかに横倒れになって居る木（き）地（じ）が恁（こ）う丁度鱗（うろこ）のようで譬（たとえ）にも能（よ）くいうが松の木は蝮（うわばみ）に似て居（い）るで。

　殊（こと）に崖を、上の方へ、可（い）い塩梅に蜿（うね）った様子が、飛（と）んだものに持って来（こ）いなり、凡（およ）そ此（こ）の位な胴（どう）中（なか）の長（なが）虫（むし）がと思うと、頭（かしら）と尾（お）を草に隠して、月あかりに歴然（ありあり）とそれ。

　山（やま）路（みち）の時を思い出すと我ながら足が竦（すく）む。

　婦人（おんな）は深（しん）切（せつ）に後（うしろ）を気（き）遣（づこ）うては気を付けてくれる。

（其（それ）をお渡りなさいます時、下を見てはなりません、丁度ちゅうとで余（よつ）程（ぽど）谷が深いのでございますから、目が廻（ま）うと悪うござんす。）

（はい。）

　愚（ぐ）図（ず）愚（ぐ）図（ず）しては居（い）られぬから、我（わが）身（み）を笑いつけて、先（ま）ず乗った。引（ひつ）かかるよう、刻（きざ）が入（い）れてあるのじゃから、気さえ確（たしか）なら足（あし）駄（だ）でも歩行（ある）かれる。

　其（それ）がさ、一件じゃから耐（たま）らぬて、乗ると恁（こ）うぐらぐらして柔（やわら）かにずるずると這（は）いそうじゃから、わっというと引（ひん）跨（また）いで腰をどさり。

（ああ、意気地はございませんねえ。足駄では無理でございましょう、是（これ）とお穿（は）き換（か）えなさいまし、あれさ、ちゃんということを肯（き）くんですよ。）

　私（わし）はその先刻（さつき）から何（な）んとなく此（この）婦人（おんな）に畏（い）敬（けい）の念が生じて善か悪か、何（ど）の道命令されるように心得たから、いわるるままに草履を穿いた。

　するとお聞きなさい、婦女（おんな）は足駄を穿きながら手を取ってくれます。

　忽（たちま）ち身が軽くなったように覚えて、訳なく後（うしろ）に従って、ひょいと那（あ）の孤家（ひとつや）の背（せ）戸（ど）の端（はた）へ出た。

　出（で）会（あい）頭（がしら）に声を懸けたものがある。

（やあ、大（だい）分（ぶ）手間が取れると思ったに、御（ご）坊（ぼう）様（さま）旧（もと）の体で帰らっしゃったの、）

（何（なに）をいうんだね、小父（おじ）様（さん）家（うち）の番は何（ど）うおしだ。）

（もう可（い）い時分じゃ、又私（わし）も余（あんま）り遅（おそ）うなっては道が困るで、そろそろ青を引（ひき）出（だ）して支（し）度（たく）して置こうと思うてよ。）

（其（それ）はお待（まち）遠（どう）でござんした。）

（何（なに）さ行って見さっしゃい御亭主は無事じゃ、いやなかなか私（わし）が手には口（く）説（どき）落（おと）されなんだ、ははははは。）と意味もないことを大（おお）笑（わらい）して、親（おや）仁（じ）は廐（うまや）の方（ほう）へてくてくと行った。

　白痴（ばか）はおなじ処に猶（なお）形を存（そん）して居（い）る、海月（くらげ）も日にあたらねば解けぬと見える。」