「凡（およ）そ人間が滅（ほろ）びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大（たい）海（かい）が押（おつ）被（かぶ）さるのでもない、飛驒国の樹（き）林（はやし）が蛭になるのが最初で、しまいには皆（みんな）血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、其（それ）が代（だい）がわりの世界であろうと、ぼんやり。

　なるほど此（こ）の森も入口では何（なん）の事もなかったのに、中へ来ると此（この）通り、もっと奥深く進んだら早（は）や不残（のこらず）立（たち）樹（き）の根の方（ほう）から朽（く）ちて山蛭になって居（い）よう、助かるまい、此（こ）処（こ）で取（とり）殺（ころ）される因（いん）縁（ねん）らしい、取（とり）留（と）めのない考えが浮（うか）んだのも人が知（ち）死（し）期（ご）に近（ちかづ）いたからだと弗（ふ）と気が付いた。

　何（ど）の道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らぬ血と泥の大沼の片（かた）端（はし）でも見て置こうと、然（そ）う覚悟が極（きま）っては気味の悪いも何もあったものじゃない、体中珠（じゆ）数（ず）生（なり）になったのを手（て）当（あたり）次（し）第（だい）に搔（か）い除（の）け毟（むし）り棄て、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、宛（まる）で躍り狂う形で歩行（あるき）出した。

　はじめの中（うち）は一（ひと）廻（まわり）も太ったように思われて痒（かゆ）さが耐（たま）らなかったが、しまいにはげっそり瘦（や）せたと、感じられてずきずき痛んでならぬ、其（その）上（うえ）を容赦なく歩行（ある）く内（うち）にも入（いり）交（まじ）りに襲（おそ）いおった。

　既（すで）に目も眩（くら）んで倒れそうになると、禍（わざわい）は此（この）辺（へん）が絶頂であったと見えて、隧道（トンネル）を抜けたように遥（はるか）に一輪のかすれた月を拝（おが）んだのは、蛭の林の出口なので。

　いや蒼（あお）空（そら）の下（した）へ出た時には、何（なん）のことも忘れて、砕（くだ）けろ、微（み）塵（じん）になれと横なぐりに体を山（やま）路（じ）へ打（うち）倒（たお）した。それでからもう砂（じや）利（り）でも針でもあれと地（つち）へこすりつけて、十（とう）余りも蛭の死（し）骸（がい）を引（ひつ）くりかえした上（うえ）から、五六間向（むこ）うへ飛んで身（み）顫（ぶるい）をして突（つつ）立（た）った。

　人を馬（ば）鹿（か）にして居（い）るではありませんか。あたりの山では処（ところ）々（どころ）茅蜩（ひぐらし）殿（どの）、血と泥の大沼になろうという森を控（ひか）えて鳴いて居（い）る、日は斜（ななめ）、渓（たに）底（そこ）はもう暗い。

　先（ま）ずこれならば狼の餌（え）食（じき）になっても其（それ）は一（ひと）思（おもい）に死なれるからと、路（みち）は丁度だらだら下（おり）なり、小（こ）僧（ぞう）さん、調子はずれに竹の杖を肩にかついで、すたこら遁（に）げたわ。

　これで蛭に悩まされて痛いのか、痒（かゆ）いのか、それとも擽（くすぐ）ったいのか得（え）もいわれぬ苦しみさえなかったら、嬉しさに独（ひと）り飛（ひ）驒（だ）山（やま）越（ごえ）の間（かん）道（どう）で、御（お）経（きよう）に節（ふし）をつけて外（げ）道（どう）踊（おどり）をやったであろう、一寸（ちよつと）清（せい）心（しん）丹（たん）でも嚙（かみ）砕（くだ）いて疵（きず）口（ぐち）へつけたら何（ど）うだと、大（だい）分（ぶ）世の中の事に気がついて来たわ。抓（つね）っても確（たしか）に活（いき）返（かえ）ったのじゃが、夫（それ）にしても富山の薬（くすり）売（うり）は何（ど）うしたろう、那（あ）の様子では疾（とう）に血になって泥（どろ）沼（ぬま）に。皮ばかりの死（し）骸（がい）は森の中の暗い処（ところ）、おまけに意地の汚い下司（げす）な動物が骨までしゃぶろうと何百という数（すう）でのしかかって居（い）た日には、酢（す）をぶちまけても分（わか）る気（き）遣（づかい）はあるまい。