「心細さは申すまでもなかったが、卑（ひ）怯（きよう）な様（よう）でも修（しゆ）行（ぎよう）の積まぬ身には、恁（こ）う云（い）う暗い処（ところ）の方（ほう）が却（かえ）って観念に便（たより）が宜（よ）い。何しろ体が凌（しの）ぎよくなったために足の弱（よわり）も忘れたので、道も大きに捗（はか）取（ど）って、先（ま）ずこれで七（しち）分（ぶ）は森の中を越したろうと思う処（ところ）で、五六尺天窓（あたま）の上らしかった樹の枝から、ぼたりと笠の上（うえ）へ落ち留まったものがある。

　鉛（なまり）の重（おもり）かとおもう心（こころ）持（もち）、何か木（き）の実（み）ででもあるか知らんと、二三度振（ふ）って見たが附着（くつつ）いて居（い）て其（その）ままには取れないから、何（なに）心（ごころ）なく手をやって摑（つか）むと、滑（なめ）らかに冷（ひや）りと来た。

　見ると海鼠（なまこ）を裂（さ）いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投（なげ）出（だ）そうとするとずるずると辷（すべ）って指の尖（さき）へ吸（すい）ついてぶらりと下（さが）った、其（そ）の放（はな）れた指の尖（さき）から真赤（まつか）な美しい血が垂（たら）々（たら）と出たから、吃驚（びつくり）して目の下へ指をつけてじっと見ると、今（いま）折（おり）曲（ま）げた肱（ひじ）の処へつるりと垂（たれ）懸（かか）って居（い）るのは同（おなじ）形（かたち）をした、幅が五分、丈（たけ）が三寸ばかりの山（やま）海鼠（なまこ）。

　呆（あつ）気（け）に取られて見る見る内に、下の方（ほう）から縮みながら、ぶくぶくと太って行（ゆ）くのは生（いき）血（ち）をしたたかに吸（すい）込（こ）む所為（せい）で、濁（にご）った黒い滑らかな肌（はだ）に茶（ちや）褐（かつ）色（しよく）の縞（しま）をもった、痣（いぼ）胡瓜（きゆうり）のような血を取る動物、此奴（こいつ）は蛭（ひる）じゃよ。

　誰（た）が目にも見違えるわけのものではないが図（ず）抜（ぬけ）て余り大きいから一寸（ちよつと）は気がつかぬであった、何（なん）の畠（はたけ）でも、甚麼（どんな）履（り）歴（れき）のある沼（ぬま）でも、此（この）位（くらい）な蛭はあろうとは思われぬ。

　肱（ひじ）をばさりと振（ふる）ったけれども、よく喰（くい）込（こ）んだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味ながら手で抓（つま）んで引（ひつ）切（き）ると、ぶつりといってようよう取れる、暫時（しばらく）も耐（たま）ったものではない、突然（いきなり）取って大（だい）地（ち）へ叩きつけると、これほどの奴（やつ）等（ら）が何万となく巣をくって我（わが）ものにして居（い）ようという処（ところ）、予（かね）て其（そ）の用意はして居（い）ると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔（やわらか）い、潰（つぶ）れそうにもないのじゃ。

　と最（も）早（は）や頷（えり）のあたりがむずむずして来た、平（ひら）手（て）で扱（こい）て見ると横（よこ）撫（なで）に蛭の背（せな）をぬるぬるとすべるという、やあ、乳（ちち）の下へ潜（ひそ）んで帯の間（あいだ）にも一疋（ぴき）、蒼（あお）くなってそッと見ると肩の上にも一（ひと）筋（すじ）。

　思わず飛（とび）上（あが）って総（そう）身（しん）を震いながら此（この）大枝の下を一散にかけぬけて、走りながら先（ま）ず心（こころ）覚（おぼ）えの奴だけは夢中でもぎ取った。

　何（なに）にしても恐（おそろ）しい今の枝には蛭が生（な）って居（い）るのであろうと余（あまり）の事に思（おも）って振（ふり）返（かえ）ると、見返った樹の何（なん）の枝か知らず矢（やつ）張（ぱり）幾ツということもない蛭の皮じゃ。

　これはと思う、右も、左も前（まえ）の枝も、何（なん）の事はないまるで充満（いつぱい）。

　私（わし）は思わず恐怖の声を立てて叫んだ、すると何（なん）と？　此（この）時（とき）は目に見えて、上からぼたりぼたりと真（まつ）黒（くろ）な瘠（や）せた筋（すじ）の入った雨が体へ降（ふり）かかって来たではないか。

　草鞋（わらじ）を穿（は）いた足の甲（こう）へも落ちた上へ又累（かさな）り、並んだ傍（わき）へ又附着（くつつ）いて爪（つま）先（さき）も分（わか）らなくなった、然（そ）うして活（い）きてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一ツ一ツ伸（のび）縮（ちぢみ）をするようなのを見るから気が遠くなって、其（その）時（とき）不思議な考えが起きた。

　此（こ）の恐しい山（やま）蛭（びる）は神（かみ）代（よ）の古（いにしえ）から此（こ）処（こ）に屯（たむろ）をして居（い）て、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間（あいだ）に何（ど）の位何（なん）斛（ごく）かの血を吸うと、其（そ）処（こ）でこの虫の望（のぞみ）が叶う、其（そ）の時はありったけの蛭が不残（のこらず）吸っただけの人間の血を吐（はき）出（だ）すと、其（それ）がために土がとけて山一ツ一面に血と泥（どろ）との大沼にかわるであろう、其（それ）と同時に此（こ）処（こ）に日の光を遮って昼もなお暗い大木が切（きれ）々（ぎれ）に一ツ一ツ蛭になって了（しま）うのに相違ないと、いや、全（まつた）くの事で。」