つかれようでは、坂をのぼるわけにはくまいと思ったが、ふと前途ゆくてに、ヒイインと馬のいななくのがこだましてきこえた。

 もどるのかが通るか、今朝一人の百姓に別れてから時の経ったはわずかじゃが、三年も五年も同一おんなじものをいう人間とは中をへだてた。馬がるようではかくも人里にえんがあると、これがために気が勇んで、ええやっと今ひともみ

 一軒のやまの前へ来たのには、まで難儀は感じなかった、夏のことでしようのしまりもせず、ことに一軒家、あけひらいたなり門というてもない、突然いきなりやれえんになって男が一人、わしはもうなんの見境もなく、

たのみます、頼みます、)というさえたすけを呼ぶような調子で、とりすがらぬばかりにした。

めんなさいまし、)といったがものもいわない、首筋をぐったりと、耳を肩でふさぐほど顔を横にしたまま小児こどもらしい、意味のない、しかもぼっちりした目で、じろじろと門に立ったものをみつめる、ひとみを動かすさえ、おっくうらしい、気の抜けた身のもちかたすそみじかで袖はひじよりすくない、のりのある、ちゃんちゃんを着て、胸のあたりで紐でゆわえたが、一ツ身のものを着たようにばらふとじしたいを張ったくらいに、すべすべとふくれてしかべそという奴、南瓜かぼちやへたほどなぎような者を片手でいじくりながら幽霊の手つきで、片手を宙にぶらり。

 足は忘れたかなげした、腰がなくばれんを立てたように畳まれそうな、年紀としそれで居て二十二三、口をあんぐりやったうわくちびるまきめよう、鼻の低さ、びたいがりの伸びたのが前は鶏冠とさかの如くになって、えりあしねて耳にかぶさった、おしか、白痴ばかか、これからかえるになろうとするような少年。わしは驚いた、此方こつち生命いのちに別条はないが、先方さきさまぎようそう。いや、おお別条。

一寸ちよいとお願い申します。)

 それでもかたがないからまた言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりというとわずかに首の位置をかえて今度は左の肩を枕にした、口のいてることもとの如し。

 こううのは、悪くすると突然いきなりふんづかまえて臍をひねりながら返事のかわりにめようも知れぬ。

 わしは一足退すさったがいかにしんざんだといってもこれを一人で置くという法はあるまい、と足をつまてて少しこわだかに、

何方どなたぞ、御免なさい、)といった。

 と思うあたりで再び馬のいななく声。

何方どなた、)となんほうでいったのは女じゃから、さんぼうの白い首には鱗が生えて、体は床を這って尾をずるずると引いて出ようと、又退すさった。

(おお、ぼうさま。)とたちあらわれたのはづくりの美しい、声もすずしい、ものやさしい。

 わしおおいきいて、なんにもいわず、

(はい。)とつむりを下げましたよ。

 婦人おんなは膝をついてすわったが、前へのびあがるようにして、黄昏たそがれにしょんぼり立ったわしが姿をかし見て、

なにか用でござんすかい。)

 やすめともいわずはじめから宿やどつねらしい、人をめないとめたもののように見える。

 いいおくれてはかえって出そびれて頼むにも頼まれぬにもなることと、つかつかとまえへ出た。

 丁寧に腰をかがめて、

わしは、やまごえで信州へ参ります者ですが旅籠はたごのございますところまではの位でございましょう。)」

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