「さて、聞かっしゃい、私（わし）はそれから檜の裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、樹（き）の中を潜（くぐ）って草深い径（こみち）を何処（どこ）までも、何処（どこ）までも。

　すると何時（いつ）の間（ま）にか今上（のぼ）った山は過ぎて又一ツ山が近づいて来た、此（この）辺（あたり）暫（しばら）くの間（あいだ）は野が広々として、先刻（さつき）通った本街道より最（も）っと幅の広い、なだらかな一（ひと）筋（すじ）道（みち）。

　心（こころ）持（もち）西と、東と、真（まん）中（なか）に山を一ツ置いて二（ふた）条（すじ）並んだ路（みち）のような、いかさまこれならば鎗（やり）を立てても行列が通ったであろう。

　此（こ）の広（ひろ）ッ場（ぱ）でも目の及ぶ限（かぎり）芥（け）子（し）粒（つぶ）ほどの大（おおき）さの売薬の姿も見ないで、時々焼けるような空を小さな虫が飛び歩行（ある）いた。

　歩行（ある）くには此（こ）の方（ほう）が心細い、あたりがぱッとして居（い）ると便（たより）がないよ。勿（もち）論（ろん）飛（ひ）驒（だ）越（ごえ）と銘（めい）を打った日には、七里に一軒十里に五軒という相場、其（そ）処（こ）で粟（あわ）の飯（めし）にありつけば都合も上（じよう）の方（ほう）ということになって居（お）ります。其（それ）を覚（かく）悟（ご）のことで、足は相応に達者、いや屈せずに進んだ進んだ。すると、段々又山が両方から逼（せま）って来て、肩に支（つか）えそうな狭（せま）いことになった、直（すぐ）に上（のぼり）。

　さあ、之（これ）からが名（な）代（だい）の天生（あもう）峠（とうげ）と心得たから、此方（こつち）も其（その）気（き）になって、何しろ暑いので、喘（あえ）ぎながら先（ま）ず草鞋（わらじ）の紐を緊（しめ）直（なお）した。

　丁度此（こ）の上（のぼり）口（ぐち）の辺（あたり）に美（み）濃（の）の蓮（れん）大（たい）寺（じ）の本堂の床（ゆか）下（した）まで吹（ふき）抜（ぬ）けの風穴があるということを年（とし）経（た）ってから聞きましたが、なかなか其（そ）処（こ）どころの沙（さ）汰（た）ではない、一（いつ）生（しよう）懸（けん）命（めい）、景色も奇跡もあるものかい、お天気さえ晴れたか曇ったか訳が解（わか）らず、目（ま）まじろぎもしないですたすたと捏（こ）ねて上（のぼ）る。

　とお前様お聞かせ申す話は、これからじゃが、最初に申す通り路（みち）がいかにも悪い、宛然（まるで）人が通いそうでない上に、恐しいのは、蛇（へび）で。両方の叢（くさむら）に尾（お）と頭とを突（つつ）込（こ）んで、のたりと橋を渡して居（い）るではあるまいか。

　私（わし）は真（まつ）先（さき）に出（でつ）会（くわ）した時は笠を被（かぶ）って竹（たけ）杖（づえ）を突いたまま、はッと息を引いて膝を折って坐（すわ）ったて。

　いやもう生（しよう）得（とく）大（だい）嫌（きらい）、嫌（きらい）というより恐怖（こわ）いのでな。

　其（その）時（とき）は先（ま）ず人助けにずるずると尾を引いて、向（むこ）うで鎌（かま）首（くび）を上げたと思うと草をさらさらと渡った。

　漸（ようよ）う起（おき）上（あが）って道の五六町も行（ゆ）くと又同一（おなじ）ように、胴（どう）中（なか）を乾（かわ）かして尾も首も見えぬが、ぬたり！

　あッというて飛（とび）退（の）いたが、其（それ）も隠れた。三度目に出（で）会（あ）ったのが、いや急には動かず、然（しか）も胴体の太さ、譬（たと）い這（はい）出（だ）した処（ところ）でぬらぬらと遣（や）られては凡（およ）そ五分間位尾を出すまでに間（ま）があろうと思う長（なが）虫（むし）と見えたので、已（や）むことを得ず私（わし）は跨（また）ぎ越した、途（と）端（たん）に下腹が突（つつ）張（ぱ）ってぞッと身の毛、毛穴が不残（のこらず）鱗に変（かわ）って、顔の色も其（そ）の蛇のようになったろうと目を塞（ふさ）いだ位。

　絞（しぼ）るような冷（ひや）汗（あせ）になる気味の悪さ、足が竦（すく）んだというて立って居（い）られる数（すう）ではないからびくびくしながら路（みち）を急ぐと又しても居（い）たよ。

　然（しか）も今度のは半分に引（ひつ）切（き）ってある胴から尾ばかりの虫じゃ、切（きり）口（くち）が蒼（あおみ）を帯びて其（それ）で恁（こ）う黄色な汁（しる）が流れてぴくぴくと動いたわ。

　我（われ）を忘れてばらばらとあとへ遁（にげ）帰（かえ）ったが、気が付けば例のが未（ま）だ居（い）るであろう、譬（たと）い殺されるまでも二度とは彼（あれ）を跨ぐ気はせぬ。ああ先刻（さつき）のお百姓がものの間（ま）違（ちがい）でも故（ふる）道（みち）には蛇が恁（こ）うといってくれたら、地獄へ落ちても来なかったにと照りつけられて、涙が流れた、南（な）無（む）阿（あ）弥（み）陀（だ）仏（ぶつ）、今でも悚然（ぞつ）とする。」と額（ひたい）に手を。