「先刻（さつき）の茶店から此（こ）処（こ）へ来るまで、売（ばい）薬（やく）の外（ほか）は誰（たれ）にも逢（あ）わなんだことは申（もうし）上（あ）げるまでもない。

　今別れ際（ぎわ）に声を懸（か）けられたので、先方（むこう）は道中の商売人と見ただけに、まさかと思っても気（き）迷（まよい）がするので、今朝（けさ）も立ちぎわによく見て来た、前（まえ）にも申す、其（そ）の図面をな、此（こ）処（こ）でも開（あ）けて見ようとして居（い）た処（ところ）。

（一寸（ちよいと）伺（うかが）いとう存じますが、）

（これは、何（なん）でござりまする、）と山（やま）国（ぐに）の人などは殊（こと）に出家と見ると丁（てい）寧（ねい）にいってくれる。

（いえ、お伺い申しますまでもございませんが、道は矢（やつ）張（ぱり）これを素直（まつすぐ）に参るのでございましょうな。）

（松本へ行（ゆ）かっしゃる？　ああああ本道じゃ、何ね、此（この）間（あいだ）の梅雨（つゆ）に水が出て、とてつもない川さ出来たでがすよ。）

（未（ま）だずっと何処（どこ）までも此（この）水（みず）でございましょうか。）

（何（なん）のお前様、見たばかりじゃ、訳はござりませぬ、水になったのは向（むこ）うの那（あ）の藪までで、後（あと）は矢（やつ）張（ぱり）これと同一（おなじ）道筋で山までは荷車が並んで通るでがす。藪のあるのは旧（もと）大（おお）きいお邸（やしき）の医者様の跡（あと）でな、此処（ここい）等（ら）はこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野（の）良（ら）になりましたよ、人（ひと）死（じに）もいけえこと。御（ご）坊（ぼう）様（さま）歩行（ある）きながらお念仏でも唱（とな）えて遣（や）ってくれさっしゃい。）と問わぬことまで深（しん）切（せつ）に話します。其（それ）で能（よ）く仔細が解（わか）って確（たしか）になりはなったけれども、現（げん）に一人踏（ふみ）迷（まよ）った者がある。

（此方（こちら）の道はこりゃ何処（どこ）へ行（ゆ）くので、）といって売薬の入（はい）った左手（ゆんで）の坂を尋（たず）ねて見た。

（はい、これは五十年ばかり前（まえ）までは人が歩行（ある）いた旧道でがす。矢（やつ）張（ぱり）信州へ出まする、先は一つで七里ばかり総（そう）体（たい）近（ちこ）うござりますが、いや今（いま）時（どき）往来の出来るのじゃあござりませぬ。去年も御（お）坊（ぼう）様（さま）、親（おや）子（こ）連（づれ）の順（じゆん）礼（れい）が間違えて入（はい）ったというで、はれ大変な、乞（こ）食（じき）を見たような者じゃというて、人命に代（かわ）りはねえ、追（おつ）かけて助けべいと、巡査（おまわり）様（さま）が三人、村の者が十二人、一組になって之（これ）から押（おし）登（のぼ）って、やっと連れて戻った位（くらい）でがす。御（お）坊（ぼう）様（さま）も血気に逸（はや）って近道をしてはなりましねえぞ、草臥（くたび）れて野宿をしてからが此（こ）処（こ）を行（ゆ）かっしゃるよりは増（まし）でござるに。はい、気を付けて行（ゆ）かっしゃれ。）

　此（こ）処（こ）で百姓に別れて其（そ）の川の石の上を行（ゆ）こうとしたが弗（ふ）と猶予（ためら）ったのは売薬の身の上で。

　まさかに聞いたほどでもあるまいが、其（それ）が本当ならば見（み）殺（ごろし）じゃ、何（ど）の道私（わたし）は出家の体、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寝るには及ばぬ、追（おつ）着（つ）いて引（ひき）戻（もど）して遣（や）ろう。罷（まかり）違（ちご）うて旧道を皆（みな）歩行（ある）いても怪（け）しゅうはあるまい、恁（こ）ういう時候じゃ、狼（おおかみ）の旬（しゆん）でもなく、魑（ち）魅（み）魍（もう）魎（りよう）の汐（しお）さきでもない、ままよ、と思うて、見送ると早（は）や深切な百姓の姿も見えぬ。

（可（よ）し。）

　思（おもい）切（き）って坂道を取って懸（かか）った、俠（おとこ）気（ぎ）があったのではござらぬ、血気に逸ったでは固（もと）よりない、今申したようではずっと最（も）う悟（さと）ったようじゃが、いやなかなかの憶（おく）病（びよう）者（もの）、川の水を飲むのさえ気が怯（ひ）けたほど生命（いのち）が大事で、何故（なぜ）又と謂（い）わっしゃるか。