それがどこか歪だとしても、わたしは今を生きる

月狂 四郎

それがどこか歪だとしても、わたしは今を生きる

「さあ、いよいよゼロからの人体生成が可能となるぞ!」


 轟音を放つカプセルを目前にして、日頃は冷静な若林博士が興奮を抑えきれずに叫んだ。無理もない。僕らはこれから、神の領域へと踏み込むからだ。


 人類史上初の偉業達成を間近にして、僕の心臓も早鐘を打つ。助手になってわずか一年目だが、こんなに早い段階で、このような歴史的瞬間に巡り合うとは思いもしなかった。


 人工多能性幹細胞、つまりはiPS細胞が登場してから、日本の再生医療は急激に進化してきた。不可能であった肉体の欠損部分の再生、そして、拒絶反応の無い臓器の生成は、医療界の革新だけに留まらず、臓器売買のビジネスまでもを衰退させた、まさに奇跡の業となった。


 再生医療の最先進国となった日本は、独自の技術ノウハウを活かし、世界中に再生医療の専門家を派遣して、各国で衝撃と尊敬を集めだした。今までは到底救えなかった人々を容易に治癒させてしまうその技術は、神の御業に等しい敬意を勝ち取ったのである。


 再生医療界に革新を起こし、遺伝学の世界的権威でもある若林博士は、自らが極めた再生医療の遥か上をいく試みに挑んでいた。


 若林博士が目指したのは、まったくの無から人間を創り出すという、まさに神の領域に踏み込む行為であった。僕はそんな若林博士の研究室に就職したわけだが、このプロジェクトを初めて聞いた時、もしかして博士は気が触れたのかと思った。


 人間をゼロから創り出すだって? 出来るわけないだろう、そんなの。それが世間一般の人々と同じく、僕が若林博士の構想に抱いた印象だった。


 だが、若林博士は本気だった。脳医学にも精通していた博士は、ついに生きた脳の設計図を開発し、それに基づいて人工脳を培養する事に成功した。マッドサイエンティストの謗りから一転、若林博士は時代の寵児となり、さらなる研究を進めた。


 一番生成の難しい脳、つまりは人間の心を創造した若林博士の勢いは止まらなかった。仮説と実験を繰り返し、あっという間に博士は人体すべての設計図を作り上げた。僕が今居合わせているのは、そういった奇跡の業の集大成――つまりは、人類史上初の人体生成実験という、世にも珍しい瞬間なのだ。


「ああ、これで私の夢が現実に……」


 カプセルが放つ光に照らされる若林博士の目尻には光るものがあった。博士も今年で六十三歳になる。そんな中で偉業を遂げられたのだから、感激もひとしおなのかもしれない。


 カプセルの胎動と轟音が止み、そのハッチはゆっくりと前方に倒れた。匂いのある湯気の向こうには、人形の影が揺らめいていて、僕は思わず生唾を飲み込んだ。


「ああ、とうとう私の産んだ子供が、この世界を歩んでいくのだ!」


 博士は我が子のシルエットまで駆け寄った。


 僕は目の前で起こっている事が信じられず、ひたすら呆然としていた。


 ――嘘だ。


 絶対に人間が人間を創り出すなんて不可能だ。僕はそう思っていた。だって、僕は……。


 博士が走り寄ったせいか、不快な匂いを発する湯気は微風で飛び去った。その直後に、先ほどまで嬉々としていた若林博士は驚愕し、そのまま尻餅をついた。


 目の前に広がるおぞましい光景を前にして、声など出せなかった。僕も、若林博士も。


 湯気の向こうから現れた“それ”は、蚊のなくような声でフウフウと息を吐いていた。


「あ……ああ……」


 なんとか声をひり出した若林博士の眼前には、明らかに人間とは呼びがたい物体が立っていた。その皮膚は濃い灰色で、ところどころ筋繊維がほつれており、破れた四肢のあちこちから、腐臭にも似た匂いを発する血液をドロドロと垂れ流していた。首から上は九十度ほどの異様な角度に曲がっており、顔に張り付いた丈の長い黒髪の合間から見える真っ赤な目は、僕らに恐怖しか感じさせなかった。身体のフォルムから辛うじて女性らしいと分かるそれは、全身の血液を滴らせながら、ゆっくりとヒタヒタと若林博士に近付いて行った。


「アナ、タ……ア、ナタ……」


 人と呼んでいいかも微妙なそれは、人語らしきものを呟きながらなおも前進していく。


 僕は動けなかった。ひたすら動けなかった。いや、こんなバケモノを目の前にして、誰がどう動けるというのか?


 僕達は何を間違えたのだろうか? やはり神の領域などに足を踏み入れるべきではなかったのか?


 バケモノは床に崩れ落ち、若林博士の所まで這っていく。


「ア……ナ、タ、ア……ナタア……」


 このままでは博士が殺されてしまう。そう思った瞬間、僕は動かなくなっていた足を無理矢理地面から引っこ抜いた。研究室の端に設置してある用具入れまで走り、バールを引っ張り出すと、恐怖心と闘いながらバケモノの方へと振り返る。


『忘れるものか。わたしはあの人を、その命を賭してでも救うと決めたのだ』


 意を決した僕は、全速力でバケモノへと走り寄る。この胸の鼓動はもしかしたら、あいつに対する恐怖心だけではないのかもしれないけど、あれは少なくとも人間ではない。そう自分に言い聞かせると、異形の物体へバールを全力で振り下ろした。


 バールの突起部分が鈍い音を立てて、バケモノの頭蓋骨に刺さった。金属越しにネチャっとした感覚が伝わってきて、僕は吐き気を堪える。


 バケモノはその場でよろめいて、ゆらめいて僕の方へと上体を向けた。顔面に張り付いた黒髪の合間から、虚ろな眼球が慄然とした僕の姿をそのまま映していて、その紅い双眸の不気味さに倒れそうになる。だが、気絶している場合ではない。


 半分ぐらいヤケクソになった僕は、バケモノの頭蓋骨に突き刺さったバールを無理くり引っこ抜くと、そのまま何発も何発もバケモノを殴打した。ゴツゴツという鈍い音が徐々に湿り気を帯びてきて、ビチャグチャと返り血を浴びる僕はまた吐きそうになる。


 一体何発殴ったか分からないくらいバケモノを殴り通すと、そいつは無表情でその場にうつ伏せになって、もう二度と動かなくなった。僕は息を切らせたまま、そのバケモノがただの肉塊になっていくのを眺めていた。


「博士!」


 我に返った僕は、呆然と尻餅をついたままの若林博士に駆け寄った。博士は口を半開きにしたまま、目の前の空間を見つめていた。


 掛ける言葉も見つからず、僕は無言で若林博士を抱き起こした。博士は放心状態だったが、無理もないだろう。自分の夢が叶うまさにその瞬間に、それは一気に悪夢へと反転したのだから。




 の始末は大変だった。腐臭を発した有機体は生ゴミで捨てるわけにもいかず、現在は密閉したポリ袋に入れて冷凍保存室に貯蔵してある。僕個人としては、あいつが何かの間違いで生き返らないよう、火葬してやりたいところだったが。


 時間はずいぶんと掛かったが、なんとかバケモノの処理――とは言ってもその場しのぎでしかないが――を終えた僕は、いまだ研究室のテーブルで呆然自失とした博士にコーヒーを煎れた。


 カフェインの香りを嗅いだせいか、博士の意識は遅まきながらにも回復してきた。僕は何か声を掛けてやりたかったが、うまく言葉が出て来なかった。こういう場合、なんと言うべきなのだろうか? 「酷い目に遭いましたね」なんていう、軽いノリの表現は使えない。


 結局僕は黙ってコーヒーを啜り続けた。テーブルを見下ろしながら過ごす時間はずいぶんと長く感じられた。研究室では、気まずい空気が幅を利かせている。


「私は神の怒りに触れたのだろうか?」


 虚空を見上げたまま、若林博士は唐突に呟き始めた。


「再生医療の発展を推進し、今までの常識では助からないと言われていた患者を多く救ってきた。それは誇りに思って良いのだろう。しかし、その反対側には、技術の進歩もむなしくこの世を去って行った人達も数多く存在する」


 僕は黙って博士の独白を聞いていた。

「人間にとって、家族とはその人の一部でもある。そういった人々に、我々が手を差し伸べる事は出来ないのか。そういった人々を救おうという試みは、人間の傲慢さでしかないのか……」


 若林博士は「なあ、正木君」と言って僕の方を向いた。虚ろな瞳には、底知れぬ哀しみがあるように感じられた。



「私は再生医療の権威となり、マスメディアは私を神の子とさえ呼んだ。とんだお笑い種だ。私はただ自分の弱さを克服出来なかっただけの、弱い人間でしかなかったというのに」


「自分の弱さ?」


 僕は訊かずにはいられなかった。灰のように、何か内なる炎というものが燃え尽きてしまったように感じられる若林博士は続ける。


「私が生きた人体の生成にこれほどまでに執着する理由は何だと思う? 実に公私混同甚だしい、身勝手な目的のためだ。


 私が再生医療を極めた理由――それは、亡くなった妻ともう一度逢いたい。ただそれだけだったんだ」


 博士が言い終わるなり、僕は涙が溢れそうになるのを堪えた。この人は大切な人を失っていたのだ。一度叶いかけた博士の夢は、脆く崩れ落ちて灰となった。


 たった一つの希望さえ叶わず、絶望の深淵に叩き落されたこの人は、今何を思って生きているのだろう?


 博士はそのまま続ける。


「私が言うのもなんだが、良い妻だった。君も知っているだろうが、研究者というものは結果がすべてだ。限られた予算の中で、確実に成果を出していかなければ、人並みの生活もままならない。


 実際に私自身、たまに研究者の生活が嫌になった事がある。この世界を変えてやろうと誰よりも努力しているはずなのに、生活は厳しく、両親からは『早くまともな職に就け』と諭される始末だ。研究者なんぞ大概は殉教者で終わるのだ。いかに志があっても、食っていけない事にはどうしようもない。厳しいが、これが現実だ。


 だが、妻は当時貧しかった私に文句一つ言う事もなく付いて来てくれた。妻も家事の傍ら飲食店の仕事を掛け持ちし、本当に生活が苦しい時は彼女の所有物が二束三文で質に流れた。彼女のそんな姿を見るたびに、私は情けない気持ちでいっぱいだった。世界中の人間を救うと大見得を切っておきながら、ただの一人も救えていないではないか。そんな自責の念といつも闘っていた。


 それでも彼女は『あなたがやりたい事なら誇りを持って。私がそれで物乞いになったとしても、私はあなたを恨んだりしない』と言ってくれた。


 幸いにして、その何年も後になって私は業界の権威となる事が出来た。ご存知の通り、人工脳の生成に成功したのだ。ほとんどの研究者が志半ばでラボラトリーを去っていく中、私は極めて幸運だったと言えるだろう。


 だが、長い時間を掛けて達成した研究成果の代償は高くついた。


 私の研究を影で支えてくれていた妻は、癌におかされていた。気付いた頃には、既に手遅れだった。


 私は泣いた。自分以外の事など考えもしなかった己の身勝手さに。そして、わずかな悦びすらも私から奪い去ろうとする、この呪わしい運命に。


 なぜ彼女の異変に気付いてあげられなかったのだろう? なぜ自分の事しか考えられなかったのだろう? 自責の念は魂を苛むも、どうする事も出来なかった。


 抗癌剤治療を拒んだ妻は、静かに息を引き取っていった。私は何をする事も出来ず、しばらくは眠る妻の抜け殻の傍を離れる事が出来なかった。


 その後はひたすら自虐的な自問自答を繰り返したよ。艱難辛苦の長い期間には子供もいなく、両親はとっくに亡くなっていた。そして、愛情を注げる唯一の対象は空の向こう側へと旅立ってしまった。


 私は何のために生きたらいい? 何を信じて生きていけばいい? この世に神というものがいるのなら、人はこのような時に神へとすがるのだろう。


 妻の死からどれぐらい経ったろうか。何日も何日も自己否定と自虐と涙に暮れている内に、私の中にはある禁忌への誘惑と、純然たる希望の光が背理的に芽生えだした。


 私が極めた再生医療の知識を活かして、もう一度妻をこの世に蘇らせる事は出来ないか? 私はそういう発想に至った。もちろん再生医療は四肢や臓器のホストがあってこその技術だ。欠損した部分を補うのではなく、ゼロから人間を創り出す事など可能なのか? そもそも、完全な無から人間を創り出す事に倫理的な問題は無いのか?


 だが、色々考えた末に、私は結局神の領域に踏み込む事を選んだ。理由は単純明快にして、ごく純粋な動機からでしかない。


 私は単に、もう一度妻に会いたかったのだ。良い時も悪い時も私を支えてくれた最愛の人に、もう一度会いたいだけだったのだ。


 確かに今、私がやっている事は神の意思に背く行為なのかもしれない。だが、だから何だと言うのだ? 自分が愛した人に『すまなかった』と言うために禁忌に触れる行為のどこがまずいのだろうか? 私には分からない。そもそも倫理とは何なのだ? 人の生き死にを軽く扱ってはいけない? 私は人の生き死にを軽く扱った事など一度も無い!


 ああ、すまない。珍しく感情的になってしまった。


 私が人体生成に挑んだ理由には人類を救うとか、そんな大層な理由はない。すべてはこじつけでしかない。こんな、ごく個人的な動機でしかないのだ。そして、神は私の身勝手さにいよいよ愛想が尽きたらしい。私は見事に天罰を受けたというわけだ」


 若林博士の長い独白を聞いていた僕は、一人感慨に耽っていた。


 禁忌を犯した人間を評する言葉として適切ではないかもしれないが、この人はなんと純粋なのだろうと。僕の心には、そんな思いしか浮かばなかった。


 僕は迷っていた。博士に


 何かがおかしい。初めてそう感じたのは、若林博士に出会った日だった。博士の研究所に職が決まり、出勤一日目にして、僕は博士の目の前でぶっ倒れたのだ。


 初めてこの研究室に来た僕は、再生医療界では知らぬ者のいない、あの若林博士と出会った。憧れの存在を前にした僕は、明らかに恐縮していた。なんて表現すればいいのだろうか? 若輩者の一年生議員が総理大臣に謁見する感覚と言ったらいいだろうか? いや、バンドマンの高校生が伝説のギタリストに出会う感じだろうか? まあ、言い方なんかどうでもいいんだが、とにかく若林博士に心酔して、彼の論文を読みまくってきた僕としては神様に会った瞬間といっていいだろう。


 実際に見る若林博士は想像以上に感じがよくて、密かに『あの柔和な人柄は結局メディアが作り上げたものなんじゃないか』と疑っていた僕は自分の器の小ささを恥じた。


「これからよろしく」


 若林博士は優しくも力強い声で僕に手を差し出した。僕がその手を握ると、急に視界が歪んだ。どこかしこからザザザっと嫌なノイズが聞こえてきて、脳の外側から念力のような感覚で声が聞こえて来るのだ。


 よく分からないけど、その声は怨嗟とかそういった類の声ではなくて、ごく幸せな夫婦の日常を切り取ったような、穏やかな会話だった。それこそ妻から「今日のハンバーグおいしい?」と訊かれて、夫が「ああ」と答えているような。


 でも、博士と手を繋ぎっぱなしの僕は、なぜか全身から哀しみが溢れてくるようで、わけが分からなくなっていた。もしかしたら憧れの人に出会えたから、それまでの憧憬やら感慨やらが爆発してしまったのかもしれない。


 だけど、目下泣き出しそうなくらい悲哀の感情に苛まれ続けている僕は、そんな単純な感動が僕を慟哭の一歩手前まで追い込んでいるはずがないと、心のどこかで気付いていた。


 視界が砂嵐のようになって、夫婦の会話が続き、最後に空虚な顔で一筋の涙を流す若林博士の顔が見えた瞬間、僕の身体から力は抜けて、気が付いたらぶっ倒れていた。


 病院のベッドで目を醒ました僕は、言うまでもなく最悪の気分だった。そりゃそうだろう。やっとこさ憧れの人と出会えて、これからその人に貢献していこうと思っていた矢先にヘマをしでかしたんだ。落ち込むなという方が無理がある。


 結局、憧れの若林博士と出会って興奮しすぎたというのが公式な――そして僕自身の願望も含んだ――卒倒の原因となったけど、僕にとって奇妙な日々はまだまだ続いた。


 勤務初日にぶっ倒れたという失態を取り返すため、僕は同じ研究室の誰よりも努力した。みるみる頭角を現していく僕を、博士は優しい瞳で見つめてくれていた。


 だが、順調に進む研究者のキャリアとは裏腹に、僕は変な妄想に悩まされるようになった。僕は研究室で働く前には普通の女の子と付き合ってきたし、いわゆるノーマルから外れる性癖は無かったはずだと思う。


 だけど、還暦を過ぎた若林博士を見るたびに、僕はなぜか胸の鼓動が止まらなくなってしまったのだ。最初は自分に気のせいだと言い聞かせていたけど、次第に僕はもう一人の自分を抑えきれなくなっていった。


 なぜだ? なぜ公務員なら定年を迎えているような男性に、僕は胸を締めつけられているのだ? 苦悶はしばらく続いたが、同時に、何かがおかしいという事にも気付きだした。


 ある日、他の研究員と一緒にタバコを吸っていて、若林博士の話題になった。仲間も僕と同族で、若林博士に心酔してこの研究所にやって来たわけだが、彼はなぜか博士から心が離れはじめていた。


「ところで……なあ、正木」


「何だよ」


「お前、人間をゼロから作るって可能だと思うか?」


「いやあ、無理だろ。本気でそんな事考えてたら危ない人だよ」


「お前もそう思うか。う~ん」


 友人は急に考え込んでから、意を決したように「ここだけの話だけどな」と語りだした。


「どうも若林博士は、本気で人間の肉体の製造を目指しているらしいんだ」


「はあ、なんでまた?」


 僕はいいかげんに答えた。邪険に扱われた友人は怒ったが、そんな週刊誌レベルの噂をどう信じろというのだ。


「とにかくお前が信じようが信じまいが、仮に人間を創造しようなんて思ってるんだったら、そいつあ神の領域というものだぞ。もし噂が本当なら、俺はとても付いていけないや」


「神の領域って……まったく、こんな時だけ信心深くなるだから虫のいい科学者だよ」


 僕が皮肉ると、友人は見える溜息を虚空に解き放った。僕は『近頃の若者は、ずいぶんと感じやすいのだなあ』と思いながら、一人コーヒーを啜っていた。





 友人との会話からいくらか日が経ち、僕は若林博士の執務室まで呼び出された。


「正木君、君は人類の未来を変えていきたいと思うか?」


 唐突にずいぶんと大げさな質問だなとは思ったけど、僕は「はい」と答えた。


「愛しい人が不本意にもこの世を去らなければいけなくなった時、君は呪われた運命を変えたいとは思わないか?」


 僕は再び「はい」と答えたが、何か嫌な予感がしてきた。


「君を見込んで、いや、これは君にしか出来ない役割だ。私のプロジェクトメンバーに正木君を指名したい」


 正直なところ、当時は憧れの若林博士にプロジェクト要員として指名された事よりも、僕の背後に迫って来ていた変なゾワゾワ感の不気味さの方が勝っていたのだと思う。


 この正体の掴めない不安感は一体何なのだろう? 僕の夢が一つ叶った瞬間であるというのに。僕は一人言い知れぬ感覚に戸惑っていた。



 博士の研究室に行くと、僕よりも少し大きいぐらいサイズのカプセルがあり、卵にも見えるマシンは、一種の胎動のごとき音を絶えず発していた。


「これは……?」


「これは、人間の未来だ」


 若林博士の言葉を聞いた僕は、引き寄せられるようにカプセルへと歩いて行った。カプセルの上部には潜水艦のような丸い小窓が付いていて、外から内側を覗けるようになっていた。


「そうだな。見てみるのが一番早いだろう」


 若林博士は呟くように言った。


 カプセルに一歩一歩近付くたびに、僕の鼓動は大きくなっていった。僕は何か危険なものの波動を感じていた。


 小窓に手をかけて中を見ると、溶液の中には、年齢不詳の女性が沈んでいた。


 彼女の姿を見た瞬間、僕の頭には急激な激痛が走り、その場で崩れ落ちた僕は死んでしまいたいほどの苦痛に襲われた。


 誰かの泣き叫ぶ声が、ドップラー効果のように思考を行き来する。行かないでくれという叫び声が僕の魂を引き裂く。


 やめろ……。やめてくれ。


 暴風雨のごとき断末魔に包まれて、僕はまた気を失った。


 視界が真っ暗になり、意識が途切れるその瞬間、僕はまさにすべてを思い出したのだ。




 蒼穹に浮かぶ雲を歩きゆく僕は、この世に生を受けた事の素晴らしさを全身で噛みしめていた。隣には愛しい人が笑い、僕らは手を繋いで歩いていた。


 少し向こうの方で泣いている男の子がいたので、僕は「どうしたの?」と訊いた。なんでも、可愛がっていた猫が死んでしまったのだそうだ。


 ああ、それは可愛そうだねと、僕の恋人は魔法で猫を創り上げた。もう会えないと思っていた友人を取り戻した男の子は、涙を流して喜んでいた。


 少年は僕らに礼を言って、猫を抱えて走り去って行った。空を駆ける少年は、そのまま霧のように消えていった。


「よかったね」


 僕は恋人を見て言った。


「ああ、良かった」


 恋人はどこか寂しそうだった。僕は不思議になって「どうしたの?」と訊いてみた。


「私も誰か大切な人を亡くせば、子供のように泣き叫ぶのだろうか? そんな事を考えたら、哀しくなった」


「そう。それなら、もしわたしがこの世からいなくなったら、生まれ変わってあなたのところまで帰って来てあげる」


 恋人に微笑んだ。


 一筋の涙をながしていた恋人は、寂しそうに訊いた。


「本当に?」


「本当よ。これだけあなたが大好きなのだから、きっとその愛情は消えないでしょう。きっとね」


 わたしは密かに誓っていた。わたしが彼よりも先にこの世を去ったとしても、生まれ変わって必ずこの人を助けてあげると。もし、この人が危機に陥ったら、わたしは命を賭してでも彼を守ると。彼が、わたしを本気で守ってくれたように。



 ――それで、本当に博士のところまで戻って来ちゃったというわけだ。


 は溜息をついた。コントじゃあるまいし、なんで男に生まれてきたんだろ。


 これが安いドラマか何かだったら、上手いこと美女に転生して「わたしこそあなたの妻の生まれ変わりよ」なんて言って、そのまま大団円で終わるのだろうか? いささかご都合主義のようにも感じるが、今の状態よりはずいぶんとマシな結果になっただろう。


 僕は知っていたのだ。僕が、いや、わたしが、わたし自身が創られ得るはずがないのだと。肉体としての情報は完璧なのかもしれない。でも、そこには致命的な欠陥がある。肉体は構成出来ても、それを統制する魂というものが無いのだ。だって、“それ”は今ここにいるから。


 僕はこの無意味な研究をどうこなしていくべきなのだろうか?


 博士に「無駄だからやめろ」とでも言うのか、それともダメとは分かりつつも生きる希望を若林博士から奪わないように、つまりはこの実験を看過していくべきなのだろうか?


 ああ、一度死んだら死んだで困難があるというものだ。


 だが、記憶を取り戻した僕は、それなりに幸せを感じている。遠い昔の家で亭主を待つ寂しい毎日。そこから少しだけでも前進出来たという事は、わたしも少しは進歩しているという事なのだろう。


 この先、彼は挫折を繰り返して、絶望の底に叩き落とされるかもしれない。でも、生きる希望がどこかにあるのなら、それを傍から見守っていてあげるのも悪くない気がする。


 これからどんな困難に遭うかは分からないけど、わたしの正体を明かす時は、本当に彼が道に迷った時まで取っておこう。


 あなたは決して一人じゃない。だから、自分の道を歩んで下さい。歪んでも、傷だらけでも、わたしはいつでも傍にいるから。


   【了】

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それがどこか歪だとしても、わたしは今を生きる 月狂 四郎 @lunaticshiro

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