第21話 相剋
「お待たせしました」
俺は濃密な夜気が立ち込める闇に向かって声を掛けた。
「大したもんだね、結界の外に自分から出て来るなんて――結界を張れるようになったのも驚きだけど」
重く静まり返った高密度の闇に、場違いな明るい声が響く。
不意に、周囲に無数の明かりが灯った。
狐火だ。
こぶし大のオレンジ色の炎が中空に漂い、闇に潜む気配に輪郭を浮かび上がらせる。
小柄な体躯。狐火に煌々と照らされても、まだ闇に溶け込んで見えるのは、黒いつなぎを纏っているからか。
大鉈だ。
彼は腕組みをしながら、濃厚な闇を背に俺を見据えている。車から数メートル間合いを取っているのは、俺を警戒しているからなのか。
「大鉈さん達は、ずっと俺達を見張っていたんですよね」
俺は落ち着き払った口調で大鉈に尋ねた。
「参ったな、全てお見通しですね」
大鉈の左後方で、弓曳が苦笑を浮かべている。
大鉈の右後方には、憮然とした表情で佇む刀人の姿も見える。
それだけじゃない。
俺の両サイド方向に、きっちりと間合いを取って蟲暮と篝火がこちらの様子をじっと見ている。
守役全員勢ぞろいだった。
彼らは皆、全身黒ずくめのいで立ちで闇に身を潜めている。
今までの俺なら、その像はおろか存在すら気付かなかっただろう。
「産童神様から神託が下りたの。この郷を落し入れようとしている反逆者が居るとね」
篝火が、冷ややかにそう言った。
「稀代さん――と言うより、鴨ちゃん。悪いけど死んでくんない? 神から承った屋号を放棄した者、又は神代巫女をかどわかしてこの郷か連れ出そうとする謀反者は滅するものとする。それがこの郷の・・・神に仕える者のシキタリなんで」
刀人の言葉が、刃となって俺の意識を貫く。
いつもどこかとぼけた感じの彼が真顔で語る言葉は、そのギャップのせいもあってか、ぞくりとする凄みを秘めていた。
「鴨ちゃん、諦めて下さい。今のあなたじゃ俺達に勝てない」
蟲暮が泣きそうな顔で、諭すように言った。
「確かにな。俺だったあんた達に勝てる気はしない。それに、屋号を放棄し、巫女を無理矢理拉致して郷の外に連れ出そうとする反逆者だからな。神罰が下っても仕方がない。せめて最後に教えてくれ。産童神の正体って何なんだ? 」
俺は彼らに問い掛けた。
でも、問い掛けが本来の目的じゃない。
今となっては、そんな事どうでもよかった。
俺が紗代を無理矢理連れ出した事にして、それをアピールするためだ。
彼女を擁護するにはこれしかない。
「正体って・・・この郷を守る山の神だ」
大鉈が憮然とした表情で答える。
「神が何故、郷民の魂を弄ぶ? 郷民に若い肉体を与え続けるのは、神の御加護か? 俺は違うと思う」
「じゃあ、何だって言うんだよ」
「生命力を吸い取るため」
「生命力を、吸い取る? 何、馬鹿げたことを」
大鉈がせせら笑った。
「馬鹿げてなんかいない。産童神は、器を変える事で郷民に不死の生命を与え、その代わりに若い肉体が生み出す生命力を吸い取っている。神ならそんな事するかよ」
「謀反に加えて神への冒涜か。もはや情状酌量の余地は無いな。まあ、元からそんなの無かったけど・・・でも君は何故、わざわざ郷の奥に向かったの? 普通なら最短距離で郷を出ようとするでしょ」
大鉈は不思議そうに顔を顰めた。
「こうでもしなきゃ、紗代さんを連れ出せなかったからね」
「あくまでも、御代さんは郷を離れる事に同意していないって事ね。ま、それはそれでいいかな」
不満気に頷く大鉈の背後の闇から殺気が迸る。
風音が夜気を切る。
不意に人影が俺の前に立ちはだかった。
紗代だ。
紗代はじっと視界に漂う焔の隙を見据えた。
「危ない! 」
俺は紗代を抱えて側方に飛んだ。
同時に、二本の矢が地面に突き刺さる。
大鉈の後方で弓曳が長弓に矢を番えている。
「どうして? 何故? 矢が止まらない・・・」
紗代はかっと眼を見開き、呆然としたまま俺の腕の中でうわごとのように呟く。
「御代さん、やっぱりあなたも郷を出る事に同意したんですね。産童神様は謀反者の力は封じると言ってられましたから。鴨ちゃん、君も諦めた方がいいよ。結界も、もう効力を無くしているはずだから」
大鉈が不敵な笑みを浮かべる。
車中で紗代を抱き締めた時、彼女が小さくなったように感じた理由は、きっとこれなのだ。
大鉈が言うのが本当ならば、俺の力も封じられている。
くそう。これまでか。
俺は絶望と苛立ちに身を焦がしながら、彼女を抱きかかえたまま後方に退いた。
瞬時にして、夜気が殺気を失う。
これは・・・?
風を切る羽音。
弓曳が放った矢が、闇を裂く。
しかも、今度も二本同時に。
俺は避けなかった。
避ける必要はなかった。
矢は俺を射貫く前に、中空で二つに折れ、地に落ちた。
「結界が解けていない・・・だとっ!? 」
大鉈の眼が、驚愕の余りに瞼の限界まで見開く。今まで余裕の落ち着きを見せていた彼の顔に、焦燥の翳りが浮かぶ。
「紗代さん、絶対に結界から出ないで」
俺は紗代の耳元にそっと囁く、彼女を抱擁から解いた。
その場にへたり込む彼女を尻目に、俺は再び結界から歩み出た。
「申し訳ないですが、俺達はここから出て行きます」
俺は地面に突き刺さった二本の矢を抜き取った。
弓曳が最初に放った矢だ。
刹那、弦を弾く音を俺の耳が捉える。
俺は反射的にその方向に向かって矢を投げた。
意識した訳じゃない。
無意識のうちに、体が動いていた。
俺が投じた矢は、空を駆り、弓曳が射たそれを正面から捉える。
弓曳の矢が真っ二つに裂ける。それも、二本とも。
避けた矢は飛力を失い、地に落下した。
だが、俺の投じた矢は落ちない。
それどころか、更に加速を増して空を駆る。
慌てて次に矢を番える弓曳。
もう遅い。
弓曳が弓を引こうとした刹那、二本の矢は奴の両肩を貫く。
同時に、奴の身体は後方へと大きく吹っ飛び、生い茂る木々の幹に激突した。その衝撃で、枝葉が大きく揺れ、落葉する。。
弓曳は動かなかった。
動けなかったのだ。両肩を貫いた矢が、奴の身体を木の幹に縫い付けていた。
信じられなかった。
俺は自分の手を見つめた。
どうなっちまったんだ? 『神乃御力』が封印されたどころか、強力になってやがる。体の動きや敏捷性だけでなく、パワーも半端ない。
「やってくれるじゃねえかよおっ! 」
大鉈が怒号と共に気炎を吐いた。小柄な奴の身体が怒気で膨れ上がる。
来る。
迫り来る殺気。
高速走行で一気に間合いを詰めて来る。
大鉈が大きく両手を振り下ろす。
同時に、彼の手には巨大な黒い影が形状を成していた。
俺はかろうじて後方に飛び、それを躱す。
凄まじい粉砕音と共に、地面を大きく裂いた。
鉈だ。それも、刃渡りだけで俺の身長は優にある超巨大な大鉈だった。
大鉈だけに、獲物も大鉈なのか。そう考えれば弓曳の大弓も合点がいく。
「避けたかよ。畜生め」
大鉈は巨大鉈を片手で軽々と持ち上げた。
手も、巨大化している。足もだ。胴体は現状のままなのだが、両手両脚の太さが通常時の倍以上の太さになっている。
「観念しろよ。お前も輩どもみたいに切り刻んでやる」
大鉈が血走った眼で俺を睨みつける。
「あの輩達、大鉈さんがやったのか」
「ああ。といっても俺だけじゃないぜ。守役みんなでやった。完璧だろ? 痕跡一つ残っちゃいない。ぶった切って蟲に食わせりゃ綺麗に骨だけになる。最初に来た奴らはそうだった。骨だけになった所で、奴らが乗って来た車に放り込んでおいた。後から来た連中は面倒臭かったんで、事故に見せかけて燃やしたけどな。ま、丁度最初の輩の骨の処分も出来たし、好都合だったよ。あんな穢れた連中の骨なんかこの郷に埋めたくなかったからな」
大鉈は得意げに笑った。
「まさか、谷上さんもか? 」
「それは違うな。郷民達は誰も手を出してねえ。出す理由なんかないからな」
大鉈は眉を顰めた。
産童神は彼らには伝えていなかったのか。
谷上――否、カオがこの郷の秘密を懸命に俺に伝えようとした事を。
やはり、俺の推測通り、谷上を瀕死の重傷に追いやったのは産童神か。
「まあ、せめての情けだ。鴨ちゃんの骨はここに埋めてやるよ」
大鉈の腕の筋肉に緊張が宿る。
巨鉈の刃が大きく空を薙ぐ。
俺は跳んだ。
巨鉈の刃が流れる様に宙を裂く。
脚下を過ぎゆく斬撃の軌跡。
大鉈は振り切った巨鉈の起動を瞬時にして反転させた。
落下し着地する寸前に俺を真っ二つにするために。
だが、奴の刃は俺の血で濡れる事は無かった。
俺は中空で留まったまま、奴を見下ろしていた。
大鉈は間の抜けた表情で俺を見上げた。
刹那、俺は奴の顔を力いっぱい踏みつける。
体制を崩し、仰け反る大鉈。
奴の手から巨鉈が離れ、地面に突き刺さる。
大鉈は慌てて巨鉈の柄を掴み、地面から引き抜こうとする。
抜けない。
その時、奴は気付いた。
大鉈の刃の背に降り立つ俺の姿を。
奴の表情が石化する。
俺を正面から捉える大鉈の開ききった瞳孔には、焦燥と驚愕の入り混じったの戦慄色が浮かぶ。
次の瞬間、俺の蹴りが容赦無く奴の腹に食い込む。
大鉈は高速後退する海老の様に体を折り曲げると、夜空の闇に消えた。
不意、視線を小さな動線が過ぎる。
蟲だ。
気が付くと足元にも小さな蟲が無数備群がっている。黄金虫の様な・・・否、甲虫だが、形が細長く、胴体も厚みがない。
「鴨ちゃん、その蟲達は死出蟲って言うんです。動物の死体を食べる蟲なんですが、俺が面倒みている奴はちょっと違うんです」
蟲暮が、ぼそぼそと呟くように話し掛けて来る。
「違うって? 」
俺は眉間に皺を寄せると、奴に問い掛けた。
「生きたままの餌でもバリバリ喰らうんですよ」
蟲暮がいつもの優しげな表情を浮かべながら、冷酷な笑みを口元に湛えた。
それが合図であったかのように、蟲達は一斉に俺の足をよじ登って来る。
小さな蟲なのにもかかわらず、その足は異様に早く俺に払い落す余地を与えぬままに這いずり回り、一瞬きもしないうちに身体を覆いつくした。
重なり合いながら群がる蟲達に覆われた、直立不動の俺の姿は、さながら前衛芸術の作品の様だった。
「凄いな・・・まさしく立ち往生。蟲達は体内にも入っただろうから、流石にそろそろ崩れ落ちる頃――? 」
蟲暮の唇が強張る。
かっと見開いた奴の眼には、蟲を全身に纏った俺が間近に迫る姿が映っていた。
俺は奴に跳びかかった。
同時に、全身に纏わり付いていた蟲達が蟲暮に蔽いかぶさる。
それは、まるで皮一枚剥ぎ取ったかのように、俺の身体から離れると蟲暮を包み込んだ。
そう、皮一枚。
俺は体の表面ぎりぎりの所で結界を張り、そのままシールドを奴に覆いかぶせてくるんでやったのだ。
奴は雀蛾の蛹の様に体をうねらせながら、狭い空間内で蟲との攻防を続けている。
そろそろか。
俺は結界を解いた。
蟲暮に群がっていた死出蟲達は一斉に四散し、消えた。
「よく仕込んである。主には手は出さないんだな」
地面に仰向けに倒れたまま、粗い呼吸を繰り返す蟲暮を見下ろす。
俺が見る限り、奴には蟲に喰われた痕跡は無かった。だが蟲に鼻と口を塞がれ、窒息寸前になっていたらしく。鼻水と涎を流しながら激しく咳き込んだ。
「くそうっ! 」
奴は反動をつけて跳ね起きると、その勢いのまま俺に殴り掛かる。
だが、拳の描く軌跡の先に、俺はいない。
俺は奴の懐に滑り込むと、喉元を軽く付いた。
苦悶の表情を浮かべながら、奴は大きく仰け反る。
無力化した拳が、空を泳ぐ――その手頸を、俺は右手で鷲掴みにした。
「蟲暮さん、泳げる? 」
俺が問い掛けると、蟲暮は面食らった表情で俺を見た。
俺はそのまま奴の身体を引き寄せると、湖に向かって投げ飛ばした。
奴の身体は中空に大きな弧を描くと、桟橋の向こうの水面を割り、激しい水飛沫を上げた。
不意に、視界を狐火が覆いつくす。
篝火か。
全く。一息する暇すら与えてくれないのかよ。
狐火は互いに融合しながら火力を高め、俺を烈火の渦に呑み込んでいく。
激しく燃え上がる炎の向こうに、憎悪と憤怒を宿した鬼の形相の篝火が見える。
それは、ただ単に反逆者に向けられた敵意でだけはなく、絡みつく様な情念を孕んでいた。
俺に似ていた。
俺だけでなく、紗代も標的として捉えた奴らに怒気を吐く俺の感情に。
ったく。
これじゃあ、まるで俺が悪役じゃねえか。
篝火が動く。
大きく横に薙いだ手から、波状の炎が刃の様に空を裂き、俺に襲いかかる。
だが、彼女の渾身の一撃も、烈火の炎渦同様、俺を焼き焦がす事は無かった。
瞬時に張った結界は、炎は愚か、その熱すら俺を脅かしてはいない。
俺は覇気を四方八方に放った。結界は守備から攻撃に転じ、取り巻く炎を一瞬にして蹴散らす。
一気に間合いを詰める。
篝火が驚愕に固まる。
俺は彼女の腕を取った。
「私、泳げない・・・」
俺の行動を察したのか、篝火は引き攣った表情で言葉を紡ぐ。
「じゃあ、蟲暮に助けてもらえ」
俺は容赦なく彼女を湖に投げ飛ばした。
彼女は蟲暮よりも岸寄りに落下すると水飛沫と共に水面に弾けた。
夜気に緊張が走る。
俺は後方に大きく跳躍すると、跋扈する闇の一角を見据えた。
篝火を葬ったせいで灯りが無くなったものの、俺には十分に闇に潜む敵の存在を把握出来る。
「真打登場・・・ていうか、みんな弱過ぎい」
闇に浮かぶシルエットが不満気に呟く。
「やっぱり最後は刀人さんか」
「鴨ちゃんもそう思った? 」
「ええ。FU・FU・FUメンバーの中じゃ、雰囲気が最もミステリアスですしね。体から出ている気も半端無い」
「うーん、喜んでいいのかどうか・・・」
台詞の割には、困った表情はしていない。口調はいつも通りの呑気な感じだが、全身に纏った闘気は殺意そのものだ。
「刀人さんのスペックは剣術ですか? 他の方々は屋号に関わる『神乃御力』を使う感じでしたけど」
俺は間合いを取りながら刀人の様子を伺った。俺の予想通りなら、どこからともなく日本刀を取り出すなりするはずなのだが、今の時点では、奴は丸腰のままだった。
「うーん、当たっているといやあ当たってるけど、当たっていないといやあ当たっていない」
刀人はよく分からない回答を言葉にした。
「知りたい? 」
「知りたくないです」
「教えてあげるよ」
刀人が静かに左手を振り下ろした。
氷点下級の冷気が、空を走る。
同時に、俺は思いっきりバックステップを踏んだ。
重低音の粉砕音が大地を揺るがす。
踏み固められていたはずの地面が大きく抉れ、深淵を覗かせている。
さっきまで丁度俺が度立っていた場所だった。
刀人の手には何も握られていない。
どうやって切ったのか?
刀人は間髪を入れず右腕を横に薙ぐ。
俺は大きく横に跳躍。
すれすれのところを凄まじい殺気が空を裂く。
後方で木々の倒れる音が聞こえる。
俺が着地するよりも早く、今度は縦に振り下ろす。
咄嗟の所で後方に飛ぶ。
俺がついさっきいた場所に、人がすっぽり入るほどの大きなクレバスが口を開けた。
何だこの技。
鎌鼬の様なものか?
刀人は続けざまに
左手を薙ぐ。
重く沈んだ夜気を、全く異質な覇気が容赦なく切り裂く。
俺は身を沈め、次の瞬間、側方に飛んだ。
傍らのの大地が、ショベルカーでかき取ったかの様におおきく抉れる。
やっぱり。
最初の左手の薙ぎはフェイントだったのだ。
だが、その一撃は後方の湖岸に並ぶ木々を見事に切り倒しており、刀人の操る「神の御力」の攻撃力は、他の者とは明らかにレベルが違う。
「鴨ちゃん、大人しく切られてよ。これ以上景観が変わると陣屋さんに怒られるよ」
刀人は悲しそうに表情を歪めると、両手を滅茶苦茶に振り回した。
奴の斬撃が幾つもの軌道を交えながら夜気を裂く。
が、その時、俺は既に反応していた。
後方に跳び、地面に突き刺さった大鉈の巨鉈を引っこ抜くと、縦方向に再度地面に突き刺し、刃の陰に身を潜めたのだ。
この間、一秒かかるかかからないか。
「鴨ちゃん、悪いけどそんなんじゃ防げないよ」
刀人が残念そうに台詞を吐き捨てた。奴がそう言った途端、巨鉈の柄が、刃が、摺り摺りとずれ、甲高い金属音を撒き散らしながら地に落ちた。
「終わりだ、鴨ちゃ・・・ん? 」
刀人が訝し気に眉間に皺を寄せる。
奴の視界に、俺の姿は無かった。
「そこかっ! 」
刀人が右手を頭上に向かって振り上げる。
同時に。
俺は穴から飛び出した。
最初の斬撃で奴自身が地面に築いた亀裂の中に、俺は身を潜めたのだ。
大鉈の巨鉈が斬撃で切断されるのも想定の内だった。
巨鉈は奴の注意をひくためのダミーに過ぎなかったのだ。
虚を突かれ呆然とする奴の懐に飛び込む。
刀人の頭に、縦に真っ二つに切断された折れた矢が落ちて来る。
弓曳が二回目に放った矢だった。俺の結界に触れて折れたものを、穴に潜むと同時に夜空に投げたのだ。
俺は刀人の胸に掌底を叩き込む。
奴は胸を瞬時に硬化。
右掌に岩を打ったかの様な衝撃が突き抜ける。
だが俺はそのまま掌を押し込んだ。
体中から熱い気の噴流が巻き起こり、右掌に流れ込む。
刀人の身体が宙に浮き、吹っ飛んだ。
湖畔の桜並木を超え、遥か彼方の雑木林の中に消えた。
「これで、これ以上景観を損なわなくてすむな」
俺は、車の前で座り込んだままの紗代に駆け寄った。
「大丈夫ですか? 」
「はい・・・」
紗代が力なく答えた。
「行きましょう」
俺は彼女を抱きかかえると助手席のドアを開け、車に乗せた。
そしてすぐに運転席に滑り込むと車を走らせる。
「私は力を失ったのに、何故、稀代さんはあれだけの力を・・・」
紗代が悲しそうに呟く。彼女の「神乃御力」は、この郷ではずば抜けていた。 その力を封印された事が、彼女のプライドを傷つけたのだろう。言葉では言い表せない程のショックを受けたようだ。
それも、今まで自分や郷を守る役目の守役によって、郷の裏切り者のレッテルを貼られ命を狙われたのだから。
「俺にも分かりません」
俺はアクセルを踏み込みながら、彼女に答えた。
謎だった。
反逆行為を行った俺が、何故「神乃御力」を失うどころか更に力を増しているのは何故なのか。
武術なんかやったこと無いのに、規格外の武器を操る猛者達を圧倒出来たのは何故なのか。
そして。
産童神は何を企んでいるのか。
俺の思考を埋める疑問符の全てが、その一つに集約されていた。
神社の参道入り口前を通り過ぎる。
紗代が複雑な表情で神社の方向を見つめていた。
今まで仕えて来た神を裏切ってしまった――その思いが、罪悪感となって彼女を苦しめているように見えた。
この郷への出入りはこの道しかない。
通りたくなくても、神社の前は必ず通過しなければならず、こればかりはどうしようもない。
俺は無言のまま、更にアクセルを踏んだ。
キャンプ場を過ぎ、川沿いの道を進む。
不意に、視界がぼやけ始める。
車のライトが、闇に漂う濃厚な白い靄を映し出した。
霧が出てきたようだ。
いよいよ、か。
俺はスピードを落としながら慎重に車を進めた。
霧は、次第に密度を凝縮させながら進路を閉ざしていく。
「稀代さん、大丈夫ですか? 」
紗代が心配そうに俺を覗き込む。
「大丈夫です。俺には道が見えてますから」
「はい・・・」
紗代は不安げに正面の車窓を見つめた。
そうか。紗代には見えないんだ。
本当の風景が。
不意に、霧が消えた。
「ひっ・・・」
紗代が悲鳴をあげながら俺の腕を掴んだ。
霧の晴れた道には、巨大な七色の龍――虹龍がとぐろを巻き、立ち塞がっていた。
それだけじゃない。
虹龍を囲む様に、黒龍、白龍、赤龍、青竜、金龍が中空にその姿を留めていた。
このまま突っ切れない訳ではない。
今の、俺なら。
でもそれをやると、場合によっては生命の危機に晒す事になる。
それは避けたい。
絶対に。
俺は車を止めた。
そして、大きく柏手を打つ。
「御代さん、このまま車に乗っていて下さい」
「えっ? どうするつもりなのです? 相手は龍神ですよ。それも、六柱全神いらっしゃる・・・」
紗代の眼に、深淵の奥底に突き落とされたかの様な絶望の色が宿る。
俺はサイドブレーキを引くと、シートベルトを外した。
「やめてください! いくら稀代さんでも相手は神ですよっ! かなう相手じゃないっ! 」
「大丈夫です」
俺は紗代の制止を振り切り、車外に出た。
六柱の龍達が怒号の咆哮を上げ、俺を威嚇する。
虹龍は俺をじっと見据えた。銀色の眼に悲憤に満ちた冷徹な光鋭を宿し、俺に刀剣の刃の様な覇気を撃つ。
だが、俺は怯まなかった。迷わず、虹龍に向かって歩みを進める。
他の龍達は、空から威嚇するものの、まるで俺の出方を窺うかのように、それ以上の動きを取ろうとはしない。
俺は虹龍に近付くと、その一抱え以上は遥かにある太い胴体を抱え込む様に手をまわす。
「俺は、あなたとは戦いたくない。傷付けたくないんです・・・」
虹龍は苦悶の表情を浮かべ、俺を見下ろした。
上空で控える龍神達の姿が、掻き消すように消える。
俺の腕の中には、染谷がいた。
彼女は体を小刻みに震わせながら、頬を涙で濡らし、嗚咽していた。
六柱の龍神達――それら全ては、染谷が創りだした幻影だった。
「凄い・・・ね。私に、金縛りを掛けるなんて・・・」
染谷は体を小刻みに震わせながら、俺の耳元で囁いた。
「今、解きます」
俺が言霊を綴る。
同時に、彼女の身体を束縛していた気の噴流が消える。
染谷は俺の抱擁からすり抜けると、その場に崩れるように座り込んだ。
「鴨ちゃん・・・行って。私じゃもうあなたに勝てないの分かったし」
染谷は弱々しく笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がって路肩に歩みを進めた。
彼女の身体から、覇気が消えている。
これ以上俺達に手を出さないのではなく、出せない状態に陥っているのだ。
「有難うございます」
俺は染谷に一礼すると、車に戻った。
「稀代さん、あの龍神達が染谷さんの創ったものだって分かっていたんですか? 」
車に戻ると、紗代が困惑気味に俺に尋ねた。
「ええ。分かっていました」
「そう、でしたか・・・」
紗代はどこか寂しそうに俯いた。
俺は、アクセルを踏み込み、再び車を駆った。
幾つものカーブを抜ける。
輩達の死霊と抗戦した河原を過ぎ、更にはその先の道の駅も通過する。
俺は大きく吐息をついた。
追っ手は来ない。
郷を脱出したのだ。
だが、俺はアクセルを緩めなかった。
山間部を抜けるまでは、走り続けよう――そう考えていたのだ。
「郷を、出たのですね・・・」
紗代は疲れ切った表情で呟いた。ちらり垣間見た彼女の顔には、安堵の表情を浮かべながらも、裏い翳りを漂わせていた。
底知れぬ喪失感。
彼女を包み込む濃厚な虚無の霧の根源は、そこにあった。
紗代にとって、失ったものは大き過ぎるのかもしれない。
ある意味、あの郷での存在意義を全て剝奪してしまったのだから。
だがそれは、あの俗悪な運命の輪廻から離脱する為には、必要不可欠な試練でもあった。
何故、俺が、郷から逃げきるまで最高潮の力を発揮出来たのかは未だに不明だった。
産童神は、俺を試したのか。
俺が全力で紗代を守り通せば、郷からの脱出を見逃すつもりだったのか。
俺の紗代に対する思いが何処まで真剣なのか試したのか。
湖畔で大鉈達に紗代を差し出していたら、俺はその場で神罰を受けていたのかもしれない。
これも、シキタリなのだろうか。
車窓の風景に、街の灯りがちらつき始める。
市街地に入ったようだ。
住宅地の間を抜け、四車線の道に合流する。
時折通り過ぎるコンビニの灯りが、妙に心強く感じる。
闇を圧倒する街頭や店舗の灯りに、紗代は子供の様に眼を輝かせていた。
やがて、闇が後退し、空が白み始める。
もうすぐ夜明けだ。
前方にコンビニが見える。照明が、勢力を失いつつある闇に追い打ちをかけるかのように、周囲を照らしている。
「一休みしましょうか。何か飲みます? 」
「はい」
俺の誘いに、紗代は嬉しそうに頷いた。
車を降り、俺と紗代は店舗に入った。
と言う事もあってか、客は俺達二人だけだった。
店内を一回りした後、俺は珈琲とカフェラテ、それと紗代の希望でピーナッツチョコを買うと、車に戻った。
「どうぞ」
カフェラテを紗代に渡す。
「有難う」
紗代は早速開封しかけたピーナッツチョコを膝の上に置くと、俺から受け取ったカフェラテを美味しそうに飲んだ。
「美味しい。コンビニで飲み物飲むの、久し振りです」
紗代がほっこり表情を緩めた。
「よかったです。喜んでもらえて」
「稀代――鴨ちゃん、疲れてないですか? 」
紗代の優しい眼差しが俺を捉えている。
「大丈夫ですよ」
俺は彼女の唇に、唇を重ねた。カフェオレの仄か甘い香りが鼻孔を擽る。
俺は唇を離すと、彼女をじっと見つめた。
彼女が愛おしかった。
何時間でも、永遠にでも、彼女となら唇を重ねたままでいられると思った。
「有難う、私の事を好きでいてくれて」
紗代はカフェラテのカップをそっとホルダーに置いた。
「こちらこそ。俺の強引な誘いにのってくれて」
「ほんと、強引過ぎます。着替えも何にもないんですよ」
紗代は困った表情を浮かべながらも、楽しそうに笑った。
「俺がプレゼントします。余り高いのは変えないけど」
「有難う。私、ノーブランド派なんで大丈夫」
「え? ノーブラ? 」
「違いますよ。それ、セクハラですよ」
紗代が眉を顰める。
「ごめんなさい。調子に乗り過ぎた」
「じゃあ、お詫びにちょっと高い服を買って貰おっかなあ」
俺の困った表情を見て、紗代はにやにや笑いながら嘯いた。
不意に強い日差しが差し込んで来る。
日の出だ。
今までは山の稜線を白く染めて登る太陽が常だったが、ここでは立ち並ぶ建造物の無機質なシルエットの間から顔を出してくる。
「朝になりましたね」
俺は珈琲を静かに呑みほし、カップをホルダーに置いた。
「そうですね・・・郷の朝日も綺麗ですが、街で見る朝日も何だか不思議に綺麗です」
紗代は目を細めると、リアウインドウを下げた。
朝の冷たい空気が、車内に流れ込む。
「鴨ちゃん・・・」
「はい」
「ごめんなさい」
「え? 」
「私、やっぱり、郷から離れられないんです」
紗代は、寂しそうにそう言った。
いつだっただろうか。彼女は同じ言葉を紡いだことがあった。
あれは確か、俺のテントで、二人で夜を明かした時。
「でも、もうここまで来たら後戻りは出来ない」
俺は慌てて彼女を説得した。
「有難う・・・」
紗代は動揺する俺の唇に唇を重ねた。
俺は彼女を抱き締めた。
離したらいなくなってしまう――何となく、そう感じた。
当たって欲しくない予感だった。
そう言った予感って、何故か当たってしまうものだ。
俺の腕の中で、紗代の身体が次第に質感を失っていくのを感じた。
俺は唇を離し、彼女を見つめた。
俺は息を呑んだ。
彼女は、白い無数の花びらになっていた。
白い花びらは、まるでその一片一片に意志が宿っているかのように、渦巻きながら、開け放たれたリアウインドウから空へと舞い上がってく。
俺は車から降りると、外を見上げた。
花弁は朝日を受けて、きらきらと輝きながら、大空へと消えて行った。
まるで、風を巻いて空を駆る、小さな龍のように。
。
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