第20話 謀反

 夕食は、結局俺がありあわせの食材で炒飯とわかめと卵の中華スープを作った。

 あのまま染谷が夕食を作っていたら、何を食べさせられるか考えただけで恐ろしい。

 前に彼女が作ったチーズ入り卵焼きは、過去の創作料理の中で唯一の成功品だったと聞いてからは、俺は極力、彼女がメインで食事の準備に当たらない様、配慮をしているのだ。

 紗代の分も作ってはおいたのだが、結局起きてこなかったのでラップを掛けて冷蔵庫にしまっておいた。

 食事後の入浴は例の如く混浴だったが、ごく普通に体を洗い、湯船に浸かって早々に上がった。

 染谷と御前も、ふざけて俺にちょっかいを掛ける事も無く、平和だが物足りない湯治の時間を過ごした。

 俺は風呂から上がると、早々に自分の部屋に引き籠った。

 俺なりに考えたい事があったのだ。

 谷上がくれた、あの手紙の事だ。

 俺は携帯の画像を開いた。

 手紙の方は文字が完全に消え失せ、ただの白紙になってしまっている。ひょっとして保管してある画像も消えたのか。

 否、残っていた。

 画像として保管された文章は、全て綺麗に残っている。あの手紙そのものに何かしらの術が掛けられていたのか。

 記載された文字を、繰り返し見つめる。

 分からない。文面以上に、何も見えてこない。

 実は特に深い意味の無い手紙だった?

 其れならわざわざ術を施すだろうか。

 あれはきっと俺に何かを伝えるために・・・。

「神乃御力」を郷外で使える者は限られていると言う。

 あの文字が消えたのは、明らかに谷上が郷外に出てから。タイミング的には事故後、病院に運ばれてからになる。

 谷上の「神乃御力」は文字に関するものだった。

 郷外に出ても、しばらく文字を維持出来たのは、あの手紙の一文に力を集約したからなのだろう。 故に、彼女の力が微弱になるにつれ、それを維持できなくなったのだ。つまり、病院に運ばれた彼女は、極めて危険な状態なのだと思う。

 そこまでして、彼女は何を俺に伝えようとしたのか。

 携帯の画像からは、何も語りかけてこない。あの手紙の文字が消えていなければ、何か感じるものがあったのだろうか。

 何はともあれ、画像に取り込んでおいたのは正解だった。こうやって色々と検証できるのだから。

 今思えば、文字の消え方も不思議だった。一気に消えるのでも、次第に薄くなるのでもなく、右側から一列ずつ消えて行くなんて。

 それも、縦方向に。

 縦方向・・・。

 言葉が出なかった。

 押し寄せる驚愕の渦が、俺を呑み込んでいく。

 同時に、幾つもの情報が脳内でフラッシュバックする。

 大祭の時の、釜屋の行動。

 谷上が俺に求めた最後の奉納の儀。

 そして、別れ際に行った彼女の台詞。

 何となく心に引っ掛かっていた違和感。

 それら歪なピースの隙間を、あの手紙の言の葉が満たしてくれた。

 布団から体を起こすと、俺は部屋を出た。

 込み上げて来る衝動を、俺は抑えきれなかった。

 紗代の部屋に向かい、襖をそっと開ける。

 足を忍ばせ、彼女の寝室を覗いた。

 いない。掛け布団をめくり上げたままの状態で、彼女の姿は無かった。

 ベッドに触れてみる。

 まだ少し温かい。

 トイレにでも起きたのだろうか。

 廊下に出る。

 居間の方で、物音がする。

 染谷と御前がいつものように宴会をしているのか。

 ひょっとしたら、紗代も一緒に?

 俺は居間に向かった。

 灯りの漏れる襖を、静かに開ける。

 と、卓袱台に座り、湯呑でお茶をすする紗代の姿があった。

「御代さん・・・大丈夫ですか」

 俺が声を掛けると、紗代は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

「御心配お掛けしました。もう大丈夫です。お腹が空いて、目が覚めてしまって・・・炒飯、美味しかったです。御前さんがつくったのですか? 」

「あ、それ、俺が作りました」

「えっ? 稀代さんが? 凄い・・・魚もさばけるし、料理がお上手なんですね」

 紗代は目を丸くして俺を見た。

「大したことないですよ。でも、喜んでもらえてよかったです」

 俺は照れ隠しに頭を搔いた。

「御代さん、これからどうするんですか」

 俺は紗代に尋ねた。

「まあ、お風呂に入って・・・どうしましょうか。あれだけ寝てしまったので、しばらくは眠れそうにないんですよね」

 紗代は困った表情を浮かべた。

「御代さん、俺とドライブしませんか? 」

「え、これからですか? 」

 紗代が驚きの声を上げると、俺を見つめた。

「俺も眠れなくて。まあ、近場の湖まででも。ドライブって距離でもないですけどね」

「分かりました。ちょっと着替えてきますので待っててくださいね」

 紗代は足を忍ばせながら自室に戻った。

 彼女が着替えに行ったのを見届けると、俺は隣の部屋の襖を少しだけ開けて中を覗き見た。

 染谷と御前は眠っていた。相変わらず日本酒の空瓶は転がっていたが、二人仲良く抱き合って寝ている。残念な事に裸ではなかったが。

 俺はゆっくりと襖を閉めた。

「お待たせしました」

 着替えを終えた紗代が居間に戻って来た。淡いピンクのワンピースが大人びた雰囲気を醸し出している。

「行きましょうか。染谷さんと御前さんは爆睡中なんで寝かしておきますね」

「はい」

 紗代は頷くと、二人に寝息が聞こえる隣の部屋を見つめた。

 俺達は染谷達を起こさない様に足を忍ばせながら廊下を進み、外に出た。

 外は闇に沈んでいた。夜空に月明りは無く、瞬く星の光だけが、濃紺色の帳にささやかな抵抗を試みている。

 車に乗り込み、ドアを閉める。

「よく考えたら、神社から外に出るのは久し振りです」

 紗代はシートベルトを締めると俺を見つめた。

「ここの所、忙しかったですもんね」

 俺はそう答えながら眼を細めた。そう言えば、少なくとも俺がここに来てから、四方達が来た時を除いて、彼女は神社の敷地からはほとんど外に出ていないのだ。食材とかは御前が買いに行っていた様だし。

 ゆっくりとアクセルを踏み込み、車を出す。物音で染谷達が起き出すかと思っていたが、その心配はなさそうだった。

 俺はゆっくり表参道を抜けると、湖に向かって車を走らせた。

 郷は、闇と静寂の支配に陥落していた。

 時刻は二十三時過ぎ。郷はひっそりと静まり返り、所々に建つ民家にも明かりは灯っていない。以前、谷上がこの郷には空き家が無いと言っていたから、住民は皆、床についているのだろう。この時間に騒ぎ立てているのは、グループで遊びに来ているキャンパー位かもしれない。

 木々を抜けると重く垂れ込む漆黒の闇が視野を埋め尽くす。

 湖だ。月が出ていれば、湖面に月光が反射し、神秘的な光景を演出してくれるのだが、星の灯りだけではそこまで闇を退けるのは不可能だ。

 俺は桟橋のそばの駐車場に車を止めた。

「着きました」

 俺はエンジンを切りシートベルトを外した。

「稀代さん、どうしてここに停めるのです? この場所は・・・ 」

 紗代が不安げに車窓の闇を凝視した。

「都合がいいからです。一仕事してから説明します。と言っても、俺に何処まで出来るか分かりませんが」

 俺は息を大きく吸い込み、吐いた。

 徐に、柏手を一回打つ。

 俺の掌が生み出した打響音は、静かに四方に広がり、空間を隔離する。

「結界? 稀代さん、結界を張れるようになったのですか? 」

 紗代は眼を見開くと、驚きの声を上げ、俺を凝視した。

「ちゃんと張れてます? 染谷さんがやっていたのを見様見真似でやってみたんですが」

「張れてますよ。範囲はここを中心に半径十メートルくらいですが。結構強力です」

 紗代が興奮した口調で言う。

「有難うございます」

「凄い・・・まだお教えしてませんのに、自力で覚えたんですね」

 紗代が感心したように呟く。

「御代さん。御代さんは、俺が何故ここに来たんだと思います? 」

 俺は紗代に問い掛けた。

「いえ・・・」

 紗代は困惑した表情で俺を見た。膝の上に重ねた手にぎゅっと力が入る。

「この前、俺と伝所さんがここで死霊に襲われたって話をした時、結界が張ってあった形跡があるって言ってましたよね。それも、御代さんや染谷さんが張った結界の中に。しかもお二人ともそれに気付いてはいなかった」

「はい」

「これ、俺なりに考えたんですけど、ここって神域の死角みたいになっているんじゃないかって」

「死角・・・ですか」

 紗代は当惑した表情で俺を見つめた。彼女には何故俺がこのような場所に連れて来たのか、また、何故このような話をし始めたのか、全く思いつかない様だった。

 その方が良かった。

 全てを察し、全てを見抜いているとしたら、恐らく俺の問い掛けをさり気無く躱す策を講じるだろう。

 まず、ここまで連れ出す事も出来なかったと思う。

「俺が御代さんをここまで連れて来たのは、神域の死角でないと話せない内容だからです。その点は郷から出たら簡単なんですけど、そうなれば御代さんは行くのを拒むかもしれない・・・そこで、この場所を選んだんです」

 俺は、じっと紗代を見つめた。

 紗代の喉が大きく嚥下し、生唾を呑み込む音が静かな車内に響く。

「どんな、お話なんですか? 」

 紗代が静かに問い掛けて来る。表面的には落ち着きを払っているようだが、瞳は俺を真っ向から見据えながらも時折揺れ動き、固く閉ざしたままの唇は潤いを失い、その僅かに開いた隙間からは、緊張の為か、小刻みに荒い呼気を漏らしている。彼女が平常心を演ずる中に、動揺の素振りを見せる僅かな表情の変化を、俺は逃がさなかった。

「谷上さんが、何故事故にあって生死を彷徨う羽目になったのか、御代さんには分かりますか? 」

「え、何故って・・・」

「長く祭司役を務めて来た彼女だから、当然産童神の御加護も凄いはず。例え郷を離れても見捨てられることはないはずですよね」

「私も、そう・・・思いたかった」

 紗代は声を震わせながら呟いた。

「でも、彼女は不慮の事故にあってしまった。それは恐らく、シキタリを破ったからです」

「えっ? まさか・・・」

「俺もそれがシキタリに当たるのかどうか、分からない。まだシキタリそのものを全ては教わっていませんから。ただ、少なくとも産童神の怒りに触れたのは確かだと思います」

「それって、何なの・・・です? 」

 紗代は動揺していた。明らかに、何かを予期しているようにも思えた。

 俺は黙ったまま、車のグローブケースから取説を取り出し、その間に隠していた谷上からの手紙を紗代の手渡した。

「これ、何なのか分かります? 」

「これは・・・? 」

 紗代は眉を顰めた。

「谷上さんから貰った手紙です。最初、ちゃんとした文字が書かれていたんですが、ある瞬間に消えてしまったんです」

「消えた? 」

「ええ。文章の右端から崩れる様に消えたんです。まるで、書いた主の身の上を暗示するかのように。その直後に、御代さんからすぐ神社に戻る様にとの電話が入りました。谷上さんが交通事故にあったと言う連絡です。あの時、御代さんは何も話さなかったですけどね」

 紗代は神妙な面持ちで俺の話を聞き入っていた。俺はつぶさに彼女を見つめた。瞳孔の動き、息遣い――だが、どれをとっても不審な反応を示すものは無かった。

 ひょっとして、紗代が察してやった事なのかと思ったのだが・・・文字を消したのは、彼女じゃなさそうだ。じゃあ、やっぱり、谷上の「神乃御力」の効力が薄れてか。

 在り得ない。

 在り得ないのだ、それは。

「手紙には、どんな事が書いてあったんですか? 」

「知りたいですか? 」

「知りたいです」 

 彼女の澄んだ瞳が、俺を捉えていた。

「見せてあげますよ」

「え、でも文字が消えたんじゃあ」

「画像に取っておいたんです」

 俺は携帯に保管していた画像を彼女に見せた。

 紗代は画面に顔を近付けると、食い入る様に見つめた。

「別に、気になるような事は・・・彼女らしい文章ですよね」

「そう思いますか? 」

「ええ」

「私もそう思いました。でも、手紙から文字が消えていったシーンを思い返しているうちに、ある事に気付いたんです」

「ある事? 」

「その手紙の左端の文字を平仮名に直して縦方向に呼んでみて下さい」

「え? 」

 紗代は首を傾げると、怪訝そうな表情で俺を見た。

 だが、黙って彼女に画面を提示し続ける俺に観念したのか、恐る恐る字面を追い始めた。

「か、も、し、に、げ、て――? 」

 彼女は驚愕に目を見開きながら俺を見つめた。

「分かりました? 『鴨氏逃げて』になるんです。でもこれだけだったら、偶然かもしれない。でも、他にも彼女は俺にサインを残していったんです」

 俺は紗代を見据えた。俺を見つめる視線が、微妙にぶれている。明らかに、彼女は何かしらの動揺を受けている。

「谷上さんは郷を去る時、俺に『有難う、鴨氏』って言い残しているんです。反対に、伝所さんは俺を『鴨ちゃん』って呼びかけました。すぐに訂正してましたけど」

 俺は紗代を見据えた。

 紗代は黙ったまま、目を伏せた。

「この郷で俺の事を『鴨氏』って呼ぶのはカオだけだった。それにカオは俺の事を『鴨ちゃん』なんて呼んだ事が無かったんです。不自然だとは思いませんか? 」

 紗代は答えなかった。ただ黙ったまま、俺の言霊による責め苦を耐え忍んでいるかのように見えた。

 反論できないのだ。

 彼女は、知っている。 

 そして、隠している。

 この郷に隠された、ある真実を。

「他にも不思議なことがあったんです。大祭の夜、神事の最中に釜屋さんが俺の背中に頭をぐりぐりと押し付けて来たんです。釜屋さんと言うより、釜屋さんの魂ですね。俺が拒んだら、悲しそうに引き上げて行きましたけど。あの時、俺は彼が何をしたいのか、皆目見当も付かなかった。でも今なら、分かるような気がするんです」

 俺は紗代を垣間見た。紗代は項垂れたまま、俺と目を合わそうとはしなかった。

 膝に載せた手が、僅かに震えている。

 俺は彼女から目線を外すと、正面の闇を見つめた。

「この郷に来た時、不思議に思ったんですよ。何故この郷の住民は若い人ばかりなのか。見た感じ、四十代以上の人はいない。いてもせいぜい三十代半ば、ですよね」

「それは・・・この郷に来る人は、心を病んだり疲弊したりしている方が多いですから、癒されて生甲斐を見つけると郷外に出て行かれるんです」

 沈黙に耐えかねたのか、紗代は静かに言葉を綴った。だがその声に、いつもの覇気は無かった。俺が真実に触れる前に、ただ抵抗を試みている様にしか感じられなかった。

「この郷の人は、ずっとこの郷で生き続けているんですよね。若い人の身体を奪って。それも憑依じゃない。魂を入れ替えているんだと思う。今回入れ変わったのはカオだけじゃない。陣屋さんと籠屋さんもそうでしょ。この郷を離れたのは、鍵田と辻村の魂と入れ替わった久野さんと桐山さんだ。でもあの二人は、カオとは違って肉体の記憶に魂の記憶が呑み込まれてしまったから、何も気付かずにこの郷を去って行ったんだ」

 俺は結論を放った。

 そして、じっと紗代を見つめる。

「そんな、馬鹿げた事・・・」

 紗代は鬼の形相で俺を睨みつけると、忌々し気に毒を吐いた。

 俺に対して初めて見せた敵意と嫌悪の表情だった。

 いつもの落ち着き払った彼女の姿からは想像を絶する感情の起伏に、俺は戸惑いを覚えた。

 でも、俺は怯まない。彼女を追い詰めるつもりは無かったが、ここまで来れば、もう後には引けなかった。

「馬鹿げた事? そう思いますか? この郷ではもっと馬鹿げた事が当たり前のように起きていますよ。郷外の人から見ればね」

 俺は紗代に言葉を返した。

 行きつく所まで行き、真実を暴く事が、最終的には彼女をも救う手立てだと感じていたのだ。

 ただ単に、それは俺の思い込みに過ぎないのかもしれない。

 でも。

 全てをリセットするには、恐らく他に方法は無い。 

 俺が綴った言霊に包囲された彼女は黙ったまま、俺を睨み続けていた。

「この郷の人達が屋号で呼び合うのは、器を変えると外観が変わるから、元の魂が誰だか分からなくなるからでしょ? 屋号を引き継げば、外観が変わっても誰なのか分かりますものね。こう考えると、色々とつじつまが合って来るんです」

「つじつま・・・」

 紗代は目を伏せると、呻くように呟いた。

「そう。郷人の人数が増えないのも、魂が入れ替わるからですよね。若返る訳だから、子孫を作らなくてもその家が絶える事は無いですし。古くなった器は郷外に出て、新たな人生を送る――全くの別人になってね。入れ替えられた魂の記憶は、器の持つ記憶に塗り替えられて忘れ去られていくのでしょう。そうでなきゃ、この郷の悪い噂が広がって誰も寄り付かなくなりますから」

 確証の無い仮説だった。だがそれは決して的外れな推測ではない。

 ほぼ正解なのだと思う。

 その証拠に、紗代は怨嗟の形相から一転して、疲弊した表情で涙ぐんだまま遠くの闇を見つめていた。

「胸糞ものの輪廻転生ですよね。でも、稀に記憶の断片が残る者もいるのでしょう。それがカオだ。彼女はこの郷の秘密に気付き、俺に必死に伝えようとした。多分、直接言わなかったのは、言っても俺が信じないと思ったのか、それとも産童神か言わせない様に邪魔をしたのか・・・その結果、彼女が選んだのは、あの手紙と、この郷を出る時に俺に言った言葉や仕草だったんです。手紙の文字を消したのは、恐らく産童神でしょう。カオが強い思念を込めて書いた文字は、最初は神ですら消すことが出来なかった。これが『神乃御力』で書かれたものなら、神は俺が読む前に消せたのでしょうけど。と言うより、書く事すら出来なかったかも」

 俺は紗代に語り続けた。憶測ではあるものの、確信めいた自信が、俺にはあった。 

「ひょっとしたら参拝客の中にも、カオみたいに元の記憶を留めている者がいるのかもしれない。結構年配の方で何人かの若者を連れて来る人達がいたけど、あの人達はいったい何をお願いにこの神社に来たんですかね。ひょっとして、あの人達が望んでいるのは・・・」

 俺は彼女を見据えた。彼女の瞳に揺らめいた輝きが零れ落ち、頬を伝った。

「私にどうしろと言うのっ! どうすればいいのっ! 」

 紗代が泣き叫んだ。顔を両手で覆い隠しながら、体を震わせて泣き崩れる。

 俺はそっと彼女を抱き寄せた。

「どうすることも・・・出来ないのよ」

 紗代は嗚咽を上げながら、俺の腕の中で呟いた。

 たぶん、彼女の本心なのだと思う。

 彼女もまた、シキタリに縛られた郷民の一人に過ぎないのだ。

「この郷を出よう。俺と一緒に」

「え? 」

「俺は、紗代さんが好きなんです。例え、今の姿が本当の紗代さんじゃないとしても、そんなことはどうだっていいんです」

 俺は彼女に本心の思いを伝えた。熱く滾る情念の顎を開き、魂の叫びを高らかに謳い上げた。

 紗代は無言のまま、俺を見つめた。

 突拍子の無い俺の告白に度肝を抜かれたのか、肯定も否定もせずに、呆然と俺を見据え続けていた。

「不毛の輪廻に、ピリオドを打ちましょう。例え年老いたとしても、俺は変わらず、紗代さんを愛します」

 俺は囁くように彼女の魂へ言霊を捧げた。

 彼女はそっと目を伏せた。

 蒼褪めていた彼女の顔に血の気が巡り始め、頬がほんのりと朱に染まる。

 彼女は顔を上げ、俺を見つめると、黙って頷いた。

 気のせいだろうか。

 彼女が小さくなったような気がした。

 体躯がじゃない。

 彼女の存在そのものが。

「じゃあ、行きましょうか」

「え、行くって・・・」

「郷の外にです」

「今からですか? 」

 紗代は戸惑い、俺を不安気な眼で見た。

「今からです」

「荷物とか・・・」

「必要なものは俺が買ってあげます。蓄えは多少あるので」

 神社に寄る訳にはいかなかった。住居に戻れば、彼女の気が変わる可能性があるし、染谷達が気付いて引き留めようとするかもしれないし。

 かもしれないじゃない。絶対に引き留めようとするに決まっている。

 俺はフロントガラス越しに、夜気に蠢く闇を見据えた。

「でも、行く前に片付けなきゃならない事があるんです。紗代さんはこのまま車の中で待っていて下さい」

「何をしようと? 」

「もし俺がやられたら、紗代さんは俺に無理矢理連れ出された事にして下さい。いいですね? 」

 紗代にそう言い聞かせると、俺は車を降りた。

 何歩か進んだ所で、不意に夜気が鋭利な刃物の様に俺の皮膚に突き刺さった。

 結界を出たのだ。

 俺には分かっていた。車中に居る時から。

 闇に潜む不穏な気の存在を。







 


 




 


 



 

 

 




 

 

 

 

 

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