第19話 奔逸

「寂しくなりますね」

 食後の珈琲を飲みながら、紗代はしみじみ呟いた。

「そうですね。彼女、長くここにいてくれたから」

 染谷が静かに頷く。

「久野さんと桐山さんは谷上さんよりも滞在は短いんですか? 」

 俺は紗代に尋ねた。

「五年位ですかね。歳は近いんですけど、あの御二方は郷に来たのが遅かったので」

 紗代はそう答えた。

「稀代さん、寂しくなったらいつでも見せてあげるから」 

 染谷はそう言うと、あやめのスカートをめくり上げた。

「きゃん。染谷さん自分のを見せてあげてくださいよお。私のは高いですよ」

 あやめは顔を赤らめながらスカートの裾を押えた。見えました。あなたも白。お金は払わんけど。

 てより、問題は彼女達が事の全てを知っている事にある。俺が危惧していた通り、夏音があやめにたれこんだらしい。流石に奉納の儀の事は夏音も知らないのでばれてはいない様だけど。

「そういやあ、釜屋さんの登り窯、大鉈さん達が交代で見ているみたい。作りかけの陶器があったんで、何とかやってみるって」

 染谷がそう語った。

 釜屋が俺達の前で消失してから、まだ何日もたっていない。でも何故か俺には遠い過去のように思えてしかたなかった。郷民が入れ替わり、そして増えたものの、釜屋が居なくなった喪失感は大きく、紗代達の受けた衝撃は言葉では言い表せない程のものだった。事実、あの瞬間誰しもが時が止まった様な感覚に囚われたのだ。だが、谷上達が去り、新たな郷が息吹き始めたのと同時に、皆、再び現実を受け入れつつあった。

 俺達は社務所に戻り、それぞれの配置についた。午後からも参拝客はほとんど無く、皆、のんびりとした時間を過ごしていた。染谷に聞くと、大祭明けは、いつもこんな感じらしい。

「灯篭とかの後片付けはまだやらないんですかね」

 俺は気になっていたので染谷に聞いてみた。大祭が終わっても、一向に撤去の話が出ないのだ。

「来月の定例祭が終わったら片付けるのよ。あの準備って結構大変だしね。私はその頃はもういないけど」

「え、そんなあ・・・」

 染谷が答えると、あやめが悲しそうな声を上げた。夏音が聞いたら嫉妬していじけるぞ。

「定例祭の前にはまた来るから。終わったらすぐ帰るけど」

「絶対ですよ」

 あやめが熱い眼差しで染谷を見つめた。

「稀代さん、ちょっと」

 不意に、紗代が俺のそばにやって来た。

「はい、何か」

「申し訳ないんですが、伝所さんの仕事を手伝ってはもらえませんか? 」

 紗代が申し訳なさそうに俺を見た。

「実は、伝所さんの所にTVの取材が入りまして・・・」

 紗代が言うには、この地方のローカルテレビ局が取材に来るらしいとの事だった。何でも地元の見どころを再発見すると言う企画で、神社や周辺のアクティティーを紹介するそうだ。取材を受けるのは二週間後らしく、少しでも早く段取りを進めておきたいと夏音から応援の依頼が入ったらしい。

「伝所さんも引き継ぎそうそう大きな仕事が入って来て大変みたいだから。稀代さん、申し訳ありませんが、お手伝い宜しいですか? 」

「分かりました。じゃあちょっと役場に行ってきます」

 俺は紗代にそう告げると、社務所を出た。そして再び役場へ向かう。

 役場に着くと、夏音が上機嫌で出迎えてくれた。

「着任そうそうテレビの取材だって。凄いと思わない? 」

 夏音――伝所が言うには、俺達がアップした定例祭や大祭の動画を見て、取材を思い立ったらしい。夏音におんぶにだっこだけれども、俺の動画も登録者数や再生回数が爆発的に増えており、テレビ局は二人の動画投稿者が移住するに至ったこの郷の魅力を追求すると言うものだった。

「てことは、俺も取材を受けるのか? 」

「そだよ。だから、心してかかる様に」

「了解承知でござる」

 俺は伝所に平伏した。俺が動画運営に本格的に乗り出して収益化につながったのも、元はと言えば彼女の存在が大きかった。プロット作成から、取材の進め方、動画の編集と、必要なノウハウを根本から叩き込んでくれたのだから。

「クローズアップするのは観光面がメイン? 」

「それが番組の趣旨だからね。都市伝説的な番組あったら断ってたかもよ」

 確かに、だ。以前、大鉈も言っていたが、都市伝説的な面ばかりがクローズアップされても、山へ不法侵入者が増えるばかりで困る一方なのだ。もっと郷のいい面がある訳で、出来ればそちらを売り込みたい心境なので、今回の企画は双方の利にかなったものだった。

「早速だけど・・・」

 伝所がパソコンのキーを叩いた。

 画面に『テレビ局取材草案』と言うタイトルと共に、いくつかの文章が現れる。

「御代さんも相談して、大体こんなとこかなってのを作ってみたから見てみて」

 伝所に促され、俺は文章を眼で追った。

 キャンプ場、温浴施設、湖のカヌー体験やマス釣り、フィールドアスレチックを前面に出し、補足的に御山と神社を紹介すると言う流れの構想だった。

 御山巡りも触れるが、積極的には出さないし、御山についても禁足地である事を全面に出し、過去の事件等には触れないと言う。これについては俺も同感だ。大祭の時もそうだが、未だに隙を見て登山道に入ろうとする輩が後を絶たないのだ。

「こん感じでどう? まあ、テレビ局の方がこれを受けてくれるかどうかだけど。」

「いいんでねえの」

 伝所の問い掛けに俺は頷いた。

 俺と打ち合わせをするまでも無い。ほぼ構想は固まっているのだ。

 流石に仕事が早い。大したものだ。

「ありがと。じゃあ、これはこれで良し、と」

「それじゃ、俺、神社に戻るし」

「あ、ちょっと待って! いいもの見せてあげる」

「え、いいものって? 」

「ついて来てっ! 」

 彼女は席を立つとカウンターを抜け、窓側の古びた階段の登り始めた。

 慌てて俺も後を追う。

 幅が一メートル程の古びた木製の階段は、一歩踏み出す毎に甲高い悲鳴を上げ、崩壊するかもしれない恐怖を、地味に俺の意識に刻み込んでいく。

 いいものって何?

 俺は先を行く伝所を見上げた。

 ミニスカートの奥に覗く白い魅惑を凝視する。

 まさかこれじゃないよな。

「ここよ」

 伝所は立ち止まった。階段を上がり切った所に狭いながらも踊り場があり、その奥に重厚な木製の扉が行く手を阻んでいる。

「どうぞ」

 彼女はゆっくりと扉を開いた。

 同時に、闇の世界が俺の視界を閉ざす。

 彼女は手探りで部屋の照明のスイッチを入れた。

「これは・・・」

 俺は息を呑んだ。

 部屋には、無数の木製の書庫が理路整然と並んでいた。

 頑丈な木の扉で隠されたそれは、恐らく重要な書類や資料が保管されているものと思われた。

「住民票とか出納帳とかが保管されているんだけど、ちょっと変わったものを見つけたのよ」

 伝所は一番奥の書庫に向かうと、重厚な扉を開けた。

 中には数段に仕切られた棚があり、そこには麻紐で綴じられた無数の書物が収められていた。

「これが多分、一番古いやつ」

 伝所が俺に手渡してくれた書物は、全体的に茶色っぽく変色したり角がよれよれにはなっているものの、破れたり破損したりはなく、極めて原型をとどめている様だ。

表紙には『明応元年ヨリ記ス』と書かれている。

「明応元年って、西暦何年だろう」

 俺が首を傾げると、夏音がひょいと横からメモを渡してくれた。メモには、『明応元年(一四九二年) 戦国時代』と書かれていた。

「そう言うと思って調べておいた」

「有難う! 流石だな」

「だしょっ!」

 俺が褒めると伝所はドヤ顔で俺を見た。

「明応元年からこの記録を残したって事は、実際にはもっと前からあったって事か」

「そう言う事よね」

「でも、屋号の歴史って、そんなに古くないはずだろ? 確か江戸時代位から始まったんだよな」

 知ったかぶって言ってみたけど、実は民俗学に詳しい友人の受け売りだ。

「農村部は昔からあったって聞いた事があるよ。それに、この郷って落ち武者がひっそりと暮らす隠れ郷の様な所だったんでしょ? ひょっとしたら、ここに逃げ落ちて来た戦国時代の敗戦武将達が、自分達の身元を隠すために名字を捨て、屋号で呼び合う様になったのかも」

 伝所は興味深い仮説を打ち出した。

 成程、そう解釈すれば合点がいく。

「ふうん」

 俺は頷きながら資料を捲った。屋号帳の記録は一年毎にとられており、その末尾にの行に、前年との比較が書かれている。見る限りは『前年ニ同ジ』で、屋号に増減は無かった。

 否、今の言葉を撤回する。

 何ページ目だろうか、『染谷 加筆』の文言があった。染谷の屋号は俺やあやめ――御前と同じく、新しく加わったものだったのか。何代も前だから、恐らく本人は知らないのかもしれない。その後も見続けると時折、加筆の字が目に留まった。ざっと見た感じ、百年位に一度、一人ずつ新たな屋号が加わている。

 じゃあ、この周期で見ると、今年はその百年後に当たるのか。

 でも、何故今回に限って二人増なのだろう・・・あっ、そうか。

 俺には心当たりがあった。

 釜屋だ。釜屋の屋号が消失したから、今回は二人になったのだ。

 悲しい現実が、こんな形で浮き彫りにされるとは、胸が痛む話だった。

 まてよ。

 時間系列がおかしい。

 俺と御前が新規の屋号を承ったのは、釜屋が暴挙に出る前だ。

 釜屋が反旗を翻すことを、産童神は予期していたのだろうか。

 でないと、この不文律は成立しなくなる。

 神は全てお見通しって事か。

 俺は資料を閉じた。

「有難う。伝所さんはこれみんな見てみたの? 」

 俺は資料を書庫に戻し、扉を閉めた。

「まだだよ。でも時間があるからさ、ちょこちょこ見てみようと思って。役場の仕事、暇なんだよね」

 伝所は気怠そうに笑った。

 なんてこった。こいつ、早くも余裕こいてやがる。

 順応性が早いと言うか、ワークスキルが高いと言うか。

 普通の企業に勤めていたら、早々に出世するタイプとみた。これを言っちゃ𠮟られるかもだけど、こんな所でのほほんと暮らすのはもったいない人材だ。

「谷上さんから動画配信も勤務時間内でいいからっていわれてるからさあ。まあ、ネタはこの郷内中心になるから、丁度郷のPR動画って事でいいんじゃね? ってことになってるし」

「ゆるゆるだな」

 俺は内心苦笑いだった。お堅いイメージの役所仕事はかけ離れている。

「そういう事だから、何かあったら連絡する」

「分かったよ。まあ俺も神職の資格を取る勉強をしなきゃだろうから、その合間をぬってだけど」

「えっ? そんなのいらないよ」

 呆気にとられる伝所の顔を見て、更に呆気にとられる俺がいた。

「えっ? 何故に・・・」 

「産童神社は神社庁に属していないから、別に取らんでもええだよ」

 伝所が言うには、神社庁に属する神社の場合のみ、神職資格をとらなきゃならんらしい。

 そもそも俺も根本的に思い違いをしていたのだが、彼女が言うには、神社庁は国家組織じゃなく、日本にある神社をまとめる神道系の組織、言わば宗教団体なんだそうだ。神社庁配下の神社は神職に付くための教育や資格取得等、色々と取り決めがある。但し、全ての神社が属している訳ではない。産童神社の様に、この組織に属さない神社は、こういった取り決めに縛られないらしい。

「マジか」

「うん、マジ」

 自信たっぷりに言い切る伝所を、俺はぽかんと口をおっぴろげたまま見つめた。

「あ、有難う。ちょっと気持ちが楽になった」

「それはめでたい」

 伝所はそう言うとニヤッと笑った。 

 神職資格の件は、特に紗代からも何も言われておらず、俺が勝手に必要に違いないと思い込んでいただけだったのだが、祝詞もろくに覚えていないのに、資格取得の勉強もしなきゃいけんのはちと辛いぞと、一人悶々としていたのだ。 

「ほっとしたんで帰るわ」

 俺は心地良い倦怠感を引き摺りながら、役場を後にした。

 思わぬ展開で無くなった緊張と重圧の代わりに、欲望を放出した後に訪れる賢者の訪れに近い虚無が、俺を支配していた。

 俺は涙を流していた。

 意味も無く、突如心の奥底から込み上げて来る寂寥の調べに、俺の涙腺は脆くも其の結界を崩していた。

 親しくしていた人達が、一斉にいなくなった――この現実が、俺の心に空虚を生んでいるのは確かだった。

 俺は車を道の退避所に停めた。

 無性に、谷上が渡してくれた手紙を読みたくなったのだ。

 携帯に取り込んだ画像ではなく、彼女の温もりが残る手紙そのものを。

 一見、普通のメモ用紙。内容も、熱烈な愛の告白という訳ではない。

 それでも、そこには彼女との思い出が宿っている様に思えた。

 面倒見の良い谷上の存在は、歳が離れている事もあってか、異性と言うよりも母親に近い感情で接していたような気がする。

 ただ、奉納の儀を境に、俺は彼女を女性として捉えるようになった。

 男は単純な生き物だと思う。

 特に俺は、その中でも特に単純な生き物だと思う。

 単純故に、ただただ込み上げてくる感情が抑えきれず、暴走してしまうのだろう。

 俺はグローブボックスを開け、車検証のファイルを取りだした。

 メモは誰にも見られない様、この中に挟んであるのだ。内容は別に紗代や伝所に見られても差支えの無い様な他愛のない内容だったけれども、絶対に誰にも見せるなと言った彼女の言葉を、俺は固く守っていた。

 メモを広げると、見覚えのある文字が理路整然と行を埋めている。几帳面な谷上らしい書跡だ。

 ぼんやりと字面を追う。

 刹那。

 思わず息を呑む。

 文字が、崩れた。

 右端から、細かな粒子となって静かに崩れて行く。

 まるで、打ち寄せる波に崩れて行く砂山の様に。

 何なんだ。これは・・・。

 愕然としながらも、俺は消えゆく言の葉に意識を注いだ。

 谷上が、俺に何かを訴えかけているのか。

 この郷を離れ、「神乃御力」を喪失する前に仕掛けた言霊なのか。

 不意に、携帯が鳴る。

 紗代からだ。

「稀代さん、大至急神社まで戻って来て下さい」

 紗代の切羽詰まった様な声が耳に響く。

「分かりました。何かあったんですか? 」

「戻ってきたら話します」

 切れてしまった。

 紗代の口振りからして、尋常ではない事態が起こったのは明らかだった。

 俺は車を動かすと、アクセルを目一杯踏み込んだ。

 加速が生んだ押さえつけられるような重力の圧に耐えながら、俺は農道を突っ走る。

 表参道に入ると、参拝客が通行していないのを確かめ、車を住居の駐車場に入れた。

 社務所に向かうと、紗代と染谷、あやめが沈痛な面持ちで俺を出迎えた。

 三人は受付から少し離れた奥に佇み、無言のまま俺を見つめていた。

「何があったんですか? 」

 俺は暗い表情の紗代に問い掛けた。

「谷上さんが交通事故に・・・」

 紗代は、眼を伏せるとそう言葉を綴った。

 声が出なかった。

 俺はただ、紗代の顔だけを見つめていた。

 交通事故? 谷上が? 

 ほんの何時間か前に、名残惜し気にこの郷を出て行く彼女を見送ったばかりなのに。

 実感が無かった。

 余りにも突拍子の無い話に、俺は現実を受け入れられずにいた。

 ひょっとしたら。

 さっき、車中で見た手紙。紙面の字が崩れながら消えたのは、彼女の身に起きた不幸を知らすためだったのか。

「怪我は・・・? 」

 俺は唸るような声を絞り出す。

「意識不明の重体・・・だそうです」

 紗代は、言葉を詰まらせながらゆっくりと言葉を綴った。

 事故の連絡は彼女の父親から入ったそうだ。

 谷上の両親もここの神社を懇意にしており、紗代とも面識がある為、彼女にすぐに連絡を入れたとの事だった。

 事故の内容はこうだ。谷上が市街を走行中、反対車線から暴走してきた車が、センターラインを越えて彼女の車に正面から突っ込んだらしい。

 相手は二十代の男性四人で、運転していた男性と隣の男性は即死、後部シートの二人もシートベルトをしていなかった為、前列の二人の頭部に激しく激突し、自身も頭を強く打って意識不明の重体だと言う事だった。

 加害者の四人だが、どうやら違法薬物を摂取しながら運転していたらしく、それが原因で暴走、事故に至ったらしい。

 俺は大きく息をついた。

 谷上は、全く悪くない。

 完璧なもらい事故だ。

 俺が呆然と佇んでいる間に、 伝所と陣屋、籠屋が駆け付けた。

 三人は紗代から話を聞くと、顔を真っ青にしてその場にへたり込んだ。

 彼女達の頬を、涙が止めども無く流れる。

 三人は谷上から色々と面倒を見てもらっており、特に伝所は何日か寝食を共にしていただけに、今回の不幸は俺以上に深い衝撃を受けているに違いなかった。

「祈りましょう。私達に出来るのは、それしかありません」

 紗代は目を潤ませて俺達を見た。

 俺達は黙って頷くと、彼女に従った。

 俺と伝所、陣屋そして籠屋は大急ぎで神事の装束に着替え拝殿に向かった。

 拝殿では、先に向かった紗代達が祈祷の準備をし、俺達の到着を待っていた。

「それでは始めます。今回は皆さんも一緒に祝詞を奉上してください」

 紗代はそう言うと、神殿に向かい、二礼すると。神鈴を鳴らした。

 清涼な鈴の音が、殿内に静かに響き渡る。

 紗代が、言霊を紡ぎ始める。

 同時に、皆一斉に祝詞を奉じ始めた。

 ただ一人、俺を除いては。

 御前はいち早く紗代から指導を受けており、元々努力家と言う事もあってか、完璧に習得したようだ。驚いたのは伝所、陣屋、籠屋の三人だ。彼女達は淀むことなく言霊を紡いでいるが、表立って指導を受けていたようには見えなかった。ひょっとしたら、先代達から猛特訓を受けていたのかも知れない。

 俺は戸惑いながらも、分かる範囲で言霊を紡いだ。

 まるで感電したかの様に、全身の皮膚がぴりぴりと痺れる。

 紗代の神気だった。

 彼女の全身から迸る夥しい気の波動が、俺の皮膚を刺激しているのだ。

 こんな強烈な神気は初めてだ。霊道を塞いだ時を遥かに凌ぐ覇気に、俺は意識を持って行かれない様、必死に耐えた。

 郷民ならまだしも、一般の参拝客なら、拝殿の前に立つだけで気を失ってしまうかもしれない。

 神事は粛々と取り行われ、神鈴の音と共に終了した。

 紗代は二礼二拍一礼後、その場に蹲った。

「御代さん、大丈夫ですかっ! 」

 俺は紗代に駆け寄った。

「有難う。大丈夫です」

 紗代は息絶え絶えになりながら頷いた。

 俺はぎょっとして紗代を見つめた。

 変わりない。いつもの紗代だ。

 さっき見たのは、何だったのだろう。

 ほんの一瞬、俺には彼女の顔が年老いた老婆の様に見えたのだ。

 俺は、紗代を抱きかかえると、拝殿を後にした。

 憔悴し切った紗代を住居の自室まで連れて行く。流石に着替えは染谷と御前に任せ、俺は伝所達と社務所に戻った。 

「みんな、凄いな。祝詞、完璧に覚えたんだ」

 俺は伝所達に話し掛けた。

「不安だったけど、何となく言葉が口から出るんだよね」

 伝所が答えると、他の二人も頷いた。

 陣屋や籠屋も、紗代や仙台の二人から言われて、屋号を承った日から必死に覚えようと陰ながら努力していたらしい。

 何の事は無い。俺が一番さぼっていただけなのだ。

 染谷と御前が社務所の戻ると、伝所達は何かあったら伝えて欲しいとだけ言い残し、それぞれの職場へと戻って行った。

「染谷さん」

「分かっている。それ以上は言うな」

 俺の問い掛けを、染谷は封じた。

 俺は納得いかなかったものの、応じない訳にはいかなかった。

 彼女の眼から迸る矢の様な覇気が、俺の喉元に容赦無く突き刺さっていたのだ。

 俺が彼女に問い掛けようとしていた事案は二つある。

 一つは、紗代の顔が一瞬老婆に見えた事。

 もう一つは、祈祷中、産童神が俺の元に訪れなかった事。俺に何かを伝えていただけるのではと思ったのだが、御姿を現すどころか素振りすらなかったのだ。

 何となくすっきりしないままに、時間が過ぎて行った。

 その後、紗代が社務所に姿を見せる事は無かった。

 俺達は五時に社務所を閉めると、住居に戻った。

 紗代の様子を見に行くと、相当体力と精神力を消耗したらしく俺が部屋を覗いても起きる気配は無かった。

 俺はベッドのそばまで行き、彼女の顔を覗き込んだ。

 いつもの紗代の顔だ。

 あの時の、一瞬垣間見たあの顔は、いったい何だったのだろうか。

「稀代さん、今夜の奉納の儀はお預けよ」

 いつの間にか、俺の背後に染谷が立っていた。

「染谷さん・・・」

「あなたが言いたい事は分かっている。二つともね。どちらも、そのうち分かる事だよ」

「これも、シキタリなんですか」

 俺は憤る気持ちを押え乍ら言葉を綴った。数々の妙な決まり事は全てシキタリによるものなのだ。誰がいつ決めたのか分からない規範に、郷民達は束縛され、知らず知らずのうちに虜囚と成り果てているのだ。それ故に、ここでは当たり前で日常的な、しかし世間では不条理に満ちた現象と捉えられる出来事も、それが外部に漏洩しない様、頑なにシキタリによって守られているのだ。

「そう、シキタリなの。私からは多くは語れない。でも、稀代さんにもいずれ分かる日が来るよ。私としては、来て欲しい」

「・・・」

 俺は無言のまま、染谷を見た。

 染谷は含み笑いを浮かべながら、優しく俺を見つめていた。

「さあて、晩御飯は私が作ろうかな。御前さんもショックで何もする気が起きないみたいだし。こうなりゃ私のスペシャルなディナーでも――」」

「染谷さん、待って下さい」

 部屋から立ち去ろうとする染谷を、俺は慌てて引き留めた。

「晩飯は俺が作ります」

 

 

 


 




 

 


 

 

 


 

 

 

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