第14話 胎動

「有難う御座いました」

 社務所の前で、四方が紗代達に深々と頭を下げた。

「どうもお世話になりました」

 宇古陀もニット帽を取り、頭を下げる。が、お腹の贅肉が邪魔をしてか、物理的に四方レベルまでは頭が下がらない。

 その事実を知ってか、染谷とあやめは必死で笑うのを我慢している。

 河原での退魔戦を終えた後、まず最初にみんな拝殿に向かった。そこであやめと落ち着きを取り戻した夏音も加わり、お祓いをしたのだ。その後、改めて宇古陀のカメラを浄化する儀式を行った。儀式後、紗代からもう大丈夫とのお墨付きを貰った宇古陀は、終始笑顔で彼女に礼を述べていた。

「私は依頼者に報告しなきゃならないので、これで退散します」

 四方が穏やかな口調で言った。

「宇古陀さんは、どうするんですか? 」

 俺がそう問いかけると、宇古陀は目を細めた。

「私もこれで帰ります。次の取材がひかえているので、それに・・・」

 彼はそう答えると、拝殿の向こうに聳える御山を見上げた。

「これ以上、深掘りしたら、神様に叱られそうだしね。せっかく助けて頂いたのに。

 あ、でも、これからもちょくちょく来ますから。取材と言うよりも、カメラのお祓いにね」

 彼はしみじみ語ると、御山に向かって手を合わせた。

 それって、ちょっと違うと思うんですけど。

「宇古陀さん、手を合わせて拝むのは仏さんの前ですよ」

 四方が苦笑した。タイムリーな突っ込み、有難うございます。

「それでは、これで」

「失礼します」

 二人は俺達に会釈をすると、表参道を歩き始めた。

「あ、車で送りますよ。バスも本数が少ないですから」

 俺は慌てて二人に駆け寄り、声を掛けた。

「心遣い有難う。大丈夫、私達、それぞれ別の車で来てるんで」

 四方は笑顔で答えた。

「鴨川君」

 四方が俺の眼をじっと見つめた。

「はい? 」

 俺はきょどりながら半音上がり気味の返事で答えた。男同士なのに妙にどきどきしてしまう自分に驚きが隠せない。

「あなたはこれから今まで以上の力を覚醒すると思う。その時、色々な真実が見えてくると思うけれど、目を背けずに突き進んだ方がいい。最後に判断するのは君自身だからね。じゃあ」

 彼は真面目な表情で語ると、再び俺に背を向け、参道を歩んで行った。

 俺は呆然と佇んだまま、彼を見送った。

 彼は一体、何を俺に伝えたかったのか。

 今の俺には全く理解できなかった。

「四方さん、何か言ってました? 」

 ふと気が付くと、俺の横に紗代が立っていた。

 俺がさっき四方に言われた事を伝えると、紗代は仄かな笑みを浮かべた。

「不思議な方ですよね」

 紗代は視界から消えつつある四方の後姿を見つめた。

「そうですね。探偵業じゃなくて退魔業をした方が向いていますよね。あの力、どうやって手に入れたんでしょうね」

 俺は頷き、言葉を綴った。

 確かに、不思議な人だ。神社に戻って来る途中、車中で式神の事を聞いたのだが、『企業秘密です』とか言って笑いながらはぐらかされてしまった。宇古陀の話じゃ、いわくつきな『人探し』のプロらしいから、時間がある時にその辺のエピソードを聴かして欲しいとも思った。

 俺は他にも車中で彼にいくつかの質問を浴びせた。勿論、こちらから聞くだけでなく、俺の方からも情報は提供した。朝の湖畔で体験した、菅嶋達の例の一件だ。紗代も結界の中での出来事に戸惑っている事を話し、染谷も張った結界を簡単に切断された話をした。

 四方は終始静かに耳を傾けていたが、最後に深刻な表情で、内部に何か企んでいる者がいるのではと告げた。

 これは、自分は関わっていない事を暗喩しているのだろう。この事案を語る際の表情や目の動きに挙動不審な点は無く、虚偽の姿勢を貫いている様には思えなかった。

 でも、彼の言う通り、本当に内部に謀反を企んでいる者がいるとしたら。

 誰が。

 何の為に・・・。

「鴨ちゃん、お昼ご飯、一緒に食べません? 」

 紗代が徐に尋ねてくる。

「あ、御馳走様です。で、お昼は誰が作るんですか? 」

「残念ながら、染谷さんじゃないです」

「それは良かった・・・」

 安堵の表情を浮かべる俺を、紗代がくすくすと笑った。

 昼食はあやめ手作りのチャーハンだった。わかめスープに海藻サラダと流石栄養バランスを考えた献立だった。

 夏音もあやめの手作りとあって一気に元気を取り戻し、終始和やかな昼食の会となった。

 午後からは、夏音は伝所との引継ぎで役場に向かい、一人残された俺は神社に残って調べ物をする事にした。

 染谷は自分の結界が破られた件と湖畔での事件を結び付け、探りを入れて来ると言い残し、姿を消した。流石に巫女装束ではなく、ベージュのパンツに生成りのカットソーといったラフな格好に着替えていだ。

 社務所の手伝いを申し出たのだが、紗代が言うには、大祭までのしばらくの間は暇なので大丈との事だった。ほとんど社務所に詰めているので、何か聞きたい事があったら言って下さいとやさしいお声を掛けて頂く。

 以前、この郷や神社の歴史については調べた事がある。勿論、産童山で実際に起きた神隠しについても。確かあの時は詳細な記述が無く、そこで調査を断念したのだ。

 今回の調査はそれとは全く違うものだ。

 紗代が本祭の夜に奉じた祝詞、それと今日、亡霊の大群と対峙した時に産童神と交わした祝詞の意味と元になっている言語が知りたかったので、紗代の申し出はすこぶる嬉しかった。

 俺は筆記用具とカメラの機材を取りに、一旦車に戻った。

 キャンプ場兼駐車には、俺の車とテントが残されているだけだ。夏音は伝所の待つ役場に向かう際、テントを片付けて車に乗せて行ったのだ。

『ひょっとしたら、しばらく伝所さんの家で寝泊まりするかもしれない。私が引継ぎしている間、何かあったが撮っておいてね』

 彼女はそう言い残し、撮影機材を俺の車に放り込み、そそくさとキャンプ場を後にしたのだ。

 前祭、そして本祭と、あれだけひしめき合い、混雑していたキャンプ場や駐車場も、今や閑散として、妙に物寂しく感じられた。

 俺は必要な荷物をリュックに詰めてひとまとめにすると、社務所に向かった。

 社務所に戻ると、FU・FU・FUメンバーの三人が控室でお茶を啜っていた。

 朝、収穫した野菜を道の駅と下のキャンプ場や温浴施設に納品してきた帰りに寄ったとの事。

「鴨ちゃん、聞いたよ。悪霊をぶんなぐって倒したんだって? 」

 大鉈が興味深そうに笑みを浮かべた。

「まだまだ皆さんには、及びませんよ。多分、刀人さんの腹には勝てそうも無いです」

 俺がそう答えると、刀人はきょとんとした表情を浮かべた。

「どうだろう。俺、腹で幽霊殴ったことないし」

 彼はいたって真顔で答えた。この人、ひょっとしてとてつもなく天然な御方なのかも。

 成り行きと言っちゃ成り行きだったが、朝の湖畔での話から、四方達の話、そして河原での退魔戦と俺は事細かに彼らに話すことになった。彼らは俺の話に興味津々で、最後には、四方の話で盛り上がることに。

「式神を使役するとなると、陰陽師だな」

 大鉈がしみじみと語る。

「陰陽師、ですか。じゃあ、何処か山に籠って修行したんでしょうか」

「鴨ちゃん、それは山伏だよ」

 と、刀人からいたってまともな突っ込みが入る。

「そうだ。ちょっとお聞きしたい事があって。そのう、御山に熊が出るって本当なんですか? 」

 俺の問い掛けに、三人は首を傾げた。

「いるっていう話は聞くけど、見たこたあないな」

 大鉈が唸るように答えた。

「俺も、御山に登って御代さんから怒られた時に言われたのは覚えているけど、実際に見た事は無いねえ」

 弓曳が遠くを見つめるような目で呟く。

「あ、熊が来た」

 刀人がぼそっと呟く。

「お、野郎どもだけでお茶会かよ。寂しいねえ」

 引き戸が勢いよく開き、熊が出現――じゃない、釜屋だ。

「釜屋さん、どうしたんですか、その恰好・・・」

 俺は言葉を失った。

 俺だけじゃない。FU・FU・FUメンバーの三人も目が点になったまま固まっていた。

 釜屋はダークスーツ姿で現れたのだ。俺達は普段作業服やツナギ姿の彼しか見ていないので、違和感しか感じられず、笑いをこらえるのに必死だった。しかも、白い無地のワイシャツが彼の日焼けした顔を更に際立たせている。

「ひょっとして、郷外で葬式ですか? 」

 弓曳が釜屋に尋ねた。

「何言ってんだよ、道の駅で俺の作品の個展やってっから、様子を見て来たんだよ。結構売れたみたいだから、補充する必要もあったし。流石にいつものこぎたねえ恰好じゃいけないだろ? 」

「まあ、確かにですね」

 大鉈が最もそうな顔で頷く。

「そういや、お前ら、野菜の納品に来たよな? 」

 釜屋が大鉈に尋ねた。

「はい、行きましたけど? 」

 大鉈が恐る恐る答えた。

「やっぱりなあ。お前ら、俺が声掛けたのに無視して店出てったろ! 」

 釜屋の眼がぎろっと光る。

「え、そんなはずは――あっ! 釜屋さん、ひょっとしてサングラス掛けてませんでした? 」

 大鉈が引きつり笑いを浮かべる。

「ああ、これか? 」

 釜屋はポケットから黒いサングラスを取り出すと、俺達の前で掛けて見せた。

 途端に、俺達の間でどよめきが漏れる。

「釜屋さん、それ、反則です」

 俺は率直に感想を述べた。

 ただでさえ筋骨隆々の体躯の人がダークスーツをびしっと決め、おまけに黒のグラサンとくれば――これ言ったら偏見になるかもだし、あくまで俺の主観的意見を述べさせていただくと、どうしてもヤバいオニイサン系に見えてしまう。ごめんなさい。

 恐らくと言うか、確実と言うか、FU・FU・FUメンバーの三人も、道の駅で釜屋に声を掛けられた時、ヤバい人に呼ばれたと勘違いしたに違いない。

「御代さん、あやめちゃん、鯛焼き買って来たからみんなで食べなっ! 」

 釜屋は手に提げていた紙製の手提げ袋をテーブルの上に置いた。

 香ばしい皮の香りと甘い餡の匂いが袋の口から立ち昇っている。袋の大きさからして、ニ十個位はありそうだ。

「ご馳走様ですう・・・?」

 社務所側の引き戸が開き、満面の笑顔を浮かべた御代とあやめが現れ――固まった。引き攣った表情のまま、二人とも釜屋をガン見している。

「やっぱ俺、サングラス似合わねえのかな」

 釜屋は苦笑を浮かべながらサングラスを外した。

 釜屋さん、それは違いますぜ。似合う似合わないの問題じゃねえですぜ。

「釜屋さん、かあ」

 御代が安堵の吐息をつく。

「脅かさないでくださいよお! また変なのが来たかと思った」

 あやめに至っては半泣き状態だ。

「ごめん、ごめん、これお土産の鯛焼き。あんことクリームの二種類あるから」

「あ、有難うでござる」

 あやめはぺこりとお辞儀をして手提げを受け取った。ショックのせいが、語尾に若干の乱れがある。

「そういやあ鴨ちゃん、御代さんから聞いたけど、神様から屋号の啓示があったんだって? 」

 急に釜屋が俺に話を振って来る。

「はい」

「何て屋号? 」

「稀代です」

「稀代? 聞いた事が無いなあ」

 釜屋が首を傾げた。

「前例のない、新しい屋号だそうです」

 俺が答えると、釜屋は押し黙ったまま頷いた。

「大祭が終わるまでは鴨ちゃんのままですけどね」

 紗代がそう言うと、釜屋は口元を緩めた。

 何となく寂しそうな、そんな翳りのある笑みだった。

「ま、これからもよろしく」

 釜屋はそう言い残すと控室を出て行った。

「こちらこそ、よろ・・・」

 俺は中途半端に終わった挨拶のまま、釜屋の残像を眼で追い掛けていた。

「大鉈さん」

 刀人が深刻な面持ちで大鉈を見た。

「どうした? ん? 」

 大鉈が心配そうに眉間に皺を寄せた。

「鯛焼きが無い」

 気が付くと鯛焼きの包みがまるまる消えていた。紗代とあやめの姿も消えている。

 あやめの奴、全部持って行きやがった。

「おーい鯛焼きっ! 俺達の分はっ? 」

 大鉈が慌てて社務所に飛んで行く。

 しばらくすると、大鉈はにこにこしながら戦利品を持ち帰って来た。

 あやめはどうやら俺達がもう食べ終えたものと勘違いしていたらしい。

 しきりに謝られたよと大鉈は苦笑いしていた。

 良かったな、あやめ。誤解が解けて。食べ物の恨みって恐ろしいからな。

 不意に引き戸が開き、あやめが自分の取り分の鯛焼きと共に現れた。

 流石に社務所で食べる訳には行かないので、紗代と交代で食べるとの事だった。

「じゃあ俺、受付に入ってます」

 あやめが抜けた後のフォローに社務所へ向かう。別に忙しい訳じゃなかったので、助っ人はいらなかったかもしれないけど、色々と聞きたい事があったのであえてそうしたのだ。

「鴨ちゃん、私一人でも大丈夫よ。」

 紗代は俺の姿を見て、直ぐに優しく言葉を掛けてくれた。

「御代さん、俺、御代さんと話がしたくて。邪魔じゃなければいいですか? 」

「はい、大丈夫ですよ」

 紗代は微笑んだ。

「失礼します」

 俺は紗代の横に腰を降ろした。

「俺の気のせいかもしれませんが、さっき屋号の話が出た時、釜屋さん、何となく寂しそうでした」

 俺はさり気なく話を切り出した。

「まあ、仕方ないよ。釜屋さん、鴨ちゃんに自分の屋号を譲りたいって言ってたから」

 紗代は言葉を詰まらせながら、物憂げに答えた。

 俺は内心後悔した。

 ひょっとしたら、触れてはならない話だったのかもしれない。

「釜屋さんもこの郷を出るつもり? 」

 俺は紗代を見た。自分の後を誰か継がないかなあと言っていたのを、以前聞いた事があるような気がする。あれは俺に対して言っていたのか。

「ここの土もいいけど、違う土でも焼き物を作ってみたいんですって。益子って陶器で有名な所があるんだけど、そこに行って新たな自分を見つけたいんだそうですよ」

「釜屋さんがこの郷を出たら、屋号に空きが出るんですか? 」

「出れないんです。屋号を継ぐ者が現れなければ。それがシキタリですから」

 紗代が寂し気に答えた。

 俺は声を上げる事も出来ずに、紗代を見つめた。

 それで、釜屋はあんな立ち去り方をしたのか・・・。

 何とも言えない雰囲気を残したのまま去っていた彼の心情を、俺は今になって理解することが出来た。

「鴨ちゃん、あなたのせいじゃないから気にしないで。鴨ちゃんの屋号は神様から授かったものだから、誰にも変える事は出来ないのよ」

 紗代が優しく淡々と俺に語った。

「分かりました、有難うございます」

 俺は紗代の優しさを噛みしめながら、ただただ頷いた。

「御代さあん、有難うございます」

 あやめが社務所に戻って来た。

「行きましょうか」

 紗代が俺に声を掛ける。

「はい」

 俺は頷き、立ち上がった。

 俺達が控室に行くと、大鉈達も席を立とうとしていた。

「じゃあ、御代さん、鴨ちゃん、俺達行きますんで」

 大鉈はそう言うと、俺のそばまで近付いて来た。

「鴨ちゃん、釜屋さんの事、気にしなくていいから」

 彼は俺の耳元でそう囁くと、ぽおんと肩を叩いた。

「失礼します」

 三人は一礼すると、控室を去って行った。

「鴨ちゃん、私達も鯛焼き食べましょうよ。鴨ちゃん? 」

 紗代はそっと顔を覗き込んだ。

「泣いているの? 」

 紗代が小さく囁いた。

 俺は泣いていた。涙が止まらなかった。

 紗代の、大鉈の心遣いとやさしさが。

 そして、最も辛い思いをしている釜屋の、素っ気無い態度の中に見せた、さり気ない気遣いが。

 たまらなく、嬉しかった。

 みんな、なんでこんなに優しく出来るんだろう。

 人の出入りが激しいこの郷で、こんないい人間関係が築けるなんて。

 都会は勿論、郊外の田舎町だって、こんな優しく出来る人ばかりの所なんてありっこない。

「優し過ぎます・・・みんな。うれしいです」

 俺は嗚咽を漏らしながら泣きじゃくった。

「みんな、鴨ちゃんの事が大好きだから」

 紗代はそう言うと、俺を優しく抱きしめた。

 彼女の温かく柔らかな胸の感触に、俺は心地良い安堵感を覚えていた。

 俺は更に泣いた。紗代の胸に顔を埋め、声を押し殺しながら泣き続けた。

「鴨ちゃん、涙を拭いて。鯛焼きを食べましょう。ひょっとしたら、染谷さん帰ってきちゃうかも」

 紗代が優しく微笑んだ。

「もう帰って来てるんだけど」

 俺は慌てて振り返った。戸口でにやにや笑う染谷と目が合う。

「あ、これは、その・・・」

 俺は慌てふためきながら紗代から離れると、社務所の戸の隙間から覗いている目を発見。

 俺と目の合ったあやめは、覗き見がばれてまずいと思ったのか、慌てて引き戸をしめた。

 もう遅いって。

 俺は染谷に慌てて状況を説明した。

「ふうん、屋号の一件ね。あれは神様の啓示だから、私達じゃどうしようも無い事だもの」

 染谷が頷く。

「たぶん、新しい屋号はこれからも増えると思いますよ。神様もそれを望んでいるようですし」

 紗代が中空を見つめた。その仕草は、まるで神に問い掛けているかのように見えた。

「染谷さん、鯛焼き食べませんか? 釜屋さんからいただいたんです」

「え、こんなにいっぱい? 食べきれない」

 紗代に手提げ袋いっぱいに入った鯛焼きを見せられ、目を丸くした。

 この人、自分一人で食べるつもりなのか。

 染谷を加えて三人で鯛焼きのおやつタイムを速攻終わらせると、直ぐに社務所に戻った。ここで三人でひそひそしゃべっていたら、あやめがいじけるに違いない。特に屋号の件についてはあやめも気にしているようだし。あやめを一人にしておくのは可哀そうだしいじけそうだったので、俺たちなりの配慮だった。

「私が、釜屋継ぎます? 」

 社務所に戻ると、あやめが思いつめた表情で言った。話が全部筒抜けだったらしい。それに、さっき覗き見してたし。

「有難う。でもね、あやめちゃんにはあやめちゃんに相応しい屋号が神様から授けられますから」

 紗代があやめに優しく答えた。

「紗代さん、教えて欲しい事があるんですけど」

「何でしょう」

 俺の問い掛けに、紗代が身を乗り出した。

「本祭の時や、今日、黒龍神様を召喚した時の祝詞なんですけど、日本語じゃあないですよね? 」

「日本語ですよ。と言っても、古代の言葉なんですけど。そうだ、あやめちゃん、あの本持ってます? 」

 俺の問い掛けに紗代は即答するや否や、あやめに声を掛けた。

「ありますよ。空き時間に勉強してますから」

 あやめは受付の台の下から、淡いクリーム色の表紙の和綴じ本を取り出し、俺に手渡した。

「有難う。ちょっと見せてもらうね」

 俺は本の表紙を捲った。

 えっ・・・!?

 一瞬にして、思考が凝固する。

 見開きの一面には、円や半円と曲線、直線を組み合わせた暗号の様なものがびっしりと書かれ、その反対には、暗号? を訳したものがカタカナで書かれているが、訳文自体、ただ読み方を書いてあるだけで、意味はさっぱり分からなかった。

「これは・・・なんて文字何ですか? 」

 俺は書物から顔を上げ、紗代に問うた。

「カタカムナ文字と呼ばれています。研究なさっている方が何人もいるそうですが、今だ謎の多い古代の言葉だそうです」

 カタカムナ文字・・・どこかで聞いた事がある。古代文明の文字、だっただろうか。

「この言葉の意味と言うのは・・・」

 俺は更に疑問を紗代にぶつけた。

「今は教えられません。ただ、鴨ちゃんにもそろそろ覚えて頂かないといけませんから、いい機会だから、今、お渡ししますね」

 紗代は席を立つと社務所を後にした。どうやら住居の方に保管しているらしく、しばらくすると、あやめの物と全く同じ和綴じ本を一冊手に戻って来た。

「お待たせしました。どうぞ」

「あ、有難うございます」

 俺はあやめに借りていた秘文書を返すと、紗代から本を受け取り、頭を下げた。

「この秘文書は門外不出ですから、目を通すのは神社の中だけにしてください。其の日の終わりには、必ず私に返してください」

「分かりました」

「最後にもう一つ。この内容は絶対にSNSにアップしないで下さい。万が一、秘密が漏洩した場合・・・」

「どうなるんですか? 」

「命の保証は出来ません」

 紗代は抑揚の無い淡々とした口調で、俺にそう言った。

 俺は無言のまま頷いた。 

 紗代の紡ぐ言霊には、今までにない重圧が込められていた。

 参拝客が少ない事も幸いして、俺は秘文書に目を通し続けた。暗号のような文章には規則性があり、意味は分からなくとも、音を覚えるのは思っていたより覚えやすく思えた。

 その日、俺は社務所を閉めるまで居残り、文書に掛かれた祈祷の文字を頭に叩き込み続けた。

 結局、夕ご飯もこちらでお世話になり、入浴した後、キャンプ場へ戻った。

 夜のキャンプ場は昼にもまして寂寥に淵に沈んでいた。広いキャンプ場に俺のテントと車だけが取り残されたかのように佇んでいる。

 この孤独感を楽しむために、ソロキャンプに出掛ける人も多いと思う。世間のしがらみから逃れて、自分自身の時間を見つめ直すには、もってこいだろう。

 最初は、俺もそうだった。気ままな一人旅を通じて、自分自身を見つめ直し、疲弊した魂を癒す事に専念していた。

 人との交流を遮断して、その気楽さに歓喜し、己の時間を満喫する日々を送っていた。

 でも、今は違う。

 寂しかった。

 とてつもなく人恋しかった。

 静かな虫の音が、俺の心の隙間を更に押し広げて行くような気がした。

 俺はスマホを手に取った。

 以前、産童神の事を尋ねた友人に、カタカムナ文字について尋ねてみようと思ったのだ。

 俺からのコールに、彼はすぐに応対してくれた。

「おう、どうした? 何か新しい事でも分かったのか? 」

「実はさ――」

 俺は彼に神社の祝詞がカタカムナ文字で書かれている事を伝えた。産童神から屋号の啓示を受けた事や色々起きた怪異については、取り合えず伏せておいた。

「本当かよ、それ・・・」

 電話の向こうで、彼が動揺し、激しく興奮しているのが伝って来る。

「現物が見たい。画像とかないのか? 」

「門外不出のものらしい。流石にそれは無理だ。そんなことしたら、俺はここにいられなくなる。まずは郷民にでもならないと」

 厳密には祭司役にならないと見れないようなのだが、あまり細かく伝えると郷のシキタリに引っ掛かりそうなので、その点はぼやかした表現に変更した。

「そうか・・・分かった。また何かあったら教えてくれ」

 そう言うと、彼は電話を切った。

 カタカムナ文字って、そんなに凄いものなのか。

 確かに、SNSで検索掛けてみると、沢山の情報が流れ込んでくる。

 それだけ注目度が高いのにもかかわらず、何も知らなかった俺の方が珍しいのか。

 難しい事は分からんけど、どうやら古代文明の言葉で、日本語の源泉らしい。

 紗代の話では、社を立ててお祀りし始めたのはそう古くも無いように思えた。でも、産童神のルーツを紐解くと、想像を絶するほど遥か昔って事だ。

 嘆息がこぼれる。

 山間にひっそりと存在する小さな郷に、こんなとんでもない歴史の浪漫が秘められているとは、思いもよらなかった。

 明日は、郷の図書館に行って関連する文献が無いか漁って見よう。

 ごろりと簡易ベッドに横になる。

 虫の音に混じり、時折がさがさと薮を歩き回る足音がする。恐らくは狐か狸。もしくは猪か。

 刀人の話では鹿もいるらしい。登山道口を警備中に、立派な角を生やした雄の鹿が登山道を登っていく姿を目撃したそうだ。角には鈴がいっぱいぶら下がっていて、歩くたびにしゃんしゃんと鳴ったそうだが、これはどうも嘘くさい。

 獣の足音には、最初散々びびったけれど、今となっては風音と変わらない、ありふれた自然界のBGMとなっていた。

 俺は耳を澄ませた。

 自然界の生物たちが奏でるシンフォニーに、それとは違った音源が混じっていた。

 虫の音に混じり、等間隔で刻む旋律。

 足音だ。それも確実にここに近付いてきている。

 俺は息を呑んだ。

 嫌な気配はしない。

 しないと信じたい。

「神乃御力」に目覚めたとはいえ、まだ生まれたてのほやほやなのだ。自分の感覚を何処まで信じればよいのか分からなかった。

 もし足音の主が、俺を陥れようとしている誰かならどうするか。

 負の予兆が脳内で連鎖し、俺の首をじわじわと締め付ける。

 足音は俺のテントの前で止まった。

 生唾を、ごくりと嚥下する。

「鴨ちゃん」

 外から俺の名を呼ぶ声――紗代だった。

「どうしたんですか? 」

 張りつめていた緊張が一気に緩み、抱いていた負の思考は跡形も無く溶けて崩れた。

 俺はテントのファスナーを開けた。

 外には、紗代が前かがみで立っていた。白地にモノクロの風景がデザインされたカットソーとデニムのスキニーパンツ姿で、手には大きなレジ袋を提げている。

「入っていい? 」

 紗代が遠慮がちに尋ねて来る。

「あ、どうぞどうぞ。狭いですけど」

 俺は彼女を招き入れた。自然と笑顔がこぼれて来る。

「へえー、テントの中ってこうなっているんだ。思ってたより広いや」

 紗代は物珍しそうにテントの中を見回した。

「このテント、四人用なんです。一人用だと圧迫感があって落ち着かなくて」

「鴨ちゃん、閉所恐怖症? 」

「そう言う訳じゃないんですけど。あ、かったらここに座って下さい」

 俺は簡易ベッドの横に腰を降ろすよう、彼女に勧めた。

「よかったらこれ、飲んでください」

 紗代は手に持っていた白いレジ袋から酎ハイを取り出した。

「有難うございます。あれ、紗代さんは飲まないの? 」

 俺は紗代の手に握られた缶のコーラに気付く。

「私、下戸なんですよ」

「そうなんだ・・・じゃあ、頂きますね」

「どうぞ。おかわりもありますから」

 紗代はそう言って重そうなレジ袋を持ち上げて見せた。

「でも、どうしてこんな夜更けに? 」

 俺の問い掛けに、紗代は顔を赤らめて俯いた。

「鴨ちゃん、寂しがってるんじゃないかと思って」

 俺は言葉を詰まらせた。図星だっただけに動揺してしまい、何の言い訳も出来なかった。

「当たってます・・・」

 俺はどうすること出来ずに、仕方なく正直に答えた。

 彼女は優しく微笑むと、身体をぴったりと摺り寄せて来た。

「紗代さん、ここには黙って来たんですか? 」

 俺は照れ隠しに速攻で紗代に話し掛ける。

「いえ、二人には話してきましたよ。鴨ちゃんが心配だから、様子を見て来るって」

「え、話してきたんですか? 二人は何か言っていました? 」

「くれぐれも間違いを起こして来て下さいって。どう言う事ですかね? 」

 紗代は困った表情を浮かべながら笑みを浮かべた。

 それは、その、あれじゃないですか――そう思わず言いそうになった俺だが、かろうじて残っていた理性のサイドブレーキがここぞとばかりに効いてくれた。

 有難う、理性。俺は君を忘れない。

「あの、その、二人は今、何してるんですか? 」

 俺は紗代の問題発言に動揺しつつ、気を紛らそうと彼女に問い掛けた。

「二人で宴会してますよ。奉納された日本酒の一升瓶を並べて。あの二人、めっぽうアルコールには強いらしく、私がこちらに向かう前から、コップ酒でぐいぐいやってましたよ。今はどうなったか・・・」

 恐ろしい話を聞いてしまった。あやめは確か、前にいた会社の忘年会で、『私、あんまり飲めないんですうっ! てへっ! 』とか言いながら、酔いつぶれる男どもを尻目に日本酒をぐいぐいあおってたのを思い出す。

 染谷さん、あのバケモノに付き合って大丈夫なのか・・・。

「紗代さん、聞こうと思ってたんですけど」

「何ですか? 」

「今日、見せてもらった本に載っていた祝詞の意味、まだ教えられないと言うのは何故ですか? 」

 俺は暴走しそうな自我の手綱を取るべく、あえて真面目な質問を彼女にぶつけてみた。

「意味を知れば、言葉に思いが宿ります。思いが宿った言葉は言霊となり、その言葉の持つ力が解放されるんです。特に、授けられた「神乃御力」が強力な人程、言霊は言葉に込められた力をより強化して発現するんです」

「そうなんですか・・・」

「鴨ちゃんはまだ気付いていないかもしれませんが、あなたはとてつもなく強い「神乃御力」を宿しています。これから修行することで、もっと覚醒し、コントロール出来るようになるでしょう。そうなった時に、祝詞の意味はお教えします」

 紗代は淡々と語った。

 驚きだった。俺にそんな力が眠っているのか。

 俺は紗代から貰った缶酎ハイを一気に飲み干した。

 神経が昂り、意識が底抜けに覚醒している。

 酔えそうも無かった。それどころか、寝れる気もしなかった。

「何だか、今日は寝れそうにないです」

 俺は空になった酎ハイの缶を、コンパクトテーブルに置いた。

「じゃあ、寝ずに夜を明かしましょうか」

 紗代がまったりとした笑みを浮かべた。

「えっ? 」

 俺は戸惑い、彼女をじっと見つめる。

「起こしましょうよ。間違いを」

 彼女は俺に抱き付くと唇を重ねた。

 幸せな無言の時が、ゆっくりと進捗を刻んだ。

 ふと、俺の脳裏にとある質問が過ぎった。

 問い掛けるなら、この瞬間しかないだろう。

「紗代さん。紗代さんはこの郷から出たいとは思わないんですか? 」

 俺は徐に彼女の耳元でそっと囁いた。

 何の前振りも無くそう問い掛けると、彼女は戸惑いの表情を浮かべながら、俺をじっと見つめた。

 それは、俺が何故、突然その様な問い掛けをしたのか、言葉の裏に隠されえた真意を探っている様に見えた。

 彼女は大きく吐息をつくと、俺から目線を逸らした。

「私、ここから離れる訳には行かないんです・・・」

 彼女はそう、寂しそうに呟いた。

 

 

 


 

 


 



 

 

 


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