第12話 侵襲

 空が白み始めた頃、俺は泥沼の様な睡眠から這い上がった。

 昨夜寝付いた時には、ひょっとしたら日が高くなるまで寝入ってしまうかもなんて思っていたのだけど、意外にも健全な早朝の目覚めだった。

 ただ、俺を睡魔の虜から呼び戻したのは野鳥の囀りではなく、夏音の『ちょっとしっこ入って来る』だった。

 黙って行けよとかせめて『お』を付けろよとか微睡ながら心の中でぼやいたものの、結局連れションすることになった。

 用を足し終えて、ついでに炊事場で顔を洗っていると、裏参道を降りて来る人影が見えた。

 紗代だ。ライトグレイのカットソーにデニムのスリムパンツと言ったシンプルな服装が、彼女の美貌と清廉な気品を余す事無く醸している。

 しばらく巫女装束の姿ばかり見ていたので、なんとなく違和感があるものの新鮮に思えた。

「おはようございます。よかったあ、二人とも起きてて」

 紗代が笑顔で駆け寄って来る。

「おはようございます、連日お疲れさまでした。こんな早くにどうされたんですか? 」

 俺が朝の挨拶をしつつ問い掛けると、紗代は頬を赤らめ、もじもじしながら俯いた。

「朝ご飯、一緒にどうですか? ここのところずっと一緒だったでしょ? だからご飯を炊き過ぎちゃって」

「あ、行きます行きます。俺達まだ食べてないんで」

「ご馳走様です! 」

 勿論、俺と夏音はすぐに承諾の返事。

 互いに例祭期間の労を労いながら、紗代の家に向かった。境内に入ると、参道沿いに吊るされた灯篭が朝露に濡れ、朝日を受けて白く輝いていた。

 いつもなら例祭終了後に一斉に外すそうなのだが、今月は大祭を控えているのでずっとこのままだそうだ。防水加工した和紙を使用しているので、ちょっとした雨や露程度では破れたりはしないらしい。

 紗代の家に着くと、染谷とあやめがキッチンでせわしなく動いていた。二人とも紗代同様、カットソーにデニムのパンツと言ったラフな格好だった。

「おはようございます」

 キッチンに向かって声を掛ける。

「おはようでござる。君達は幸せ者だよ。私の卵焼きが食べれるなんて」

 染谷が振り向くなりにんまりと笑う。

「そんなにおいしいの? 」

 紗代に聞くと、何やら意味深な笑みを浮かべた。

 どう言う事よそれ? と思ったが、勧められるままに席に着く。

「お待たせしました」

 あやめが山盛りの炒り鶏とサラダを運んでくる。

「じゃーん、出来ましたよ! お待ちかねの馬鹿でか特製卵焼き! 」

 染谷が大皿に巨大オムレツ級の卵焼きを載せて出現。もはや卵焼きじゃないだろ、これ。

 俺と夏音が呆気に取られて卵焼きと対面しているうちに、紗代がご飯と味噌汁を運んできた。

 食事の挨拶と共に、みんなの関心は馬鹿卵焼きに集中した。

 が、何故か取り箸の需要は炒り鶏とサラダに偏りがち。誰も箸を付けようとしない。

 染谷は平静を保って入るものの、口元が不満と悲しみに歪んでいる様に見えた。

 ここは俺が何とかせねば。

 やむなく先陣を切って卵焼きに手を付ける。

 卵焼きは既に切り分けられており、取り皿に取ると、何やら黄白色のものがどろりと溶けだした。

 恐る恐る口に運ぶ

 ふんわり柔らかな食感と共に甘い味が口いっぱいに広がり、更にとろりとしたコクのある風味に口角を緩む。

「おいしい・・・めちゃ旨! これ、中にチーズが入っているんだ」

 お世辞でも忖度でもない。本当に旨い。

「だしょう! 我ながら上出来って思ったよ。今日は大当たりだね」

 染谷は腕を組んで大威張りのポーズ。

 俺の表情を見た紗代が、卵焼きを取り皿にとって頬張る。

「ほんと、おいしい」

 紗代が驚きの声を上げる。

「今日は大当たりって事は・・・」

「あ、それ以上はNGワード」

 染谷は苦笑を浮かべながら両手で大きく×印を示した。

「染谷さん、チャレンジャーだから、色んなメニューに挑戦するのよね。それもオリジナルの」

 紗代がほんわりと答える。

「やっぱ、人生色々挑戦しないと。まあ、当たりはずれはあるけどね」

 染谷は苦笑しつつ、今回の大成功メニューにぱくついた。

「あ、ほんとにおいしい」

 染谷自身が驚きの声を上げた。てことは、今日のやつ、マジぶっつけ本番で作ったのか? 少なくとも味見はしていなそうだ。 

 食事が終わり、紗代が入れてくれた珈琲を飲みながら、くつろぎのひと時を楽しむ。

「御代さん、私、伝所さんの屋号を継ぐみたいです」

 夏音が紗代にぽつりと語った。

「神様からの啓示があったのね」

 紗代が微笑む。

「伝所さんにもカオちゃんが屋号を継ぐ啓示があったはずだから、後で連絡が入ると思いますよ」

「はい」

 紗代の説明を聞き、夏音は頷いた。

「鴨ちゃんは何て啓示を受けたの? 」

 染谷が俺に尋ねて来る。

「俺は、稀代って言われたんです」

 俺がそう言うと、紗代と染谷が驚きの表情を浮かべた。

「本当に、そう啓示を受けたのですか? 」

 紗代が俺に強い口調で念を押す。

「はい」

 俺が答えると、紗代と染谷が感慨深げに頷いた。

「この郷にも新しい時代が訪れるのかもしれませんね」

 染谷は表情を綻ばせた。

 どういう事なのか。当事者の俺は全く理解していないんだが。

「何か、まずい事でも? 」

 俺の問い掛けに、染谷は首を大きく横に振った。

「その反対ですよ。この郷に『稀代』と言う屋号は無いんです。でも神様よりそう告げられたとなれば、新たに屋号が増える事になります」

「そう、なんですか」

「今まではこの郷を去りたい方が現れた時に、入郷希望者の中から産童神様に選ばれた方がその屋号を受け継ぐのが通例になっていましたから」

「何だか凄い話ですね」

 思わず唸らずを負えない。昨夜、産童神から啓示を受けた時から、その神秘的な出来事に思考が錯綜していたのは言うまでもない。

 でも俺にとっては不条理な神秘性に満ちた出来事も、紗代達にとっては当たり前の事なのだ。

 俺もそのうち、当たり前の事だと慣れてしまうのか。

 紗代の話では、屋号が無くても郷民として受け入れられ、ここで生活出来るそうだ。事実、温浴施設やキャンプ場のスタッフにも屋号の無い郷民がいるそうで、因みにあやめもまだ与えられていないとの事だった。

 屋号の有無に関わらず、祭司役や守役と言った役付けは決められるそうで、決め手は本人が醸す「気」によるものだそうだ。それを見極める力を持つのは、現在、紗代と染谷の二人だけらしい。それと役付けも祭司役と守役だけでなく、他にもいくつかの役付けがあるそうだ。

 但し、屋号を授かれば、住居を無償で与えられ、「神の御力」も容易に覚醒するようになるとの事だった。

 そうなれば、あやめが紗代と同居している意味も分かる。まあ、染谷は別格なので例外として。因みに、染谷の住居は紗代の家の奥にあるのだが、雨漏りが酷いので修理中とのことで、今は紗代の家の一室をあてがわれている。

「実はさっき、鍵田さんに『陣屋』、辻村さんに『籠屋』を継ぐよう、啓示があったと陣屋さんから連絡が入りました」

 紗代が静かに言葉を綴った。それを聞いたあやめが、やや不満顔になる。

「いいなあ、あの二人」

「あやめさんには、もっとビックネームが啓示されるかもよ。鴨ちゃん――じゃない、稀代さんみたく」

 染谷があやめを慰める。染谷に言われてか、とりあえずあやめの表情に笑みが戻った。

「俺の屋号ってそんなに凄いんですか? 」

 あやめの不機嫌状態を再発させる危惧を予期しつつも、俺は思わず身を乗り出した。

「屋号が新しく増えるのは稀だと言う事は確か。でも屋号そのものに優劣はありませんよ」

 紗代が苦笑を浮かべ、調子に乗りかけている俺を窘めた。

「私、あの時、神様に『あなたに相応しい屋号を用意しますから、もう少しお待ちなさい』って言われた様な、言われてない様な・・・」

 あやめが困惑した表情を浮かべる。

「覚えていないの? 」

 紗代が苦笑いを浮かべた。

「はい、申し訳ないお話なんですけど、私、完全に意識が飛んでて・・・その、神様が上手過ぎて・・・」

「あやめちゃん、ストップ! 言いたい事はよく分かるから。これ以上鴨ちゃんを刺激すると奉納の儀をおっぱじめかねないから」

 染谷が慌ててあやめを静止した。

「えっ! 俺ってそんな風に見られてたんですか? 」

 俺は不満気にぼやいた。が、誰も否定せずに冷笑を浮かべると言う不穏な時間が過ぎていく。

「おはようございますう! 」

 伝所の元気過ぎる声が玄関で響く。

「どうぞ、上がって下さい」

 紗代が声を掛けると、ぱたぱたと言う足音と共に伝所が現れた。

 白地に猫のデザインが入ったカットソーにデニムのミニスカート。これでもかって言わんばかりの長い脚がすっと伸びている。

「おはようございます。いたいた! ここにいた! カオちゃん、屋号の啓示,あったでしょ! 」

「はい、有りました」

 夏音がそう答えると、伝所は前かがみになり、腰を俺の方に突き出した。

 当然と言うか必然と言うか、俺の位置からスカートの中が丸見えの状態になり、

伝所の臀部を覆うピンクのパンティーが視界いっぱいに写っていた。

「何処かで時間作ってくんないかな、引き継ぎたい事があるし・・・」

 本人はそんな事態なっているのに気付いていないのか、夏音と会話を続けていた。

 俺はと言うと、変に目線を逸らすのもどうかと思いつつ、半ば固まった状態で、至近距離に捉えられたクロッチの部分を眼で追っていた。

「じゃあ、そう言う事で。ごめんなさいね! 朝早くから御邪魔しましたあ! 」

 伝所はそう言い残すと、ぱたぱたと嵐の如く去って行く。

「伝所さん、カオちゃんに屋号を継いで貰えることになって嬉しそうでしたね」

 紗代が夏音に語り掛けた。

「伝所さん、カオちゃんの事、気に入ってたもんね」

 染谷が紗代に同意する。

「え、そうですか! 凄く嬉しい! 」

 夏音が照れ笑いを浮かべながら身をよじった。

「さて、鴨ちゃんが奉納の儀を始めないうちに片付けましょうか」

 紗代が意味深な笑みを浮かべながら、すっくと立ち上がる。

「そうですね」

 あやめがにやにや笑いながら、ちらりと俺の顔を見る。

 見られていた。俺が伝所のスカートの中を覗き込んでいたのを。

 覗き込んでと言うか、あれは勝手に見えてしまった訳で、俺には罪が無いと思うのだが。

「あ、俺、参道の掃除をしてきます」

 俺は成長しつつあった淫根を叱咤しつつ、外に出た。

 社務所から箒と塵取りを持ち出し、参道に向かう。

 空き掃除と言っても、ごみは全く落ちておらず、時折散っている落ち葉を取り除く位だ。

 二週間後に大祭があると言うものの、間が結構開いているので、参拝客も定例祭の時の様に早朝からお参りする人は無く、閑散としていた。鳥居を出た所に連なる屋台群もシートで覆われ、しばしの休息に入っていた。

 しばらくすると、夏音が箒をもって社務所の陰から現れた。

「御免、遅くなった。あれから伝所さんと連絡とっててさ。携帯の番号さっき聞いたから。今日、御山巡り終わったら、顔出しますって言っておいた」

「分かった。時間ははっきりと決めてないの? 」

「うん。伝所さんも成り行き次第でいいよって。ところでさ、話し変わるんだけど」

 夏音が俺の顔を覗き込む。

「伝所さん、何色履いてた? 」

「何色って、ピンクの・・・っておい、何を言わせる」

「だってさあ、ガン見してたよね、あの時。みんな鴨氏の事、見てたからね」

「え、ああ・・・」

 悔しいが、夏音の追及に否定できない俺がいた。

「あの後、みんなで超ミニ履いたらどうなるかなんて話してたんだよ」

「マジかっ! 」

 喜ばしい展開! 是非実行して欲しい。

 刹那、俺は口をつぐんだ。そして、参道の先を凝視する。

 妙な気配近づいて来る。それも参道から堂々と。

 この気配・・・俺が知っている人物のものだ。

「どうかしたの? 」

 俺の表情から察したのだろう、夏音が不安げに尋ねて来る。

「カオ、紗代さんと染谷さんに連絡してっ! 何か嫌な気が近づいて来る」

 俺は山道の先のまだ姿を見せぬそれを見据えながら、夏音に指示する。

「大丈夫、二人ともここにいますから」

 紗代だ。その横に染谷もいる。いつの間にか、二人は俺の背後に立っていた。

「二人来ますね。一人は普通の人みたいだけど」

 紗代が呟く。

 彼女の言葉の通りだった。しばらくすると、肉眼でその姿を捕えることが出来た。。

 一人は四方輝美都。今日も昨日同様、全身黒ずくめの格好で、さながら烏の様だった。

 俺が感じた妙な気配の正体は間違いなく奴だった。恐らく、紗代と染谷もこの気配に気づいて飛び出してきたのだ。

 もう一人は・・・誰だ? 妖しい気を感じないところを見ると、ただの常人? 参拝客?

 否、四方と親し気に会話をしているところを見ると、ただの参拝者ではなさそうだ。

 四方はこちらの視線に気付くと、深々とお辞儀をした。そして足早に近付いて来る。

「おはようございます。昨日はどうもすみませんでした」

「おはようございます。こんな早くからどうしたんですか? 」

 俺は表向きはにこやかに挨拶を返したものの、得体の知れぬ奴への警戒心は解いていない。

「おはようございます。何か御用ですか? 」

 紗代が四方に声を掛けた。

「おはようございます。申し遅れました。私、霧鵡探偵事務所の四方と申します。実は、私、人を探しておりまして、昨日こちらの方に写真をお渡ししたのですが」

 四方は紗代に説明しながら、俺を手で示した。

「はい、拝見しました。お名刺も頂いてますよ。それにしても個性的なお名刺をお持ちなのですね」

 紗代が柔らかな口調で四方と対峙する。

「有難うございます。ええ、まあ、何しろ商売仇の多い業界ですから、色々と個性を出さないといけませんので」

 四方が仄かに笑みを浮かべる。が、目は決して笑っていない。

 それは紗代も同じだった。静かに微笑みかえながらも、瞳の奥には鋭い刃の様な眼光を湛えていた。 

 お互いの手の内を探り合っている――そんな攻防が、瞬時の沈黙を生んだ。

「申し訳ございません、お預かりした写真なのですが、こちらの不手際で焼失させてしまって、お返し出来無くなってしまいました」

 紗代が四方に頭を下げた。

「あ、大丈夫ですよ。むしろそうしていただいてよかったです。あの写真、古過ぎてかなりのギャップがありましてね。こちらの彼が最新の写真を持っていたので見て頂きたいなと思いましてね」

 四方はそう言うと隣に佇む男性に目を向けた。

「どうも初めまして、ルポライターの宇古陀巧です」

 彼は被っていたカーキ色のニット帽を取り、頭を下げた。

 短く刈り込んだ毛髪は白髪交じり。口から顎に掛けて中途半端に伸びる無精髭も白いものが混じっている。見た感じ、年齢五十歳前後。否、もっと歳かも。恐らくは四方の倍以上は年上だろう。トップスは、ぽってりと飛び出た腹を隠すためか、腹回りゆるゆるのおおきめの黒いTシャツ。ボトムスもムチムチの下半身に合わせてモスグリーンのゆるゆるのカーゴパンツを身に着けている。背中に背負ったリュックには取材に使う機材を収納しているのだろう。容量ぎりぎりまで膨らんだ状態で、無理矢理口を閉じられており、裂けるのも時間の問題の様に見えた。 

「この写真なんですけどね」

 宇古陀がカーゴパンツのポケットから写真を一枚取り出した。そこには派手なシャツを着て意味も無く睨みを利かしている黒髪イケメン崩れの男が写っていた。

 菅嶋だ。この写真なら誰が見ても分かる。昨日見た好青年っぽい写真とは大違いだ。

「ああ、この人ならニ、三日前に来ましたよ。ガラの悪い方何人かと」

 紗代が抑揚の無い声で語った。

「やっぱり、ここに寄ったんですね。でもよく覚えてましたね。定例祭には毎月たくさんの参拝客が訪れるのに」

 四方が紗代につめ寄った。

「社務所でお手伝いしていただいている方にちょっかいを出したので、注意しましたからよく覚えています」

「どんなちょっかいを出したんですか? 」

 今度は宇古陀が紗代に問い掛けた。

「ちょっとお話しかねます」

 流石に紗代は困った表情を浮かべた。確かにあの時の状況を言葉で説明するのは気が引けるだろう。探偵だけではなく、ルポライターまでくっついてきていると言う事は、何かしらのネタにされる可能性がある。

 間違いない。この二人はあの事故の関係でこの郷を訪れたのだ。ただ、警察はスピードの出し過ぎでハンドルを取られた先頭の車が、後続の車二台を巻き込んだ事故として処理している。それに四方が探している菅嶋は死亡しており、早々に身元確認が取れているのだ。

 当然、彼もその情報は掴んでいるだろうに、今もなお捜索を続けているのは何故なのか。

「そうですか・・・分かりました。因みにですが、注意をした後、彼はどうしました? 」

 四方は苦笑を浮かべた。が、すぐに気を取り直して新たな質問を紗代に投げ掛ける。

「帰って頂きました」

「帰った・・・分かりました」

 四方は何となく納得がいっていないような素振りを見せた。

「この写真も見て頂きたいのですが・・・」

 宇古陀が新たに三枚の写真を取り出した。どこかの居酒屋の風景の様だが、一目で輩と分かる若者達が写っている。

「ここに写っている人物に見覚えは無いですか? 」

「うーん、何人かは見たような気がするけど、はっきりとは覚えてないですね・・・」

 紗代が眉を寄せると険しい表情で写真の人物を吟味した。

「あ、私、このスキンヘッドの人、見た事ありますよ。おとといだったかなあ」

 染谷が写真を覗き込むと、徐に語った。

「どこでです? 」

「この神社の駐車場です。表参道の入り口のそばにある。あ、駐車場と言うよりも、御山巡りのハイキングコースって言った方がいいかな」

「そんな場所に彼らが? 」

「はい、何か変な集団がいると社務所に連絡が入ったので見に行ったのですが、その・・・」

 染谷が不快な素振りで言葉を濁す。

「何があったんですか? 」

 宇古陀の眼が好奇に輝く。

「鴨ちゃん、あの時のカメラ、持ってない? 」

 染谷が俺に問い掛けて来る。あの時のカメラって・・・どうする気? まさか!

「私の車に置いてあるんで取ってきます! 」

 俺の不安をよそに、夏音が車に向かって掛けて行った。

「彼らと何か話はしましたか? 」

 宇古陀が更に染谷に問い掛ける。

「はい、ちょっと迷惑な行為をされておりましたので、ここで・・・そのような事をなさっては困りますとお話ししました」

 染谷が思案顔で答える。

「で、どうしたんですか」

「帰りました。その時、このスキンヘッドの方が申しておりました。人を探してるって。でも探していた人の車、駐車場にあったみたいです」

「そう、ですか・・・」

 宇古陀と四方が信じがたいといった表情で顔を見合わす。

「皆さんもご存じだとは思いますが、彼らは全員、先日この郷の入り口付近で起きた事故で亡くなっています」

 四方が神妙な面持ちで語った。

「はい、恐らくそうだと思いました。最初の写真の方、名前がニュースで出ていましたから」

 紗代がそう答えた刹那、四方の顔に得意げな笑みが浮かぶ。

「名前だけで彼と分かったのですか? と言う事は、あなたは彼――菅嶋の事を以前から知っていた? 」

 四方は探るような鋭い目付きで紗代を見た。

 紗代は言葉に詰まり、困惑した表情で目を泳がせた。が、やがて意を決したようにか細い声で言葉を綴った。

「彼女達に聞いたんです」

「彼女達? 彼女達って、ひょっとしてあの男にちょっかいを掛けられたって人ですか」

「はい」

「彼女達って事は、二人以上いるってこと? 」

「二人です」

「彼らは何故、この人里離れた山中の郷に来たんでしょうかね。わざわざ知り合いに会うため? それとも神社に参拝? その辺りの事で何か分かることはありませんか」

 四方がたたみかけるように紗代に質問を浴びせた。

「あの男は、彼女達からお金を脅し取ろうとしたんです」

「脅し取る? 何か弱みを握られていたんですか? 」

「え、まあ・・・」

 紗代は言葉を濁した。

「もし差し支えなければ、その二人に取り次いでいただけませんか? 」

 四方の追及は容赦無かった。紗代が怯んだとみて、矢継ぎ早に質問を重ねた。

 俺はたまらず紗代の間に入ろうとしたが、何故か染谷が目線でそれを制した。

「分かりました。連絡を取って見ます」

 紗代が渋々携帯を取り出した。

 それを見た四方と宇古陀の顔に笑みが浮かぶ。

「お待たせしましたあ」

 夏音が息を切らせながら帰って来る。手には、あの日、おぞましい一部始終を撮影したカメラがしっかと握られていた。

「有難う」

 俺は夏音からカメラを受け取る。流石に彼女にとってトラウマになりかねないシーンだけに――まあ、映っているのは現実で、彼女が見た者とは違うのだが――動画の再生は俺が受け持つことにする。

「彼らがなさっていた行為が録画されています。お見せしますね」

 染谷が俺に目配せをする。

 俺は相槌を打つと、彼らに動画を再生して見せた。

「えっ! 」

「なっ! 」

 四方と宇古陀の顔が驚愕に強張る。

 獣の様な男達の怒号と、泣き叫ぶ男の声。その行為を静止するよう叫ぶ染谷の声が重なり合う修羅場の動画に、二人は声を失っていた。

「彼らは動画をSNSに配信してて、この日は御山巡りのウオーキングコースを取材する予定だったのですが、たまたまこの事態に出くわせてしまったので、何かの証拠になるかと思って撮影してもらったんです」

 染谷が淡々と語るのを、二人は呆気に取られて聞いていた。何かの証拠って、いったい何の証拠だろう。

「動画はもういいです」

 四方は不快感百パーセントの苦虫を噛みつぶしたような顔で俺に懇願した。

「あいつら、仲間内であんなことやってたのか・・・」

 宇古陀は狐につままれたような表情で、呆けたまま立ち竦んでいる。

「その動画・・・SNSにアップしたんですか? 」

 宇古陀が困惑顔で俺を見た。

「してないです。流石に無理」 

 俺はすかさず宇古陀に答えた。

 四方達はげんなりした表情を浮かべた。二人とも悍ましき動画の呪詛に掛かり、さっきまでの勢いを完璧に失っていた。まさか、染谷の狙いはこれだったのか?

「あのう・・・間違っていたらごめんなさい」

 宇古陀が恐る恐る染谷の声を掛けた。

「ひょっとして、占い師の星乃陽花里さん? 」

「はい、そうですよ。よく分かりましたね」

 染谷が笑みを浮かべた。

「いやあ、雑誌で見た御顔を記憶していたので・・・でも、髪の毛の色が違ったから、違うのかなって思ったんですけどね」

 宇古陀は予想が的中したのが嬉しかったのか、満足げに答えた。

「この髪は巫女バージョンなんです。私、ここの神社の巫女をやっているので」

 染谷がさらりと答える。巫女で髪を紫に染めているのは余りない話だが――てより、普通はないな。コスプレは別として。

「巷で人気のミステリアスな占い師が、この謎多き山村の神社に奉仕する巫女だったとは・・・驚きですね」

 宇古陀が感慨深げに目を細めた。俺は占いに興味が無いので知らなかったけど、染谷って結構有名人だったのか。そう言えば、前にあやめが染谷をテレビで見たって言っていたっけか。

「ルポライターの宇古陀巧さんと言えば、廃墟や心霊スポット、禁足地を取材されているんですよね。今回の取材もその関係なんですか? 」

 夏音が宇古陀に問い掛けた。俺はこの郷に来るまで都市伝説とかその手の類には興味が無かったので知らなかったけど、この男も結構有名人なのか?

「まあ、そうですね。前から気になっていたのでね。古事記とかには出てこない神様を崇める土着信仰で、しかもご神体が禁足地――山そのものと言うのが興味深い」

 宇古陀がしみじみと答える。

「確かに、この郷は興味深いですね。禁足地の名の通り、過去に無断で山に入り、行方不明になった者もいるそうですし。今回の事故も不可解な事が多い」

 四方の眼が静かに光る。

「不可解な事? 」

 俺は訝し気な表情で四方と対峙する。

「菅嶋と同時に事故死した輩達は、最近、勢力を伸ばしてきた半グレ集団なんですけどね、彼との関係が妙なんですよね」

「妙? 」

「菅嶋は彼らの集団に属していた訳じゃない。たまたま居酒屋で知り合った飲み友達――と言うのが、表向きの情報で、実は奴らは菅嶋をカモにしようとしていたらしい」

「え? 」

 カモと言われ、ドキッとする俺。そのカモではなく、たかられる方のカモってことね。

「菅嶋が金に困っていると聞いて、調子のいい事言って近付いて、金を貸したそうだ。しかも、破格の利息を付けて。トイチどころじゃなかったみたいだね。菅嶋にっ酒をたらふく飲ませて酔わせ、金は工面してやるからって、泥酔いている彼に無理矢理借用書を書かせたらしい」

「奴に金を貸しても、返済能力なんて無いのに」

 俺は首を傾げた。最悪、臓器を売ってでも返済しろってやつか?

「本人はね。実は彼の親が資産家なんだ。いくつか事業を手掛けている上に、政治家ともコネクションがあるらしい。彼を取引先の企業に就職させて、社会勉強をさせてから事業を継がせようとしたらしいけど、職場でのトラブル原因で退職してからは親からは縁を切られていてね。名目上は依願退職だったけど、実質的には解雇だったそうだ。何をやらかしたかは、プライバシーの関係もあって言えないけどね。依頼人と契約で、そこは掘り下げない事にしている」

「依頼人はご両親なんですか?」

 俺の問いに、四方はにやにや笑いながら首を横に振った。

「それは言えない。ただ俺への依頼は、彼の死因を洗い直して欲しい、それだけさ。それに、この案件は宇古陀さんに記事にされちゃ困るから、依頼人については詳しくは触れられないね」

「記事にはしないさ。俺が扱う分野とはジャンルが違うから。ただ、四方さんが動いていると聞いて、俺はピンときたんだ。このヤマはただの事故じゃないってね」

 宇古陀が意味深な台詞を綴った。

「二人と連絡が取れました。取材を受けても良いそうです。この近くのペンションで住み込みで働いていますので。ご案内しましょうか」

 俺が宇古陀に問い掛けようとした刹那、紗代が割って入って来た。

「助かります。お願いします」

 四方と宇古陀が深々と頭を下げた。

「鴨ちゃん、カオちゃん、お願い。この二人の案内をお願い」

 紗代が俺に手を合わせる。気が付けば、いつの間にか紗代が俺を呼ぶ時の名が「鴨さん」が「鴨ちゃん」になっている。

 距離がぐんと縮まったみたいで、何となく嬉しい。まあ、奉納の儀で交わう関係なのだから、距離がどうのこうのってのも今更なんだけど。

「分かりました。ちょっと車を回してくるので」

「大丈夫、ついて行きますよ」

 車を取りに駆け出そうとした矢先、四方がそう答えた。

 四人で表参道から裏参道へ抜け、キャンプ場へと向かった。

「テントで生活しているんですか」

 四方が驚きの声を上げ、目を丸くした。

「ええ。実は最近になってこの郷に住むことになったのですが、まだ住居が決まっていないんで」

「へええ・・・それは大変ですね」

 宇古陀が目を細くして頷く。

「どうぞ」

 俺は車のロックを解除すると、二人に乗車を進めた。助手席には夏音、後部座席に四方と宇古陀が乗り込む。

「お二人はよく一緒に仕事をされるんですか? 」

 エンジンをスタートさせながら、俺は後部座席の二人に話し掛けた。

「いや、そんなことは無いですよ。たまたま現場で出くわす事はありますけどね。今回も偶然参道で出会ったくらいですから」

 四方が笑い混じりに答えた。

「四方さんはスピリチュアル専門の探偵だからね。俺がいわくつきの土地をうろつていると、時々ばったり出会うってパターンかな」

 宇古陀は快活な口調で言った。

「スピリチュアル専門? 」

 すかさず不思議ワードに夏音が食いつく。

「ええ、まあ。周囲の人が勝手にそう呼んでいるんですけどね。本当は不倫や浮気調査がメインですけど、家出人や行方不明者の捜索なんかもするんで。最近特に心霊スポットに行って行方不明になった人を探してくれって依頼が結構あるのですよ」

 四方がゆっくりとした口調で答える。さっき紗代と対峙していた時に見せた、矢継ぎ早の追及話術とは雲泥の差だ。

「警察が匙を投げた事案でも、四方さんは見つけちまうもんな。生きているかそうでないかは別として」

 宇古陀はそう言うと豪快に笑った。俺としては最後の一言が気がかりで笑えなかった。夏音もそうらしく、ちらりと見た横顔に冷ややかな笑みが貼り付いていた。

「あのう、お願いばかりして申し訳ないんですが、取材が終わった後、事故現場を一回見ておきたいんですけど、案内していただけませんか」

 四方が申し訳なさそうに俺に話し掛けて来る。

「それは別に構わないですけど」

 俺は即座に肯定の返事を返した。

 とにかく取材をとっとと終わらせてご帰還願いたい――それが、俺の望みだ。

 車を十分ほど走らせると、大きな湖が見えて来る。この郷に来た当初、この辺りは取材で何度か通ったので、道ははっきり覚えている。

 陣屋達のペンションは湖畔にあり、その奥の山沿いに掛けていくつものバンガローが点在していた。定例祭の時にはこれら全てが満室だったらしい。ペンションは古民家を改造して建造された建物で、茅葺の屋根が名かな薦向きがある。まるで田舎の民泊を彷彿させるような宿だった。

 ペンションの前に車を止めると、中から陣屋と籠屋が現れた。

 俺は四方達を二人に紹介した。鍵田達は中のロビーで待っていると言う。

 二人と共に仲に入ろうとした刹那、四方が俺と夏音の同席を拒んだ。

「先程、神社で話していた女性が公言するのを憚ったでしょ? そう言った内容なのでしたら、大人数じゃない方がいいでしう。申し訳ありませんが車で待機していてもらってもいいですか」

 四方の申し出に困惑しながら陣屋を見ると、笑みを浮かべながら黙って頷いた。

 心配するな――そう示していると捉えた俺は、不満気な夏音を引き連れてに車に向かった。

 車で待つのもつまらないと思い、俺達はそのまま湖へと向かった。

 産童湖。その湖面には、背後に聳える産童山の御姿を綺麗に映し出している。

 透明度の高い、澄んだ湖面には時折さざ波が立つものの、海の様に激しく波打つわけではなく、静かなたたずまいを醸している。 

 ペンションの駐車場のすぐそばに船着き場がありボートやカヌーを格安で借りることが出来る。こちらの施設の管理は主に籠屋が受け持っているらしい。また、マス釣りの釣り堀や養殖場もあるようだ。

 また、湖の周りには遊歩道があり後で知ったのだが、御山巡りのコースと連結しているらしく、山コースから湖コースへと足を延ばすハイカーも結構いるそうだ。因みに湖は一時間も歩けば一周出来るとの事だった。これは湖畔に立ててあった案内看板に書いてあった。

 あの輩達は社務所に向かおうとして御山巡りコースに迷い込んだらしかったが、ひょっとしたらここもぐるぐる歩き回ったのだろうか。ただ道に迷ったって訳ではなく無く、確実に染谷の術によるものだけど。

 静かに打ち返す波音と湖面からそよぐ風が心地良い。

「鍵田さん達、大丈夫かな」

 夏音が心配そうに呟く。神社で紗代が詳細の説明を拒んだのも分かる。コラ画像とは言え、痴態をSNSで晒すと脅されたのだ。恐らくは四方も経験上からそれを察して俺達の同席を拒絶したのだろう。

「まあ、大丈夫かな――と信じたい。御代さんが電話で長々話していたから、多分あの二人の対応の仕方を話していたんじゃないかな」

「だと思うんだけ――」

 不意に、夏音の表情が強張る。同時に、彼女の顔から血の気が瞬時に失せた。 

「どうした? 」

 尋常ではない彼女の表情に、慌てて声を掛ける。

 夏音は唇を震わせながら、真っ直ぐ湖面を指差した。

 彼女の震える指が示す先に目線を向ける。

 途端に、瞬時にして意識が凍り付く。

 湖面に人が立っている。

 立てるはずがない。

 普通なら沈むだろ。

 でも奴は立っていた。

 恨めし気な視線を、俺達に向けて。

 菅嶋だった。

 奴はじっと俺達を見据えながら、湖面を歩いて来る。

 足音はしない。

 まるで、無声映画のワンシーンの様に、それでいてリアルな3D映像の様にはっきりした質感を伴って。

 水面から桟橋に足を掛け、更に歩み寄って来る。

 口が僅かに動き、何か言葉を紡いでいる。


 遥・・・朱里・・・どこにいるんだよお

 

 地の底から響く様なくぐもった声が、俺の頭の中に響いた。

 鍵田達を探しているのか。

 でも。

 こいつ、死んだはずだぞ?

 全身の鳥肌が立つ。

 じやあ俺の目の前にいるのは・・・。

 不意に奴の身体がくすぶり始めた。全身から黒い煙が立ち上り、劫火が奴を呑み込む。

 肉のの焼ける不快な臭いが辺りに立ち込める。


 熱い・・・熱い・・・助けてくれ・・・

 

 炎に包まれ、苦悶に顔を歪めながらも、菅嶋は確実に俺達に向かって歩みを進めていた。

 身に着けていた衣類は燃え落ち、むき出しになった皮膚は熱で収縮し、手足の筋肉の動きに従って弾け、皮下を曝け出していく。

 露になった筋肉は更に炎に炙られて肉汁を垂らしながら炭化し、歩みを進める都度、肉片がぼろぼろと落下した。腹部の肉は燃え尽きて収縮し、支えを失った腹腔から生焼けの内臓がだらりとはみ出した。

 夏音は込み上げる不快感を抑えきれず、えづきながら足元に吐瀉物をまき散らした。


 殺してやる


 焼け崩れ、原形をとどめて居ない奴の口が、ぞっとする様な憎悪を綴る。

 声にはなっていない。出そうにも、奴の喉は焼け爛れ、声を発するどころではなかった。

 ただ、怨嗟に満ちた奴の魂の叫びが、俺の頭の中に怖気の立つ言霊を刻んでいた。

 体の震えが止まらなかった。

 金縛りとは違う畏怖の鎖が俺の四肢に絡みつき、俺の意識から抵抗する意志を剥奪していた。

 奴は、筋肉がほとんど焼失した骨の腕を伸ばし、俺の首を絞めようとする。

 このままじゃ、まずい。

 何とかしないと。

 俺には既に「神乃御力」が宿っている――はずだった。

 でも、どうすればいい?

 どうしたら使える?

 肉が燃え尽きて削げ落ち、ほとんど骨だけになった指が俺の首に掛かる。

 恐ろしく冷たい。

 焔に包まれているにもかかわらず、奴の指はまるで氷の塊の様に冷たく、俺の皮膚を貫き体の芯まで凍てつかせていく。

 生臭い呼気が間近に迫る。

 むき出しになった奴の歯が、カタカタと音を立てる。

 笑っていやがる。

 もはや手中に捉えた俺の魂を弄ぶかのように。

 俺はぐっと歯を食いしばった。

 俺がやられたら、次は夏音が・・・。

 四方は戻らないのか。得体の知れない存在だが、彼ならこの窮地を救ってくれそうな気がする。

 だが、こんな時って、最初に死亡フラグが立った者はあっさりと命を落としてしまうものだ。助けを呼ぶ声も空しく、絶対的存在の怪異に弄ばれ、抵抗も出来ないままに命を奪われるのだ。

 B級ホラー映画に在りがちな展開。

 そうはなりたくない。

 これは現実なのだから。

 現実、なのだ。 

 信じられない様な不条理に満ちた現実に晒されている自分の運命を呪いながらも、俺にはありがちなストーリー展開に身を委ねる必要なんか、これっぽっちもなかった。

 このまま。

 やられてたまるかよ。

 俺の意識に、熱い気が宿る。

 生き延びるための、大事な人を守る為の、生への渇望だった。

 迷いはない。

 生きるのだ。

 生きるためにどうするか――それは、諦めずにやれることをやる。

 それだけだ。

 俺は右手の指を固く結んだ。

 そして一気に。

 右拳を奴の腹に叩きこむ。

 一瞬、纏わりつく様な粘着質な不快な感触が俺の拳を包み込む。

 が、次の瞬間、ペットボトルを殴ったかのような軽い衝撃とともに、硬質物が砕ける粉砕音が響いた。

 奴はゆっくりと自分の腹部を見下ろした。と、同時に、大きく体のバランスを崩す。

 奴の腹には大きな穴が開き、その向こうにあるはずの脊髄の一部が、コンクリートで絡められた湖岸に転がっている。体を支えていた支柱部分の一部が吹っ飛んだので体幹バランスが保てなくなったのだ。

 俺の首を捕えていた奴の指の力が緩む。

 刹那、俺はすかさず左拳で奴の顎を突き上げた。

 奴の身体後方に大きくのぞり、首がぶち切れ、頭部が後方に吹っ飛ぶ。

 不意に、奴の身体が消えた。

 まるで、何事も無かった真の様に、痕跡一つ残さず。

 あれは、幻覚だったのか・・・否、違う。

 奴を殴った感触が、両拳に残っている。

 でも、奴は恐らく実態じゃない。

 物理的攻撃が利いたのは驚いたけど、奴は間違いなく実態無き存在だ。

「ひっ! 」

 突然、夏音が声にならない悲鳴を上げた。

 振り向くと、巨大な黒い影が、彼女の背後から両手で首を絞めつけている。

 黒焦げモヒカン男だ。黒焦げは黒焦げでも、もはや最初に見た日焼けサロンで焼き倒したような黒さじゃなく、あえて表現するならば、巨大な消し炭のような黒さだった。自慢のモヒカンも使い古したたわしの様に拉げてかろうじて頭皮に貼り付いているものの、明らかに毛根は死に絶えていた。

 言うまでもなく、こいつも生きてなんかいない。交通事故で劫火に焼かれて命を落としているのだ。

 俺は夏音の首を拘束している奴の手首に手を伸ばし、鷲掴みにした。

 ぞっとする様な冷気が俺の掌を捕える。だがそれ以上、俺の掌を侵食する事は出来なかった。

 俺の体内を駆け巡る熱い気の噴流が、全ての負の衝動をはねのけていた。

 夏音は既に白目をむき、四肢を痙攣させている。

 まずい。

 俺は一気に力を込めて奴の手首を握りつぶした。

 ぐしゅっ

 砂袋が弾けるような鈍い異音と共に、奴の手首の関節が粉砕した。

 夏音の首に食い込んでいた指が束縛を解く。

 腕から引きちぎれた手首から先が、熟した柿の様に地面に落下。肉は潰れ、血液と体液が裏面に飛散する。

 俺は咳き込む夏音を抱き寄せると、間髪を入れずに奴の股間を蹴り上げた。

 俺の爪先は奴の股間を粉砕し、腹部から胸、喉へと軌跡を刻む。

 黒焦げモヒカンの身体は、真っ二つに裂け、皮一枚で残っていた頭部が、裂けた身体の間をすり抜け落下した。 

 左右に分かれた奴の身体は、ぐすぐすと崩れ落ち、瞬時にして白い灰と化す。

 が、次の瞬間、全てが消え失せた。

 菅嶋同様、地面には炎に焦がされて飛び散った脂肪や血液の痕跡はなく、灰すらさえも残ってはいない。

「カオ、大丈夫か? 」

 俺は腕の中で打ち震える夏音に声を掛けた。

 真っ青な表情の彼女の口から、カチカチと歯のぶつかり合う音が響く。

 歯の根が合わないってのは、こういう事を言うのか。

 真の恐怖に直面した者でしか体験出来ない、追い詰められた精神が刻む戦慄の叫びだった。

「安心しろ。奴らは俺が倒したよ」

 彼女は涙でぐしょぐしょになった顔をそっと上げた。

「本当・・・? 鴨氏が、やっつけたの? 」

「うん。もう大丈夫だよ」

「よかった。助かったんだ・・・」

 夏音の顔に、安堵の表情が浮かぶ。が、すぐにその表情に陰りが浮かぶ。

「でも私、大丈夫じゃない・・・」

「どうした? 何処か怪我でも? 」

「出るものみんな出ちゃった」

 夏音はそう呟くと、恥ずかしそうに顔を伏せた。見ると、デニムのパンツのファスナーの下辺りから内股に沿って、裾まで黒々と染みが出来上がっていた。その上、気のせいであって欲しいのだけど、仄かに硫黄の様な匂いが立ち込めている。

 まずい。

 この後、四方達を例の事故現場まで連れて行かなければならないし――二人が来る前に、夏音を神社まで送り届けるか。

 まだしばらく取材を続けてくれていると嬉しいのだけど。

 そう思いつつ、ペンションの玄関に目線を向ける。

 最悪だ。俺の目に映ったのは、玄関先で一礼してこちらに向かって足早に歩いて来る四方と宇古陀の姿。

 どうする? 四方達を車に乗せてから陣屋と籠屋に話をして、夏音を神社まで送ってもらうか。

「カオ、ちょっと待ってて」

「やだ、行かないで!」

 夏音が俺の身体にしがみ付く。

 と、俺達に気付いた四方達が歩みを止めた。

「あ、ごめん。俺達ハイキングコースを回って神社に抜けるんで。ペンションの方に伺ったら、ここから合流できる道があるらしいんで」」

 四方は気まずそうな表情を、宇古陀はにやにや笑いながら俺達を見ている。

「あ、そ、そうですか」

 俺は泡をくいながら、どぎまぎしつつ答える。

「事故現場はその後で、ひょっとしたら頼むかも。有難う御座いました」

 四方は申し訳なさそうに俺達に一礼すると、にやにや笑いの止まらない宇古陀を引っ張って湖畔の散歩道を猛スピードで歩いて行った。

「ハイキングコースだけにして下さいねえっ! 山頂へのルートは立ち入り禁止ですから、絶対に入らないでくださあいっ! 」

 俺は足早に立ち去る二人に釘を刺した。

「分かりましたあ。ペンションの方にも釘を刺されましたので大丈夫ですよう」

 四方がこちらを見ない様にして、後ろ手で手を振る。

 どうやらあの二人、抱き合う俺達の姿を見て何か勘違いしたらしい。抱き合うと言うより、夏音が一方的にしがみ付いてきたのだけど。

 まあ、結果的には良かったかも。

 俺は車内にあった仮眠用の毛布で夏音をくるみ、車の助手席に乗せた。

 陣屋達のお世話になることも考えたけど、そうなればさっき見た菅澤達の死霊の話をしなきゃいけなくなる。そうなれば、鍵田達だって平静を保てなくだろう。

 とにかく、いったん神社へ向かおう。

 俺は運転席に乗り込むと、アクセルを踏んだ。

 

 




 

 

 


  

 

 


 



 


 

 



 





 



 


 






 



 


 





 



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