第11話 神異
深夜零時。
静寂に沈む境内に、敷き詰められた参道の玉砂利を踏みしめる足音が絶え間なく響く。
真の本祭がこれから始まるのだ。
参加出来るのは、この村に住居を構えている者と、新しく郷民になった者、それと後で知ったのだが、例外として、戸籍を郷に残し、郷外で生活するものの中で、産童神の眼にかなった者だけが参加出来るらしい。因みに、産童神に選ばれたかどうかは、昼間の特別祈祷で神気を授かったか否かが判断の目安だそうだ。染谷の場合は産童神の神託に従って郷外に出ているので、また違う意味での特例と言えた。
そう考えれば、俺の様にこの郷の民になる前から神気を賜ったのは異例中の異例らしい。過去にも無かった訳でもないが、極めて稀だそうだ。
郷民達が続々と拝殿に吸い込まれていく。
紗代とあやめ、伝所達祭司役の面々は既に拝殿の中に控えており、俺と染谷と守役達は郷民達が皆拝殿に入るのを拝殿脇で見守っていた。
紗代が語っていた通り、あれから四方輝美都は現れていない。
奴は何者なのか。探偵にしては妖し過ぎる。奴が社務所に来訪した時、その気配をすぐに察したのは紗代だけだった。流石の染谷も、気付くのにコンマ五秒遅れてしまったと悔しがっていた。
彼の目的はただ単に鍵田達の元彼――菅嶋の捜索なのだろうか。
でも、それもよくよく考えてみればおかしな話だ。彼は既に事故死しており、報道でもそれは流れている。但し、遺体の損傷が激しい為、乗車していた人物の特定が困難なのだとは、ネットのニュースでもあがっていた。だが、車の持ち主の菅嶋の行方が分からなくなっていることと、途中の道の駅の防犯カメラに彼が運転席側に乗っている姿が写っていた事から、少なくとも彼は特定されているらしい。
にもかかわらず、捜索し続けているのは何故なのだろう。遺族が彼の死を受け入れられず、僅かな望みを託して四方に依頼を掛けたのか。
集まった郷民達参加者が全員拝殿に入ったのを見届けると、染谷が一人、参道の中央に歩み出た。
彼女は視線を中空に向けると、静かに深呼吸を繰り返し、右手の人差し指で空に印を切り始めた。
ねっとりとした夜気が、ゆっくりと染谷を中心に渦を巻き始める。
ぱん、と彼女は柏手を打った。
と同時に、清廉な気の波動が凄まじい噴流となって彼女を中心に四散した。
七色の光の波が、漆黒の闇を切り裂くように中空に軌跡を刻んでいく。
結界を紡いだのだ。
この時俺は気付いた。この光が実際には肉眼で見えている訳ではない事に。
感覚的に感じ取っている。
心の眼で、認識している。
そんな感じか。
少なくとも俺の中では、まるでイリュージョンの様に輝く光の波動を垣間見ている気がするのだが、恐らく現実でこれを認識できる者は限られてくるだろう。
染谷はゆっくりと振り向くと、足早に俺達の方に戻って来る。
「超特別の結界を仕掛けておいたから、何人たりともこの神域には入れない。生きてるものも、そうでないものもね。さあ、私達も拝殿へ行きますか」
「はい」
染谷の声に頷くと、俺達は拝殿へと向かった。
巫女姿の祭司役は、祭壇中央の紗代を中心に、左右に横並びになっている。
その後ろに、郷民達参拝者が隙間なく並び、床に腰を降ろしている。
伝所の話では、俺達新入りを含めて郷人は六十七名。それに郷外の郷人を含めると恐らく百人を超えると話していた。そうなると、椅子はそこそこあるもののを並べる余裕は無く、昼の祈祷時とは違い、床に腰を降ろすのが定番らしい。
伝所の指示に従い、祈祷時に使った椅子は午後の部の採集が終了した時点で片付けられ、人が入場するまでは殺風景な感じではあった。
が、結果、伝所の予想通りの展開となった訳で、俺達守役衆が入室した時には座る場所すらなく、やむなく拝殿の出入り口そばに立って参加することになった。
ただ、不思議な事に、これだけ大人数の人々が、限られた空間に集結しているにもかかわらず、話し声はおろか衣擦れすら聞こえない。
空間と時間が、荘厳な静寂の中に沈んでいた。
「揃いましたので、そろそろ始めさせていただきます」
紗代は立ち上がると、郷民達の方に振り返り、深々と一礼をした。
再び祭壇に向かうと、ニ礼、二拍、一礼をする。
俺達も彼女に倣い、神への感謝を込めて礼をし、柏手を打った。
彼女が、静かに祝詞をあげる。
不思議な文言とアクセントを含んだ言葉だった。
神代の御言葉なのか。昼間の特別祈祷の物とは全く異なる祝詞だった。
明らかに、現代の日本語ではなく、よく神社の祈祷時にとなえられるものでもない。
ただその言葉に紡ぎ出された柔らかな旋律は、清廉な言霊となって俺の心に染み入って来る。
言語の意味は分からずとも、その文言に秘められた神秘的な秘文の音律が、俺の魂を心地良く揉み解していた。
気のせいだろうか。
紗代が祝詞を紡ぎ捧げるにつれ、朧気だった祭壇の燈明の灯りが、激しく燃え揺らめき始めたような気がする。
拝殿には紗代の祝詞だけが静かに響き渡り、揺らめく燈明の灯りと共に、現世とは隔離された異世界の空間を創り上げていく。
不意に、鼻孔を擽る甘露な芳香。
清楚で植物的な、厳かにすら感じられる香りと、濃厚で肉欲的な獣じみた匂いが混沌と混ざりあった本能を揺さぶる芳香が、鼻孔から止めども無く体内へと流れ込み、魂を満たしていく。
視界が、淡いオレンジ色に染まる。
髪の長い若い女性が、俺に微笑み掛けている。
白い布を体に巻き付けただけの悩ましい姿で、彼女は音一つ立てずに俺に近付いて来る。
紗代でも、染谷でもない。でも俺は、彼女が何者か知っている。
産童神。
山頂で出会ったあの女神が、俺の前に現れたのだ。
驚き、立ち竦む俺を、彼女は優しい眼差しで見つめながら、体に巻き付けていた白い布を床に落とした。
透き通るような白い肌。ふくよかな双丘、そして仄かな起伏と陰影を成す恥丘が、俺の眼に飛び込んで来る。
さあ
私の元へ
彼女の声が、頭の中に響く。
川のせせらぎに似た、澄み渡った清涼な調べの様な声。
まるで体の穢れを全て洗い流してくれるような、厳粛さと清麗さを紡いだ旋律が、俺の意識に染み渡っていく。
愛おしかった。
彼女が、とてつもなく愛おしかった。
何故だか分からない。
彼女が俺を求めているのと同じ位、俺も彼女を求めていた。
俺は彼女を抱きしめた。
いつの間にか、俺自身も衣服を全て脱ぎ捨てていた。
自分では脱いだ記憶が全くない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
貪るように彼女の唇を奪う。
柔らかく、妙に懐かしい感触が、口に広がる。
母親の胸に抱かれていた、幼い頃の記憶だろうか。
それに近い安らぎの様な感覚が、俺を捉えていた。
同時に澄み切った清廉な気の流れが俺を包み込んだ。
産童神の神気だ。
厳粛な波動が俺を包み込む。温かく心地良い気の噴流が、俺の身体の中に注ぎ込まれていく。
よくぞ、この郷に来てくれました
あなたが来るのを待っていましたよ
ずっと
ずっと
待ち続けていました
稀代
あなたは、これからそう名乗るのです
この郷に
新たな風を吹き込むのです
頼みましたよ
彼女は満足げな笑みを浮かべながら、ゆっくと視界から消えた。
視野が再び拝殿の像を結び始める。
祝詞を奏上し終えた紗代が、祭壇に深々と一礼している。
元に戻った。
あれは夢だったのか・・・それとも幻覚?
現実だ。
間違いなく、あれは現実。
産童神と交わした口付け――その温もりと感触は、今も鮮明な記憶となって残っている。
イメージとしての記憶ではなく、身体に刻まれた体感の記憶。
体験として、はっきりと。
それと、最後に産童神が告げた言葉も、鮮明に覚えている。
あれは神の啓示なのか。
稀代・・・稀代ってのは、何?
神は俺にそう名乗れと言っていた。
ひょっとして、屋号の事なのか。
でも。
稀代って屋号、聞いた事が無い。
郷について色々調べた中で、屋号に「代」が付くのは紗代――「御代」一人だけだった。
どういう事なのか。
それと、産童神が語ってた、新たな風を吹き込むと言うのは・・・。
謎が多過ぎる。
紗代がこちらに向き直り、大幣を参拝者に振った。
紙垂のたなびき擦れ合う音と清涼な鈴の音が拝殿に響き渡る。
「本祭の儀、これにて無事終える事が出来ました。有難うございました」
紗代の凛とした声が拝殿に響く。
衣擦れと共に参拝客が一斉に立ち上がり、祭壇に一礼すると出入口に進み始めた。
戸口に立っていた俺達は先に拝殿を出、下足箱の横で郷民達を見送った。
祝詞奏上の間、彼らも俺と同じ様な体験をしたのだろうか。それともあれは俺だけだったのか。
穏やかな表情で拝殿を去って行く郷民達の横顔からは、そこまで深くは読み取れなかった。
郷民達が去った後、俺達は再び拝殿に戻った。
拝殿内はひっそりと静まり返り、燈明の炎だけがゆらゆら揺らめいていた。
あれだけぎっしりと人が集まっていたのにもかかわらず、人いきれの体臭の残り香はなく、澄み切った空気で満たされている。
勿論、あの淫香も痕跡すら残ってはいない。
照明をつけて燈明を消すと、みんなで手分けをして掃き掃除や片付けを行った。
「皆さん、有難うございました。今夜はゆっくりと体を御休め下さい。今月は二週間後に年次祭り、大祭がございます。その際もどうかご協力宜しくお願い致します」
紗代が俺達に深々と頭を下げた。
「こちらこそ、宜しくお願い致します」
俺達も紗代に深々と頭を下げる。
大祭か・・・そう言えば、伝所がそんなこと言ってたな。確か彼女は大祭を終えた後、この郷を出ると言っていた。どうやら彼女の話では陣屋と籠屋も同じタイミングらしい。
色々お世話して下さった方々と別れるのは寂しい気もするが、恐らくは例祭の毎にこの郷を訪れるのだろう。
これも、シキタリなのだろうか。
拝殿を出ると、既に郷民達の姿は無かった。
広い境内に俺達が玉砂利を踏みしめる音だけが響く。
社務所前でみんなと別れ、俺と夏音はテントサイトへと向かった。
「カオ、聞いてもいい? 」
裏街道を下りながら、俺は夏音に話し掛けた。照明はあるものの、足元を照らすだけの照度に乏しいため、紗代から借りた懐中電灯が有難かった。
「何? 」
足元を見ていた夏音が顔を上げ、俺に目線を向ける。
「御代さんが祝詞を上げている時、どうだった? 」
夏音は驚いた表情で俺を見ると頬を紅潮させた。
「どうだったって――何が? 」
「どんな気持ちだった? 」
「それ聞くう? 」
夏音は恥ずかしそうに俯いた。
「鴨氏は、どうだったのさ」
「大変な事になった」
「やっぱり? 」
「じゃあ、カオも? 」
「うん、まあ、そう」
夏音は歯切れの悪い答えを返してきた。が、おおよそ見当はつく。
間違いない。
彼女も俺と同じ体験をしている。
「明日だけど、御山巡りしてみる? 」
夏音が強引に話題を変えて来る。まあ、これ以上突っ込んだ話をするのも、確かにまずいような気がした。何しろ、相手が神様なのだし。
「分かった」
「じゃあ、朝起きた時間で集合」
「了解」
起きた時間でってのが緩いかもだけど、そこは個人事業みたいなものだから許されてしまう。
キャンプ場についた所で、彼女とおやすみの挨拶をし、懐中電灯は彼女に渡し、
自分のテントに向かった。
俺達以外にもテントがいくつか設営されており、仄かな明かりと話し声が零れている。この郷に来た当初の閑散とした雰囲気が嘘の様だ。
俺は自分のテントの中に潜り込み、電池式ランタンの灯りを灯した。
よく考えたら、寝ると言う行為は久し振りだった。前祭前夜から今夜まで一睡もしないで過ごしてきたのだ。学生時代も卒論を仕上げるのに徹夜した事があったけど、ここまで連続した事は無かった。
果たして寝れるのだろうか。
どうやって寝ればいいんだ?
間抜けな思考に囚われながら、俺は簡易ベッドに腰を降ろした。
連夜紗代達と交わり続け、寝食を共にし過ごしてきた数日間。久し振りの一人寝は何だかとてつもなく寂しい。
ひょっとしたら、夏音も同じ気持ちになっているかもしれない。
時折、外を行き来する足音に、予期せぬ来客を期待する。が、それは叶う事無く、無情にもすぐに遠のいて行く。
他のキャンパーが炊事場のそばのトイレに用足しに行っただけなのだろう。
「鴨氏、起きてるう? 」
不意に、テントの外で声がする。
俺はテントのファスナーを下げ、外を伺った。
夏音だ。
「どうしたの? 」
「何か寂しくなっちゃってさあ、入ってもいい? 」
夏音は照れ臭そうに俯いた。見ると、寝袋とマットを肩に背負っている。
「えーっ! まあ、いいけど」
ちょっと仕方がねえなあ感を出しつつも、内心は大歓迎の大喜びだった。
彼女をテントの中に招き入れ、彼女のマットと寝袋をセッティングした。
簡易ベッドは一人用なので、そちらに彼女の寝具一式を、俺のやつは下に移動させる。
「鴨氏、横に来てよ。話したい事があるからさ」
夏音の申し出に、仕方なく――ってのは大嘘で、内心歓喜の叫びを上げながら渋々簡易ベッドを片付け、彼女の寝具を俺の真横にセットした。
「なんか人の温もりが恋しくてさ」
マットに横たわると、夏音がぴったりと体を密着させて来る。
「ここんとこ、夜通し裸だったし。服脱ぐか? 」
「今日はやらないよお。神様といたしたから」
夏音がぽろっと白状した。
「やっぱり、夏音も? 」
「普通、そんなこと聞くかよ。てか、答えるかよ」
俺が冷静に彼女に突っ込む。
「わ、突っ込まれたよ。そんとにそうかも。あーそんとだって! 恥ずい、恥ずいよおおっ! 頭がバ〇ア化してるっ! 」
「それは偏見だって」
取り乱す夏音に思わず苦笑する。
「鴨氏、私さあ、伝所になるんだって」
徐に夏音が呟いた。
「え、其れって」
「屋号よ。伝所さん、大祭が終わったらこの郷を出るって言ってたでしょ。その後を私が継ぐみたい」
「誰に、言われたの? 」
「神様。あの、御祈祷の最中に。ちょうど私がいった後かな」
夏音、そこまで詳しく言わんでいいって。
「鴨氏は何て言われたの? ひょっとして陣屋? 籠屋? 確かあの二人もこの郷を出るような事言ってたしね」
「それがさあ、どっちでもないんだ? 」
「え? 」
「稀代って呼ばれた」
「稀代? 」
「うん。稀代」
「そんな屋号の人、いたっけ? 」
「分からん。郷民は六十三人いるんだから、伝所さん達みたいにこの郷を離れる人が他にいるのかもな。でもさ、前に調べた時、そんな屋号無かった気がするんだけど」
「それ、明日調べてみない? 社務所によってさ」
夏音の眼が輝く。
「そだね」
俺は頷いた。
屋号か・・・ひょっとしたら、屋号にも何か産童神との係わりがあるのかもしれない。
屋号ってのは、本来個人事業主の名前、「社名」なのだ。古くから家々に伝わるものであれば、恐らくは昔営んでいた事業や仕事を現し、それが継承されてきたものなのだろう。
陣屋や籠屋、釜屋は何となく分かる。大鉈、刀人、弓曳とかはやはり昔からこの郷を守護してきた人々の屋号なのだろう。篝火、蟲暮となるとちょっと難解。御代、伝所となると訳が分からない。染谷は染谷で染屋が転じたものかと勝手に想像してしまう。
でも、この郷の屋号は、そういった過去の郷民の職業から継承したものではないのかもしれない。
何しろ、神様が直々に継承を告げるのだから。
「そうだ、カオ、明日の朝ご飯は俺が――」
夏音は静かに寝息を立てていた。たった今まで俺と話をしていたのに。
俺の温もりに触れて安心したのだろうか。
祭りが終わったとて、明日もやることはてんこ盛りだ。
俺も無理矢理にでも寝ておかないと。
そう思った瞬間、耐え難い睡魔が俺を襲った。
瞼が重く塞がり、全身の筋肉が弛緩していく。
久し振りに味わう寝落ちの瞬間だった。
俺はそれに抗う事無く、ゆっくりと目を閉じた。
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