第10話 呪印

 朝の予想が当たってしまった。

 お守りや御札、御朱印を求める参拝客がお昼時になっても途絶える事が無く、昼過ぎになって鍵田と辻村が応援に来てくれたおかげで何とか交代で昼食に在り付けた。

 屋台をやっている氏子衆からの差し入れもあったが、高カロリーのジャンク系が大半だったので、二人が持って来てくれたおにぎりと豚汁の差し入れは、ほっとするものがあって救われた感じがあった。

 何とか食事にありつけたお陰で、社務所のお仕事が夜の八時過ぎまでひっぱったものの、なんとか持ちこたえた。

 夕食は陣屋と籠屋が差し入れてくれたちらし寿司で遅い食事をとる。守役の大鉈達も加わり、今までになくにぎやかな晩餐となった。但し大鉈達は一人ずつ社務所に訪れては、交代で食事をとると再び警護に戻って行った。

 食後、みんなが温泉に向かおうとする中で、染谷がふと踵を返す。

「御代さん、ちょっと気になる事があるので見回りしてきます」

 染谷の言葉に、御代が憂いの表情を浮かべた。

「分かりました。お気をつけて」

「俺も行きます」

 俺の言葉に紗代は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。

 皆に見送られて、染谷と俺は社務所を出た。

 時は既に十時近く。夜の帳は冷ややかな冷気を伴い、体に纏わりついて来る。

「鴨ちゃんも行くって言うと思ったよ」

 染谷が嬉しそうに呟く。

「染谷さんが気になっているのって、朝のあの視線ですよね」

「鴨ちゃんも気付いていたもんね。そう、あれがずっと気になっててさ」

 不意に、四つの黒い影が音も無く忍び寄る。

 FU・FU・FUの三人と蟲暮だった。

「染谷さん、周囲に妖しい気配はありません」

 大鉈が緊張した面持ちで染谷に言った。

「そうですか・・・ならよかった。有難うございます。明日に備えて今日はゆっくり体を休めてください。後は引き受けます」

「有難うございます。宜しくお願いします」

 大鉈達が深々と頭を下げる。染谷は紗代同様、彼らにとっては別格の存在のようだ。

「鴨ちゃん、後は頼んだよ」

 刀人がニヤリと笑うと、俺の肩をぽんと叩いた。

 次の瞬間、四人は音も無く闇の中へと四散した。

 足音一つ立てずに。

「凄い・・・」

 俺は驚愕に打ち震えながら呆然と佇んでいた。

 動きが人間離れしている。

 俺にも彼らの様な神乃御力を宿すことが出来るのだろうか。

「彼らがいるから、私も安心して郷を離れていられるのよね」

 染谷がうれしそうに微笑む。それは決して彼らに対する忖度ではなかった。

 彼女の言葉には、彼らへの信頼と敬意が熱く込められているのを、俺は感じ取っていた。

「何も感じないですよね・・・」

 俺は目を凝らしながら周囲を見回した。

 視線を感じたのは、あの時の一回切りだった。忙しさに流されてただ単に気付かなっかっただけなのかもしれないが。

 でも、明らかに悪意に満ちていたように思う。

 悪霊の類か、生霊なのか、それとも生身の人間なのか――俺にはその判別は出来なかった。

「ちょっと待ってね」

 染谷は一歩前に出ると大きく深呼吸を繰り返した。

 鼻から静かに吸い込み、ゆっくりと口から吐き出す。

 俺は目を見張った。

 染谷の身体が、次第にぼんやりとした白い光のようなものに包み込まれ始めたのだ。

 闇の濃紺を朧気ながらも退け、炎の様にゆらゆらと立ち上る靄の様な淡い光だ。

 決して幻覚でも見間違いでもない。

 そして、それは明らかに染谷自身の身体から立ち昇っているように見えた。

 染谷は両手を前に突き出し、ぱんと一回柏手を打った。

 同時に染谷を取り巻く白い靄の粒子が、閃光となって一気に四散する。

 それは僅かに後方に立つ俺を綺麗に避けて、濃紺の夜気に白い軌跡を刻んでいく。

「よし、大丈夫みたいね」

 染谷が満足げに呟く。

「染谷さん、今の光は何・・・?」

 呆気にとられる俺を、染谷は嬉しそうにみている。

「鴨ちゃん、凄い・・・今の見えたんだ」

「ええ、はっきりと」

「ひょっとしたら、神乃御力が目覚めるの、思ったより早いかも」

「マジですかっ? 」

「うん。だって普通の人だったら何も見えてないはず」

 染谷が興奮気味に答える。

 そうなのか。そうだとしたら、何か嬉しい。

「あれは結界よ。ただ単に良からぬものの侵入を防ぐだけでなく、その正体をを捕えるレーダーみたいな役目もある」

「凄い・・・」

 俺には他に言葉が見つからなかった。情けない事に、これ以上の驚きと感嘆の表現を、俺は記憶の中から見いだせないでいた。

「取りあえず、明日の朝までは大丈夫。行きましょうか」

「はい。で、どちらへ? 」

「朝、視線を感じた場所よ。何か痕跡がないかなって思って――待って」

 染谷は歩み始めたその足を、徐に止めた。

 目を閉じ、立ち止まったまま、静かに呼吸を繰り返している。

 俺は固唾を呑んで彼女の所作を凝視した。

 何事かが起きた事は確か。だが、それ以上は俺には分かり得ない。

「かかったっ! 」

 不意に、染谷はかっと眼を見開くと地を駆った。

 一陣の風を巻き、巫女装束の染谷が閃光の如く闇を裂く。

 速い。

 玉砂利が敷かれた参道であるにもかかわらず、足音一つ立てずに滑走していく。

 慌てて跡追い掛けるものの、その差は歴然。詰められるような距離ではなかった。

 彼女は鳥居のそばまで来ると、ぴたりと足を止めた。

「何かあったんですか? 」

 俺は息を荒げながら彼女に駆け寄った。

「鴨ちゃんなら見える? 」

 染谷は俺に右掌を突き出してみせた。

「これって・・・」

 俺は眉間に皺をよせ、それと対峙した。

 十センチ位に断ち切られた白い糸の様なものが数本。ふと足元を見ると、同じ様なものが地面に無数に散らばっている。

 ひょっとしたらこれは・・・。

 俺がその正体の核心を突く解答を脳裏に抱くと同時に、それらは朧げな像となって消えた。

「結界破られちゃった。絡め取ったかと思ったんだけど」

 染谷は悔しそうに吐息をついた。

「まさか、あの輩達が悪霊化してやって来たの? 」

「そうじゃなさそう。でも、考え方に寄っちゃ、もっと厄介かも」

「そんな・・・それって」

「人間よ。それも生きた」

 染谷は忌々し気に呟いた。

 染谷は大きく深呼吸すると、パンと柏手を打った。

 一瞬、彼女の身体が白銀色の光に包まれ、それが波動となって神社全体に伝播していく。

「ちょっと強烈な結界張っといた。もう大丈夫よ」

 染谷はふうっと大きく息を吐いた。

「戻りましょうか」

 染谷は踵を返すと社務所に向かって歩き始めた。

「追わなくてもいいんですか? 」

 あっさりと引き上げる彼女を慌てて追いかける。

「うん」

「結界を張り直したから? 」

「それも有るけど・・・何て言えば良いか・・・悪意が感じられなかったのよ」

 染谷は困惑した口調で眉間に皺を寄せた。

「悪意が? 」

「そう。ていうか、感情が読み取れなかった」

 染谷の答えは意外なものだった。じゃあ、今朝感じた視線とはまた異なるものなのか。

「もう少し、様子を見ましょうか。相手の出方を見るしかないし」

「確かに」

 俺は頷き、彼女に従った。

 社務所奥の住居に戻ると、居間では紗代が俺達の帰りを待っていた。

「お疲れさまでした。ただならぬ気配が忍び込んでいましたね」

 紗代が涼しげな表情で語る。

 こちらからは予め何も伝えてはいなかったのだが、彼女は全てお見通しらしい。

 それも、大して危機感は抱いていない様だった。

「守役の四人が任務を解いてここから離れるまで、完璧に気配を消していました。私の結界に捕捉されても一瞬で破っておきなら、何故か殺気も憎悪も何も孕んでいない。目的が全く見えてこないんです」

 染谷が淡々と紗代に語った。

「恐らく今夜はもう来ないでしょう。ひょっとしたら様子を見に来ただけかもしれない」

「様子を見るって・・・」

 動揺の素振りを全く見せずにさらっと言ってのける紗代を、驚きの眼で凝視する。

「でもまた現れるでしょうね。明日になるか明後日になるか」

「私もそう思います」

 染谷は紗代の言葉を躊躇いもせずに承諾した。

 二人の会話に、俺は妙な安心感を見出していた。

 緊迫感が無いのだ。

 得体に知れない存在への畏怖や警戒心――そう言ったものが、二人の会話からは全く持って感じられなかった。

 大したことではない。

 根拠の無い、それでいてつかみどころの無い不安を一掃してしまう不思議な空気感を、二人は醸していた。

「お二人とも温泉に浸かってきてくださいな。私は先に儀式に加わっていますので」

 紗代は頬を少し赤らめながらそう告げると席を立った。

「鴨ちゃん、いきましょ。着替えは? 」

「あ、あります。ここで洗濯させて貰っていますので」

 俺は立ち上がった。

 違うところも既に立ち上がっている。

 この流れ、間違いなく一緒に入浴パターンだ。

 俺は心のときめきを抑えながら着替えとタオルを取りに隣の和室に向かった。

 部屋の片隅に衣紋掛けがあり、そこには俺と夏音の着替えが置いてある。洗濯機と物干しを利用させてもらっており、乾いたものを紗代がきちんとたたんでくれているのだ。

 俺は神事の装束を脱ぎ、衣紋掛けに掛けた。そばには夏音の巫女装束が掛けてある。

 綺麗に折りたためられた着替えの山から、ハーフパンツとTシャツを取り身に着けた。

「準備出来た? 」

 廊下を隔てた奥の別室から染谷が現れた。神代の人が来ていた様な生成りの素朴なワンピースのような服を着ている。彼女の手にはタオルだけで、下着の替えは持っていない。

 入浴後は、服も何も身につける必要がなくなるのだ。明日の朝に身につければよいのだから。

 流石に裸で外の温泉からここまで来るのは気が引けるから、かろうじてアウターは身に着けるけど。

「大急ぎで身を清めて、私達も儀式に加わりましょう」

「はい、喜んで」

 俺達は足早に温泉へと向かった。

 俺の期待通り、入浴は混浴の流れだった。

 引き戸を開けて更衣室に入る染谷に続き中へ。

 彼女は俺をとがめる所か、そそくさと神代的ワンピースをするすると脱いだ。

 淡いブルーのブラジャーとパンティーが、俺の眼に飛び込んで来る。

 彼女の細い指がしなやかに動き、ブラジャーのホックを外す。小振りだが形の良い双丘が、つんと上を突くようにふくらみを強調している。まるでそれは少しでも大人びて見せようとする成長期の少女の様に感じられた。

 彼女は躊躇することなく、パンティーと腰の間に両親指を差し入れ、一気に下げた。汗ばんでいるのか、途中クロッチの部分が彼女の秘部に食い込むように張り付き、ワンテンポおいてから生地の弾力に誘われ、足元に落ちる。

 見とれている場合じゃない。

 俺は慌ててTシャツを脱ぎ、トランクスもろともハーフパンツを下げる。

 既に砲弾装填済の高射砲が砲口を上空に向け、発射の合図を待ちかねていた。

「ここじゃ駄目よ。我慢してね。体力は温存しておいた方がいいよ」

 染谷は撃墜を心待ちにしている俺の砲を見るとくすっと笑った。

 洗い場に向かった俺達は大急ぎで体を洗い、湯船に身を沈めた。

「出ましょうか」

 染谷の掛け声とともに温泉を楽しむ間もなく湯船を出ると、速攻で着替え、はやる気持ちを抑えつつ祭壇の部屋へと向かう。

 薄暗い廊下は奥の間から染み出た淫猥な芳香に満たされ、俺の中の獣性を一気に呼び起こしていく。

「お待たせしました」

 染谷が引き戸を開け、祭壇の部屋へと入っていく。

「遅くなりました」

 俺は一礼すると、染谷に続き部屋へと足を踏み入れる。

 刹那、俺は言葉を失った。

 部屋には鍵田と辻村がいた。勿論、全裸で。

 今朝、鍵田と辻村も郷民になった話は伝所から聞いたけど、ここにいると言う事は、二人とも祭司役なのか。

「だから言ったでしょ。体力は温存しておいた方がいいって」

 染谷が俺の耳元でそっと囁いた。

 その夜、俺は今まで以上に身も心も獣になった。

 一晩で五人の女性を相手に孤軍奮闘したのだ。

 その間、俺は決して萎える事無く、魂を解き放ち続けた。入れ代わり立ち代わり、五人に魂を放ち続け、最後の渾身の入魂は紗代に捧げ、長々し夜に終止符を打った。

 そして迎えた完徹四日目の朝。俺の精神と肉体は衰えるどころか、更にマキシマムな絶好状態をキープしていた。

 俺だけじゃない。紗代達女性陣五名も同様だった。

 彼女達も一睡もしていないにもかかわらず、野鳥の囀りと共に布団を干し、身支度を始めた。

 勿論、朝ご飯もみんなで手分けして準備を行う。

 とりわけ凄いのはどんと中央に置かれた大きな鍋。

 キノコや野菜と一緒に大量の肉が入っている。

 牡丹鍋だ。昨日の夕方、釜屋が差し入れに持って来てくれたそうだった。

 彼は陶芸の傍ら、猟もしているらしい。但し、猟銃を使用するのではなく、罠を仕掛けるそうだ。

 思いも寄らぬご馳走に更にパワーを増した俺達は、はつらつとし足取りで朝の準備に向かった。伝所や守役四人衆も加わり、拝殿とその周囲の清掃を手早くかつ丁寧に済ませる。その後、社務所は伝所と夏音が、残りのみんなで参道の掃除に向かった。

 今日からペンションの方は仕事が落ち着くらしく、鍵田と辻村は巫女装束を纏うと、参道の掃除後、祈祷の受付に就き、染谷と守役の四人は神社周辺の警護に入った。昨日の夜の事もあって、守りを固めると言う事で、他にも何人かの郷民が警護の応援に入るらしい。彼らは守役ではないらしいが、紗代が言うには常人とは比較にならない位強いらしい。それを聞くと、まだ全てを見た事が無い大鉈達の実力に、身内ながら底知れない戦慄を覚えてしまう。

 伝所の話では、今日は一般参拝客の特別祈祷がないものの、この郷に戸籍がありながら郷外で生活している元郷民達の参拝客が一気に増加する為、例年だと神事はむしろ今日の方が多忙の域を超えるそうだ。それに輪を掛け、通常の参拝は一般客も可能なので社務所も同様に最高のピークを迎えるとの事だった。

 陣屋と籠屋も後から社務所の応援に来ると言う。宿泊客のほとんどが今日郷外に帰る為、若干余裕が生じるらしい。

 更に驚いた事に、前に社務所の手伝に来た篝火も午後から警備に加わるとの事だった。一見、インドア派の物静かなお姉様タイプなのだが、彼女も守役のメンバーらしく、祭りの間は宿泊客の相手をしながら、外部からの来訪者に妖しい者がこないか目を光らせていたらしい。 

 伝所の話では、鍵田の元彼達が訪れた日に篝火が社務所に入ったのは、不快な気を纏った集団の訪れを察した為で、紗代達が祈祷の合間をぬって絶妙なタイミングで社務所に現れたのも、事前に彼女からの報告があったからだそうだ。因みに、普段も郷外の染谷と報告を取り、郷の様子をこまめに伝えているとの事だった。

 本音を言うと、俺的には祭司役であってほしかったのだが。

「おはよう」

 社務所の受付に就いた俺に、熊の様な体躯の男が声を掛けて来た。釜屋の兄ちゃんだ。日焼けしたどす黒い肌といかつい角ばった顔つきからは想像が出来ない優し気な表情を浮かべている。

「おはようございます。差し入れ有難うございました。私もご馳走に授かりました。初めて食べましたが、おいしかったです」

 俺は釜屋に猪肉の謝礼を述べた。

「それは良かった! 喜んでもらえて嬉しいよ」

 釜屋は嬉しそうに頬をほころばせた。

「鴨ちゃんも郷人になったんだって? 伝所のお姉から聞いたよ」

 釜屋が目を細めながら笑みを浮かべた。伝所の事をお姉と呼んでいるのか。年代が近いから親しい関係なのだろう。

 因みに俺はいつの間にか『鴨ちゃん』で呼び名が定着していた。

「まだ分からない事ばかりなので、宜しくお願いします」

「こちらこそ宜しく。祭りが終わって落ち着いたら、俺ん家に遊びにおいで。登り窯とか見た事ないだろ? 」

「はい、是非伺わせて頂きます」

「じゃあ、また後で。俺も今日は警備に就くのでね」

 釜屋はそう言い残すと鳥居の方に向かって歩き始めた。

 確かに、彼なら警備に持ってこいだろう。服装は濃紺の作務衣と控えめだが、生地から覗く丸太の様な四肢と熱い胸板から感じる圧量は常人を遥かに凌いでいる。

 まあ、参拝客が彼を見てびびらなきゃいいけど。

 伝所から聞いていた通り、まだ早朝というのに参拝客は前祭よりも遥かに膨れ上がり、神社の駐車場はすぐに満車。少し離れたキャンプ場や陣屋達のペンション周辺も車でいっぱいらしく、そこからぞろぞろと歩いて神社に向かう人々も多いそうだ。

 お参りを済ませた後、社務所に立ち寄る参拝客も、前祭の三日間を大きく凌ぐ盛況ぶりで、御朱印は伝所と染谷がフル稼働し、窓口の方は、俺と夏音、遅れて加わった陣屋と籠屋で対応した。

 それでもお昼時になると参拝客も落ち着きを見せ、俺達も交代で食事を取る事が出来た。警備担当の郷人も交代で食事を取りに社務所に訪れたので、状況を聞いてみたが大した事は起こってはおらず、平穏そのものだとの事だった。

 食事を終えた俺は受付の席に着き、参道を眺めた。鳥居の方に目をやると、木陰に佇む篝火の姿があった。釜屋の食事交代に入ったのだろう。先日社務所の手伝いに来た時の巫女装束ではなく、濃いめのデニムに黒いカットソーを着ていた。

 不意に、彼女が携帯を取り出した。ほぼ同時に、染谷の携帯が呼び出し音を奏でる。

 何かあったのだろうか。

 一抹の不安が脳裏を過ぎる。

「すみません、ちょっとお聞きしたいのですが」

 不意に声を掛けられ、俺は慌てて窓口に目線を戻す。

 二十代前半位の男性が、俺を見つめている。

 肩までの伸びた長い銀髪に白さが際立つ肌。鼻筋の通った整った顔立ち。

 日焼けを嫌ってか、顔の半分近くを黒い布製のマスクで覆い、トップスの黒いシャツも、汗ばむ陽気だと言うのに腕まくりせずに袖まできっちり生地を伸ばし、ボタンを留めている。

「お忙しいところ申し訳ございません。私、こういう者でして」

 彼はハスキーだがやや高めな声でそう言いながら、シャツの胸ポケットから革製のカードケースを取り出すと、俺に名刺を手渡した。

『霧鵡探偵事務所 所長 四方 輝美都』

「探偵さん? 」

 俺は名刺から目を上げると、驚きを隠せぬ表情で彼を見た。

「はい。浮気とか不倫調査をメインに活動しています」

 彼は目を細めた。

「ごめんなさい、読めないです」

 俺は申し訳なさげに彼を見た。

「ですよねえ、依頼者の皆さんもそうおっしゃるんですよ。社名は『きりぶ』って読むんです。私の名前は『よも きみと』です」

「印象的な名前ですね。社名もあなたの名も」

「有難うございます。もっと簡単な社名の方がいいかもなんですけど、ライバル会社が多い中で、私の様な新参者が客を取るには、特徴のあるものじゃないといけないのでね」

 四方は言葉に絶妙な抑揚をつけ、面白おかしく俺に語った。

「で、御用件は何でしょう」

「あ、そうでした。実は、ちょっと見て頂きたいんですけど」

 四方が胸ポケットから一枚の写真を取り出した。。

 髪を短めに整えた、スーツ姿の真面目そうな青年が写っている。

「今から数年前に撮られた写真だから、多少は変わっているとは思うんだけど、最近この人を見かけませんでした? 」

 俺は食い入る様に写真を見つめた。

 見た事があるような、無いような・・・あやふやな記憶に猜疑のフィルターを掛けてみるが、何とも確信めいたものが無い。

「ごめんなさい、分からないです。ここのところ大勢の肩が参拝に来られていますので」

「そうですか。そうですよね。有難うございました。その写真、おいていきますので、他の方にも見て頂ければ有難いです。もし何か気付いた事がありましたら、ご連絡ください。名刺に携帯の番号とメールアドレスが乗っているんで。宜しくお願い致します」

 四方は深々とお辞儀をすると、拝殿の方に向かって歩き出した。

 その少し後ろを、弓曳がさり気ない足取りで後を追う。

「今の誰だったの? 」

 夏音が俺に問い掛けて来る。

「探偵だって。名刺と写真を置いてったよ」

 俺は名刺と写真を彼女に見せた。

「へええ、誰だろ。見たことない人」

 夏音が首を傾げる。

「染谷さん、ちょっといいですか? 」

「えー? ぬあにいい? 」

 声がかなり離れたところから聞こえる。

 振り向くと、いつの間にやら彼女は食事モードに入っていた。ついさっきまで、俺の後ろの方で書置き用の御朱印を書いていたはずなのだけど、気が付くと差し入れの焼きそば大盛と戦っている最中だった。

「そちらに持って行きますね」

 俺は名刺と写真を指でつまみ上げると染谷が食事している奥の控えの間に持って行った。

「どれどれ、見せて」 

「これです」

 俺は写真をテーブルの上に置いた。

「何何? 」

「どうしたの? 」

 たまたま客がいないのをいい事に、伝所達もわらわらと集まって来た。

 と、不意に社務所の引き戸が開く。

「休憩に来ました」

「お腹空いたあ」

 ちょうどいいタイミングだった。紗代とあやめが昼食を取りに社務所に戻って来たのだ。

「これは? 」

 紗代がテーブル上の写真と名刺に気付く。

「さっき探偵が来て、人探しをしているから情報が欲しいと言って、置いて行ったんです」

 俺は紗代にいきさつを簡単に説明した。

「誰でしょう。郷民じゃないし・・・もし参拝客の中にいたとしても、気付かないでしょうね」

 紗代は眉間に皺を寄せ、困惑顔で写真を覗き込む。

「家出人でしょうか。それとも、浮気とか不倫とか――わっ! 」

 染谷が叫び声をあげて立ち上がった。彼女が飲んでいたお茶のペットボトルが見事に倒れて、写真と名刺目掛けて見事にぶちまけていた。

「ごめんなさい! 衣裳の袖が当たっちゃった」

「乾かしましょう。燈明用のライターがあったと思うのですけど」

 紗代がお茶でびしょびしょになった写真と名刺を器用に未使用の割りばしにはさんだ。

「ライター有りました」

 あやめがライターを紗代に手渡す。

「有難う」

 紗代はあやめからライターを受け取ると、炎の出力を最大して濡れた写真と名刺を炙り始めた。

 俺は呆気に取られたまま、彼女の行為に見入っていた。

 乾かすって言ったって、幾らなんでもそれは無理がある。

「きゃっ! 」

 紗代が小さな悲鳴を上げる。

 割りばしにはさまれた写真と名刺がめらめらと音を立てて燃え上がった。

 そりゃそうなるわな。

 でももはや手遅れ。どうする事も出来ない。

 俺はただ、固唾を呑んで燃え上がるそれを凝視した。

「危ない! 捨てないと火傷します! 」

 我に返った俺は、紗代に割りばしを話すように促した。

「大丈夫」

 紗代は落ち着いた声で俺に答えた。その言葉の通り、炎は割りばしを焦がす程度でとどまり、写真と名刺だけが完全に灰と化した。

「今のは・・・何? 」

 俺は紗代に尋ねた。

 俺ははっきりと見たのだ。燃え上がる写真と名刺から白い人が他のようなものが分離すると、苦しそうに身悶えしながら消えて行ったのを。

 恐らく、俺以外にも見えていたはずなのだが、燃え尽きるまで、誰もそれに触れる者はいなかった。俺の場合、驚愕の余りに声帯がフリーズしてしまったのだけど。

「式神よ。名刺と写真にそれぞれ一体ずつ憑依させていました」

 紗代が静かに答えた。

「受け取ったのが鴨ちゃんで良かった。奴ら、隙あらば憑りつこうとしていたんだけど、鴨ちゃんの力が強かったから入れなかったのよ」

 染谷が安堵の表情を浮かべる。

「染谷さん、分かってたんですか。式神の事」

 俺は染谷を見た。

「最初は、何か得体の知れない奴が憑いてるな位しか分からんかったよ」

 染谷が残念そうに答える。

「あの男に最初に気付いたの、篝火さんですよね」

「鴨ちゃん、気付いてたんだ」

「鳥居のそばにいた篝火さんがスマホを出してすぐに、染谷さんのスマホから着信が聞こえましたから」

「その通り。篝火さんから妖しい気を孕んだ人物が来たって連絡が入ったんで、様子を見ていたら、すぐに張本人が社務所に来たじゃない。そのうち、只ならぬ気を孕んだ呪物を鴨ちゃんに渡してたから、やばいと思って奥に引っ込んで御代さんに連絡を取ったのよ。丁度休憩を取るのにこちらに向かっているって言ってたから、急いでさっきの即席茶番劇を打ち合わせたのよね」

「さっきのあれって、わざとだったんですか」

「そうよ。うまくいって良かったよ」

 俺は呆気に取られてしまった。

 テーブルが水浸しになって大慌てして、全ては計算ずくの上だったのだ。

「社務所の受付、鍵田さんや辻村さんじゃなくて正解でした」

 紗代がしみじみ呟く。

「二人だと憑りつかれていたかもってことですか? 」

 俺の問い掛けに紗代は困った表情で首を横に振った。

「それも有りますけど、問題は写真の方です」

「え? 」

 何の事なのか分からない。

 途方に暮れる俺を、伝所がにやにや笑いながら見つめた。

「鴨ちゃん、修行が足りんね。あの写真の人、鍵田さんと辻村さんの元彼よ」

「えっ? 」

 驚いた。写真の男は清潔感溢れる真面目なビジネスマンの雰囲気がびんびん出ていたから、あの輩風情と同一人物だとは・・・。

「問題は、四方って探偵。式神を使うなんて只者じゃな――」 

 不意に紗代が言葉を閉ざした。

「すみません」

 受付窓口に、あいつがいた。

 愛想笑いを浮かべながら、こちらをじっと見ている。

「はい、何か? 」

 窓口越しに、彼に問い掛ける。

「どうでした? 写真の人物、見かけた方はいなかったですか」

「はい、御力になれなくて申し訳ございません」

 俺は深々と頭を下げた。目を見つめられると心の奥底を覗き見られてしまうかもしれない――そんな恐怖心に駆られての、無意識的な行為だった。

「いやいやそんな、誤って頂かなくても」

 四方は糞馬鹿丁寧な俺の謝罪に恐縮したのか、慌てて顔を上げるように促してきた。

「どうも有難うございました。では――あ、そうだ」

 四方は社務所から立ち去ろうとした直後、不意に立ち止まった。

「名刺を置いていきます」

 四方はカードケースから名刺を一枚取り出すと、受付口に置いた。

 俺は躊躇した。受け取っていいものかどうか。 

「大丈夫ですよ、それには何も仕掛けていませんから」

 四方はそう言い残すと、彼は振り向きもせずに社務所を後にした。

 俺は言葉を失った。驚愕に凍てついた舌が、言葉を紡ぐ思考と意識の同調を拒否していた。

 奴は、俺達が名刺と写真もろとも式神を滅した事に気付いている。

 四方 輝美都――いったい何者なのだろうか

 俺は生唾を呑み込むと、視界から消え去るまで彼の後ろ姿をじっと追い続けた。



 

 



 


 

 

 

 

 

 

 


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