第2話 蠢く

 焚火台に薪をくべながら、俺は淹れたての珈琲を口に含んだ。ステンレス製の、二層構造ののカップ。百円ショップで買った手頃なやつだけど、これがまた意外と冷めにくいので重宝している。

 珈琲から立ち昇る湯気と俺の吐息が交差して、紺青の夜の帳に白い影を落とす。

 三月末。春の訪れを肌で感じる昼間とは違い、夜はまだまだ冬の名残を秘めている。

 焚火台で煌々と燃える薪を見つめながら、俺はその暖かな火の恩恵を楽しんでいた。

 火は偉大だ。

 じっと見つめていると心を蝕む負の荷重を全て焼き尽くしてくれるように感じる。

 仕事をしていた頃、リーダーのハラスメントに荒んだ心を唯一癒してくれたのが、週末のソロキャンで灯した焚火の炎だった。

 ソロキャンにどっぷりのめり込み、焚火の楽しさを知ってから、俺はストレスをため込まなくなった。それに自然に触れあい、向き合いながら時を紡ぐことで、俺は自分自身の内面を見つめながら、しがらみにがんじがらめになっていた自我を少しずつ解放するようになったのだ。

 世界の中の一つのピースでしかないと思っていた自分の存在が、世界を動かす素材の一つなのだと自覚するまでに至った時、俺は大多数の中に埋もれる自分が大多数の上に君臨する自分へと進化を遂げたのを感じ取っていた。

 強くなったと思う。

 強くなったが故に、暴挙とも取れる行為――退職の為に、体を張れたのだけど。

 対面のキャンパーも焚火を楽しんでいるようだ。オレンジ色の炎がちろちろと揺れているのが見える。

 もう一人の客は女子のソロキャンパーだった。晩飯に中華鍋――単に具の多いラーメン鍋を堪能した後、炊事場で食器を洗いながらちらっとだけ見たのだが、ランタンに浮かんだ容姿は結構若い女性だった。

 女子のソロキャンもSNSでよく見かけるのでそう珍しくはない。

 余りじろじろ見てはいけないと思ってのチラ見程度だったが、カメラを固定して自撮りしている姿は確認できた。

 彼女も俺の様にキャンプを楽しんでいる姿とかをSNSにアップしているのかもしれない。

 俺はと言うと、今日はほとんど撮っていない。拝殿の中は写真撮影禁止だったし、二人の巫女と会話が弾んだこともあって、動画を撮るのをすっかり忘れていたのだ。

 それにしても、思いもよらぬ巡りあわせだった。まさかこんな所で穂村あやめと再会するとは。まあ、彼女と再会したことがきっかけで、紗代とも一歩踏み込んだ関係に持っていけたし。

 あやめも元の明るさを取り戻していてよかったと思う。もし、彼女が今も会社をやめた時と同じ状態だったら、最悪人生もシャットアウトしていたかもしれない。

 彼女のファンだった元職場の面々にこのことを話したら、こぞってここに通い始めるだろうな。巫女の衣装もなかなか様になっていたし。

 でも、あれだけの神社を巫女二人で管理するのは大変だろう。あやめがここに来る前は、紗代一人で切り盛りしていた訳だからもっと大変だったに違いない。氏子衆が手伝ってくれるからとか言っていたけど、高齢者の相手も大変だろう。きっとご奉仕していただいた時間以上にお茶出しや世間話で時間を取られているような気がするのだ。

 氏子の面々にとっちゃ、紗代は自分達の孫のようなもんだから可愛くて仕方がないだろう。これに童顔のあやめが加わればなおさらだ。

 俺は夜空を見上げた。

 満月だった。月光が濃紺色のヴェールを白く染め上げ、周囲の星の光までも呑み込んでいる。

 しばらくの間、ここに留まっていようと思う。

 気になるのだ。

 紗代が。

 容姿に魅かれたという訳じゃない。

 勿論、本音を言えばそれもある。と言ってもそれだけじゃない。

 俺が魅かれたのは、彼女の存在そのものだった。

 彼女と会話していて気付いたことがある。

 清楚さの中に仄かに潜む淫靡な翳りを。

 巫女と言うイメージがそうさせているのか、彼女は澄み切った荘厳な雰囲気を纏っている。だが、その静謐で穢れの無い佇まいからはかけはなれた性を、何気ない仕草や表情から匂い立つのを俺は嗅ぎ取っていた。

 不思議な色香だった。

 成熟した身体から立ち上る、女性特有の植物的な匂いとは異なるものだった。

 妖しさと切なさとが絡み合い、紡ぎ出されたそれは、知らず知らずのうちに俺の意識を虜にしていた。

 何も目的を持たずに飛び出した逃避行が、ここで終わるのかもしれない。

 俺は珈琲を飲み干すと、カップをテーブルの上に置いた。

 焚火台で燃え盛る薪の炎の向こうに、揺らめく影が見える。

 それは、ゆっくりとこちらに近付いて来る。

 人影だった。

 まさか、紗代か?

 高まる期待に意識がぞわぞわと落ち着きを失う。

 が、ほんの数秒後に、俺の期待は儚くも崩壊したのを知る。

 見知らぬ女性だった。

 ショートヘアーで、ワインレッドのパーカーにデニム。右手に折り畳み式のローチェアーを上げ、左手に酎ハイの缶を二つ抱えている。

「こんばんは」

 彼女は恐る恐る俺に声を掛けてくる。

 どうやら、対面にテントを張ったかりそめの住民のようだ。そう言えば、なんとなくパーカーに見覚えがある。

「どうも、お疲れ様です」

 軽く会釈し、彼女に返す。

「お一人ですか? 」

「はい、そうですけど」

「私も一人なんです。ちょっとお話いいですか? 」

 彼女は物おじせぬ口調で俺に話し掛けて来る。

「いいですよ、どうぞ」

「有難うございます。あのう、これ良かったらどうぞ」

 彼女は焚火台のそばにローチェアーをセットすると、大事そうに左腕で抱えていた缶酎ハイを一俺に手渡してきた。

「有難うございます。ご馳走様です」

 俺は遠慮なく受け取ると、早速リングプルを開け、喉を潤した。

 久し振りのアルコールだった。飲めない訳ではないのだが、夜中に輩の襲撃を受けたら身動きできなかったらまずいと思って今まで控えて来たのだ。まあ実際には今まで一度もそんな局面に出くわしたことは無いのだけど。

 彼女の名前は吾妻夏音。年齢は二十一歳だった。高校時代にソロキャンに憧れ、高校卒業後二年間働いてお金をため、資金とキャンプに必要なアイテム、車と買い揃えて退社。昨年の春から車で日本中を彷徨っているらしい。キャンプの様子や途中の車窓からの風景をSNSにアップして収益化しているとの事で、登録者数も二十万人近くいるそうだ。俺とは雲泥の差のレベルだった。

 彼女は両親とは幼い頃に死別しており、祖父母も既に鬼籍に入っていたため、彼女は叔母の家でお世話になっていたそうだ。日本中を車で旅する生活は、お世話になった叔母夫婦からは反対されたが、最後には折れて、今は彼女の活躍を応援してくれているらしい。

「だから、私の家は車とテントなの」

 夏音はけらけらと嬉しそうに笑った。

 敬語で話し掛けて来るので、堅苦しいから敬語NGでと提案したら、ふっと表情が軽くなったような気がする。一見ぐいぐい来そうなタイプなのだけど、結構相手に気を遣う性格なのかも。

「でも凄いね、じゃあ日本一周どころじゃないね」

「思いつくままに移動してるんで、結構抜けはあるよ。気に入った場所があると一カ月くらい居座ったりするし」

「ひょっとして、農家住み込み動画とか撮った? 」

「あ、やったやった! 道の駅で知り合ったおばちゃんに、田植えするから手伝ってって言われて・・・田植えが終わってからもしばらく畑仕事も手伝ったよ。三食昼寝付きで、おばちゃん家で寝泊まりさせてもらって。あれは良かった」

「あ、その動画見たかも。また来年も来てくれって言われてたやつ」

「ありがとう! 見てくれたの。そう、それ。でも動画的には伸びなかったんだよね。視聴者は多分何かしらのハプニングを求めているのか」

 夏音は不満気に顔を顰めた。

「ここも何回か来てるの? 」

 俺の問い掛けに、彼女は首を横に振った。

「初めて。驚いたよ。神社が管理していてお風呂にも入れるキャンプサイトって聞いたことが無い」

「だよね。お風呂も格安だし。温泉だしさ。露天風呂まであったもんな」

 陽が山際に沈む頃を狙って、俺は温泉を堪能したのだ。誰もいない貸し切り状態で、しかも夕陽の朱と山を彩る木々のシルエットのコントラストが、まるで切り絵を彷彿させる幻想的な光景を生み出していた。

 その荘厳な自然美に心を震わせながら、しばらくの間、俺は敬虔な面持ち時を過ごしたのだ。

「私もさっき行ったんだけど、ちょうど巫女さん達もいて色々話が聞けて良かった」

「えっ! じゃあ二人の裸見たの? 」

「そりゃあ、見るよ。気になるの? 」

 夏音は淫猥な目つきで俺を見た。しまった! と思ったがもう遅い。真面目なアウトドア青年を装うつもりだったのに、いきなりメッキが剝がれてしまった。

「そりゃあ・・・」

「二人とも綺麗だったよ。丸顔の子は意外と巨乳ちゃんだった。巫女姿の時は分かんなかったけど。二人とも巫女のイメージらしく色白だったね。髪の毛も付け毛じゃなくて自毛だったし。でも、もう一人の巫女さんは透明感のある白い肌で神秘的な、何て言えばいいのかな、神々しく感じるっていうか。人間離れした美しさだった」

「そうなんだ」

 俺はうらやまし気に夏音を見た。

「鴨川さん、巨乳ちゃんと知り合いなんだって?」

「ああ、穂村は前にいた会社の同僚だった」

「あの子、鴨川さんが敵討ちをしてくれたんですって言ってたよ」

「なっ! あいつ、話しちゃったのかよ」

 じゃあ、紗代も知っていると言う事か。昼間は気を遣ってその話題には触れなかったのだけど。まあ、いいか。当の本人が話したのなら。

「気になるなあ・・・それ、詳しく聞きたい」

 夏音の眼がきらきら輝く。こいつ、どうやら自分のチャンネルのネタにするつもりらしいと見た。

「仕方ねえなあ・・・ネットにアップするのなら、匿名で頼む。AさんとかBさんで」

「分かった。その辺は身バレしない様にする」

 彼女は大きく頷いた。

 俺は彼女に穂村と俺の苦悶の日々とリーダーを撃沈させるに至るまで、そしてその後の驚きの展開までを事細かに説明した。

 夏音は携帯で俺の話を録音しながら、じっと耳を傾けた。

「メシウマな話ね」

「まあね。でもさ、できれば巨乳ちゃ――じゃなくて穂村が追い込まれる前に動かなきゃならなかった。彼女に辛い思いをさせちゃったんだから、無能の先輩だよな」

 俺は吐息をついた。

「そんなことないよ。巨乳ちゃんも鴨さんのこと、凄く感謝してたよ。あ、ごめん。鴨川さんだった」

 夏音が申し訳なさげに舌を出す。

「いいよ。チチオバケがそう呼んでたんだろ? 俺、昔からそう呼ばれてっから」

「彼女のこと、チチオバケって呼んでたの? それってセクハラ」

「呼んでないよ。今初めて言っただけだよ。第一、夏音さんから話を聞くまで巨乳とは思わなかったんだから」

 慌てて否定。先程の発言はなかったことに。

「彼女、多分着痩せするタイプね」

 夏音は持論に確信を得ているのか、腕組みしながらうんうんと頷いた。

「そうかも」

 夏音の推察に俺は同調した。

「鴨さん、私の事、カオって呼んでいいよ。私のリスナーさんは、みんなそう呼んでるし」

「分かった」

 俺は頷いた。この子、SNSで活躍しているだけあって結構ぐいぐい攻めて来る。

「鴨さんがここに来た目的は? 」

「目的? 目的かあ・・・なんとなくだから。カオは何か目的が会ってここに来たの? 」

 問い掛けて来る夏音にそっくりそのまま問い掛け返す。

「動画のネタ探し」

「ネタ? ソロキャンの? 」

「それもある。でもそれ以外にも興味深い話があるのよ」

「どんな? 」

「鴨さん知ってるかな。ここの山で生配信やってた三人組が行方不明になったって話」

「ああ、知ってる。今日巫女さんから聞いたよ」

「三人の青年が禁足地の山に足を踏み入れて、生配信していた最中に衣服と持ち物を残して消え失せた――それだけでも十分そそられる話なんだけど、問題はそこから先よ」

「メディアが取り上げないって話の事? 」

「そう! ニュースでや特番で取り上げようとすると、機材の不備や出演者の体調不良何かが相次いで、表に出てこないって噂。あれ、どう思う? 」

 夏音は眼をきらきら輝かせながら俺の顔を覗き込んだ。

「うーん、何ともだよね。俺が気になったのは、その噂の出どころ。いったい誰が発信したんだろうって。でも、行方不明になったのは事実なんだよね。巫女さんも言ってたし」

「そこよねえ」

 夏音もこの噂については納得いっていないらしい。都市伝説としてまことしやかに語られ、事実、現地の関係者もその事件は実際にあったと認めている。

 証言がしっかり得られているにも関わらず、まるでこの話自体が禁足地であるかのようにうやむやにされているのだ。

「動画が削除されてるとて、見ていた人はいたんだよな・・・待てよ、削除されたって事は、当の本人達じゃなきゃ出来ないはず。BANされたんじゃないんだろ? 」

「鴨さん、鋭い! ほんとだ。チャンネルはまだ残っているから、アカウントは生きている訳で、本人が意図的に削除しない限りは消えたりしないわ」

「問題の動画、見たかったな。何かヒントがあるかも」

「あるよ、動画」

 俺は驚きの声を上げると、夏音を見た。

「え? 消えたんじゃないの? 」

「たまたま私、保存してたんだ。問題の場面だけ切り抜いたやつだけど」

 彼女は携帯の画面を操作ながら動画を探すと、俺に見せてくれた。

 ライトで照らし出された小さな祠。頂上に着いたけど何も出ないとか、これじゃ取れ高が無いとか、ぼやく若い男達の声が聞こえる。

 不意に、男達が悲鳴を上げた。画面がぶれたかと思うと、地面が映し出されたままになる。

 映像は、ここで終わっていた。

「何があったんだろ? 」

「わからないんよねえ。映像を細かく見たけど、手掛かりになりそうなもの何も映っていなかった」

 夏音は残念そうに言うと、携帯の画面を閉じた。

「カオはこれを調べようと? 」

「そ。ソロキャンネタばかりじゃ再生回数伸びないし」

「まさか、山に入るとか」

「無断ではしないよ。そこはわきまえているから。やっぱコンプライアンスは守らないと。取り敢えずは村民に聞き取りかな」

「えらいね。再生数稼ぐのに無茶苦茶な事やらかす奴もいるけど。カオは正統派だね」

「ありがとう。そう言ってもらえると自分のスタイルに自信が持てる。あ、鴨氏も動画アップしてるんだよね? 」

「うん。細々と」

 俺は言葉短に答えた。どうでもいいけど、鴨さんが鴨氏に進化している。

「コラボしようよ。お互い取材と撮影を手伝うって事で」

「あ、宜しくお願いします」

「じゃ決まりね。では早速打ち合わせやろうよ」

 夏音は眼をきらきら輝かせると、ローチェアーから身を乗り出した。

 俺は思わず苦笑を浮かべた。この子、決断力と積極性が半端ない。

 打ち合わせも終始彼女がリードし、大まかな予定を決めて行った。

 入浴の際、紗代への取材交渉をした結果、快く引き受けてくれ、撮影も拝殿内以外なら良いとの許可を既に貰ったらしい。

 この行動力が再生回数と登録者数に反映するのだろう。

 他にも編集のノウハウやいかに眼を引くサムネイルを作るかと言った運営そのものについてもレクチャーしていただく。

 話を聞けば聞く程に、俺以上に苦労や努力をしている事を実感した。流石、チャンネル運用で生計を立てているだけあって、本職の姿勢や意気込みの違いを思い知らされてしまった。

 何でもそうだろうけど、お金を稼ぐのは生半可な姿勢じゃ出来ないのだ。

 彼女が去った後、俺は焚火を消すと、テントに潜り込んだ。マットの上に封筒型の寝袋をセットし、中に潜り込む。

 夏音も明日に備えて眠りについたらしく、ランタンの明かりが消され、周囲は闇に包まれていた。

 彼女には朝食をご馳走するからと誘われており、七時に彼女のテントに来るようにと言われている。

 それにしても、こんなに人とのかかわりの深い濃厚な出会いの連鎖は、旅の中でも珍しい。否、珍しいどころか、俺的には初だった。

 旅行番組で芸能人が地元民と触れ合うほのぼのとした出会いの場面何て、俺の場合皆無に近かった。フレンドリーに声掛けされた記憶はないし、むしろ警戒するような目つきでチラ見されたりするほどだった。

 決して俺は人相がすこぶる悪い訳ではないし、理由はそこにはない。

 得体の知れないよそ者――それが、俺の背に貼り付いている忌々しい思念の虚像。

 俺が勝手にそう思い込んでいるだけかもしれないけれど、田舎めいた郷に足を踏み入れると、何となくそう感じてしまう。

 確立されたコミュニティーに、気まぐれな異邦の者が根を下ろす場所など無いのかもしれない。

 でも、この郷はどうなのだろうか。紗代の話では、訪れた者がここを気に入ってそのまま移住する場合があると言っていた。

 そう言えばここに来る途中、農作業に従事する俺くらいの世代の郷人を見かけたけど、彼らも其の部類かもしれない。

 この郷は、ひょっとしたら、閉鎖的な空間にありがちなしがらみの無い、極めて稀な地なのだろう。

 それとも、俺は余りにも辺境の地に偏見を抱き過ぎているのだろうか。

 何処か中二病的な思考が導き出した顛末に、俺は一人苦笑いを浮かべた。

 俺は身を起こすと、寝袋から這い出た。

 眠れないのだ。

 明日からの夏音とのコラボや紗代との出会い、あやめとの思いも寄らぬ再会と、今までになく濃密なイベントの目白押しに気が高ぶっているのだろう。いっこうに眠気が訪れる素振りが無いのだ。

 もう一度、温泉につかって来るか。

 バックの中をあさってタオルを引っ張り出すと、俺はテントを後にした。

 凝縮された漆黒の闇には、俺の懐中電灯の光では心もとないものの、天空に瞬く星の光が、夜の帳が醸す恐怖を僅かながら和らげてくれている。それに、神社へと続く裏参道と少し離れた場所にある炊事場とトイレにも明かりが灯っており、闇の齎す不安を払拭していた。

 静かだった。

 野生動物なのだろう。時折、藪の辺りで枝葉を踏みしめる音が聞こえる。

 だが、物音と言えばその程度で、静寂が圧倒的に優位性を誇っていた。

 夜の神社の駐車場に解放されたキャンプサイト。

 スピリチュアルな意味合いでも、怪異が起きてもおかしくないシチュエーションだ。

 友人の中に、この手のジャンルに精通している奴がいて、何でも十六時以降はヤバい何かしらが神社に集まって来るので行ってはいけないらしい。但し、年末年始は大丈夫だとか。

 その辺りの理由は詳しくは分からないものの、ここではそんな畏怖感や違和感は全く感じられなかった。

 お祀りされている山の神が、この郷を守護しているからなのだろうか。それとも、俺に闇への耐性が出来ているからなのか。

 キャンプ生活を続けていると、闇への恐怖が薄らいでいくのは確かだ。恐らく他人よりも夜目が利くと思うし。

 それにしても、山の神様はどんな姿をしているのだろう。まあ、寺院の仏像と違い、神社で神々の御姿をお祀りしている所は無いのだろうけど。

  確か、山の神様は女性だったはず。それもよく話に聞くのは・・・おっといけねえ。言葉にするとばちが当たりそうだ。

 そんな神様に仕える巫女は二人とも美形ときた。

 普通なら嫉妬するのでは?

 そんな素朴な疑問がふと脳裏に浮かぶ。

 裏参道の坂道を上り詰め、神社の境内に足を踏み入れる。

 流石に夜の参拝者は想定されていないらしく、灯りは灯されていない。

 社務所の横の通路にポツンと明かりが灯っているのは、温泉の利用者の為のものだろう。勿論、社務所は窓を硬く閉じられ、その裏の住居もひっそりと静まり返っている。

 携帯の画面に眼を落すと、時刻を示すデジタル表示は深夜零時過ぎを示している。  

 昼間の紗代達との会話では、あやめもこの住居で一緒に生活しているとの事だったが、流石に起きてはいないようだ。

 紗代かあやめが現れて、『眠れないのなら一緒にお茶しませんか』とか声を掛けてこないかと馬鹿げた期待を抱いたものの、一瞬にして脆くも崩れ去った。

 んな阿保な事考えていないで、とっとと温泉につかってリラックスしたら速攻で寝なきゃ。明日は久し振りに忙しくなりそうだから。

 愚かな妄想を振り払うと、俺はそそくさと温泉に向かった。

 不意に、記憶にある仄かな匂いが鼻孔を擽る。清浄な爽快感に満ちた甘酸っぱい匂に淫猥で獣じみた甘美な匂いが入り混じった魅惑的な匂い。

 紗代の匂いだ。間違いない、昨日、紗代が拝殿の階段で転倒しかけた時、抱き留めた腕の中の彼女の身体から立ち昇った匂いと酷似している。

 この近くにいるのか?

 俺は周囲を見渡した。

 あそこか。

 拝殿から微かに光が漏れている。

 オレンジ色のか細い光が、閉じられた戸の隙間から仄かに零れているのを、俺の両眼は、はっきりと捉えていた。

 拝殿にいるのか。

 こんな夜中に何を・・・?

 俺は足音を忍ばせながら、ゆっくりと拝殿に近付いた。

 拝殿に近付くにつれ、記憶にある芳香は私大に濃さを増していく。

 間違いない。紗代は拝殿にいる。

 俺は駆け出した。

 自分の中の獣性が咆哮を上げ、本来何事にも冷静沈着な俺を封印する。

 突然、灯りが消え、拝殿は闇に沈んだ。

 同時に立ち込めていた芳香が掻き消すように夜の気に呑み込まれていく。

 俺は立ち止まると、まじまじと拝殿を見上げた。

 気のせいだったのだろうか。

 いや、それは無い。

 間違いなく、拝殿には明かりが灯っていた。

 半信半疑のまま、俺は真偽を確かめようと再び拝殿に歩みを進めた。

「どうかしましたか? こんな夜更けに」

 背後から急に呼び止められ、思わず立ち竦む。振り向くと、二人の巫女が立っていた。紗代とあやめだ。それも、深夜というのに巫女の正装で。

「お二人こそ。温泉につかりに来たんですけど、拝殿に明かりが点いていたから、何かなっと思って」

 訝し気な表情で見つめる二人に、俺は最もな弁明と共に問い掛けた。

「あ、ごめんなさい。お話してなかったですね。実は月の縁日の一週間前は日が変わるまで燈明を灯すことになっているんです。前夜にはこの参道も灯しますので、ごらんになられれば。素朴なイルミネーションですけど、地味に綺麗ですよ」

 紗代が破顔して答えた。

「え、観ていいの? 郷人しか参加できないんじゃあ」

「拝殿の外までなら構いませんよ。縁日当日とその前夜は結構郷外からも参拝客が集まりますから、キャンプ場もちょっと騒がしくなるかも」

「へえええ。楽しみです」

「それでは、これで」

「おやすみなさい」

 あやめが俺に小さく手を振る。

「おやすみなさい」

 俺は二人に一礼した。

 二人は会話を交わしながら、住居へと歩んでいく。

 奇跡的な再会? はあったが、『お茶しませんか』は無かった。残念。

 俺は一人温泉に向かうと、静かに引き戸を開けた。

 脱衣所の照明を点けようとしたのだが、点かない。蛍光灯が切れちまったのか。そういや何時間前かに入りに来た時は、まだ明るかったから点けなかったので分からなかった。

 まあいいや。

 俺は闇に浮かぶ脱衣籠のフォルムを追いながら、適当に衣類を放り込む。

 浴場に足を踏み入れると、意外にも星明かりで湯船と洗い場の区別はつく。

 照明のスイッチに手を掛けたものの、俺はあえて点けずに入ることにした。

 まっすぐ露天風呂に向かう。

 思った通りだ。夜空にちりばめられた無数の星が、静かな光を放ち、壮大な静寂のシンフォニーを奏でている。

 最高の風景だ。

 夕方に入浴に訪れた際、垣間見た夕景も感動ものだったが、この星空も地味でありながら、心に響くものがあった。

 俺は湯船に身を沈めながら、夜空を見上げた。

 この神社の縁日『蘇童祭』を観ることが出来るのはもうけものだった。てっきり参道すら近寄れないものだと思っていたから。

 拝殿前からでも、紗代が言っていた熱い神気に触れる事が出来るかもしれない。明日、夏音に話したら喜ぶに違いない。

 しばらくの間、湯船につかったり出たりを繰り返していたが、流石にそろそろ出ようと立ち上がった。

 刹那、いきなり浴室の明かりが点いた。俺は反射的に湯船に身を沈めた。

「あ、こっちは点くみたい」

 あやめの声だ。

「明日交換しましょう。確か予備があったはず」

 今度は紗代の声。

 しまった。

 引き戸に『男』の札を下げるのを忘れていた。

 どうする。

 どうするも何も・・・今、声を上げれば大騒ぎになるし、間違いなく二人からは軽蔑の眼差しを注がれることになる。

 取りあえず、じっとしていよう。露天風呂に来ない事を祈りながら。

 引き戸が開けられ、白い裸体が窓ガラス越しに映る。湯気で曇っているのでよくは見えないが、たわわな乳房が目に飛び込んで来る。

 あれはあやめか。確かにご立派な・・・。

 その後ろに現れた白い裸体は紗代だった。あやめほどではないが、こちらもご立派な乳房が見て取れる。

 二人ともアンダーへアは処理しているのか、白肌の恥丘が生々しく目に捉えられていた。すらりと伸びた四肢に腰の括れ、丸みを帯びながらも張りつめた臀部――本来なら窓ガラスにがっつり貼り付いてガン見したいところだけど、そこはなけなし理性で何とか押さえつける。

 二人とも、魅惑的な白い肌を隠そうともせず、洗い場に向かうと、椅子に腰を降ろした。項が、背中が、そして熟れた白桃の様な丸い尻が、照明の光に照らされて白く浮かび上がる。

 あやめの色の白さは意外だったが、紗代は更にその上を行く神秘的な透明感のある白さを誇っていた。

 それも何となく、白いオーラのようなものに包まているように見えた。

 ただ単に窓ガラスが湯気で曇ってそう見えただけかもしれない。

 俺自身、霊感らしきものは全くないし、今まで不思議な体験など一度も経験した事が無いから、何とも言えないのだけど。

 でも。

 紗代は違う。

 説明する言葉が見つからないけれど。

 違うのだ。確実に。

 二人は体を洗い場で洗った後、桶で湯を体に掛けると、湯船に身を沈めた。

 明日は朝から氏子中の皆さんが集まるから準備が大変だとか、蛍光灯の交換は氏子さんに頼もうかとか会話をしていたが、すぐに湯船から上がると脱衣所に消えた。

 浴場の照明が消え、引き戸を閉める音が響く。

 再び、静寂が訪れた。

 まだ、動けない。

 二人が、住居に戻るまでは、下手に音を立てると、ここにいたのがばれてしまう。

 ひょっとしたら、脱衣籠の俺の衣服に気付き、引き戸の向こうで俺が出て来るのを待ち構えているかもしれない。

 何故、二人はこんな夜更けに湯浴みに来たのだろう。もっと早い時間に夏音が温泉で出会ったという話をしていたから、まさか入って来るとは思わなかった。ひょっとしたら燈明の儀式かなんかで冷えた体を温めに来たのか。

 何がどうであれ、どうか見つかっていませんように。

 二人が立ち去ってから十分以上は経っただろうか。

 俺はゆっくりと湯船から上がると、ゆっくりと引き戸を開け、室内の浴場へと進んだ。

 浴場にはまだ二人の巫女達の残り香が残っていた。

 特に紗代の艶めかしい匂いは、はっきりと分かるほどに俺の嗅覚を刺激した。

 俺は鼻孔を膨らませると大きく息を吸いこんだ。

 血中のアドレナリン一気に上昇し、心臓の拍動が限界を突破する。

 このままじゃ、今夜は眠れそうにない。

 

 

 



 



 

 

 

 

 



 


 


 

 

 

 



 

 












 

 

  

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