シキタリ

しろめしめじ

第1話 導き

 うっそうと茂る木々の間を、つづれ折りの山道が続いている。

 麓の道の駅にあった手作りの観光案内には、この先の集落に無料のキャンプサイトがあると記載されていた。

 だが、行けども行けども木々に覆われた道が続くばかりで、一向に開けた場所に出る素振が無い。

 あの観光案内には、すぐにでも到着するような表記になっていたのだけれど。

 今になって思えば、観光案内をもらってくれればよかったと後悔。自由に持って行って良いとの看板がかかってあったので、もらってきても良かったのだろうけど。

 ただ残りがそれ一枚しかなかったので、ついつい遠慮しがちな性格が出てしまった。

 俺が見た限りでは、道の駅から山に向かう道をただ只管走って入ればつく様な道程だったから、ちょっと甘く見過ぎていたか。

 ひょっとしたら、今はもう閉鎖されてるのかもしれない。その集落自体、存在しているかどうか怪しくなっていた。

 観光案内が一枚しかなかったと言う事は、ひょっとしたら更新されたものを供給する為にあえて補充していなかったのかもしれない。最新版には、キャンプ場どころかマジで集落自体存在してなかったりして。

 ま、それならそれでも。

 車には野宿の小道具も食料品もたんまりあるし。そもそも行先も何も決めずに進んでいる訳だから、たまたま寄った道の駅の案内通りに事が進まなかったとしても気にしていない。

 俺――鴨川響輝の旅立ちに、大それた目標は無かった。

 某私立大学の大学院を卒業後、誰でも知ってる某大手食品会社に研究職で採用され、二年間務めた後、晴れて自由の身になったのは三月半ばの事だった。

 仕事にも慣れ、そこそこのプロジェクトも一人で任されるようになり、一見順風満帆の人生を歩んでいるように見える俺が、突然退職すると宣言した時はちょっとした騒ぎになった。後輩や一部の同僚は知っていたが、上席には相談せず、むしろそんな素振りすら全く見せずに、いきなり直属の上司のチームリーダーに報告した時、彼女は驚いて口を開いたまま固まっていた。

 俺よりも二年先輩――と言っても大卒なので歳は同じ――で、いつも自信満々の彼女がきょどるのを初めて見た。目をかっと見開いたまま、陸に放り上げられた魚のように口をパクパクさせている面は、今思い出しても草生える。

 理由は何だとか、何が不満だとか散々悪態をついていたが、そもそもすぐに感情的になるその態度が気に入らないのだとストレートにお伝えしたら、顔を真っ赤にして黙ってしまった。

 リーダーのスペックだが、慎重百六十センチ位の瘦せ型で、セミロングのやや茶系の髪。コンタクトは嫌いなのか、いつもメタルフレームの眼鏡を掛けている。

 ちなみにですが、どっちかと言うと美人顔だが、性格を如実に表したキツイ系ではある。洒落っ気がなく、大体はいつも白いブラウスにグレイか紺のミニスカート。因みにその日はグレイだった。

 あのあと課長が来なかったら、俺は彼女に水筒でぶん殴られて殺されていたかもしれない。事実、彼女の手には、愛用のステンレス製のボトルががっつり握られていたから。

 危うく大惨事になる所だったが、タイミングよく表れた課長に何があったのか尋ねられたので、いきさつをかいつまんで話したら、そのまま何故か俺だけが別室の会議室にドナドナされてしまった。

「そばでぎゃあぎゃあ吠えられたんじゃあ、君も話しにくいだろ」

 苦笑を浮かべながら、課長が俺にそっと囁く。

 ちゃんと認識していたのだ。彼女の傍若無人な振舞を。

 リーダーは要領がいいと言うか、狡猾と言うか、偉い御方がいる時は借りてきた猫のような感じなのでご存じないのかと思っていた。

 知っているのなら何とかしろよと思ったが、まあ今更だし、退職をきっかけに何かしら措置が取られれば残された面々を救済出来るかもしれないと、特に突っ込みは入れなかった。

 課長には退職したい旨を伝え、その理由もチームリーダーの感情爆発的モラハラにある事を、当の本人に言った以上に詳細に隠さず話した。勿論、俺一人に降りかかっている事案ではないので、後輩や同僚達が受けた事例も余す事無くお話しした。

 どこにだってややこしい人はいるもので、リーダーの場合、些細なミスでも容赦なくせめたて、完膚なきまで叩き潰すタイプだった。それも、自分の機嫌がいいか悪いか、自分が気に入っている人か否かで、対応が全く違うのだ。

 俺が目をつけられたのは数か月ほど前。取引業者の担当者と固定電話で打ち合わせをしていた所、突然携帯に電話を掛けて来たのだ。当然、出られる訳も無く、スルーしたら機嫌を損ねてしまった。因みに、その時リーダーも自分の席についていて、そこは俺が電話で話している姿を十分に目視できる位置なのにもかかわらずだ。

 俺が受話器を戻した途端に呼びつけられ、やれ電話が長過ぎるだ、自分からの電話が重要な用事だったらどうするつもりだなど――今回は大した用事じゃなかったらしい――など、散々怒鳴り散らした後、さっさと席に戻って仕事しろと吐き捨てた。自分の方から呼びつけておいてそれは無いだろうと思ったが、言ったところで火に油を注ぐようなものだから、俺は黙って席に戻ろうとした時だった。

「ほんとムカつくっ! 」

 リーダーはそう言うと携帯を机に叩きつけた。

 瞬間、俺の中でスイッチがオンになった。俺は振り向くと、リーダーをじっと見据えた。

「リーダー、携帯には罪はないですよ」

 俺は抑揚の無い落ち着き払った声でそう言い残し、席に戻った。

 リーダーは顔を真っ赤にして俺をじっと睨みつけていたが、特にその場での反撃はなかった。

 後で後輩達から聞いたのだが、俺の反撃にぐうの音も出なかったリーダーの表情がおかしくてみんなで必死に笑うのを我慢していたらしい。

 これもまた後で知った話なのだが、某プロジェクトを俺がメインで担当することになったのが、リーダーには気にくわなかったらしい。いくつもの課題を抱えている彼女への配慮と俺の力量を推し量る為に、上が下した指示だったのだが、彼女には自分が見切られたように感じられたらしい。

 この日を境に、俺は日々執拗なハラスメントに悩まされることになった。

 それも、モラハラと言うやつ。内容的には道理に合っている様な内容なのだが、攻め方がいやらしい。

 今まで我慢し続けたが、流石に溜まりに溜まった不満は、もう決壊寸前にまで達していたのだ。

 立つ鳥跡を濁さずと言うが、俺はとことん波紋を投げて退散する腹積もりだった。

 勿論、引継ぎはきちんとやらせていただきますが。ただ、あの怪物の事だ。何かしら仕掛けて来る可能性はある。

 洗いざらいぶちまけたところで、庶務の女子社員が珈琲を持って現れた。

「是でも飲んで少し気持ちを落ち着けなさい。リーダーにはよく話しておくから、どうだ、考え直さないか。せっかくここまで勤め上げて来たんだし、プロジェクトも任されている訳なんだし」

 課長は柔らかな眼差しで珈琲を俺に勧めた。事を荒立てて欲しくないと言うのが本音なのだろう。課内のごたごたは結局自分の評価にも繋がるのだから、そうなるのは仕方が無いとは思う。俺も課長の立場だったら、同じ事を言って引き留めようとしただろうから、彼を責めるつもりは無かった。ただ、ここまで彼女を好き放題にさせていたのはどうかと思うのだが。

「申し訳ございません。何度も考えた結果、決断した事ですので」

 俺はポケットから一通の封筒を出すと、課長に差し出した。

 退職届だ。

「まあ、取り合えず預かっておくよ」

 話の流れから俺がそれを準備している事は予想がついていたのだろう。課長は驚きもせずに受け取ると上着のポケットにしまった。

「そろそろ彼女も落ち着いているだろうから、今度は彼女に事情を聴くよ。君はもう戻っていいよ」

 課長はそう言うとスマホを取り出した。社有携帯だ。管理職と各チームリーダーに

所持を義務付けられており、会社関係の連絡はこれを使用するように言われている。リーダーをここに呼び出して事情を聴くつもりなのだろう。流石に電話越しの会話では終わらせないと思う。

「あ、お電話される前に、ちょっとお願いがありまして・・・」

「何だい? 」

 俺の申し出に課長は指を止めた。

 俺は手短に用件を伝えると、会議室を後にした。

 研究室に戻ると、俺の席の前でリーダーが腕を組んで仁王立ちしていた。 

 細いフレームの銀縁眼鏡の奥から、怒りに吊り上がった眼が俺を睨みつけている。

「謝るんなら今のうちよ」

 予想通り、最初からマウント取って来る。俺の発言をもろともしていない。自分の発言や態度が正しいと思う心に揺らぎが無いのだ。ある意味、超絶なメンタルの持ち主と言える。

「どういう事ですか? 」

 俺はわざと困惑した表情を浮かべた。

「課長に、私に謝罪して残るよう説得されたんでしょ? 」

「いえ、考え直さないかとはおっしゃってられましたけど、退職届を受け取っていただきましたよ」

「何よそれっ! おかしいんじゃないのっ! 」

 リーダーは髪を振り乱しながら叫んだ。

 同じフロア―にいた他のチームの連中は、特に驚いた様子も無く、またやってるよ的な冷笑を浮かべながらこちらを盗み見ている。

「じゃあとっととやめなよ。有給休暇、いっぱいあんでしょ! 自己都合の退職は一か月前の申告義務だから、全部使って辞めりゃあいいでしょっ! 」

「プロジェクトの引継ぎはどうします? 」

「しなくていい。どうせ私の指示で動いているだけなんだから」

「指示ではなくてちょっかいですよね。ろくに状況を把握してもいないのに口出しするから、生産課の面々が困ってましたよ」

「人が手助けしてあげてるのに、何て言い草よっ! 」

「まあ、いいですけど。あの事案はもう動いてますから」

「え、どういう事? 」

 茹蛸みたいに顔を真っ赤にしてヒートアップしていたリーダーの顔が、困惑に歪む。

「リーダーがお休み取って旅行に行かれている時ですよ。予定が変わって、早急に進めなきゃならなくなったので、生産課の責任者と打ち合わせたうえで課長の了承を取って進めました。確か、リーダーにもメールしましたけど」

 リーダーがはっと我に返る。俺からのメールに気付いていたんだろう。多分、中を見ないで削除したのだ。そもそもその休んだことも俺への嫌がらせだった。急に締め切りが早まり、俺が四苦八苦している姿を嬉しそうに見ながら急に旅行に行くから一週間休むと言いだしのだ。

「私との引継ぎと言っても先方へのフォローなので大したことはないです。マニュアルもチーム内全員にメールしておきましたから」

「マジムカつくっ! 」

 リーダーは机を勢いよく叩いた。

 ばん、と言う大きな音に、今まで無関心を装っていた他のチームの連中も、ちらちらとこちらの様子を伺っている。

「好きにしたら? もう二度と顔も見たくないっ! 」

「よろしいんですか? よろしければそうさせていただきます。後になって引継ぎもせずに勝手にやめて行ったとかデマ流さないでくださいね」

「さっさと机ん中片づけて出ていけっ! 」

 リーダーは俺の机の引き出しを勢いよく開けた。もはやいつものモラハラではなく、パワハラだった。

「ヴッ!? 」

 リーダーが呻いた。

 目が点になっている。

 まあ、そうもなるだろ。机の中は既に空っぽなのだから。

 ここ一週間のうちに、リーダーの目を盗んでこそっと整理をしていたのだ。

 有給休暇の残数は計算済みだったので、リーダーに言われるまでもなく、消化を理由にとっととおさらばするつもりでいた。勿論、リーダー以外の部内の面々にはそれとなく話してあるし、仕事の引継ぎも実のところ後輩達ときっちり済ませている。

 知らないのはリーダーだけだ。。

「何よ、これ・・・」

「机の中も既に整理済ですが、何か? 」

 リーダーは唇をわなわなと震わせながら俺をぎろりと睨みつけた。

 彼女の平手打ちが、俺の左頬に炸裂する。

 避けれなくは無かったが、俺はあえてそれを頬で受けた。

「何をしているっ! 」

 俺の背後から低い怒鳴り声が響く。

 課長だった。

 さっき会議室で携帯電話でリーダーを呼ぼうとした時、課長からこちらに来てもらえないか相談したのだ。私が戻れば、恐らく大人しくしていないと思うので、状況を

見届けていただきたいとお願いしたのだ。

 課長も思い当たる節があったのだろう。俺の要件を快く承諾してくれ、ドアの隙間から様子を伺ってくれていたのだ。

「課長・・・」

 呆然と立ち竦むリーダーの顔から、一気に血の気がひく。

「君にも話を聞こうと思ったのだが、その必要はなさそうだな」

 課長は抑揚の無い声でリーダーに話し掛けた。一見、優しく語り掛けている様にも感じられるが、目は全く笑っていない。

「私と一緒に所長室まで来なさい」

 課長は一言いい残すと部屋を出て行った。

 リーダーはぶるぶる震えながら、ふらふらした足取りで課長の後を追っかけて行く。今まで上席に隠していた仮面の裏側が暴露されてしまったショックなのか、それとも今まで水面下に隠し通していた所業の数々がばれると思ったのか、生気の失せた顔と動きはまるでゾンビの様だった。

 後で人から聞いたのだが、この時彼女は失禁していたらしく、所長室までの道程を示すかのように床に水滴が続いていたらしい。

「鴨川、動画撮ったしな、メールで送ったし」

 同僚の沢村が俺に近付くと、さり気なく囁いた。

「サンキュ。早速人事部長に送っておくよ」

 俺が退職の話をしたら、リーダーはブチ切れして大暴れするだろうから撮影してくれと依頼しておいたのだ。

 いきなり人事部長に直訴するのはモラル的にどうかと思われるかもしれないが、これには理由がある。

 以前、チーム内でリーダーのモラハラまくし立て暴言的説教動画をこっそり撮影して人事部に送った女子社員がいたのだが、送った相手がリーダ―の同期の女子社員で、公私とも仲の良い関係だったためにばれてしまい、執拗ないじめの末に退社した事例があるのだ。仲がいいだけあって、彼女も我がリーダーとよく似た性格らしく、それに主任という立場を利用して部内の若手を裏で掌握している状況なので、闊にこの手の情報を流せないのが現実だった。

「じゃあ、みんな、そう言う事なので。今までありがとうございました」

俺はチームのみんなに深々と頭を下げた。

 途端に、拍手が沸き起こる。それはチームだけじゃなくフロアー全体にまで響き渡った。

「ありがとうございました」

 同じチームの女子社員が涙を浮かべながら花束を渡してくれた。彼女は最近リーダーに目を付けられ、何かと標的にされていたのだ。理由は、休日彼氏とデートしているのを、リーダーに目撃されたのがきっかけだったらしい。はっきり言って個人的な妬みによるもので、例の如く、リーダーは私は間違っていないオーラを出しまくりながら、いやらしくモラハラを繰り返していたのだ。

 退職後、沢村から聞いた話では、リーダーは降格されて工場に異動。だが自分より若い社員に指示されるのが気にくわなかったらしく、一週間もたたないうちに退職したそうだ。それと今までリーダーの所業を隠ぺいしていた人事部の同期社員も同様に降格後、地方に飛ばされたらしく、こちらも移動先との人間関係で問題を起こしたらしく早々に退職となったそうだ。

 その後、事はスムースに進んで行った。

 驚いたのは、一番難関だと思っていた両親がすんなり許してくれた事だ。

 自分の人生なんだから、後悔しない様に生きればいい。

 そう言って背中を押してくれた両親には感謝。

 まあ、俺のメシウマな話はこれくらいにしておこう。

 あれから半月。俺は車であての無い旅を続けている。

 勤め人の時、同僚からの誘いで始めたキャンプにはまってしまい、車の中にはシュラフやテント、焚火台、バーナーと、一通りのツールは積み込んであり、他に非常食とミネラルウォーターはふんだんに常備している。勿論、車も車中泊出来るように仕込んであるので、雨が降っても大丈夫だ。

 この旅も、正直のところ最初から計画していた訳じゃない。退職する時にこれからの動向を聞かれて、何気に答えてしまったのだ。

 どっかに忘れて来たアオハル、探してくるわ――俺は、そんな感じのやけくそメールを友人達に投げたところ、すぐに出発日を教えろとの返信メールがドカッと届いた。 

 冗談のつもりで言ったのだが、真に受けた同僚があちらこちらで拡散してくれたせいで、出発せざる負えなくなってしまったのだ。

 本来なら実家に戻ってしばらくゆっくりしてから次の仕事を探すつもりでいたんだが。

 家電やらベッドやら当面使わない荷物を実家に送り、アパートを引き払っていざ出発と言う時に、何人かの同僚が押しかけて来て見送ってくれたのだ。男ばっかりだったけど、申し訳ない事に結構な額の餞別までもらって、俺の旅はスタートした。

 俺が向かうのは、大抵観光地からそれた田舎が多い。何も無いような所でも、ふと木々の隙間から見える棚田が凄くきれいで感動したり、無人の売店でかったトマトがめちゃうまだったりと、素朴な感動はきらびやかな観光地にはない発見だったりするのだ。

 こんな行き当たりばったりな旅だが、俺はその様子をSNSにほぼ毎日アップしている。登録者数は少ないが、本来の目的が身内への近況報告なので良しとしていた。

 そんな訳だから、別に目的のキャンプサイトが見つからなかったところで、どうでもよいと言えばどうでもよかった。

 車を止める場所があれば、何とでもなるのだ。

 急に、車のエンジン音が静かになる。。

 山道が下り坂になっている。

 無事峠を抜けたのだ。ひょっとしたら、この道を下った先に民家があるかもしれない。そうなればキャンプサイトもすぐ近くにあるのだろう。

 はやる心を抑えながら、俺はゆっくりと山を下って行った。何しろ曲がりくねった山道だ。スピードを出し過ぎると間違いなく車ごと斜面を滑落することになる。

 しばらく下り続けると、密集していた木々の壁が急に開けた。

 広がる視界には斜面を隙間なく埋め尽くす棚田、山の斜面と斜面の間には畑が広がり、その合間合間に民家がぽつりぽつりと立っている。

 限界集落――そんな感じのする、過疎集落が、そこにはあった。

 だが、手入れの行き届いた耕作地の様子からは、ここで生活している人がいるのは確かだ。

 車を走らせていくと、小さなガソリンスタンドと商店が一緒になった万屋的な店を発見。こんな過疎地っぽい所にも店があるのは驚きだった。店もコンビニ位の大きさで、車を止めるスペースは数台ほどしかないが、恐らく普段ここを利用するのは、この集落の住民がメインだろうから十分なのだろう。

 俺は車を駐車スペースに停めると、店内に足を運んだ。

「いらっしゃいませ」

 愛想よく声を掛けてきた店員さんを見て驚く。 

 若い女性だった。歳は多分俺よりも若い。二十代前半ってとこか。

 こんな事言っちゃあ失礼かもしれないが、俺的には還暦前のばあちゃんがちょこんと座って店番をしているかのようなイメージだったのだけど。

 驚いたのは彼女のそんざいだけじゃなかった。店も結構奥行きがあって思っていたよりも広いのだ。コンビニが三店舗位合体した位の大きさはあるだろう。しかも店内には生鮮食品から乾物、飲料に酒類、生活雑貨と結構品物が揃っている。

 思いのほか広い店内には、他に従業員の姿は無く、どうやら彼女一人で切り盛りしているらしい。

 俺はショーケースから冷えたコーラのペットボトルを取ると、レジに向かった。

「あのう、キャンプ場はここから近いんですか? 」

 会計をしながら彼女に声を掛ける。

「あ、キャンプ場はこの前の道を右に真っ直ぐ進めば看板が見えてきますから。そうですねえ・・・車だと十分位ですかね」

「ありがとうございます」

 俺は彼女に礼を言うと、店を後にした。

 と背後から駆け寄って来る足音が聞こえる。さっきの店員だ。

「お客さん、案内のパンフがあるんで差し上げます」

 彼女が手渡してくれたのは、俺が道の駅で見つけたものと同じ案内の資料だった。

「今の時期は空いていますから、スペースは十分にありますよ」

「シーズンには混むんですか? 」

「四月半ばくらいから平日もそこそこ込みますし、週末はいっぱいですね。キャンプ場は幾つかあるんですが、そこ以外にも河原でキャンプるお客様もいて、混雑しますよ」

 驚きだった。こんな辺境の地――こんな言い方は住民に失礼か――に人が押し寄せるのか。

「どのキャンプサイトがおすすめなの? 」

「一番奥の、神社のそばにあるキャンプ場ですね。ここは静かでいいですよ。それに無料ですし。そのそばには湖があってカヌー体験や釣りができますよ。近くには結構広いフィールドアスレチックもありますから是非寄ってみてください」

 彼女は終始笑みを絶やさず、俺に事細かに説明してくれた。

「有難う」

 俺は彼女に礼を言うと車に乗り込んだ。

 俺はキャンプ場目指して車を進めた。途中の畑や水田で草刈りをしている住民を見かけたが、驚いたことにみんな二十代位の若者で、時折三十代位の住民もみかけるが、見た目が若々しく、生気に満ちていた。

 ひょっとしたら限界集落? なんて思っていたが、それ大きな間違いだった。この村はアウトドア事業で潤っているアクティビティソーンだったのだ。

 驚きの反面、素朴な雰囲気を味わいたかった俺には、何となく裏切られた感がしないでもなかった。

 集落を抜けると、道は清流に並走して続いていた。道の所々に駐車スペースがあり、そこから沢に降りられるようになってるようだった。

 ここでキャンプするのも悪くはない。

 だが取りあえず、店員さんおすすめのキャンプ場へと向かう事にした。

 しばらく行くと、道は急に勾配がきつくなり始めた。道の両サイドに木が生い茂り、視界を阻む。

 また山道に入ったのかと思ったが、すぐにそれは解消された。

 視界はすぐに開けたのだ。

 途端に、俺は息を呑んだ。

 広い丘陵地が、目の前に広がっていた。手入れの行き届いた芝生の緑が美しい。  

 所々に広葉樹が植えられており、野の芝生をぬうように道が続いている。

 どうやら、ここがキャンプ場らしく、よく見るとあちらこちらに設営されたテントやタープが見える。

 本格的なシーズンになると、ここがテントで埋まってしまうらしい。

 丘陵地入り口には『産童山第一キャンプ場』と書かれた看板と周辺の案内板があり、その先に管理棟らしきログハウスが何棟か建っていた。俺はすぐそばの待避所に車を止め、案内板を確認しに車外に出た。見ると、流石にここのキャンプ場は有料らしく、一区画千円の使用料がかかるようだ。ただ案内板を見ると複数の炊事場やトイレが設置されており、おまけに管理棟の横にはカフェと売店まで併設されている。

 いや、もっと凄いものを見つけた。温浴施設がある。

 恐らく俺が目指している無料のキャンプ場はここまでの施設は期待できないだろう。千円払ってもここのが良いかも――と思ったが、あの店員さんを信じて目的地は変えない事にした。

 車に乗り込み、更に進むと森の中に第二キャンプ場とフィールドアスレチックがあり、そこから一分足らずの所に第三キャンプ場があった。第三キャンプ場のそばには湖――たぶん、人工湖――があり、湖岸沿いにコテージらしき建物が幾つか見える。

 観光案内によると、目的の無料キャンプ場はこの辺りだ。

 車を湖畔沿いに進める。あった。

 左手の路肩に『産童神社』と書かれた看板が有り、その下に『無料キャンプ場』と書かれた看板を発見。

 ここから道をそれて側道に入るらしい。

 ハンドルを切り、側道に入る。舗装されていた路から一転して砂利道に。

 しばらく行くと道は二手に分かれていた。三叉路の中央に案内看板が立っており、左手が産童神社、右手がキャンプ場と矢印で示されていた。

 神社にも興味があったが、取り合えずキャンプ場へ向かう。

 しばらく車を走らせると、サッカー場位の広い空間が現れた。周囲は木々で囲まれているものの、薄暗い訳でもなく、程よく光が差し込んでいる。左手は土手になっており、その上に神社の御社らしき屋根が見える。神社とは反対方向のはずれに炊事場らしい東屋とトイレがあった。キャンプ場には先客がいて、一番奥のスペースを陣取っている。黒いワンボックスカーの横に設営されたテントのサイズから、ソロのようだが姿は見えなかった。

キャンプ場の中央の部分は駐車スペースになっていた。どうやら、神社の参拝者用も兼ねているようだ。

 俺は先客とは真反対の位置――駐車場入り口近くに車を止めた。

 テントはまだ張らずに周囲を散策してみる。

 遠目に見た東屋はやはり炊事場で、蛇口は四つあった。水を確保出来るのはありがたい。念の為、ペットボトルのミネラルウォーターは何本か積んでいるものの、余り使いたくは無かったのだ。資金はあるけど先を考えると節約は必要だった。

 更にはコンセントが三か所あり、携帯電話の充電に困らなくて済むのは有難かった。ただ流石には使用料がかかるらしく、コンセントのそばの木製の台に招き猫の貯金箱がおいてあり、使用料金はお気持ち程度と書かれた札が招き猫の首に掛けられていた。

 招き猫は特に固定されておらず、悪心の持ち主ならこっそり持ち帰れそうな感じなのには苦笑したが、まあ、そんな輩は今までいなかったのだろう。

 電源のそばには立て看板があり、薪や季節の野菜を神社の境内で販売していると書かれていた。

 炊事場の裏には、野菜くずや消し炭を捨てる容器も用意されていた。使用する客のマナーがいいのか、ここの管理人がきちんと仕事をしているのか、炊事場周辺にはごみは一切落ちていない。

 ついでにトイレも立ち寄ってみたが、非常にきれいで気持ちよく用が足せた。

 大当たりのキャンプ場だ。無料だと聞いていたから、付帯設備は余り期待していなかったのだ。

 別に何も無い所での野宿も全然大丈夫なのだけど、やっぱり色々と揃っているのはうれしい。

 せっかくここでお世話になるのだから、ご挨拶がてら神社にも寄ってお参りしてこよう。

 炊事場を離れ、俺は神社に向かった。対面の土手に、裏参道と書かれた看板が立っている。ここから神社に行けるようだ。

 裏参道は緩やかな坂道で、舗装のされていない赤土を踏み固められたような道が続いていた。雨でも降れば足元が怪しくなるかもだが、普段なら難無く上がれる。

 数分ほど歩いたところで境内に辿り着く。

 広い。下のキャンプ所と同じくらいの敷地に玉砂利が敷き詰められ、屋根の緑青が美しい大きな社が建っていた。表参道川の入り口には、大きな石の鳥居が建っている。拝殿自体は結構年代物だが、風格があり、こんな田舎にしては――こう言えば失礼かもしれないが――相当立派な建造物だ。鳥居から右手に手水舎があり、左手には住居兼社務所が軒を連ねている。

 社務所のそばに東屋があり、そこに薪とか野菜とかが並べられていた。薪は一抱え程の束で五百円、野菜は全て百円。段ボールに手書きで書かかれた価格表の下に、支払いは社務所でと赤字で書かれていた。因みに薪は他で買うと同じ値段でも量は半分以下だ。

 販売されている品物は結構種類豊富で、キャベツに大根、人参やジャガイモなど何種類か有り、他には多分この辺りで採れたと思われる山菜や果物が並べられている。

 俺は社に向かい、お参りを済ませると、薪を二束ぶら下げて社務所に向かった。

「すみませーん」

 声を掛ける。が、誰もいない。よくよく見ると、社務所の受付のそばに押しボタンがあり、『不在中のため、御用のある方はブザーを押してください』と書かれた貼り紙があった。

 ブザーを押し、しばらく待つと、社務所の奥から若い巫女が現れた。

 刹那、俺は彼女に釘付けになる。

 澄んだ瞳。二重瞼の大きく開かれた眼自体、吸い込まれるようなイメージがあるのだけれど、瞳に宿る清麗な輝きは、見る者の邪な不浄の悪心を一掃するかのような不思議な魅力を湛えていた。

 穢れの無い色白の肌。後ろで束ねられた長い黒髪が艶やかな光沢を放っている。マスクをしているので顔は半分しか見えないが、間違いなく美女に違いない。

「お待たせ致しました」

 彼女は笑顔を浮かべながら俺に一礼した。

「あ、薪を二つください」

 彼女に見とれていた俺は、我に返るとあたふたとしながら要件を伝えた。

「有難うございます。千円になります」

「はい、じゃあこれで」

 彼女に丁度千円を差し出す。

「下のキャンプ場をご利用ですか? 」

 お金を受け取りながら、彼女が俺に話し掛けて来た。

「ええ」

「じゃあ、お風呂のご案内を致しましょうか」

「え、お風呂があるんですか? 」

 驚きだった。ここのキャンプ場、お風呂付なのか。

「神社の禊用を兼ねているので、小さいんですけどね。あ、そっちに行きますね」

 彼女は席を立つと小走りで奥に消えた。が、すぐに社務所の脇から現れる。

「こちらです、どうぞ」

 彼女は俺を先導して社務所の裏に案内してくれた。

 甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐる。

 若い巫女の身体から立ち昇る清楚な芳香に、俺は薪を社務所の前に置くと、心を躍らせながら彼女の後を追った。

 社務所の裏に住居があり、その隣に板張りの小屋が建っていた。摺り硝子の引き戸があり、『湯』と書かれた暖簾がかかっている。

「ここです」

 彼女は引き戸を開け、中を見せてくれた。六畳程の脱衣所の棚に、大きなかごがいくつか並んでいる。

「中、見ます? 今は誰も入られてませんので」

「はい」

 彼女の後について中に進む。

 見ると、十人ぐらいは入れる湯舟があり、シャワー付きの洗い場も五つ並んでいる。

「お湯はかけ流しになっていて、いつでも入れます。入浴料は百円になっていますので、利用される時には脱衣所の料金入れに入れてください」

「かけ流しって・・・温泉なんですか? 」

 驚きだ。キャンプ場で、しかも格安で温泉に入れるなんて。

「はい、温泉ですよ。ここに来るの途中にある「さんどうの湯」って温浴施設もそうです」

「凄いですね」

「有難うございます。残念ながら湧出する湯量が少ないんで、温泉街みたいには出来ないんですけど」

「惜しいですね。村おこしの起爆剤になりそうなのに」

「そうなんですよね。あ、それと、ここを利用される時には表の引き戸に札を掛けて欲しいんです。男性の場合は『男』、女性の場合は『女』。ご利用後、他にお客様がいないときは『空』でお願いしますね。今はまだ利用される方がほとんどいないので、時間の区分けは無いんですが、お客様が多い時は時間で分けています」

「有難うございます」

「ではごゆっくり」

「あ、あの、教えて欲しい事があって」

 立ち去ろうとする巫女を、慌てて呼び止める。

「はい? 」

 彼女は怪訝な表情で振り返る。個人情報を聞かれると思って警戒しているのか。だが俺が聞こうとしているのはそんな下心見え見えの質問じゃない。

「ここの、ご神体ってなんて神様何ですか? 」

 俺の問い掛けに、彼女はほっとした表情を浮かべた。やっぱり、警戒してたな。

「産童様です」

 彼女は最初の応対時と同様に笑顔を浮かべ、答えた

「えっ? 」

 俺は首傾げた。神道に詳しい訳でもないのだけど、俺が知る限りの中では初めて耳にする名だった。

「何でしたらご説明しましょうか? 拝殿の方へどうぞ」

「あ、お願いします」

 俺は軽く頭を下げると、巫女の隣に並んだ。

「結構歴史のある神社なんですか? 」

 歩きながら、それとなく彼女に声を掛ける。

 神社よりもどちらかと言うと彼女の方が興味深いのだけど、取り合えずは意識の水面下に押し留めておく。

「そうなんです。最初に御社が建てられたのが四百年位前。その前にも小さな祠はあったみたいなんですけど。今の拝殿が建ったのは百年前になります」

「凄い、そんな昔から・・・」

「実際はいつからか分からないらしいですよ。元々はこの地に根付いた土着信仰から始まったと言われています。遥か昔から、ここの住民の心のよりどころになっているんですよ」

 彼女は拝殿を見上げながら、愛しそうに語った。

 土着信仰と言う言葉が、妙にミステリアスに耳に残る。

 自然神信仰だろうか。御神体は神話に出て来る神々じゃないのは確かだ。

「中に入られますか」

 本殿の前まで来ると、彼女はそっと俺の顔を覗き込んだ。

「あ、はい」

「じゃあこちらへ」

 彼女は本殿の右端にある階段の前で履き物を脱ぐと、中へと入って行った。ちょっとした所作の度に彼女の身体から立ち昇る甘酸っぱい香りに、俺は無意識のうちに鼻孔を膨らませていた。

 神殿の中は薄暗く、正面にしつらえられた祭壇が厳粛な雰囲気を醸している。

 でも何か・・・変だった。

 妙な違和感が俺の思考を付き纏う。

「ここでは毎月一日の日に定例祭を行っているんですよ。『蘇童祭』と呼ばれています。でも参加出来るのはここの住民だけなんですけどね」

 彼女は徐に話し始めた。淡々と語る彼女の口調は淀みがなく、説明慣れしている様に思われた。これだけ山の中にありながら手入れが行き届いている所を見ると、参拝者も結構訪れるのだろう。

「何かミステリアスですね」

 俺がそう呟くと、彼女はふふふっと嬉しそうに笑った。

「とりわけ変わった儀式をするわけじゃないんですよ。でも祝詞を上げている途中で、がらっと空気が変わるんです」

「へえええええ」

「体験した方じゃないと分からないですけど、祭壇から熱い風が吹きつけて来るんですよ。この神気を受けると気持ちが高揚して身も心も満ち足りた気分になれるんです」

「祭壇から? 」

 俺は訝し気に祭壇を凝視した。見る限りでは、祭壇の後ろは 壁で覆われている。吹き付けると言うのであれば、ちょっとした隙間か穴があればありうるかも。

 そう思った俺は身を乗り出して祭壇の奥を凝視した。

 無い。

 隙間とか穴とかそういう事ではない。勿論、それらも俺が見る限りは無かった。

 もっとあるべきものが無いのだ。

 神鏡が無い。

 普通、神社に行くと拝殿の奥に大きな鏡が祀られている。あれを神鏡といい、言わばご神体なのだが、何故かここには無いのだ。

 俺がここに来て最初に感じた違和感が、まさしくそれだった。

「お気付きになりましたか? 」

 彼女は静かに語った。

「ここって、ご神体が無い――」

 俺は唸る様に呟いた。

「そうなんです。ここにはご神体は祀られていません。ご神体は、この拝殿の向こうにそびえる山なんです」

「山が、ですか」

「ええ。産童山と言う山なんですけど。この山自体がご神体ですので、拝殿から山に向かって参拝するんです。勿論、霊山ですので、普段は神職者以外は立ち入り禁止なんです。山の草木や石なんかも取っては駄目ですし」

 巫女の説明に俺は頷いた。神域あるあるだ。

「そうなんだ。普段はって言うというと、入っていい日もあるんですか? 」

「月初めの定例祭の日のみです。でも、入山が許されるのはここの住民のみですし、必ずさっきご案内したお風呂――禊場で体の穢れを落としてからではないと入れないのです」

「色々と厳しいんですね」

「昔から語り継がれ、守られてきたしきたりなんですよ。山の頂上に祠があって、参拝する為に入山する方もいらっしゃるんですが、道が整備されていませんので大変なんです。私が山に入る時も流石にそれなりの服装で入りますので」

「もし、住民以外の者がこっそり山に入ったら? 」

「そんなことしたら、ばちが当たりますよ」

 俺の問いに、彼女は苦笑を浮かべた。

「どこかの島でも同じ様な話がありますよね。確か、島民しか参加出来ないお祭りがあって、部外者は一切参加禁止でメディアの取材もNGだって」

「その話、私も聞いた事があります。確かネットでだったかな」

 彼女が遠くを見るような仕草で目線を上に向けた。

「ここも取材NG? 」

「まあそうですね。たまにいらっしゃいますけど、お断りしています。住民ですら撮影は禁止ですし」

 彼女は微笑みながら静かに答えた。

「因みにだけど」

「はい? 何でしょう」

「今までに禁忌を犯して神罰が下った者はいるんですか? 」

 不意に、彼女の顔が強張る。

「余り、言いたくは無いのですが・・・何年か前に、神隠しにあった者がいます」

「この里の人? 」

「いえ。ここの住民は決して禁を破りません。外から来た二十代の男性三人が、無断で山中に入って行方不明になりました」 

「捜索とかしたんですか? 」

「はい。祈祷を上げて特別に山を開放しました。ここの住民も警察や消防の肩に協力して捜索に当たったのですが、結局見つからなかったんです。ただ・・・」

「ただ? 」

「祠のそばに、人が倒れた様な形で衣類だけが残されていました。後、荷物と。彼らは映像を撮りながらSNSで生配信していたんです」

「え、服が? それに生配信って? 」

「SNSに撮影しながら上げていたようです。私も後で配信を見たんですけど、撮影中、突然、彼らは怯えた様な叫び声を上げたかと思うと、映像は地面を映したまま動かなくなったんです」

「警察へは? 」

「リアルタイムで配信を見ていた視聴者が警察に通報した様でした。ここの住民でも配信気付いて慌てて神社まで来た方もいらしたんですが、深夜だったので単独で入るのも危険だと思って、警察の到着を待ちました。私の方からも警察に通報しましたので。捜索は警察や消防とここの住民を含めて百人態勢で行ったんですが、結局発見出来ませんでした」

「熊に襲われた? 」

「最初はそう思いました。ここの山にも熊はいますから。でも熊に襲われたのなら、彼らの痕跡が残っているはずなのに、血痕すらなかったんです。おかしいですよね」

「巫女さんも現場に? 」

「はい。ここでは私が一番土地勘があるので」

 彼女はそういうと表情を曇らせた。この事件自体、彼女にとっては禁忌の出来事なのだろう。

「嫌な事件で有名になっちゃったんだね。でも俺、この事件の事知らなかったよ」

 俺は訝し気に答えた。別に彼女を疑っている訳ではない。異邦の者を聖域に入れないが為に、逸話を利用して足止めさせている様にも思えない訳ではない。でも彼女の語り口調に、人を貶めるような芝居がかった雰囲気は感じられなかった。

 だが、俺がこの事件を一度も耳にしたことが無かったのは事実。

「この話には続きがあるんです」

 彼女が意を決したかのように語り始めた。何となく、俺の一言が触れてはならない事に触れてしまったような気がした。

「どんな? 」

「この事件を報道しようとしたテレビ局で、在り得ない機材トラブルや不幸が多発したらしいです。ワイドショーや報道番組で取り上げようとした途端、出演者が急病で倒れたり、テレビ局の関係者が事故に在ったり。他に、こういったトラブル自体をオカルト番組で取り上げようとしたら、ゲストの霊能力者が急遽出演を拒否したりと、とんでもなく曰くつきの事案になっちゃって。結局ほとんど人に知られないうちに御蔵入りになったようです」

 彼女が紡ぐ一部始終を、俺はじっくり聞き入った。

 真顔で淡々と語る彼女の表情からは、決してフェイクめいた白々しさは感じられなかった。

「分かりました。決まりごとは守ります」

 俺は彼女に会釈した。

「禁忌については、拝殿前と社務所に案内板を立ててありますし、社務所で配布している神社の案内にも載せておりますので、よろしかったら後でお渡しします」

「ありがとうござます」

「あのう・・・」

「なんでしょう?」

「いつもはここまでは説明はしていないんですよ。せいぜい神社の歴史に触れる位ですので。今日は特別です」

 彼女ははにかんだ口調で言うと、恥ずかしそうに目を伏せた。

「それはどうもです」

 何言ってんだ俺。もっといい返事できないのかよと自己嫌悪。

「では社務所に参りましょう」

「はい」

 彼女に従い、俺は拝殿を後にした。拝殿から外に出た途端、降り注ぐ陽光が彼女の黒髪で弾け、神秘的な輝きを放つ。

 俺にはオーラや霊が見えたりするスピリチュアルなスペックは無い。でも、今の彼女は神々しい不思議な光に包まれている様に見えた。

「どうかしましたか? 」

 階段を下りながら、彼女が不思議そうな眼差しで俺を見つめた。

「え、何か綺麗だなって」

「うぇい、あ、恥ずかしいですう」

 彼女は顔を真っ赤にすると両手で顔を隠す。

 刹那、彼女の身体がぐらりとよろけた。階段から足を踏み外したのだ。

「危ないっ! 」

 俺は咄嗟に彼女に駆け寄り抱きしめる。

 柔らかな感触。

 白い項が、俺の目の前に迫る。

 彼女の身体から立ち昇る、香しい清楚な芳香に鼻孔を膨らませる。

 心臓が激しく鼓動する。

 俺は気付いた。清らかな芳香の中に潜む、肉欲的な淫靡な匂いに。

 巫女とは言え、生身の女性なのだ。全てが清らかな訳じゃない。

 このまま抱きしめていたい。

 その匂いは、俺の本能に潜む獣性のトリガーに手を掛け、今すぐにでも理性のリミッターを取り払おうとしていた。

 不意に、怯えた表情の彼女の顔が視線を過ぎる。

 崩壊しかけた理性が再び息を吹き返し、俺の本能に急制動を掛けた。

「大丈夫ですか? 」

「あ、有難うございます。大丈夫です」

 彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめたまま、俺から離れた。

「ここにはいつまで滞在されるのですか? 」

 再び歩き始めながら、彼女はそう俺に尋ねてきた。

「しばらくいるつもりです。特に決めていないので、なんせ自由の身ですから」

 俺は彼女に、自分の身の上と宛ての無い旅の途中である事をかいつまんで話した。

「そうなんですか・・・」

 彼女は感慨深げに頷いた。

「あの、滞在されてみてもし気に入るようでしたら、ここに住んでみませんか? 」

「え? 」

 思いも寄らぬ展開に、俺は思わず驚きの声を上げた。

「いらっしゃった人の中で、ここが気に入って住んでしまう方が結構いらっしゃるんですよ」

「本当ですか? 」

 驚きだった。ひょっとしたら、ここに来る途中で農作業をしていた青年達はそういった移住者なのかもしれなかった。

 社務所まで戻ると、彼女にお茶を勧められたので、お言葉に甘えてご馳走になることになった。社務所の横のこじんまりとした待合室に通される。六人掛けのテーブルが二つあり、そこに折り畳み式のパイプ椅子が並んでいる。祈祷を受ける際、準備が整うまで、参拝者はここで待つらしかった。

「どうぞ。お口に合うかどうか」

 彼女はお茶と羊羹を俺に勧めてくれた。湯呑はごつごつとした外観の味のあるフォルムをしている。恐らく手捻りの物だろう。羊羹の載った小皿も同じ様な素朴な風格を醸していた。

「この器もこの里で若い作家さんが焼いたものなんです。最近になって焼き物に合ういい土が見つかって。その方もここが気に入って移住してきた方なんですよ」

「へえええ。そうなんですね」

「中には、住所だけこちらに移して、普段は街中で生活しながら定例祭の時にだけ戻って来る方もいますよ」

「それって、ありなんですか? 」

「あんまり良くないですけどね」

 彼女は肩をすくめた。

 何ともかわいらしい仕草に、思わずにまにましてしまう。

 移住ではなく、住所を移すだけってことか。

 でも、それもありかもだ。定例祭の時に感じると言う謎の熱い神風を体験するには、それが許されるのであれば一番手っ取り早い方法かもしれない。

 それに、里にも税金面で貢献できるわけだし。

 俺は湯呑のお茶を口に含んだ。

「ただいま戻りました! 」

 不意に、待合所の引き戸が空いた。

 俺は振り向き、絶句した。

 俺だけじゃない。相手も同様に固まったままこちらを見ている。

 巫女の装束を身に纏った若い女性。丸顔でぱっちりした目。ほんわかした童顔かわいい系だが、体はしっかり大人で羽織の胸元がヤバい。

「穂村さん? 」

 俺は戸口で立ち竦んでいる人物に声を掛けた。

「鴨川さん? どうしてここに? 」

 彼女――穂村あやめは驚いた表情で俺を凝視した。

「え、二人ともお知り合い? 」

 巫女のお姉様はきょとんとした表情で俺と穂村を交互に見ている。

 穂村は元同僚、俺の後輩だった。栄養士の専門学校を卒業して一年前に入社し、俺と同じ開発チームに配属されたのだが、リーダーの壮絶なモラハラのターゲットになり、心を病んで退社したのだ。先にちらりと触れたかと思うが、人事部に直訴したら相談した相手がリーダ―の同期で親友だったという最悪の展開で憂き目を見たまさしくその人だった。彼女がターゲットにされた理由は定かではないが、見た目も性格もほわほわな彼女に男性陣がきゅんきゅんして人気が集中したためだとも噂されている。

 俺は巫女のお姉様――童な顔立ちの穂村と比較すると、大人びた彼女はどう見てもそんなイメージで見てしまう――に穂村と自分の関係をかいつまんで話した。勿論、彼女が退職した理由や病んでたことは触れずにだ。

 そんな話をしているうちに自然と互いに自己紹介をする流れになり、彼女の名前を知ることが出来た。

 桜木谷紗代――サキヤサヨ。それが、彼女の名前だった。珍しい姓なので、この集落に多い特有のもなのか聞いてみたら、そうではないとの返事だった。

「ひょっとして、穂村さんもここに移住したの? 」

「はい、一か月くらい前に。会社を辞めてからしばらく実家で暮らしていたんですけど、ネットでこの村の事を知って、丁度ここの神社の巫女を募集していたので、おもしろそうだと思って応募したんです。そうしたら採用されて」

「そうなんだ。良かったね」

俺は嬉しそうに笑顔ではなす穂村を見て、内心ほっとした。実はリーダーから彼女を守ってやれなかったことが気になって仕方が無かったのだ。退職する直前の彼女は、終始伏目がちで会話すらままならぬ状態だった。退職届には医師の診断書を付けて提出したらしいのだが、当然これもリーダーと人事担当で揉み消したらしい。

「あやめちゃんが来てくれたから、凄く助かってます。今まで、私一人でこの神社をお守りしてきたので」

 紗代はそう言うと眼を細めた。

「え、一人で? 」

 驚いた。山間部にひっそりと鎮座する神社とは言え、一人でお祀りするには無理がある。

「あ、でも氏子の皆さんが色々と手伝ってくれるので、何とか一人でもやってこれたんですよ」

 紗代はにこやかに答えた。恐らくはここの集落のお年寄り達がこぞって草刈りとかやってくれているのだろう。境内は雑草一つ生えておらず、植え込みも綺麗に手入れされているのは、氏子中の奉仕の賜物と言う事か。

「鴨川さん、私、ここの神社の御朱印を書いているんです」

 あやめが得意気に言った。

「え、マジか」

「元々、一種類しかなかったんですが、あやめちゃんがレパートリーを考えてくれたおかげで、何種類か増えましたし。それに産童神社限定販売の御朱印帳を作ったんですが、これもあやめちゃんが考案してくれたんです」

 紗代はそう言うと、那知合室の壁を指差した。見ると、何種類もの御朱印の見本が貼ってある。定番だけで三種類。他には季節に応じて何種類かプラスになるようだ。

「ブームだものな。御朱印目当ての参拝客も結構来るんですか? 」

「そうですね。でもキャンプに来たついでにって方が多いかな。他にラノベが好きな方も。ここの神社の御利益なんですが、健康長寿と転生なんです」

「転生? 」

 紗代の言葉に俺は喰いついた。釣られたと言った方がいいか。転生と聞けば、ラノベでよくあるあれしかない。ここの神様に祈願すれば、異世界転生が叶うのか?

「ラノベでよくある異世界転生じゃないですよ。新たな人生を切り開くとか、人生を良い方向に転じていくとか、そういう意味です」

 まるで俺の思考を読み取ったかのように、紗代が答える。

「鴨川さんが思ってたこと、見抜かれてますねえ」 

 あやめがにまにま笑う。

 うーん、当たっているだけに、苦笑いするのが精一杯の意思表示。

「あ、落ち込まないでくださいね。鴨川さんと同じ考えの方、結構いますよ。巫女の私がこんな事言ってはいけないんですけど、絵馬に「祈願! 異世界転生」って書く方、結構いらっしゃいますから」

 紗代が優しい口調で俺をフォローする。

 フォローと言うより、とどめの一言かもしれない。

「その手の参拝客の方って、絵馬を奉納した後、スマホで私達の巫女姿をばしばし撮っていくんです。鴨川さんも撮ります? 」

 あやめはそう言うと体を斜に構え、妙なポージングをした。

「御利益ありそうだけど、今日はやめとく」

 まあ、しばらくはここにいるしな。

 と、不意に社務所の呼び鈴が鳴った。来客の様だ。

「ごめんなさい、ちょっと失礼します」

 紗代が慌てて椅子から立ち上がった。

「じゃあ、俺もこれで。ご馳走様でした」

「鴨川さん、あのう」

 待合室を出ようとする俺にあやめが声を掛けてきた。

「ん? 」 

 振り向いた俺の眼に、満面の笑みを浮かべたあやめが映る。

「せっかくですから、お守りと御朱印はいかがですか? 」


 

 

 


 


 


 










 

 


 




 

 

 

 



 


 


 

 

 

 



 


 

 


 








 

 


 


 


 

 

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