新学期
そこは、ただひたすらの闇だった。
上も下もわからない。手を伸ばしても何かを掴めるわけではない。歩くことはできるけれど、足の裏に感触は無くて、何を踏んでいるのか、そもそも踏めているのかどうかさえ確認できない。そんな、あやふやな世界。
途方に暮れていると、突如として目の前の闇が蠢く。目を凝らすと、周囲を包囲する黒より更に暗いーいわば漆黒が現れる。それは決まった形を持たず、グニャグニャと自分をこねくり回した。
やがて、それは人型になる。私と同じ背丈の人間の形に。
『スタイルも身長も良いわけじゃないのに』
女子の声が聞こえた。口が見える訳では無いが、漆黒のそれが発したのだと、なんとなく分かった。一つだった人型は次第に分裂していき、親玉より体が小さくなる代わりに分身をいくつも生み出す。
『少し上手くできたからって褒められてばっか』
『始めたばかりのくせに』
『自分の立場を
人型が増えるたびに、声は増えていく。いつの間にか人型の数は数百を超え、私に覆い被さることができるほどに高くなっていた。闇の中に群れる闇を、私はじっと見つめる。
『あんたがいるから』
『お前のせいで』
『私のほうが凄いのに』
『図々しい奴』
罵倒の嵐は止むことを知らない。耳の奥がキーンと痛くなった。両手を耳のそばに運ぼうとしたとき、漆黒の人型の一つがクローズアップする。目も耳も鼻もないそれは、しかし私をしっかりと捉えて、吐き捨てるように言った。
『お前さえいなければ』
途端に人型は一つの塊に戻って、今度は変形自在な体を巨大な手にした。大きな手のひらは、しっかりと私を包み込めるように迫ってきて──
けたたましいアラームによって、闇は弾けた。
「……っ!」
文字通り、飛び起きた。見慣れた光景と、聞き慣れた音が私を現実へと引き戻す。カーテンを締め切っていても日光が隙間から差し込む部屋は、どこを見ても闇という概念は存在しなさそうだった。
「朝か……」
じんわりと汗ばんだ額を拭って、深呼吸をした。最近はこんな調子で、目覚めが悪いことが多々ある。
未だに主張を続ける時計のアラームを乱暴に止め、私は重い体をベッドから引きずり出す。顔を洗い、階下に行くと卵が焼けた香ばしい匂いが鼻腔を通り抜けた。
「おはよう。朝ごはんできてるから食べなさい」
「はーい……」
キッチンでせわしなく動く母は、私よりだいぶ先に起床していたらしい。食卓に用意されていた、湯気の立つご飯を口に運び、ゆっくりと咀嚼する。おいしい。優しい味。
「そう言えば、今日から新学期ね」
「ああ、そうだね」
「
「……うん、そうだね」
頷きながら、新学期か、と気づいた。
新学期。それ単体は聞こえの良い言葉だろう。人によっては、それがこの上ない楽しみを連れてきてくれると期待するかもしれない。
だが、私は違う。新学期と言いつつ、生徒も先生も学校も対して変わらない。強いて言うなら、去った人間の代わりが入ってくるだけ。楽しみの欠片もありはしない。
今日だって、あるのは始業式という名の暇な時間。あとは担任の話と配布物ぐらいだろう。行く意味を見いだせない。もはや休みたい。しかし、もちろんそんな理由で欠席するわけも行かず、私は渋々学校に向かった。
外はすでに春に彩られていた。枝のみだったはずの木々は青々と茂った葉をつけ、ましてや桜は満開だった。風に乗って吹き飛ばされる花弁が美しい。しばらく家にこもっていた間にも、季節は休むことなくちゃんと訪れている。時間が止まることは決して無いことに、行き場のない虚しさと僅かな怒りが込み上げてきた。が、それはそっと胸の内にしまっておく。
私の中学校のシンボルでもある時計が見えてくると、周囲には次第に同じ制服を身に纏った生徒が増える。ほぼ全員が着慣れた衣服に袖を通し、固定のメンバーと歩いていることだろう。
校門をくぐり、まずはクラスが表示されている掲示板へ向かう。人で溢れかえっていたその場だが、私が来た途端に同級生の女子だけはその場から即座に退散した。理由はなんとなく分かっている。
私は特に気にも留めないふりをして、掲示板を覗き込んだ。2年4組9番。その隣に「
「あ、あのっ、結里香ちゃんだよね?」
突然名前を呼ばれて振り返る。僅かに首の角度を下げたところに、その子はいた。大きく愛らしい瞳で私を見つめる彼女は
「結里香ちゃん4組だよね?私も4組なんだ!」
「あっそう」
「これからよろし……」
「じゃあ、私行くから」
春菜が言い終わらないうちに、私はその場から撤退する。ありがちな、これからよろしく、仲良くしていきましょうみたいな挨拶をしたかったんだろうな。
取り残された春菜に、元々彼女と一緒にいた女子たちが集まる。会話が、嫌でも耳に入ってきた。
「何あれ、酷すぎでしょ。折角春菜が声掛けたっていうのに」
「まぁ仕方ないんじゃない?元々一匹狼みたいなタイプなんでしょ?春菜もあんな奴とわざわざ話さなくたっていいって」
「でも、クラスメイトになる子だし、仲良くしたいじゃん!」
数秒後に、何人かのため息。
「ほんと、あんたって良い子だよね。でも、難しいこともあるからさ」
「そうそう。結里香も、なんか突然態度が冷たくなったっていうし」
「そういうのマジでうざいよね」
好き勝手な会話が遠くからでもやけにはっきり聞こえる。でも、彼女たちが言っていることは間違いではない。むしろ、ほぼ正確だ。
私に話しかける必要なんてない。元より、頼んですらしてないことをされても迷惑なだけだ。うわべだけの友情なんてごめんだ。表面上で良い子を取り繕うんだったら、いっそ、1人の方がマシなのだから。
教室に着くと、三分の一ほどの生徒がすでに来ていた。いくら小学校からの知り合いが多いとはいえ、やはり他校の初対面の人は一定数いるらしく、至る所で交流が行われていた。中には1人ぼっちで本を読んだりすでに勉強している奴もいたが。
なんて言う私も、すぐに彼らの1人になる。自分の席を見つけてリュックを置き、特に何かを取り出すこともなく頬杖をついた。小説が好きなわけでも勉強をしたいわけでもない私は、ただ窓の外を眺める。
窓付近の席で良かったとつくづく思った。今日が晴れだったのも良かった。快晴じゃなくて、ちゃんと雲が浮かんでいるのも、また良かった。ただ青と白を塗って並べただけなのに、不思議と空を見るのは飽きない。ずっと見ていられる。おそらく、ぼっちの特権だ。
あーあの雲は入道雲っぽいな、とか、あそこの青が一番好きだな、とかどうでも良いことを思っていると、ふと視線が刺さったのに気がつく。
自然な素振りで首を右に傾けてそちらを見れば、案の定、私を鋭く射抜く瞳があった。それも、数人。まるで腫れ物を見るかのような、あるいは敵を目の当たりにしているかのような視線。
「ねぇ、あいつでしょ、その冷たい態度の女子って」
「確かそうだよ。なんでも、他人を貶すように見るんだって」
「なーんか一年の頃にあったみたいだけど」
小声ではあるが、会話の内容ははっきりと聞こえてきた。それは事故なのか、あるいは故意なのか、私には分からない。まぁ、陰口に変わりはないのだが。
ともかく、私は聞こえないフリをし続けた。何かを言われたとて、心が傷つくとか、これからの関係に不安があるとか、そういうのは全く感じない。むしろ、言いたい奴には言わせておけばいいのだ。そんな奴らと仲良く友達ごっこをする気は、こちとらにも微塵もない。
しばらくすると、チャイムが騒音を切り裂く。騒いでいたクラスメートも流石に席につき、大人しく教師がやって来るのを待つ。とは言えさほど暇な時間もなく、あっという間に私たちは体育館に案内され、始業式は始まった。
「皆さん、進級おめでとうございます。1年生は2年生になって後輩ができ、2年生は3年生になって受験がやって来ます」
ふぁ、とあくびをする。ありがちな話だ。故に私は流した。
「学校に慣れなかった難しさとは違い、よく知っているからこそ責任や中心となる難しさが、これからの学校生活で多く出て来ると思います」
体育館に静寂は無い。騒がしい、まではいかなくとも、幾つもの小さな話し声が耳障りに感じる。大半の生徒が飽きて来ているようだ。
「だからと言って、諦めてはいけません。どんな困難が襲いかかって来ようと、恐れず、部活や委員会に挑んで下さい。例え、周りがそれを否定しようとも」
ドキリとした。どこかに飛んでいた意識が瞬時に戻って来る。私に直接言われたわけじゃ無いことは分かっているが、それでも、まるで私のことが言われているような気がした。
半年前の記憶がフラッシュバックして、眩暈がする。黒い影が脳裏にチラついた。無意識に、右足をさする。衝撃を与えたわけではないのに、そこはずきりと痛んだ気がした。
結局、校長の話は足の痛みと去年の感傷に浸っていたせいで殆どを聞き逃した。別に支障はないが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます