天使の涙

日乃本 出(ひのもと いずる)

天使の涙

 ここは夜の美術館。

 普段ならば、夜の帳が降りると同時に閑散とした雰囲気に包まれるはずなのだが、今日に限ってこの美術館は光々と照明の光に溢れ、大勢の警察官たちによって騒々しい雰囲気に包まれていた。


 昨今、世間はとある話で大いに盛り上がっている。

 それは怪人二十一面相と自称する怪盗の存在であった。

 この怪盗、盗みに入る前に大胆不敵にも予告状を送りつけ、誰一人傷つけることなく鮮やかなる手並みにて盗みを行うのだ。

 そのため世間ではこの怪盗を「ねずみ小僧の再来」だの「テレビのヒーローのようだ」だのと、言葉は三者三様ではあるが、多大なる礼賛をもって語られているのだった。


 だが警察としては面白くはない。

 どれだけ世間が認めようとも、盗みという狼藉(ろうぜき)を働くこの怪盗をほうっておくわけにはいかないのだ。

 だが、どれほど警戒を厳重にしようとも、それをあざ笑うかのように怪盗は警備をかいくぐり盗みを成功させてしまうのであった。

 このままでは警察のメンツが保たれぬと、警察が躍起になっている中、またしても警察に予告状が届いたのである。その内容はこうだ。


「来る三日後の午後九時、美術館にて特別展示が行われている『天使の涙』を頂戴しに参上いたす

                                             怪人二十一面相」


 警察の感情を逆なでするような署名つきのこの予告状に、警察は威信をかけ、全ての警察官を動員しての大規模な警備を行う運びとなり、今日の美術館の騒動となったわけである。

 さて、先程の予告状にあった『天使の涙』について多少の説明をしておこう。

『天使の涙』とは、世界最大級のダイヤモンドの原石を、さる芸術家がさながら涙の一滴の様な形にカットして作られた、世界有数の価値をもつ芸術品のことである。

 あまりにも価値が高すぎるため、美術館の通常展示室では心もとないということになり、わざわざ『天使の涙』ために展示室を一室増築し、そこを特別展示室と銘打って展示しているのだった。


 そしてその特別展示室の中で、落ち着きなく両手を組んだり離したりしながら、きょろきょろと視線を動かしているスーツ姿の初老の男がいた。

 彼こそ、この美術館の館長であり、その横にはトレンチコートに身を包み、どっしりと構えたいかにもな風体をしたS警部がついていた。


「ああ、S警部。どうか天使の涙とこの哀れな男をお救いください。あの予告状が届いたその日から、私はもう気が気でなくて、今にも狂ってしまいそうです。まさか、あの怪人二十一面相が『天使の涙』を標的にしようなどと、考えるだけでも頭がまいってしまいます」


「お気持ちはわかりますが、まずは落ち着くことです。ゆっくりと深呼吸でもしなすったらいかがでしょう。さあ、さあ」


 館長がS警部の提案を聞き、仰々しい深呼吸を始めると、それを合図にしたかのように制服姿の警官が特別展示室に駆け込んできた。

 S警部の前まで来るとキチっと姿勢を正し、敬礼の後に報告を始める。


「警部、全員配置につきました。これなら怪人二十一面相どころか、アリの這い出る隙間もありませんよ」


 得意気に報告する警官の頬をS警部がつねった。


「あ、痛い! 何をなさるんです、警部」


「や、どうやら本物のようだな。これはすまん。何しろ怪人二十一面相はその名のとおり、変装の名人だからな」


 それでS警部は実際に何度も煮え湯を飲まされてきたのだ。それゆえ、S警部の心境は飲まされた煮え湯が沸騰して蒸発してしまうような程、件の怪盗に対して強烈な敵対心を持っているのだった。


「とにかく、報告、御苦労。持ち場へ駆け足! ところで館長殿、我々警察によって外部の警備は万全でありますが、はたしてこの『天使の涙』が入っているショーケース――ちゃんとそれなりの防犯機能は備わっておりますな?」


「ええ、もちろん。こちらただのガラスに見えますが、その実、非常に強固な特殊素材でございまして、至近距離のダイナマイトの爆発にだって耐えれます。それにこのショーケースを開けるには私しか知らない暗証番号を入力し、私の指紋による認証を行わなければ、決して開かない造りとなっております。あの怪盗がどのような手を講ずるかはわかりかねますが、あの予告状の通りに事を運びますのは。それは簡単なことではございますまい」


 先程のオロオロした態度を一転させ、館長は自信に満ち満ちた演説を披露した。

 その滑稽な仕草に、S警部は失笑を浮かべながら、壁にかけてあるこれまた美術館らしい古めかしい振り子時計に目をやった。

 時計の針は午後八時五十分を指し示している。

 予告状の時間まで、後十分である。

 S警部は残された時間を、特別展示室内に配置してある警官達を呼び集め、最後の確認を行うことで費やそうと考えた。


「集合! 全員集合!」


 S警部の呼びかけに、特別展示室内の警官達がS警部と館長の、そして『天使の涙』のショーケースの周囲に集まる。

 すると突如として特別展示室の照明が消え、特別展示室内が漆黒の闇に包まれてしまったのである。

 色めきたつ警官達をS警部が叱責する。


「うろたえるな! 怪人二十一面相の思うつぼだぞ!」


 S警部の叱責に、警官達は落ち着きを取り戻す。そしてほんのわずかな静寂の後、漆黒の室内に怪人二十一面相の高笑いが響き始めたのだった。


「はっはっはっ。S警部、確かに『天使の涙』はいただいたよ」


「なにっ! そんなでまかせを誰が信ずるものか! ショーケースは我々が寄り固まって守っているのだぞ! いかに貴様といえど、そのようなことが出来うるものか!」


「なに、簡単なことさ。なぜなら、そのショーケースの中の『天使の涙』は偽者なのだからね。事前に盗み出しておいて摩り替えておいたのさ。偽者を後生大事に警察全体で守っていただなんて、S警部君、これほど滑稽なことがあるかね? はっはっはっ!」


「貴様ぁ! 言わせておけば!!」


「まあ、我輩の言葉が信じられぬというのなら、ショーケースを開けて調べてみるといい。その間に我輩は遠くへと退散させてもらうとするがね。はっはっはっ!」


 この怪人二十一面相の言葉の後、特別展示室の照明が点った。


「館長。奴のいうことは本当なのですか? この『天使の涙』は偽者なのですか?」


「そ、そんなことはないはずでございます。ショーケースの外から見ても、『天使の涙』の輝きと質感は本物であると断言できます」


「ううむ。しかし、万が一ということもありうる。館長、お手数ではありますが、一度ショーケースを開けて『天使の涙』が本物か調べてみてはくださいませんか?」


「か、かしこまりました」


 館長がショーケースを開けている間、S警部は特別展示室内の警官達に号令をかけ、逃亡したと思われる怪人二十一面相の捜索へと向かわせた。

 展示室内にはS警部と館長だけが残っている。そして、ショーケースが開けられ、中の『天使の涙』を館長が手に取った。


「やはり、本物であると断言してよいでしょう。この質感、輝き。他の宝石には無いものでございます」


「しかし、相手はあの怪人二十一面相ですぞ。どんな人間にでも精巧に化けてしまい、盗みを成功させてしまうようなやつです。ひょっとすると、その『天使の涙』も奴の言うとおり、本物そっくりに作られたものやもしれません」


「で、ではどうすればよいのでしょうか? なんだかこの『天使の涙』が本物かどうか、自信がなくなってまいりました」


「ならば私が警察に持ち帰って鑑識で本物かどうか調べてみることにいたしましょう。それならば偽者か本物か、確実に判断できると思いますが」


「おお、それは願ってもないこと。ならばこの『天使の涙』をお持ちください。そして本物か偽者か白黒ハッキリつけてくださいませ」


 館長は手に持っていた『天使の涙』をS警部に手渡した。


「うむ、確かにお預かりいたしました。この警備の中です、あの怪盗もきっと逮捕できることでしょうからご安心なさい。それでは、これにて失礼いたします」


 そういって背を向けるS警部を見て、館長はなんと頼りになる人物だろうかと、安堵の息を漏らした。

 そしてS警部が特別展示室から出て行った時、振り子時計が午後九時を知らせる音を打ち鳴らしたのであった。

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