待ちわびた電話

日乃本 出(ひのもと いずる)

待ちわびた電話


 居間のテーブルの周りを、先ほどから落ち着きなく一人の女性がぐるぐると歩き回っていた。女性の年齢は五十を少し超えたところ。しかし、長年の苦労によってその表情に深くきざまれたシワのせいで実年齢より高く見られることのほうが多かった。

 彼女はシングルマザーであった。夫は娘が産まれたその年に徴兵にとられ、そのまま一度も帰ってくることなく戦地で死亡した。女性は悲しみに暮れる暇もなく、娘のために必死で働き始めた。

 そんな女性の愛情に包まれながら、娘はすくすくと成長した。成長するにつれ、娘の心優しさとその美しさに周囲の人々は目をみはるほどになった。やがて娘は看護士の道へとすすみ、腕のよい看護士との評判がたつほどになった。娘の成長した姿に、女性は自らの苦労が報われたような気がしていた。


「あとはあなたの結婚相手をさがすだけね」


 そんなことを口にできるくらいに、女性の身辺は穏やかな空気に包まれていた。まさに、幸せの絶頂ともいうべきだろう。しかし、そんな女性と娘のもとに、ある日一通の封書が届いた。

 その封書が届いたとき、女性は目の前が真っ暗になるような気がした。なぜなら、その封書は過去に女性の大事な夫を奪い去った、あの忘れもしない召集令状だったのだ。


「今度は娘も奪うというの!」


 女性は気も狂わんばかりに泣き叫んだ。そんな女性に娘はまるで駄々をこねる子供をあやしつけるような優しい口調で語りかけた。


「大丈夫よ、お母さん。令状を見る限り、わたしは戦場から離れた野戦病院での後方勤務みたいよ。だから、そんなに危険なお仕事ではないのじゃないかしら? それに何かあったとしても、きっとお父さんが守ってくれるわ」


 そういう娘も心の中では不安で押しつぶされそうだった。だが、いくら女性や娘が拒否しようと、召集令状は絶対なのだ。女性の悲しみの癒えぬまま、娘は勤務地である野戦病院へと出発していった。

 それからというもの、女性は生きた心地のしない毎日を過ごしていった。テレビのニュースや新聞に目をとおし、娘の所属する野戦病院やその付近に何か異変が起こってはいやしないかと、ひたすら心配することしかできなかったのだ。

 しかし、やがてその女性の心配がついえる日がやってきた。

 長い間続いてきた戦争がついに終わりをむかえることになったのだ。ただ、敗戦しての終戦であり、周囲は決してよいムードではなかったが、それは女性にとってはどうでもよいことでもあった。


(娘が、帰ってくる!)


 それだけを願い、日々を過ごしてきた女性にとって、その事実だけが全てであった。国が滅びようとも、住んでいる村が焼き尽くされようとも、そしてたとえ己の命が奪われようとも、娘さえ無事ならそれでよい――。女性は、ただそれだけを願っていたのだ。過激な思想と思われるかもしれないが、母親の愛情とはえてしてそういうものである。

 やがて娘から無事を告げる手紙が届き、その手紙の中に『明日のお昼にお電話をいたします』という一文が添えられていたのであった。というわけで、女性は今か今かと待ちわびているといった次第。

 椅子に座ったり、立ち上がったりを繰り返しながら、女性は歓喜のときへの期待に胸を躍らせていた。テーブルの上に持ってきた電話機を愛おしそうに撫でさするその姿は、他人から見れば異様な光景に見えることだろうが、今の女性にとってはこの電話機こそが人生最大の幸福をもたらしてくれるかけがえのないものなのだ。入念に撫でさすりながら、女性は亡くなった夫に思いをはせる。


「ひょっとすると、本当にあの人が守ってくれたのかもしれないわね――――」


 女性がそう呟いたその時、電話機のベルがけたたましく鳴りはじめた。女性は思わず電話機に添えていた手を離し飛び上がるようにして驚いたが、すぐに驚きを喜びに変えて受話器をひっつかんで耳元に添えた。


「もしもし! もしもし!」


 女性の必死の呼びかけに、待ちかねていた天使の声が受話器からもたらされた。


「お母さん! ああ、お母さん!」


 感極まるような娘の声に、女性も我慢していた涙をこぼしながら語りかけた。


「無事でいてくれてよかった……! 風邪なんかひいていないかね? 身体は健康なのかね?」

「ええ、大丈夫。健康そのものよ!」


 そうして母と娘は久しぶりの語らいを大いに楽しんだ。村にいた猫が子供を産んだ――、お隣さんの子供がやんちゃ盛りになってきてうるさくなってきた――、そんなとりとめのない村の日常の話を、娘は心から嬉しそうに聞いていた。

 やがて、娘のまだ見ぬ結婚相手についての話を女性がしはじめた時、娘は言いにくそうに女性へと切り出しはじめた。


「実はね、お母さん……私、将来を誓い合っている人がいるの」


 この突然の娘の告白に、女性の心は喜びによって完全に染まりきるような気がした。娘が帰ってくるだけでも天にも昇るような気持ちなのに、その娘に愛し合っている男性がいるというのだ。それがどんな相手かはわからないが、自分の娘が選んだ相手、それはきっと自分の想像以上のすばらしい人物に違いない。


「本当かい?! まあ、なんて素敵なことでしょう! いったい、どちらでお知り合いになった方なのかしら?」

「こっちの病院で知り合ったの。優しくて、とっても素敵な方よ! でも……」


 口ごもる娘に、女性はなにやら一抹の不安を感じた。年が離れすぎているのかしら? それとも、お金に困っている貧しい方なのかしら? そんな思いをめぐらせつつ、女性が娘に先をうながすと、やがて、娘は意を決したかのような強い口調で女性に告げた。


「実は……その方には、右足がないの……」


 女性は唖然とした。自分の悪い想像などとても及びもつかぬほどの現実。反射的に女性は娘に聞き返した。


「ど、どうして、その方は、その、右足が……ないのかしら?」

「戦地に向かう途中、地雷を踏んでしまって命はなんとか助かったのだけど、それが原因で右足を失ってしまったの。そして運ばれてきたのが私の勤めていた病院で、そこで私たちは出会ったの」

「そう……」

「ねえ、お母さん――私達、本当に愛し合っているわ。たしかに、彼と一緒になることですごく苦労をするかもしれないけど、それでも私は彼と共に生きていきたいの」


 娘の必死の哀願に女性は答えることができなかった。あれほど苦労して育て上げた娘に、そのような相手が伴侶になるということは、女性にとっては耐え難いものであったのだ。

 無論、それは娘の今後の苦労を考えての親心であり、女性もその娘のお相手に対しての同情心がまったくないわけではなかった。しかし、それはあくまでも同情心であって、娘が抱いているような自己犠牲をいとわないような恋心ではないのだ。 

 それに現実問題として、そのようなお相手と娘が結婚するとなると、相手を養うために娘は今まで以上に働かなければならないだろう。それだけでも女性にとってはいい気分ではないのに、その間、女性はそのお相手と家に一緒にいなければならないのだ。娘を不幸にしかねないそのお相手と、女性はうまくやっていける自信がなかった。いや、むしろそのお相手に対して憎しみさえ抱くことになりかねない。


(手塩にかけた娘――それも自分の最も愛しい人の大切な忘れ形見を不幸になんてさせたくない)


 女性の答えはきまった。女性は一生に一度あるかないかと言うほどに情熱をもって、娘を説得にかかった。

 あなたの気持ちはわかるけど――あなたはまだ若いのだから――ありとあらゆる言葉を用いて、一流弁護士も舌を巻くほどの弁舌で女性はたたみかけていった。

 だが、娘も娘で、なんとか女性を説得しようと、たびたび声に涙の気配をにじませながら必死の想いで訴えかけた。

 双方の主張が平行線をたどりはじめると、女性はあせりの気持ちとイラだちからヒステリックになり、


「あなたは好きな人と結ばれてそれでいいのかもしれないけれど、少しは母さんのことも考えておくれ! あなた一人を育て上げるのにも苦労したのに、これ以上、私は苦労なんかしたくないのよ!!」


 と、思わず叫んでしまったのだ。この言葉に電話口の娘の声は途絶え、かわってしくしくとすすり泣く声が響いてきた。


(いけない……さすがに今のは言葉が過ぎてしまったようね)


 女性は自分のうかつさを悔い、娘に今の自分の言葉を訂正しようとしたが、それは娘の消え入るような涙声によってはばまれた。


「うん……わかったわ……私、あきらめることにする……ごめんなさい……お母さん……」

「そう……ううん、あなたが謝る必要なんてないわ。謝るのはむしろこっちのほう。あなたに悲しい想いをさせて、ごめんなさいね。でも、あなたにはまだまだ未来があるのだから。きっと、素晴らしいお相手がまた見つかるわよ」


 女性がそう慰めても、娘は終始において気のないような返事を続け、そのままなんとも歯切れの悪いまま二人は電話を終えた。

 女性はなんともいえない複雑な想いにかられたが、それも全て娘の幸せのためだと、なんとか心を割り切るように努めるようにし、その日は普段はあまり飲まないお酒を少し飲んで就寝した。

 翌日、女性が軽い二日酔いによる頭痛に悩まされながら朝食の準備をしていると、電話機のベルが鳴り響きだした。


(ひょっとすると、あの娘からかしら?)


 そう思うと一瞬、受話器をとるのをためらいかけたが、そんな自分の気持ちに女性はひどい自己嫌悪を感じた。


(あれほどまでに待ちわびた娘からの電話を今度は恐れるだなんて、わたしはなんて身勝手なんでしょう! 昨日の娘のお相手のことだって、結局は娘の幸せよりわたしの幸せを優先させてしまった! あやまらなきゃ……そして、もし娘がもう一度わたしに結婚の許しをこうたなら、それを笑顔で祝福してあげるの!)


 心の中でそう決意して、女性は受話器をとった。


「もしもし?」

「こちら、陸軍第三後方支援部隊のものですが――」


 電話口の相手は、娘の名前を出し、娘のお母様でいらっしゃいますか? と女性に問いかけてきた。そうです。と女性が告げると、電話口の相手は神妙な口ぶりで女性に宣告した。


「申し上げにくいのですが――娘さんが今朝、遺体となってみつかりました。状況から考えて、自殺だと思われます」


 理解ができなかった。そして数度、相手にどういうことでしょうと聞き返し、相手もそんな女性をあわれに思ってか、ゆっくりと、いたわるように、数度にわたって女性に説明してくれた。

 やがて事態が飲み込め始めると女性は、電話口の相手のことなど忘れ、大気が震えんばかりに慟哭どうこくし、


「どうして?! どうしてうちの娘が?!」


 と、すがるように相手に問いかけたが、しかし相手は、申し訳ありませんが――と前置いて、遺体を引き取ってもらいたいと、村から少しはなれたところにある野営地の場所を告げ、一方的に電話をきってしまったのだった。

 受話器から流れる無機質な不通音を耳にしながら、女性はただ呆然とすることしかできなかった。

 嘆き。哀傷。哀惜。悔悟。悔恨。

 その心の中は、ありとあらゆる悲しみと後悔の念が渦巻き、やがてその念は“取り返しのつかないことをしてしまった”という自責の念へと変貌していった。


(私があんなことを言ったから! 私が許してあげなかったから! ああ! なんていうことを!)


 女性はテーブルの上に用意してあった食器類をつかんではぶちまけ、まるで嵐のように荒れ狂った。やがて嵐が過ぎ去ると、今度は一陣の風となって女性は教えられた野営地へと走っていった。

 野営地に到着し、警らに立っている番兵に事情を告げると、察した番兵が憐れみの目を浮かべながら、女性に野営地にいくつかあるテントの中の赤十字の印がついているテントを指差した。


「あそこに、娘さんがいらっしゃいます」


 女性はお礼もそこそこに一目散にテントのそばへとかけよった。テントの入り口部分の布に手をかけると、女性の脳裏に娘との様々な思い出が浮かんでは消え浮かんでは消えていった。女性の目には涙が浮かび、思い出はまた自責の念へと変わっていく。


 どれだけ悔いても、現実は変わらない。

 どれだけ悔いても、娘は戻ってこない。


 そんな現実に打ちのめされかけながらも、女性はゆっくりと、テントの布をまくっていった。

 そして――――テントの布をまくり終え、目の前に現れた娘の遺体を前に、女性の自責の念は最高潮に達し、その最高潮に達した自責の念は女性から正常な精神を無惨にも奪い去り、そして女性の心を完全に破壊してしまった。

 なぜなら……テントの中のベッドの上に寝かされていた娘の遺体には、右足がなかったのだから――――。

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