二、逢花謳歌

嘉兵衛かへえ。起きてるかい、嘉兵衛」


 昇り始めた太陽が空を朱鷺とき色に染める頃、頼朝を名乗る男は嘉兵衛の元を訪れた。出会った日と同じく、長春色の中着に桃色の小袖、衿元から覗く幾重にも重なった市松模様が華やかだ。金の刺繍が施された薄緑の長羽織も、少しも色褪せていない。


「覚えてるかい、初めて会った日のこと」


 老齢の嘉兵衛は夢とうつつの間で、そして現世と常世の狭間で朦朧もうろうとしていた。それでも構わず、男は話し続ける。


「オレの元で死なれちゃあ何とも寝覚めが悪いじゃねえかと思って、首を括ろうとしていたアンタを止めたが、本当に止めて良かったよ」


 昔を懐かしむように目を細める男の整った横顔が、朝日に照らされる。同じく照らされた嘉兵衛の顔には、幾つもの深いしわが刻まれていた。首を括ろうとしていたのは、もう何十年も昔の話だ。


「だって、アンタは咲き誇るオレを見事だと言い、かたわらに店まで構えてくれたんだ。今じゃあもう、少しも寂しくなんてなくなった」


 桜を見上げる人々の感嘆の声、宴席を彩る三味線やことの風流な音。酔っ払いが歌う、調子が外れた旋律すら愛おしい。独りぼっちで咲いて散るだけの寂しさもまた、何十年も昔の話になった。


「アンタと出会えて良かったよ」


 嘉兵衛の老いた口元が、ほんの僅かに上がったように思えた。まどろみの中で男の言葉が届いたのだろうか。それとも陽光がみせた幻か。


「もうじきお迎えが来ちまうな。でもオレは一緒に逝ってやるほど殊勝じゃあねえ。だから、せめてこいつをやるよ。アンタの最期を飾る花束だ」


 男は手折った桜の枝を嘉兵衛の枕元に添えると、まるで桜吹雪に紛れるように消え失せた。

 嘉兵衛は麗らかな春の日差しの中で、美しく咲いた桜と共に眠っている。











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横禍負うか桜花追うか逢花謳歌 十余一 @0hm1t0y01

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