汝、信ずれば此処は南国也

狼二世

汝、信ずれば此処は南国也

 思い出の最初にある景色は、青い空と大きな背中、そして飲みかけのトロピカーナ。

 人間を形作るのが経験だと言うのなら、僕と言う人間の根底はそこに在る。


 それは、いつの日だったろう。

 遠いと言うには色あせて、近くと言うには幼い頃。

 頭上に広がるのは青い空。足元に広がるのは青々とした草原。そこに立つのは、幼い僕と大きな父。

 父の背中は、いつも空と一緒にあった。

 半裸の男の背中から伸びる濃い影は、まだ幼かった僕をすっぽり覆い隠すほどに長い。

 青い空に浮かぶ太陽は凶悪な程にまぶしく、僕らに襲い掛かる。どうしてか、怖かった。

 

 ――大丈夫だよ。いつだって南国気分を忘れなければ、太陽は味方でいてくれる。


 そう窘められても、幼い僕の心に住み着いた『怖さ』は日差しと共に突き刺さる。日差しが強いには、父の影へと逃げていた。

 周囲の大人は奇異の視線を投げかけるけれど、父さんだけは笑いながら盾になってくれた。

 震える僕に微笑みかけると、

――飲むかい?

と南国風味の濃いジュースを手渡してくる。


 ――これはトロピカーナ、いい名前だろ。名前だけで南国気分になれる。


 甘くておいしいジュースを飲む。甘さと温かさが口いっぱいに広がる。

 この暖かさが、南国なのだと父は教えてくれた。

 

 そんな父が居なくなったのは、いつだったろう。

 

 ――いいかい、いつだって南国気分を忘れちゃダメだよ。

 ――忘れそうな時は、このジュースの名前を思い出すんだ。


 覚えてるのは、その言葉と少しだけ曇った空。

 いつだって大きかった父の背中が、その日だけは小さく見えた。


◆◆◆


 原色の果実が成る木々に、暖色の屋根。

 真白の砂浜と青い海と空。

 太陽が昇る度、絵に描いたような南国が姿を見せる。


 ここは南国、人類最後の楽園にして永遠に続く恵みの園。


 椰子の木の街路樹を歩くのは半裸の男に水着の女。

 キラキラを通り越してテカテカの笑顔の人々が陽気に歩いている。


「ヘイ、今日も南国気分かい?」


 風にのって、この島に伝わる陽気な挨拶が聞こえてくる。


「ああ、今日も最高に南国気分だね!」


 それに、元気に返事をする。

 それだけがこの島における原初の法であり、守らなければいけない決まりごと。


 島の人々はそれなりに忙しく、それなりに穏やかな日常を過ごす。

 太陽と一緒に朝に起きて、子供は学校へ、大人は仕事へ。

 海や大地の恵みを収穫し、午後のスコールで一休憩。南国の雨はいつだって同じ時間に降り注ぐ。

 午後の豪雨は大地を叩く。激しい音にはびっくりするけれど、恵みの雨は汗と熱を程よく洗い流してくれる。


 ここは南国、人類最後の楽園にして永遠に続く恵みの園。


 雨音の合唱に耳を澄ましていたら、お爺さんがグラスを差し出してきた。


「ヘイ、今日もトロピカーナを飲んでるかい?

 トロピカーナはいい、なんてったって名前にトロピカルが入ってる。

 これぞ南国の飲み物だね!」

「ええ、父もよく言っていました」

「ははっ、そうかい」


 白い歯を見せつけながらお爺さんは笑う。


 この島では『南国らしい』ものが重宝される。

 国民食はトロピカーナ、名前が似てるからってオレンジーナを飲んだら即座に止められる。

 中身なんて関係ない、ともかく『南国らしい』モノが大切だ。


 椰子の木を育て、原色の花を育てる。薄着で陽気に笑って出鱈目なダンスを踊って日々を過ごす。

 絵に描いたような南国の日々を、僕たちは過ごしていく。

 そう、南国らしく、南国らしく――


◆◆◆


 ある日、いつもより少しだけ早く雨が降った。

 いつもは陽気にトロピカーナを差し出してくれるお爺さんは、珍しく真剣な顔で降りしきる雨を眺めていた。

 心なしか、肌寒い。気が付けば上着を羽織っていた。


 小さな違和感は、小さな世界にあっという間に広がっていった。

 日に日に早くなる雨が降る時間。下がっていく気温。

 『南国らしく』ない時間が広がっていく。


 大人たちが騒ぎ始めた。


「キミ、南国らしくない人を見つけたらすぐに知らせるんだよ」


 誰もが慌てふためいていた。

 気が付けば空には雲がかかり、風は冷たくなっていた。


 僕たちは信じている。


 ここは南国、人類最後の楽園にして永遠に続く恵みの園。


 だけど、それを信じなくなった時、ここは何になるんだろう。

 あの日……小さな背中で海へと消えていった父なら答られるんだろうか。


 トロピカーナを一口飲む。思い出すのは父の背中と常夏の太陽。


「おぉ……君の周りは少しだけ温かいね」


 誰の言葉か分からない。だけど少しだけ安心する。

 雲の切れ間から、僅かに太陽がのぞいていた。


◆◆◆


 その日は、朝から雨が降っていた。


 ――裏切り者が見つかった。


 その知らせと共に怒号がわきあがる。

 狂気と怒気が溢れる広場に連れ出されたのは僕よりも少しだけ大きな青年だった。

 青白い顔で倒れ伏す彼に人々の視線が突き刺さる。


「おまえが隠れてオレンジーナを飲んでいるのを見つけたぞ!」

「ダメなんだ、僕はメロンのトロピカーナよりもオレンジーナが飲みたいんだ!」

「この非南国民め! このところの寒波は貴様のせいだな!」


 誰も彼の味方をしない。

 彼の味方をしてはいけない。

 

 黒い雲が空を覆う。稲光が走る。人々の怒りに呼応するように咆哮をあげる


「追放だ!」

「海へ出せ!」

「この地に南国を望まない人間は必要ない!」


 落雷が落ちた。それが合図だった。

 屈強な男たちに囲まれると、青白い顔の男は無理やり担ぎ上げられた。

 まっすぐに海へと続く道。普段は陽気な空気が流れるその道を、怒号が駆け巡る。


「ダメだ、彼はオッホーツクに侵された」

「ならば海に捨てるしかあるまい」


 この世界を壊す人間は、必要ないのだから。


 この島は南国である。

 そう、南国でなければならない。

 だって、そうじゃないと世界が凍っていることを認めないといけない。


 数百年前、この星に氷河期が訪れた。

 世界は凍結し、いくつもの命が消えていった。

 だけど、人間はしぶとかった。


 死にたくない。

 生きたい。

 なんとかしたい。


 こうなった時の人間は強い。人間だけが持つ、希望と言う名の欲によって世界すら変えてしまう。

研究に研究を重ねて、未来を探る。

物理的な物では限界が来る。

では、精神的なものではどうか?


そうして、悪知恵で一つの発明を生み出した。


 ――思考環境投影装置――


 人々の『思考』を現実世界へと投影し、塗り替える装置。

 人々が『ここが南国』であると信じれば、その世界は南国となる。


 この島以外は凍結した世界である。

 人間の脳内世界を環境に投影する超技術によって生命は辛うじて生き延びることが出来た。


 この世界は儚い。誰か一人でも南国で在り続けることに疑問を抱けば、世界は容易く塗りつぶされるだろう。


 それは、ダムに空いた穴。

 最初は小さな異常であっても、『疑問』と言う圧力を加えれば崩壊は一瞬にして訪れる。

 

 この島に生きる全ての生命のため。

 人間だけなく、小鳥や魚も南国でなければ生きていけない。

 この星の冬が終わるまで、僕らは南国で在り続けなければならない。

 そして、それが出来なかった人間は消えていく。父のように。


 父は、冬の海へと消えていった。

 海の藻屑となったのか、それともこの世界の外には冬の民の社会があるのか、僕たちは分からない。

 いつか僕も、父のように南国で冬の海に捨てられるかもしれない。

 だけど、トロピカーナを飲むたびに思い出す。

 この味は、南国の味。


 ここは南国、人類最後の楽園にして永遠に続く恵みの園。


 たとえ歪であろうとも、ここが楽園である様に願った人が居る。

 楽園で、穏やかに人生を過ごして欲しいと願った人がいる。

 きっと、その願いは純粋なものだから。

 僕たちは幻の楽園を信じて生きていく。


「やあ、トロピカーナを飲んでいるかい?」


≪了≫

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