エピローグ

エピローグ

 八月より幾分涼しさが増した九月最初の土曜日だった。

 と言っても、やっぱりまだ暑い。

 早朝から多摩川サイクリングロードを走った。私の中で最長の距離を走り終え、多

摩川の土手で体を休めていた。

 今日は初めて一人で一○○キロ以上を走った。これまで俊さんの後について一○○

キロ以上を走ったから一人でも平気だろうと思ったけど、考えが甘かった。一人だと

五割増しで疲れが蓄積されるようで、やっとの思いでスタート地点に戻ってきた。

 一人で走って理解した。これまでは俊さんが前を走って、私の風よけになってくれ

ていたから長距離も走れたんだ。

 周りの目を気にせず、組んだ腕を頭の下にして寝転がる。そして、秋の近づきを表

現し始めた空を眺めた。

 花火大会以来、俊さんとは顔を合わせていない。あの出来事があったからといって、気まずい雰囲気になったわけでもない。先週は女子会があったし、今日は午前中に予定があるから一緒に走れないと断られただけだ。夕方になって猫とまたたびに行けば、間違いなく顔を合わせることはできる。

 考え事をしながら空を見ているだけで、眠ってしまいそうだ。

 私はサングラスを外して、土手に置いた。太陽がまぶしくて、顔をしかめる。

 しばらくすると、聞き覚えのあるラチェット音がした。チッチッチという音は、私

の近く鳴りやんだ。

「やっぱりここにいた」

 声の主は私の横で私と同じように寝転がる。確認しなくても誰なのかはすぐに分か

った。

「今日は用事があったんじゃないの?」

「うん、あったよ。でも、予定より早く終わった」

「そうなんだ」

 気持ちとは裏腹に、会話がぎこちない。彼も先日の花火大会の時のことを意識して

いるのだろうか。なんか怖くて、彼の方を向けなかった。

「今日は何キロ走ったの?」

「一一五キロ」

「一人で頑張ったじゃん、凄いよ」

「うん、今日初めて一人で走る大変さを実感した。一人で走るとこんなにも疲れるん

だね。びっくりしたよ」

「そっか」

 そりゃそうさ、とでも言われるかと思った。でも、予想とは違った言葉が返ってく

る。次に何を話せばよいのだろう、話題が思い浮かばなくてもどかしい。

 私は苦し紛れに言う。

「ねえ、俊さん」

「ん?」

「拓さんって、好きな人いるのかな?」

「どうだろ、今いるのか聞いたことないな。雫ちゃん、拓さんが好きなの?」

「ち、違うよ」

「じゃあ、どうして気になるの?」

 藤木さんが拓さんのこと好きだから、なんて言えやしない。あまりの不器用さに自

分で自分を笑ってしまいたくなる。

「ちょっとね」

「そうか」

 俊さんの良い所は、ずけずけと追及してこないところだ。探られてほしくないこと

を心に持っている時は、彼の距離感に安堵する。それに、彼とは会話がなくても気に

ならない。彼の隣にいられるだけでいいんだ。今のように、同じ空を眺めているだけ

で心が満たされる。

 私がそう思っていることと同じように、彼も感じてくれていたら嬉しい。

 夏の香りに秋の香りが混ざり始めたような風が、私たちを撫でるように吹きぬけて

行ったその時だった。彼は言う。

「俺、そろそろお店に行って準備はじめるよ」

 上半身を起こし、立ち上がろうとする彼を制止するように力強く言う。

「待って」

 私は立ち上がって俊さんの前に立つ。

 自分でも分からなかったけど、今言わなければいけないような気がした。

「驚かせるかもしれないけど、俊さんに言いたいことがある」

 自分でも具体的な言葉で理由を説明できない。だけど、直感なのだろうか、今この

タイミングを逃すと俊さんが遠いどこかに行ってしまいそうな焦燥感にも似た何かが

胸の奥で疼いた。

 彼は首を傾げる。

「えっ、俺に対するクレーム?」

 私は首を横に振った。

 ――頑張りや、雫ちゃん。

 多摩川の対岸の鵜の木から、藤木さんと穂乃香さんの声が届いたような気がした。

 私は、心の中で育んだ言葉を口にする。

「俊さん、私は……」

 言葉が途切れ、街が息をひそめた。

 心臓の鼓動が大きくなる。まるで心臓が外に飛び出ようと暴れているようだ。ロー

ドバイクで走り疲れた影響もあるかもしれないが、冬の乾燥した空気を吸っているよ

うな喉の渇きに襲われ、思うように言葉が出てこない。

 大勢の人の前でプレゼンする場を何度も経験してきたのに、いざ一人の人を目の前

にするとこんなにも私は私でなくなるのだろうか。

 彼はほほ笑んで言う。

「どうしたの?」

 秋の香りを運ぶ、柔らかな風のような表情を向けてくれた。

 オーバーヒートしてしまいそうな頭とは裏腹に、なぜか私の顔はほほ笑んだ。

 そのほほ笑みは伝えたい言葉を口が発せられるように、顔の緊張を少しだけ解いて

くれたのかもしれない。

 そして、口からそよ風のような空気が漏れる。

「私は、俊さんが大好き」

 彼は目を大きくして、私をまっすぐに見つめていた。重たくなった唇を持ちあげて

ようやく口から出た言葉は強い気持ちとは真逆に、遠くから聞こえる雲雀の鳴き声の

ように小さく、でも太陽まで届きそうな意思を纏った声だった。

 この一言を口にするか、どれだけ苦しい思いをしただろうか。元彼に別れを切り出

されてから私は当分誰にも恋をしないように恋心を凍らせた。だけど、それは本当の

自分を封じ偽りの自分で生きることと同義だった。きっと私はずっと前から俊さんの

ことが気になっていて、解けた恋心から滴り落ちる雫が私の頬を打っていた。本当の

自分の気持ちに気付けと叱咤するように。

 それなのに私は自分の心の動きに気付かないふりをしていた。気持ちを誤魔化そう

としていた。

 だけど、もう逃げない。私はまっすぐ私に向き合う。

 私は右手のグローブを脱ぎ、先ほどの言葉を追いかけるように声を出す。

「だから、迷惑じゃなければ私と付き合ってください」

 私は頭を下げたまま、彼の目の前に手を差し出した。なんだかドラマのような光景

だなと後から思った。

 差し出した手に当たるのは、土手を吹き抜ける風だけだった。

 ――届いてよ、私の魔法の言葉。

 湿った手の平を乾かすように、手に当たるのは風だけだった。

 私は涙が溢れそうで顔をゆっくりと上げた。目の前の俊さんは、ふっとほほ笑んで

右手のグローブを脱ぎ始めた。

 差し出した私の右手を、少し湿った俊さんの素手が私の手をつかんだ。

「雫ちゃん、ありがとう。とても嬉しいよ。こんな無愛想な俺でよければ」

 俊さんの手を握ったまま、私は左手で涙を拭った。

「ありがとう、俊さん」

 私の新しい旅が今始まる。

 今だから分かる。立ち止まっていては、いつまでも春は来ない。春は探しに行くも

のだと。冬から抜け出し、暖かな地に向かうのは自分の足なんだ。

 凍った恋心が再び動き出し、私の心は今度こそ愛を知るのかもしれない。

 その日まで、勇気を出して掴んだ彼の手をしっかり握って放さずにいよう。

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恋心の雫 北原楓 @tomfebruary

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