人類初の……
日乃本 出(ひのもと いずる)
人類初の……
エデンの園の中、知恵の実の木の下に、二人の若く美しい裸の男女が座り込んでいた。
二人の名前については説明するまでもないだろうが、一応説明しておくことにする。この男女の名はアダムとイブ。有史以来、初の人類であり、そして人類初の夫婦でもある。
今まで二人は神の庇護のもとに、エデンの園にて様々な動物たちと心穏やかで健やかな毎日を過ごしてきた。しかし、今日に至って、ある大きな事件が発生したのである。
「どうしましょう……」
そう呟くイブの視線の先には、イブがかじってしまった知恵の実の残骸があった。
あれほど神様から食べてはならぬと言われていたのに、悪いヘビにそそのかされてイブは知恵の実を食べてしまったのだ。
知恵の実はすぐにその効能を示した。今までイブの中に存在しなかった、様々な感情をイブに芽生えさせたのだ。
今のイブを支配している感情は、不安感。
(これから先、どうなってしまうのかしら……)
そんな人類初の不安感をどうすれば解消できるのか、イブはその感情を持て余しながらも必死に解決策を考えていた。
「正直に話して謝ったら、神様は許してくれるかしら……いいえ、きっとそれはないわ。神様はとても厳しい人で、言いつけを守らない生き物にはとても酷い罰を否応なしに与える方。たとえば、ヘビ。ああ、そうだわ。そのヘビのせいでわたしはこんな目にあっているのだった」
イブは先ほどヘビが逃げて行った草むらのほうを、ジロリと激しい憎しみを込めて睨みつけた。この瞬間こそ、人類初の憎しみという感情の発生の瞬間であった。
しかし、いくら憎んだところで悩みが解決するわけでもない。忌々しいが、ここは一旦ヘビのことは忘れることにして、イブは解決策の思案に戻ることにした。
だが、いくら考えてもイブには解決策が思いつかなかった。やがてイブは焦りはじめた。このままでは、わたしは神様からひどいお仕置きを受けてしまうわ。早く、なんとかしなくちゃ……。人類初の焦燥感がイブにひしひしとわき上がってきた。
チラリとイブが横目を向けると、そこにはだらけた格好でけだるそうな表情を浮かべているアダムがいた。アダムは知恵の実を食べていないので、余計な知恵や感情は存在せず、ほかの動物たちと同じように、神様の庇護のもとでぐうたらに過ごすことがその存在意義であった。
しかし、そんなアダムのぐうたらな姿が、今のイブの感情を逆なでした。
(なによコイツ。わたしがこれほど苦しんでるというのに、こんなマヌケ面でくつろいじゃって。腹立たしいったらないわ)
ほんの少し前まではイブもそのような表情を浮かべてぐうたらな日々を送っていたのだが、今となっては二度とそのような安寧な生活には戻れない。それに戻れたとしても、以前とは違い、イブには知恵と感情が芽生えている。神様への背徳感も相まって、以前のように心穏やかに過ごすことなどできないであろう。
そんな思いから、イブの心にふつふつとある感情がアダムに対してわきあがってきた。人類初の怒りの感情である。
(どうして、わたしのこの苦しみをわかってくれないのかしら。あなたはわたしの夫なのでしょう? ああ、でも何を言ってもどうせ無駄ね。あなたは知恵の実を食べてはいないのだから、わたしの苦しみなんて、絶対に――――)
そこまで考えたところで、イブの頭にあるひらめきが舞い降りてきた。
(そうだわ! コイツにも知恵の実を食べさせればいいのじゃないかしら? そうすれば、わたしのこの苦しみを分かち合えるだろうし、わたしだけが食べたとなれば神様はお怒りになられるだろうけど、二人とも食べたとなれば、少しは手心を加えてくれるのじゃないかしら? 少なくとも、アダムが先に食べましたって、言い訳ができだろうし)
うん、そうだわ、それが一番よ。力強くうなずいて、さっそく、イブはこの人類初の
「ねえ……」
イブの呼びかけに、アダムはけだるそうに頭だけをイブのほうへと向けて答えた。
「なんだい?」
なんとも無気力な声。骨抜きとはまさにこのこと。イブはイラっとしたが、そのことを億面に出してしまえば、これからの
「お腹、すいてないかしら?」
「う~ん? 別に腹はへってないなぁ……」
「いいえ、あなたはお腹がすいているのよ。間違いなく、それもかなりお腹がすいているはずよ。そうに違いないわ。ほら、今にもお腹の虫がグーグーなるわよ。ねえ、お腹がすいているでしょう? そうでしょう?」
イブの畳みかけるような言葉の連続に、アダムは首をかしげながら腹をさすりはじめた。
「そこまで言われると……へってるような気もするなぁ」
いささか強引ではあるが、とりあえず第一関門は突破できたようらしい。イブはすかさずアダムに提案した。
「それなら、とても素晴らしいものがあるのよ。とても甘くて口当たりもいいし、それでいてわずかな酸味と甘さが織りなすハーモニーといったらないわ。どう、食欲をそそるでしょう?」
「なんだかよくわからないけど、君が素晴らしいというのならそうなんだろう。でも、そんなに素晴らしいものなら、君が食べたほうがいいんじゃないのかい?」
「わたしはさっき食事を済ませたばかりだからいらないのよ」
イブの人類初の大嘘をアダムは疑いもなく信じた。
「そうか。それならぼくがいただくことにしよう。ところで、君の言っている食べ物とはいったいなんなのだい?」
「それは、これよ」
待ってましたと言わんばかりに、イブは手に取った知恵の実をアダムに向かって差し出した。それを見てアダムは顔をしかめて言った。
「や、それは神様が食べちゃあダメだときつくおっしゃっられているものじゃないか。そればかりは、食べるわけにはいかないよ」
「でも、とてもおいしいのよ。それに、とっても素晴らしいの」
「ふ~ん? それで、いったいどう素晴らしいんだい?」
まさかのアダムからの問いかけに、イブは困惑した。その刹那、あの憎たらしいヘビのことがイブの頭の中に浮かんだ。
なるほど、あのヘビもこんな苦労を味わっていたのかしら。そう思うと、イブのヘビに対する憎しみは消え、代わりにイブの心にヘビに対する人類初の親近感が浮かんできた。
そこでイブは思いついた。そうだ、あのヘビをマネすれば、アダムにも知恵の実を食べさせることができるのではないかしらん。コホンとひとつ咳払いをして、イブはアダムに言った。
「それはもう、たとえようのない素晴らしさなのよ。これさえ食べれば、今までの自分たちの行いがいかに自堕落的かと反省できるし、先行きの不安なんていうみじめな感情も吹っ飛んでいってしまうのよ」
イブはとにかく、今の自分に必要な美辞麗句を並べ始めた。実際は、全てその逆であるのだが。知恵の実を食べたせいで、イブはみじめになり、不安にかられているのだから。
「自堕落ってなんだい? それに、不安とか、みじめとかもよくわからないな」
「それは……」
イブは答えに困窮した。知恵の実を食べていないアダムは、イブが並べ立てた感情を持ち合わせていないし、それを理解することもできないのだ。やはり、ヘビのようにはうまくはできないようだ。
「ともかく、とても素晴らしいのよ。ねえ、お食べになってくださらない?」
「君の気持はうれしいけど、やっぱり食べるわけにはいかないよ。神様からおしかりをうけてしまうからね」
そういうアダムに、イブは頬を少しふくらませてプイと横を向いて言った。
「いじわるっ」
イブは露わになっているたゆやかな見事なバストの前で両手を握り、ぶりっこ作戦にてアダムに訴えかけた。
「いじわるって、なんだい?」
しかし、これも見事に空振り。アダムはいじわるとかいう感情も持ち合わせていないし、理解もできないのだ。
ここはもう最終手段に打って出るしかないわ。イブは決心し、アダムに自らの美しいスタイルでもって訴えことにした。
「ねえ、お願い……わたしのためだと思って、ねえ……」
しおやかに体をくねらせ、恥部がギリギリ見えそうで見えないくらいに足を組み、瞳をきらめくほどにうるませ、羞恥に頬を染めながら、艶やかな嬌声でもってアダムに心の底から哀願した。
実際、イブは知恵の実を食べたせいで裸でいることに非常に抵抗があったので、その感じている人類初の羞恥心は混じりっ気のない本当のものであったから、その効果は絶大なはず……だった。
「う~ん……だけどやっぱり食べるわけにはいかないよ。それより、どうも眠たいな。少し眠ることにするよ」
アダムはイブの渾身の誘惑に何の関心も示さず、そっけない態度でイブに背を向けて居眠りをはじめたのだ。だがそれもしかたない。しつこいようだが、アダムは知恵の実を食べていないので、性欲などという感情も持ち合わせてはいないのだ。
イブの渾身の誘惑はこのようにして無下にされてしまった。もし、性欲を持ち合わせた健全な青年ならば、イブの今の誘惑に決して耐えることなどできなかったであろう。
それゆえイブは今の誘惑と己のスタイルのよさには絶対の自信をもっていたのだ。しかし、そんなイブが抱いていた人類初の自尊心は、アダムのつれない言葉でものの見事に粉砕されてしまったのであった。
(なんなのよ、コイツ……わたしの苦労もしらないで、こんなマヌケ面で寝てくれちゃって……なんなのよ……なんなのよ……ッ!!)
ここにきて、ついにイブの感情は爆発した。人の気も知らないで、ぬけぬけと寝るなんて、許せないわッ!!
これぞ人類初のヒステリーの発露である。イブは近くにあった手のひらサイズの石を手に取り、それでアダムの後頭部を思いっきりなぐりつけた。
哀れアダムはバタンキューと意識を失い、意識を失ったアダムの口の中にイブは知恵の実を押し込んだ。
やがてアダムは意識を取り戻し、後頭部を押さえながらゆっくりと体を起こした。
「いたた……いったい、何が起こったんだい?」
「これがあなたの頭の上に落ちてきたのよ」
イブは知恵の実をアダムに差し出した。
「そうか。まったく、忌々しい木の実だな」
アダムのこの言葉をイブは聞き逃さなかった。忌々しいという言葉を。つまり、今のアダムには感情が芽生えているのだ。となれば――――、
「ねぇ、わたし、本当にあなたのことを心配したのよ。このまま目を覚まさなくなっちゃったら、どうしようって。そう思ったらなんだか怖くて怖くて、わたし、どうすればいいかわからなくなっちゃって……」
先ほどと同じようにイブは体をくねらせながらアダムに言った。そんなイブの姿にアダムは生つばを飲み込んだ。
「そんなに君が心配してくれるなんて、本当にうれしいな。それに今日の君は一段と魅力的に見えるよ。なんていえばいいのか。たとえるならそう、夜空に浮かぶ星々の中でも最も美しい輝きを誇る星のような……」
イブの目を見つめながらアダムは呟き、そしてイブの体を優しく地面に押し倒した。イブも別に抵抗することもなく、もたれかかってくるアダムの体に吐息をもらして身をゆだねた。
これ以上の描写は
人類初の…… 日乃本 出(ひのもと いずる) @kitakusuo
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