暫定事故物件

キキカサラ

暫定事故物件

 最初は些細なことだった。

 帰ってきたら、電気が点いていたり、エアコンが点いていたりと、自分で消し忘れたのかなと思っていた。

 しばらく経つと、その現象は少し手の込んだものになった。

 残っていたはずの冷蔵庫の食べ物がなくなったり、抜いたはずのお風呂のお湯が戻っていたりなど、一癖あるものになった。

 しかし、どちらにしろ、自分がやっていないと確信が持てるものではなかった。


 事故物件とは聞いていなかった。

 いや、実際に事故物件ではなかったのだろう。

 初めての女の一人暮らし。入居から二年が経ち、その間、変なことは一度も起きなかった。


「う、寒い」


 頭を洗っていると、浴室内に風が吹き込んできた。

 何で急に風が入ってきたのか。

 とにかく、早く洗って湯船に浸かろう。


「ん?あれ?」


 頭を洗っている感覚がする。

 いや、頭を洗っているんだから、頭を洗っている感覚がするのは当たり前だけれど、そうではなくて、私以外の手の感覚がある。


「な、なに!?」


 たまらず顔を上げた。しかし、シャンプーが目に入り、直ぐに周りが確認できない。

 やっと目を開けると、浴室の扉が開いている。そして、タッタッタッタと軽快な足音が走り去っていった。


「誰かいるの?」


 お風呂に入っている間に、誰かが侵入したのだろうか?

 だとしたら、私一人では、歯が立たない。

 スマホはリビングに置きっぱなしだし、どうしよう。恐怖で体が震える。

 しかし、いつまでも浴室にいても仕方がない。

 今更、冷静に髪の毛を洗い流すこともできず、そのままタオルを頭に巻き、体にバスタオルを巻く。

 恐る恐る、浴室から顔を出す。誰もいない。

 だが、洗面所の扉が開いている。確かに閉めたはずだ。


 音を立てないように、ゆっくりと歩き、先ずは近くにある玄関の扉を確認する。

 鍵どころか、チェーンまでしっかりと締まっている。つまり、足音の人物は玄関から出て行っていないことになる。

 このまま外に出て、助けを呼ぼうかとも思ったが、格好が格好だけに、気が引けた。

 恐怖で心臓の音が煩い。耳鳴りもする。しかし、へこたれてはいられない。


 リビングに目を向ける。電気が点いている。消していないのだから当然だ。つまり、風呂に入った時と変わりない。

 しかし、扉が開いている。開けっ放しにしたっけ?記憶が定かではない。

 他の音はしない。足音も、人の声も、物音もしない。それは、相手も息をひそめて、こちらの気配を伺っている可能性があるということだ。


 リビングに足を進めるか、恥ずかしくても、外に助けを求めに行くか、未だに悩んでいる。当然だ、状況は生死に関わっている。


 ~~♪


 リビングから、突然音楽流れてきて、体を強張らせた。

 しかし、その音楽が、聞き覚えのあるものだと気づく。私のスマホの着信音だ。


 ~~~~♪


 着信は鳴り続けている。誰も取らない。

 誰か取ったら、有無言わず、外に飛び出してやる。


 ~~~~~~♪


 好きでこの音楽にしたのに、今は、この音が酷く鬱陶しくて煩い。

 動く気配もない。やっぱり、誰もいないのかな?


 着信音が止まる。

 再び静寂が訪れる。


 玄関の靴箱の上に飾っていた置物を手に取り、足音を殺してリビングに足を向ける。

 ろくに拭いていない体から、水が流れ落ち、床を濡らす。

 後で、拭き掃除しなきゃ。

 私は、置物を強く握りしめて、ゆっくりとリビングを覗いた。

 そして、素早く首を動かし、隅々に視界を巡らせる。


「誰もいないの…?」


 返事はない。やっぱり誰もいない。

 安堵した私は、その場にへたり込んだ。


 よかった、侵入者はいなかったんだ……!?


 いや、まだ可能性はある!気は抜けない。

 急いで窓に向かう。バスタオルは取れるし、床は水浸しだし、散々な状態だが、そんなこと気にしていられない。


「閉まってる…」


 窓は施錠され、びくりともしなかった。

 外の暗闇が、ガラスを鏡のようにし、私の体を映し出す。

 本当に侵入者はいなかったのだ。

 侵入者でないなら、一体、誰が私の頭を触ったというのだろう?

 真実に気付き、悪寒が走る。


「そうだ着信!」


 濡れている個所を自ら広げていき、慌しく室内を駆け回る。


亜子あこ…」


 着信の相手は、親友の亜子だった。

 そうだあの子なら、私のお願いを聞いてくれる。

 直ぐに電話をかける。

 しばらくのコール音の後、亜子が電話口に出た。


「もしも…」

「亜子!直ぐうちに来て!もしくは、そっちに泊めて!」


 相手の言葉も聞かず、捲くし立てた。


「ど、どうしたの美弥みや?そんなに興奮して」

「そんなのいいから、早く!」


 私は一秒たりとも、一人では居たくなかった。


「わ、分かったから落ち着いて。今から行くから」

「ま、待って、亜子!」

「今度は何?」

「電話切らないでぇ…」

「わかったわよ」


 弱々しい私の声を聞いた亜子は、私が本当に追い詰められていることを悟ったのか、優しく言ってくれ、そのまま電話を繋げたまま行動をしてくれた。

 道中、お互いに無言だったが、通話が繋がっているという事実は、何よりも強い安心感だった。





「着いたわよ、開けて」


 亜子が電話越しに言ってきた。


「うん」


 重い体を引きずり、玄関に向かう。


「え?どうしたの、その恰好!?」


 扉を開けた私の姿を見て、亜子が目を見開く。

 そういえば、バスタオルは脱げたままだった。


「誰かに襲われた?」

「誰もいなかったの…」

「え?」


 亜子が怪訝な顔をする。


「寒い…」


 亜子が来てくれたことの安心感で、寒さを思い出した。


「冷え切ってるじゃない!早く、お風呂に入って!」


 背中を押され、そのまま浴室に押し込まれた。


「お風呂に入っている間、掃除しておくわね」

「そこにいて!」


 洗面所から出て行こうとするので、私は叫んでしまった。

 誰もいない恐怖をまた味わいたくはなかった。今は、人にそばにいて欲しかった。


「大丈夫よ、家にはいるんだから」

「お願い…」

「わかったわ」


 私の覇気のない声に、亜子が従ってくれた。

 亜子が浴室の扉の前を拭き、そこに座った。

 その様子を、影の動きで見ていた私は安心し、湯船に入った。


「それで、何があったの?」

「頭を洗っていたら、誰かが私の頭を、一緒に洗っていたの」

「なにそれ!?」


 亜子が絶句する。


「それで、誰か侵入したのかと思って、家の中見たんだけど、誰もいなかったの。これって…」


 私はそこまで言って、次を発することができなかった。

 自ら言葉にすることで、現実になってしまう、そんな気がしたからだ。できれば、私の勘違いであって欲しい。


「人じゃないなら、幽霊ってこと?」


 幽霊という言葉を聞いて、私はビクついた。

 私の発したくなかった言葉を、亜子が代わりに言った。

 私は返事をすることができなかった。

 仮に幽霊の仕業だとしたら、今、この会話を聞かれているかもしれない。そういう考えが、頭に浮かんでしまう。


「でも、美弥って、幽霊苦手だったっけ?ホラー映画とか好きなのに」

「あれはフィクションって解ってるから!それに、実際の幽霊は嫌いなの!」


 そもそも、幽霊を好き好む人間なんているのだろうか。


「幽霊が出るかもしれない、心霊スポットだって、ダメだっていうのに」

「あー、そういえば、嫌いだったわね」


 作り物の幽霊と、実際の幽霊は違う。実害が出るのは嫌だ。


「そういえば、翔太しょうた君のことは許してあげたの?」

「別れたわよ」

「えぇ!?」


 亜子が素っ頓狂な声を上げる。


「なんでよ」

「当たり前でしょ?本人が嫌なことを実行する奴のことを、好きなままでいられると思う?」

「まあ、それはそうだけど…」


 翔太は私の元カレだ。

 私が心霊スポットが嫌いなことを知りながら、友達共々連れて行った。

 現地に到着して、初めて明かされて、私は激昂した。

 私の怒り狂うさまは凄まじく、計画は破綻し、そのまま全員で帰ることになったほどだ。

 その現場に、亜子もいた。だから、その姿は目の当たりにしている。その上で、別れないと思っているのだから、なかなか能天気な考えだ。


「何か頭にきたわ」

「ごめんなさい、無神経な話をしたわ」

「ん?」

「え?」


 話が噛み合わない。いや、私が急に話を変えたせいだ。


「ごめんなさい、翔太の話は終わってたのよ。頭にきたのは幽霊のこと」

「ぷっ、幽霊に頭にくるって何?」


 亜子が笑い出した。そんなに可笑しいこと言ったかしら?

 話しているうちに、落ち着いてきた。そして、冷静になれてきた。ありがとう、亜子。

 実際に心霊現象に遭遇した。これは逆に、ほとんどの人が経験したことのない、貴重な経験だ。

 もしこの実害が、怪我や死ぬものではなく、ただの嫌がらせ程度ならば、まだ我慢できる。

 くると分かっていたら、お化け屋敷と変わらない。


「落ち着いた?」

「ええ、ありがとう。もう大丈夫よ」

「そう、それなら良かった」


 あの時は、実際の人間の可能性があったため、パニックになってしまったが、幽霊の仕業と分かれば、話は変わってくる。


「落ち着いたから、今日は泊まらなくてもいいわ」

「そう。じゃあ、ここで話してなくても、大丈夫ね」

「うん。色々とありがとう」

「いいのよ。じゃあ、私は、掃除でもしてあげようかしらね」

「いいの?」

「いいわよ。あなたがお風呂に入っている間、水浸しの所では寛げないしね」


 亜子が笑いながら言った。


「ご、ごめんなさい」


 情けない姿も見せたし、何から何まで、本当に申し訳なく感じる。


「ゆっくり浸かってて」

「うん」


 体が温まってきた。体の芯まで冷えていたため、体がピリピリとして、解凍されているような感覚に陥る。

 さあ、この家にいるであろう、幽霊をどうしようか。

 今のところ、一緒に頭を洗っただけだ。しかも、私が気付くと逃げていった。

 つまり、危害を加える気はない、臆病な幽霊なのかもしれない。

 姿を見ることは出来ていない。足音を聞いたけど、歩幅から姿を想像するのも難しい走り方だった。

 一度、その姿を見なくては、今後の行動も決められない。


「でも、実際に見て、ゾンビみたいに顔が崩れてたら嫌だなぁ」


 想像して、つい声に出してしまった。




 リビングに入って、驚いた。

 私がまき散らした水はしっかりと拭かれ、それどころか、若干、片付けまでしてあった。


「こんなに綺麗にしてくれて、ありがとう亜子」

「暇だったから」


 汚したのも、暇にしたのも私だ。その私がのうのうと風呂に入り、片付けまでしてもらって、申し訳がない。何かお礼をしたい。


「あ、そうだ。これから夕飯食べに行かない?」

「いいわね、お腹空いてたし」

「今日は、色々と迷惑をかけたから、私が奢るわよ」

「美弥、太っ腹!」


 そう言って亜子は、私のお腹を軽く叩いた。


「やめなさい。太ってないから」

「えへへへへ」


 私の気持ちも、冗談が言い合えるまで回復した。

 さて幽霊さん、今度は私の番よ。驚かされた借りは返すわ。


「それにね、ちょっと買い物に付き合って欲しいの」

「今から?」

「そう。今日中に欲しくてね」

「何買うの?」

「それは、向こうに着いたら話すわ。から」

「ここでは話せない?」


 二人きりだというのに、何を言っているんだろうと、亜子は不思議そうに首を傾げる。


「じゃあ、直ぐに準備するわね」





「それで、その買った物はどうする気なの?」


 そう言って、パスタを口に運ぶ。

 私の手には、さっき買ったビデオカメラがあった。


「これで、幽霊を映してやるわ」

「あんなに怯えてたのに」

「う、煩いな~。あの時は、気が動転してたんだから、仕方ないじゃない」

「あの時の美弥は、子犬みたいで可愛かったな~」

「やめてよ、もう!」


 にやけて言う亜子の言葉に、顔が熱くなった。


「ああ、なるほどね。だから、だったのね」

「そう。幽霊に聞かれたら、バレちゃうからね」

「でも結局それって、仕掛けている時に、バレちゃうんじゃないの?」

「だから、ビデオに見えづらいやつをチョイスしたのよ」

「いや、分かるでしょ」


 亜子が呆れた口調で言った。

 いいんです!私が見えないと言ったら、見えない!


「しかもこれ、自動で暗視モードになるのよ。凄くない?」

「幽霊に暗いとか明るいとか、関係あるのかしら?」


 確かにごもっとも。そもそも彼らには肉体がない。


「いいじゃない。もしかしたら、暗視モードにしないと映らないかもしれないでしょ」

「まあ、美弥が買ったものだから、文句はないけど」


 今までのは文句じゃないの?まあ、いいわ。


「寒っ。このお店、エアコンの利き、悪くない?」

「そういえば、今年一番の寒波が来てるって言ってたわよ」

「ホントに!?」

「ええ、今夜は雪かもね」

「ええー、じゃあ、降り出す前に帰らないと」

「そうね」


 亜子は最後の一口を運び、紙ナプキンで口を拭った。

 そして、コーヒーに手を伸ばす。


「幽霊怒らせて、呪われないようにね」


 コーヒーを啜って、亜子が言った。その発言に、背筋が寒くなる。


「脅かさないでよ、もう!」





 亜子と別れ、家に帰ってきた。

 本当に今日は寒い。家に帰っている時に空を見たが、雲がかかり始めていた。雪が降るのは、本当かもしれない。

 さて、早速、ビデオカメラを設置しよう。どこがいいかな。

 部屋を見回す。そして、思いついた。


 ホラー映画なんかで、寝ていたら金縛りに遭うというシーンをよく目にする。

 つまり、今夜私も、そんな状況になる可能性があるわけだ。

 ならば、カメラを仕掛けるべきは、ベッド全体を映せる位置。テレビラックの所だ。


 カメラを仕掛け終わり時計を見る。


「まだ、二十一時か~」


 いつもだったら、まだ全然起きている時間だ。でも、もう眠い。

 今日は色々あったからかもしれない。


「早いけど寝るかな」


 まるで幽霊に聞かせるように呟いてしまった。

 ビデオの録画ボタンを押す。


 そうだ、何かあった時のために、スマホはパジャマのポケットの中に入れておこう。


 テーブルの上のスマホを取り、ポケットに入れる。

 部屋の電気を消し、ベッドに入り込む。入りたては、ヒンヤリする。

 でも、眠くて体温が高くなっているからか、いつもよりも早く、布団の中が暖かくなり、更なる眠りを誘う。

 スマホがポケットに入っているため、腰に違和感があるが、それよりも眠気が勝つ。

 視界が暗くて、目を開けているのか閉じているのか、分からなくなってくる。

 そのまま、私は闇に落ちていった。



「ふーふー」


 荒い息遣いに目が覚めた。顔に温かい吐息がかかる。

 人?

 恐怖で体が強張る。これが金縛りというやつだろうか。

 人影は子供ではない、サイズ的に大人だ。大人の人影が、私に覆い被さっている。

 体を乗せているのではない。私の体には触れないようにし、顔だけ近づけている。


「ズット、キミヲ、ミテイルヨ」


 くぐもった声で言われる。男性の声だ。

 つまり、この家に出てくる幽霊は男性ということになる。

 しかし、見ているとはなんだろう。もしかして、風呂を見たことを言っているのだろうか。

 だとしたら、かなり変態色の強い幽霊だ。引っ越しを視野に入れなくては。


 幽霊は、体を離し、ベッドから離れた。

 ヒタリ、ヒタリと、ゆっくりと室内を歩き、テレビの方へ向かう。

 やった、そこにはビデオカメラが設置してある。これで、幽霊の顔を撮ることができたはずだ。

 幽霊は、しばらく呆然とすると、また歩き出した。そして、ゴソゴソと音を立てた。


 音が止む。静寂。


 一切の音がしなくなった。もう、いなくなったのだろうか?

 指を動かしてみる。

 動く。

 金縛りは解けた様だ。

 ゆっくりと首を横に向け、部屋の中を見回す。視界に誰もいない。

 警戒しながら、体を起こし、再び、よく見回す。気配はない。

 ベッドから降り、電気を点ける。やっぱりいない。


 消えた…のかな?


「そうだ、カメラ!」


 テレビラックのところに設置してあったビデオを取り出し、画面を見る。

 しっかりと、録画の文字が表示されている。つまり、先程の幽霊も撮れているはずだ。

 今は、恐怖よりも好奇心が勝ってしまっている。

 時間は二十三時。ベッドに入ってから、二時間ほど経っていたことになる。

 動画を頭から再生し、早送りをする。私が寝ている間に、何か起きているかもしれないから、一応、回してみる。

 早送りをしながら、ベッドに腰掛ける。

 体感で、二十分くらいだっただろうか、その辺で再生にすればいいだろう。

 今のところ、画面に変化はない。


「ここね」


 再生ボタンを押し、等倍に戻す。

 まだ、同じ様子が映し出されている。


「あ」


 クローゼットが開いた。緊張で喉が鳴る。

 しばらく後、クローゼットから人影が出てきた。胸がなく、肩幅がしっかりとしている。私に覆い被さっていた男性の霊に違いない。

 男性はゆっくりと布団に乗っかり、私に覆い被さった。そして、顔を私に近付ける。先程、私が体験した状況だ。

 体を離し、ベッドから降りる。そして、カメラに向かってきた。

 いよいよだ、いよいよ幽霊の顔が拝める。頼むから、スプラッタな顔じゃないようにしてよ。


「え…」


 そこに移ったのは、スプラッタな顔よりも、私を恐怖に陥れた。


「翔太…」


 画面に映し出されたのは、元カレの翔太だった。

 もしかして、お風呂の件も翔太なの?確かに、扉が開いていたりと、物理的ではあった。

 冷静に考えれば、幽霊がやったにしては、物理的に物が動きすぎている。

 チェーンが閉まっていた。窓も開いていなかった。つまり、あの時、翔太はまだ家の中に隠れていたことになる。

 いや、そんなことよりも、翔太はこの後、どこへ行った?物音を立てていたけど、どこに隠れた?


 画面に目をやる。手が震える。怖すぎる。


 画面の中の翔太は、しばらく呆然とすると、再び動き出した。

 そしてゆっくりと歩き、クローゼットに入って行った。そして、ゴソゴソと音がした後、静かに扉が閉まった。


 クローゼット…彼はまだ、そこにいる。

 顔を上げ、クローゼットに目をやる。どうする。これから、どう動く。


 ガンッ!


「きゃああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


 クローゼットを叩く音に、私は飛び退いた。そして、カメラを放り投げ、玄関に走る。

 早く、早く逃げないと!

 手が震えて、チェーンが開けられない。

 もたもたしていたら、翔太が出てきてしまう。捕まったら、何をされるか分からない。

 最悪、殺されるかもしれない。


 チェーンが開けられた!


 次は鍵!捻るだけなのに、手が言うことをきいてくれない!

 背後から気配がする。ダメ、怖くて振り向けない。


 鍵が開いた!


 手が私を捉えるイメージが頭を過ぎり、扉を開けると同時に転がり出た。そしてそのまま、高這いの状態で、アパートの廊下を走る。

 雪が降っている。手足が冷たい。でも、そんなことは言ってられない。


「あ!あぁ!!」


 階段に差し掛かり、バランスを崩して、階段を転げ落ちた。


「うぅ…」


 下層まで転げ落ちたが、生きてる。でも、全身が痛い。しかし、痛いからといって、この場に留まることは出来ない。翔太に捕まったら、痛いなんて言ってられない事態が待っているのは分かり切っている。

 体を引きずり、遅いながら走り始める。とにかく、警察に助けを求めて…。


「あ、スマホ!」


 そうだ、寝る時に、パジャマのポケットにスマホを入れていたんだった。

 走る速度を緩めずに、スマホを取り出しダイヤルする。

 数コール後、直ぐに相手は出た。


「助けて!殺される!」

「何?どうしたの?」


 鬼気迫る私の声を聞き、亜子が焦る。


「幽霊の正体、翔太だったのよ!」

「何ですって!?」


 亜子が絶句する。


「今、家から飛び出てきたの。助けて!」

「今どこ?」

「駅に向かって走ってる」

「分かったわ、直ぐ行く!」


 電話が切れた。

 ダメ、足がもう動かない。

 後ろを振り返る。人影はない。


「あ…れ?」


 追いかけられていないことに安堵してしまったからか、膝から地面に崩れ落ちてしまった。そのまま、座り込む。

 立てない。力が入らない。

 そして、最悪なことに、雪は強くなり、吹雪いてきた。

 さっきまで寒いとは思っていたが、興奮状態で、そこまでではなかった。

 今は、手足の感覚がなくなり、震えが止まらなくなっている。

 格好がパジャマなのだから当然だ。これでは、翔太じゃなくて、自然に殺されてしまう。

 でもダメだ、動けない。意識が遠のく。視界が暗転していく…。




「美弥!美弥!」


 叫ばれて、目を空ける。薄目だが、声の主は確認できた。亜子だ。


「良かった、気が付いた」

「こっちへ、早く」


 誰かに抱えられ、室内に運ばれる。

 私の後に、亜子も入ってきた。

 いつの間にか、コートが掛けられていた。


「体が冷たい!カイロ!カイロたくさん貼らなきゃ!」


 亜子が、私の体の至る所にカイロを貼っていく。

 そして、そのまま私に抱き付いてきた。


「ぐすっ…私の体温で温めてあげる」


 鼻をすすりながら、亜子が優しく抱き付く。

 自らの頬を私にくっ付ける。

 人間の体温だ。暖かい。


「泣い…て…るの?」


 まだかじかんで、上手く喋られない。


「だって、もうダメかと思って…」


 声が震えてる。ここまで心配してくれたのは、正直に嬉しい。

 同時に、今日どれだけ亜子に心配をかけたことか。その状況に恥じた。


「ごめん…ね、亜子」

「いいんだよ、無事でいてくれたら」


 そう言って強く優しく私を抱きしめてくれる。本当に最高の友人だ。


「直ぐ、病院に行きます」


 運転席と助手席に警官が乗り込んできて言った。


 警官?そういえば、ここはどこだろう?

 周りを見回す。部屋かと思っていたら、車の中のようだ。

 ということは、パトカー?


「ま…てくだ」


 ダメだ、早く喋ることができない。


「お巡りさん、美弥が何か言いたがってます。少し待ってくれませんか」


 亜子の制止の声に、警官は車を発進するのを止め、サイドブレーキを引いた。

 そして、こちらの様子を伺う。その姿勢は、焦らせるものではなく、ゆっくりと待つ姿勢だ。こちらの状態を配慮してくれている。


「部屋に…翔太…がいる…逃が…したく…ない」

「わかった!」


 亜子が力強く言った。何とか伝わったみたい。


「お巡りさん、美弥の家に行ってください!」

「しかし、彼女の状態がよろしくないよ」

「ストーカーが彼女の家に潜んでいるそうです。彼女は、そいつから逃げてきました」


 警官の表情が変わる。先程までの優しい顔とは違い、まさに、警察官と呼ぶに相応しい、鋭い顔つきになった。


「逃がしたくない。今捕まえないと、また付き纏われてしまいます」


 警官が顔を見合わせ、何か小声で話している。


「本当に大丈夫なのかい?」


 私の目を見据えて、訊いてきた。


「は…い」

「分かった。行こう」


 直ぐに車を発進させてくれる。

 あっさりと信じてくれた。私の中で、偏見だが、警察は簡単に信じてくれないイメージだった。


「美弥のその姿を見たら、信じるしかないでしょ」


 言われて気付く。確かに、雪の中この姿だったら、何かあったと思うのは想像に難くない。

 私、意外に酷い姿だな。何だか笑えてきた。


 亜子が指示を出し、車は程なくして、私のアパートの前に着いた。

 その間に、私の体も大分温まってきた。


「一緒に…行きます」

「分かった。じゃあ、僕ので申し訳ないけど、これ履いて」


 警官が車のドアを開け、靴を地面に揃えて置いてくれた。


「ありがと…うございます」

「履かせてあげるね」


 亜子が私に靴を履かせてくれた。やっぱり男性のだから、私には大きい。


「行きますか」


 靴を履いたのを確認し、警官を先頭に、私の部屋に向かう。後ろから、もう一人が付いてくる。

 私は、まだ足元がおぼつかなく、亜子に支えられながら歩く。

 先頭の警官が扉の前に張り付いて、私のことを待っている。


「行きますよ」


 ゆっくりと扉を開ける。

 室内は、私が飛び出してきた時と変わらない。


「クロー…ゼット」


 私の言葉を聞き、頷く。

 先頭の警官は部屋に入り、後ろから付いてきた警官は、扉の所に陣取った。

 リビングで音はしない。私たちの床を踏む音だけ、静かに響く。

 リビングに入り、人影がないことを確認すると、警官は一気にクローゼットのところに行き、思い切り扉を引いた。


 ……誰もいない。


「逃げたかな?」


 掛けてある服を除けて、くまなく見るが、狭いクローゼットのため、いないのは明らかだ。


「いないです…ん?」


 クローゼットの天井を触った警官が、不審な顔をする。


「これ、動くぞ」


 警官は一端クローゼットから顔を出し、玄関の警官に合図をする。すると、玄関の警官は、腰を落として身構えた。

 その姿を確認し、警官は天井をぶち抜いた。そして、ライトを照らす。


「な!」


 警官の驚きの声が聞こえた。

 そして、直ぐにクローゼットから出てくる。


「応援を呼んでくれ!君たちは、直ぐにパトカーに戻るんだ!」


 何が起きたか分からないまま、私たちはパトカーに連れて行かれた。




 翔太は、天井裏で死んでいた。

 私も事情聴取を受けたが、直ぐに釈放された。

 検死の結果、翔太は凍死で、死後一日が経っていた。

 拘束された形跡もなく、当然外傷もなかった。

 なのに、何故、天井裏に居続けたのか。警察は首をひねっていた。

 しかし、私には、もう一つの疑問が残った。

 あの、ビデオに映っていたのは、生きた翔太ではなかったということだろうか?

 ともあれ、その翔太のせいで、私はいつの間にか、事故物件に住んでいたのだ。


「最悪な気分だわ」

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