夫婦善哉

織田作之助/カクヨム近代文学館

  

 年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、しよう、油屋、八百屋、いわし、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促だった。路地の入口でぼうれんこん、芋、三ツ葉、こんにやくべにしようするめいわしなど一銭てんを揚げて商っているたねきちは借金取の姿が見えると、下向いてにわかにどんをこねる真似した。近所の子供たちも、「おっさん、はよ牛蒡ごんぼ揚げてんかいナ」と待てしばしがなく、「よっしゃ、今揚げたァるぜ」というもののすりばちの底をごしごしやるだけで、みずばなの落ちたのも気付かなかった。

 種吉では話にならぬから素通りして路地の奥へ行き種吉の女房に掛け合うと、女房のおたつは種吉とはだいぶ違って、借金取の動作に注意の目をくばった。催促の身振りが余って腰掛けている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間たたいて、あんた、それでよろしおまんのんか」と血相かえるのだった。「そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」

 芝居の積りだがそれでもやはり興奮するのか、声になみだがまじるくらいであるから、相手は驚いて「無茶いいなはんナ、何もわてはたたかしまへんぜ」とむしろ開き直り、二、三度押問答の挙句、結局お辰は言い負けて、素手では帰せぬ破目になり、五十銭か一円だけ身を切られる想いで渡さねばならなかった。それでも、一度だけだが、板の間のことをその場で指摘されると、何とも言訳のない困り方でいきなり平身低頭してびを入れ、ほうほうのていで逃げ帰った借金取があったと、きまってあとでお辰の愚痴の相手は娘のちようであった。

 そんな母親を蝶子は見っともないとも哀れとも思った。それで、母親をだまして買食いの金をせしめたり、天婦羅の売上箱から小銭を盗んだりして来たことが、ちょっと後悔された。種吉の天婦羅は味で売ってなかなか評判よかったが、そのため損をしているようだった。蓮根でも蒟蒻でもすこぶる厚身で、お辰の目にも引き合わぬと見えたが、種吉はそろばんおいてみて、「七厘の元を一銭に商って損するわけはない」家に金の残らぬのは前々の借金で毎日の売上げがくい込んで行くためだとの種吉の言分はもっともだったが、しかし、十二歳の蝶子には、父親の算盤には炭代や醬油代がはいっていないと知れた。

 天婦羅だけでは立ち行かぬから、近所に葬式があるたびに、かき人足に雇われた。氏神の夏祭には、すいかんを着てお宮のおおぢようちんを担いで練ると、日当九十銭になった。よろいを着ると三十銭あがりだった。種吉の留守にはお辰が天婦羅を揚げた。お辰は存分に材料を節約しまつしたから、祭の日通り掛りに見て、種吉は肩身の狭い想いをし、鎧の下を汗が走った。

 よくよく貧乏したので、蝶子が小学校をえると、あわてて女中奉公に出した。俗に、河童がたろ横丁の材木屋の主人から随分と良い条件で話があったので、お辰の頭に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくはめかけにしろとのはらが読めて父親はうんと言わず、につぽんばし三丁目のふるへばかに悪い条件で女中奉公させた。河童横丁は昔河童かつぱんでいたといわれ、きらわれて二束三文だったそこの土地を材木屋の先代が買い取って借家を建て、今はきびしく高い家賃も取るから金が出来て、河童は材木屋だとかげぐちきかれていたが、妾が何人もいて若い生血を吸うからという意味もあるらしかった。蝶子はむくむく女めいて、顔立ちも小ぢんまり整い、材木屋はさすがにけいがんだった。

 日本橋の古着屋で半年余り辛抱が続いた。冬の朝、くろもんいちへの買出しにまわり道して古着屋の前を通り掛った種吉は、店先を掃除している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見て、そのままはいって掛け合い、連れもどした。そして、所望されるままにざきしんのお茶屋へおちょぼ(芸者のしたッ子)にやった。

 種吉の手に五十円の金がはいり、これは借金払いでみるみる消えたが、あとにも先にもまとまって受取ったのはそれ切りだった。もとよりひだり団扇うちわの気持はなかったから、十七のとき蝶子が芸者になると聞いて、この父はにわかにろうばいした。お披露目をするといってもまさか天婦羅を配って歩くわけには行かず、祝儀、しよう、心付けなど大変な物入りで、のみこんでかかえぬしが出してくれるのはいいが、それは前借になるから、いわば蝶子を縛る勘定になると、反対した。が、結局持前の陽気好きの気性が環境に染まって是非に芸者になりたいと蝶子に駄々をこねられると、負けて、種吉は随分めんした。だから、つらい勤めも皆親のためという俗句は蝶子に当てはまらぬ。不粋な客から、芸者になったのはよくよくの訳があってのことやろ、全体お前の父親は……とかれると、父親はばく打ちでとか、欺されて田畑をとられたためだとか、哀れっぽく持ちかけるなど、まさか土地柄、気性柄蝶子には出来なかったが、といって、わてを芸者にしてくれんようなそんな薄情な親テあるもんかと泣きこんで、あわや勘当さわぎだったとはさすがに本当のことも言えなんだ。「私のおとつつぁんはだんさんみたいにええ男前や」とらしたりして悪趣味極まったが、それがあいきようになった。──蝶子は声自慢で、どんなお座敷でも思い切り声を張り上げて咽喉のどや額に筋を立て、ふすまがみがふるえるという浅ましいうたい方をし、陽気な座敷には無くてかなわぬであったから、はっさい(おてん)で売っていたのだ。──それでも、たった一人、みの安化粧品問屋の息子には何もかも本当のことを言った。

 これやすりゆうきちといい、女房もあり、ことし四つの子供もある三十一歳の男だったが、い初めてつきでもうそんな仲になり、評判立って、一本になった時のだんをしくじった。中風で寝ている父親に代って柳吉が切りまわしている商売というのが、理髪店向きのせつけん、クリーム、チック、ポマード、美顔水、ふけとりなどの卸問屋であると聞いて、散髪屋へ顔をりに行っても、で使っている化粧品のマークに気をつけるようになった。ある日、うめしんみちにある柳吉の店の前を通り掛ると、あつを着た柳吉がでつ相手に地方送りの荷造りを監督していた。耳に挟んだ筆をとると、さらさらとちようめんの上を走らせ、やがて、それを口にくわえて算盤をはじくその姿がいかにもかいがいしく見えた。ふと視線が合うと、蝶子は耳の附根まで真赧まつかになったが、柳吉は素知らぬ顔で、ちょいちょい横眼を使うだけであった。それが律義者めいた。柳吉はいささどもりで、物をいうとき上を向いてちょっと口をもぐもぐさせる、そのかつこうがかねがね蝶子には思慮あり気に見えていた。

 蝶子は柳吉をしっかりした頼しい男だと思い、そのように言い触らしたが、そのため、その仲は彼女の方からのぼせて行ったと言われてもかえす言葉はないはずだと、人々はとりした。酔い癖のじようのサワリで泣声をうなる、そのときの柳吉の顔を、人々は正当に判断づけていたのだ。夜店の二銭のドテ焼(豚の皮身を味噌みそで煮つめたもの)が好きで、ドテ焼さんとあだがついていたくらいだ。

 柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼に言わせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目や、汚いことを言うようだが銭を捨てるだけの話、ほんにうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺の後へいて……」行くと、無論一流の店へははいらず、よくてこうの湯豆腐屋、下は夜店のドテ焼、かすまんじゆうから、えびすばしすじそごう横「しる市」のどじょう汁とじるどうとんぼりあいおいばしひがしづめ出雲いずも」の、日本橋「たこ梅」のたこ、ほうぜん境内「しようべんたんてい」のかんだきせんにちまえ常盤ときわ横「寿司すしすて」の鉄火巻とたいの皮の味噌みそ、その向い「だるまや」の飯と粕じるなどで、いずれも銭のかからぬいわばもの料理ばかりであった。芸者を連れて行くべき店の構えでもなかったから、はじめは蝶子もりによってこんな所へと思ったが、「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもんどこィ行ったかて食べられへんぜ」という講釈を聞きながら食うと、なるほどうまかった。

 乱暴に白い足袋たびを踏みつけられて、キャッと声を立てる、それもかえってしよくよくが出るほどで、そんなもの料理の食べ歩きがちょっとしたたのしみになった。立て込んだ客の隙間へ腰を割り込んで行くのも、きたしんの売れっけんに関わるほどではなかった。第一、そんな安物ばかり食わせどおしでいるものの、帯、着物、ながじゆばんから帯じめ、腰下げ、草履までかなり散財してくれていたから、けちくさいと言えた義理ではなかった。クリーム、ふけとりなどはどうかと思ったが、これもこっそり愛用した。それに、父親は今なお一銭天婦羅で苦労しているのだ。殿様のおしのびめいたり、しんみり父親のあぶらんだ手を思い出したりして、後にいて廻っているうちに、だんだんに情緒が出た。

 しんかいに二軒、千日前に一軒、道頓堀になかの向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中でのうまいのは相合橋東詰の奴や、ご飯にたっぷりしみこませたの味が「なんしょ、さかしょが良う利いとおる」のをフーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「げつ」へはるだんの落語を聴きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握り合ってる手が汗をかいたりした。

 深くなり、柳吉の通い方は散々頻繁になった。遠出もあったりして、やがて柳吉は金に困って来たと、蝶子にも分った。

 父親が中風で寝付くとき忘れずに、銀行の通帳と実印をとんの下に隠したので、柳吉も手のつけようがなかった。しよせん、自由になる金は知れたもので、得意先の理髪店を駆け廻っての集金だけで細かくやりくりしていたから、みるみる不義理がかさんで、あおくなっていた。そんな柳吉のところへ蝶子から男履きの草履を贈って来た。添えた手紙には、だいぶ永いこと来て下さらぬゆえ、しん配しています。一同舌をしたいゆえ……とあった。一度話をしたい(一同舌をしたい)と柳吉だけが判読出来るその手紙が、いつの間にか病人のところへれてしまって、枕元へ呼び寄せての度重なる意見もかねがね効目なしとあきらめていた父親も、今度ばかりは、打つ、なぐるの体の自由が利かぬのが残念だと涙すら浮べて腹を立てた。わざと五つの女の子をひざの上に抱き寄せて、若い妻は上向いていた。実家へ帰る肚を決めていた事で、わずかに叫び出すのをこらえているようだった。うなだれて柳吉は、蝶子の出しゃ張りと肚の中でつぶやいたが、しかし、蝶子の気持は悪くとれなかった。草履は相当無理をしたらしく、戎橋「てん」の印がはいっており、鼻緒は蛇の皮であった。

かまの下の灰まで自分のもんや思たら大間違いやぞ、きゆう切っての勘当……」を申し渡した父親の頑固は死んだ母親もかねがね泣かされて来たくらいゆえ、いったんは家を出なければ収まりがつかなかった。家を出た途端に、ふと東京で集金すべき金がまだ残っていることを思い出した。ざっと勘定して四、五百円はあると知って、急に心の曇りが晴れた。すぐ行きつけの茶屋へあがって、蝶子を呼び、物は相談やがかけちせえへんか。

 あくる日、柳吉が梅田の駅で待っていると、蝶子はカンカン日の当っている駅前の広場をおおまたで横切って来た。髪をめがねに結っていたので、変に生々しい感じがして、柳吉はふいといやな気がした。すぐ東京行きの汽車に乗った。

 八月の末で馬鹿に蒸し暑い東京の町を駆けずり廻り、月末にはまだ二、三日間があるというのを拝み倒して三百円ほど集ったその足で、あたへ行った。温泉芸者を揚げようというのを蝶子はたしなめて、これからの二人の行末のことを考えたら、そんなのんな気ィでいてられへんともっともだったが、勘当といってもすぐびをいれて帰り込む肚の柳吉は、かめへん、かめへん。無断で抱主のところを飛び出して来たことを気にしている蝶子の肚の中など、無視しているようだった。芸者が来ると、蝶子はしかし、ありったけの芸を出し切って一座をさらい、土地の芸者から「おおさかの芸者衆にはかなわんわ」と言われて、僅かに心が慰まった。

 二日そうして経ち、ひる頃、ごおッーと妙な音がして来た途端に、激しく揺れ出した。「地震や」「地震や」同時に声が出て、蝶子はふすまつかまったことは摑まったが、いきなり腰を抜かし、キャッと叫んですわり込んでしまった。柳吉は反対側の壁にしがみついたまま離れず、口も利けなかった。お互いの心にその時、えらい駈落ちをしてしまったというくいが一瞬あった。


 避難列車の中でろくろく物も言わなかった。やっと梅田の駅に着くと、まっすぐかみしおまちの種吉の家へ行った。みちみち、電信柱に関東大震災の号外が生々しく貼られていた。

 西日の当るところでてんを揚げていた種吉は二人の姿を見ると、吃驚びつくりしてしばらくは口も利けなんだ。日に焼けたその顔に、汗とはっきり区別のつく涙が落ちた。立話でだんだんに訊けば、蝶子のしつそうはすぐにかかえぬしから知らせがあり、どこにどうしていることやら、悪い男にそそのかされて売り飛ばされたのと違うやろか、生きとってくれてるんやろかと心配で夜も眠れなんだという。悪い男うんぬんを聴きとがめて蝶子は、何はともあれ、扇子をパチパチさせて突っ立っている柳吉を「この人わての何や」と紹介した。「へい、おこしやす」種吉はそれ以上あいさつが続かず、そわそわして碌々顔もよう見なかった。

 お辰は娘の顔を見た途端に、浴衣ゆかたそでを顔にあてた。泣き止んで、はじめて両手をついて、「このたびは娘がいろいろと……」柳吉に挨拶し、「弟のしんいちは尋常四年で学校へ上っとりますが、今日は、まだ退けて来とりまへんので」などと言うた。挨拶の仕様がなかったので、柳吉は天候のことなどどもりがちに言うた。種吉は氷水を註文に行った。

 銀蠅の飛びまわる四畳の部屋は風も通らず、ジーンと音がするように蒸し暑かった。種吉が氷いちごをさげばこに入れて持ち帰り、皆は黙々とそれをすすった。やがて、東京へ行って来た旨蝶子が言うと、種吉は「そら大変や、東京は大地震や」吃驚してしまったので、それで話の糸口はついた。避難列車で命からがら逃げて来たと聞いて、ふたおやは、えらい苦労したなとしきりに同情した。それで、若い二人、とりわけ柳吉はほっとした。「何とお詫びしてえやら」すらすら彼は言葉が出て、種吉とお辰はすこぶる恐縮した。

 母親の浴衣を借りてえると、蝶子のはらはきまった。一旦逐電したからにはおめおめ抱主のところへ帰れまい、同じく家へ足踏み出来ぬ柳吉と一緒に苦労する、「もう芸者を止めまっさ」との言葉に、種吉は「お前の好きなようにしたらええがな」子に甘いところを見せた。蝶子の前借は三百円足らずで、種吉はもはや月賦で払う肚を決めていた。「わておやに無心して払いまっさ」と柳吉も黙っているわけに行かなかったが、種吉は「そんなことしてもろたら困りまんがな」と手を振った。「あんさんのおとつつぁんにが悪うて、私は顔合わされしまへんがな」柳吉は別に異をてなかった。お辰は柳吉の方を向いて、蝶子は痲疹厄はしかの他には風邪一つひかしたことはない、また身体のどこ探してもかすり傷一つないはず、それまでに育てる苦労は……言い出してなみだの一つも出る始末に、柳吉は耳の痛い気がした。


 二、三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて、黒門市場の中の路地裏に二階借りして、遠慮気兼ねのないしよたいを張った。階下したは弁当や寿司につかう折箱の職人で、二階の六畳はもっぱら折箱の置場にしてあったのを、月七円の前払いで借りたのだ。たちまち、暮しに困った。

 柳吉に働きがないから、自然蝶子が稼ぐ順序で、さて二度の勤めに出る気もないとすれば、結局稼ぐ道はヤトナ芸者と相場が決っていた。もと北の新地にやはり芸者をしていたおきんという年増芸者が、今は高津に一軒構えてヤトナの周旋屋みたいなことをしていた。ヤトナというのはいわば臨時雇で宴会や婚礼に出張する有芸仲居のことで、芸者の花代よりは随分安上りだから、けちくさい宴会からの需要が多く、おきんは芸者上りのヤトナ数人と連絡をとり、派出させて仲介の分をはねると相当なもうけになり、今では電話の一本も引いていた。一宴会、夕方から夜更けまでで六円、うち分をひいてヤトナの儲けは三円五十銭だが、婚礼の時は式役代も取るから儲けは六円、祝儀もまぜると悪いりではないとおきんから聴いて、早速仲間にはいった。

 三味線をいれた小型のトランク提げて電車で指定の場所へ行くと、すぐぜんの運びからかんの世話に掛る。三、四十人の客にヤトナ三人で一通り酌をしてまわるだけでも大変なのに、あとがえらかった。おきまりの会費で存分愉しむ肚の不粋な客を相手に、息のつく間もないほど弾かされ歌わされ、浪花なにわぶししやから声色の合の手まで勤めてくたくたになっているところを、やすぶしを踊らされた。それでも根が陽気好きだけに大して苦にもならず身をいれて勤めていると、客が、芸者よりましや。やはり悲しかった。本当の年を聞けば吃驚するほどの大年増のほうばいが、おひらきの前に急に祝儀を当てこんで若い女めいた身振りをするのも、同じヤトナであってみれば、ひとごとではなかった。夜更けて赤電車で帰った。日本橋一丁目で降りて、野良犬や拾い屋(バタ屋)がごみばこをあさっているほかに人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭い臭気が漂うている黒門市場の中を通り、路地へはいるとプンプン良いにおいがした。

 さんしよこんを煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして山椒の実と一緒になべにいれ、きつこうまんの濃口しようをふんだんに使って、松炭のとろ火でとろとろ二昼夜煮つめると、戎橋の「おぐらや」で売っている山椒昆布と同じ位のうまさになると柳吉は言い、退屈しのぎに昨日からそれに掛り出していたのだ。火種を切らさぬことと、時々かきまわしてやることが大切で、そのため今日は一歩も外へ出ず、だからいつもはきまって使うはずの日に一円の小遣いに少しも手をつけていなかった。蝶子の姿を見ると柳吉は「どや、良えあんばいに煮えて来よったやろ」長いたけばしで鍋の中をき廻しながら言うた。そんな柳吉に蝶子はひそかにそこはかとなき恋しさを感じるのだが、癖で甘ったるい気分は外に出せず、着物のすそをひらいたながじゆばんの膝でぺたりと坐るなり「なんや、まだたいてるのんか、えらい暇かかって何してるのや」こんな口を利いた。

 柳吉は二十歳の蝶子のことを「おばはん」と呼ぶようになった。「おばはん小遣い足らんぜ」そして三円ぐらい手に握ると、昼間を将棋などして時間をつぶし、夜はふたの「お兄ちゃん」という安カフェへ出掛けて、女給の手にさわり、「僕と共鳴せえへんか」そんな調子だったから、お辰はあれでは蝶子が可哀想やと種吉に言い言いしたが、種吉は「んやから当り前のこっちゃ」別に柳吉を非難もしなかった。どころか、「女房や子供捨てて二階ずまいせんならん言うのも、言や言うもんの、蝶子が悪いさかいや」とかえって同情した。そんな父親を蝶子は柳吉のためにうれしく、苦労の甲斐がいあると思った。「私のお父つぁん、良えところあるやろ」と思ってくれたのかくれないのか、「うん」と柳吉は気のない返事で、何を考えているのか分からぬ顔をしていた。


 その年も暮に近づいた。押しつまって何となく慌しい気持のする或る日、正月の紋附などを取りに行くと言って、柳吉は梅田新道の家へ出掛けて行った。蝶子は水を浴びた気持がしたが、行くなという言葉が何故か口に出なかった。その夜、宴会の口が掛って来たので、いつものように三味線をいれたトランクを提げて出掛けたが、心は重かった。柳吉が親の家へ紋附を取りに行ったというただそれだけの事として軽々しく考えられなかった。そこには妻も居れば子もいるのだ。三味線の音色はえなかった。それでも、やはりふすまがみがふるえるほどの声で歌い、やっとおひらきになって、雪の道を飛んで帰ってみると、柳吉は戻っていた。火鉢の前に中腰になり、酒で染まった顔をその中に突っ込むようにしょんぼり坐っているそのようが、いかにも元気がないと、一目でわかった。蝶子はほっとした。──父親は柳吉の姿を見るなり、寝床の中で、何しに来たとりつけたそうである。妻は籍を抜いて実家に帰り、女の子は柳吉の妹の筆子が十八の年で母親代りに面倒みているが、その子供にも会わせて貰えなかった。柳吉が蝶子と世帯を持ったと聴いて、父親は怒るというよりも柳吉をちようしようし、また、蝶子の事についてかなりひどい事を言ったということだった。──蝶子は「わてのこと悪う言やはんのは無理おまへん」としんみりした。が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなと、ひそかに柳吉の父親に向ってつぶやく気持を持った。自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんのあとがますわるつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望や」そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜は興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井をにらんでいた。

 まえまえから、蝶子はチラシをじて家計簿を作り、ほうれん草三銭、せん三銭、ちり紙四銭、などと毎日の入費を書き込んで世帯を切り詰め、柳吉の毎日の小遣い以外に無駄な費用は慎んで、ヤトナの儲けの半分ぐらいは貯金していたが、そのことがあってから、貯金に対する気の配り方も違って来た。一銭二銭の金も使い惜しみ、半襟もあかじみた。正月を当てこんでうんと材料もとを仕入れるのだとて、種吉が仕入れの金を無心に来ると、「わてには金みたいなもんあらへん」種吉と入れ代ってお辰が「維康さんにカフェーたらいうとこィ行かす金あってもか」と言いに来たが、うんと言わなかった。

 年が明け、松の内も過ぎた。はっきり勘当だと分ってから、柳吉のしょげ方は頗る哀れなものだった。父性愛ということもあった。蝶子に言われても、子供を無理に引き取る気の出なかったのは、いずれ帰参がかなうかも知れぬという下心があるためだったが、それでも、子供と離れていることはさすがにさびしいと、これは人ごとでなかった。ある日、昔の遊び友達に会い、誘われると、もともと好きな道だったから、久しぶりにぐたぐたに酔うた。その夜はさすがに家をあけなかったが、翌日、蝶子が隠していた貯金帳をすっかりおろして、昨夜の返礼だとて友達を呼び出し、なん新地へはまりこんで、二日、使い果して魂の抜けた男のようにとぼとぼ黒門市場の路地裏長屋へ帰って来た。「帰るとこ、よう忘れんかったこっちゃな」そう言って蝶子はくびすじつかんで突き倒し、肩をたたく時の要領で、頭をこつこつたたいた。「おばはん、何すんねん、無茶しな」しかし、抵抗する元気もないかのようだった。二日酔いで頭があばれとると、とんにくるまってうんうんうなっている柳吉の顔をピシャリと撲って、何となく外へ出た。千日前の愛進館できようやまえんの浪花節を聴いたが、一人では面白いとも思えず、出ると、この二、三日飯も咽喉のどへ通らなかったこととて急に空腹を感じ、らくてん横のゆうけんで玉子入りのライスカレーを食べた。「自由軒ここのラ、ラ、ライスカレーはカレーをご飯にま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とかつて柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸に湧いた。こっそり帰ってみると、柳吉はいびきをかいていた。だし抜けに、荒々しく揺すぶって、柳吉が眠い眼をあけると、「んだら」そして唇をとがらして柳吉の顔へもって行った。


 あくる日、二人で改めて自由軒へ行き、帰りに高津のおきんの所へ仲の良い夫婦の顔を出した。ことを知っていたおきんは、柳吉に意見めいた口を利いた。おきんの亭主はかつてきたはまで羽振りが良くおきんを落籍ひかして死んだ女房の後釜に据えた途端に没落したが、おきんは現在のヤトナ周旋屋、亭主は恥をしのんで北浜の取引所へ書記に雇われて、いわば夫婦共稼ぎで、亭主の没落はおきんのせいだなどと人に後指ささせぬ今の暮しだと、引合いに出したりした。「維康さん、あんたもぶらぶら遊んでばかりしてんと、何ぞ働く所を……」探すはらがあるのかないのか、柳吉は何の表情もなく聴いていた。維康さんの肚は分らんとおきんはあとで蝶子に言うたので、蝶子は肩身の狭い思いがした。が、間もなく働き口を見つけたので、蝶子は早速おきんに報告した。それで肩身が広くなったというほどではなかったが、やはり嬉しかった。

 千日前「いろは牛肉店」の隣にある剃刀かみそりの通い店員で、朝十時から夜十一時までの勤務、弁当自弁の月給二十五円だが、それでも文句なかったらと友達が紹介してくれたのだ。柳吉はいやとは言えなかった。安全剃刀、レザー、ナイフ、ジャッキその他理髪に関係ある品物を商っているのだから、やはり理髪店相手の化粧品を商っていた柳吉には、いちばん適しているだろうと骨折ってくれた、その手前もあった。門口の狭い割に馬鹿に奥行のある細長い店だから昼間なぞ日が充分射さず、昼電を節約しまつした薄暗いところで火鉢の灰をつつきながら、戸外の人通りを眺めていると、そこの明るさが噓のようだった。ちょうど向い側が共同便所でその臭気がたまらなかった。その隣はちくりんで、門の前の向って右側では鉄冷鉱泉を売っており、左側、つまり共同便所に近い方ではもちを焼いて売っていた。醬油をたっぷりつけて狐色にこんがり焼けてふくれているところなぞ、いかにもうまそうだったが、買う気は起らなかった。餅屋の主婦が共同便所から出ても手洗水ちようずを使わぬと覚しかったからや、と柳吉は帰って言うた。またいわく、仕事は楽で、安全剃刀の広告人形がしきりに身体を動かして剃刀をといでいるかつこうが面白いとてウインドーに吸いつけられる客があると、出て行って、おいでやす。それだけの芸でこと足りた。蝶子は、「そら、よろしおまんな」そう励ました。

 剃刀屋で三月ほど辛抱したが、やがて、主人とけんしてしやくやからとて店を休み休みし出したが、蝶子はその口実をほんだと思い、朝おこしたりしなくなり、ずるずるべったりに店をやめてしまった。蝶子はいっそうヤトナ稼業に身を入れた。彼女だけには特別の祝儀を張り込まねばならぬと宴会の幹事が思うくらいであった。祝儀はしかし、ほうばいと山分けだから、随分と引き合わぬ勘定だが、それだけに朋輩の気受けはよかった。蝶子はん蝶子はんと奉られるので良い気になって、朋輩へ二円、三円と小銭を借したが、渡すなり後悔して、さすがにはっきり催促出来なかったから、何かとべんちゃら(お世辞)して、はよ返してくれという想いをそれとなく見せるのだった。五十銭の金にもちくちく胸の痛む気がしたが、柳吉にだけは、小遣いをせびられると気前よく渡した。柳吉は毎日が如何にも面白くないようで、殊にこっそり梅田新道へ出掛けたらしい日は帰ってからのふさぎ方が目立ったので、蝶子は何かと気を使った。父の勘気がとけぬことがゆううつの原因らしく、そのことにひそかにあんするよりも気持の負担の方が大きかった。それで、柳吉がしばしばカフェへ行くと知っても、なるべく焼餅を焼かぬように心掛けた。黙って金を渡すときの気持は、人が思っているほどには平気ではなかった。

 実家に帰っているという柳吉の妻が、肺で死んだという噂を聴くと、蝶子はこっそり法善寺の「縁結び」にまいってろうそくなど思い切った寄進をした。その代り、寝覚めの悪い気持がしたので、戒名を聞いたりして棚に祭った。先妻のはいが頭の上にあるのを見て、柳吉は何となく変な気がしたが、出しゃ張るなとも言わなかった。言えば何かと話がもつれて面倒だとさすがに利口な柳吉は、位牌さえ蝶子の前では拝まなかった。蝶子は毎朝花をかえたりして、一分の隙もなく振舞った。


 二年経つと、貯金が三百円を少し超えた。蝶子は芸者時代のことを思い出し、あれはもう全部はろうてくれたんかと種吉にくと、「さいな、もう安心しーや、この通りや」と証文出して来て見せた。母親のお辰はセルロイド人形の内職をし、弟の信一は夕刊売りをしていたことは蝶子も知っていたが、それにしてもどうしてめんして払ったのかと、まぶたが熱くなった。それで、はじめて弟に五十銭、お辰に三円、種吉に五円、それぞれれてやる気が出た。そこで貯金はちょうど三百円になった。そのうち、柳吉が芸者遊びに百円ほど使ったので、二百円に減った。蝶子は泣けもしなかった。夕方電灯もつけぬ暗い六畳の間の真中にぺたりと坐り込み、腕ぐみして肩で息をしながら、障子紙の破れたところをじっと睨んでいた。柳吉は三味線のばちで撲られた跡を押えようともせず、ごろごろしていた。

 もうこれ以上節約しまつの仕様もなかったが、それでも早くその百円を取り戻さねばならぬと、いろいろに工夫した。商売道具のしようも、余程せっぱ詰れば染替えをするくらいで、あとは季節季節の変り目ごとに質屋での出し入れで何とかやりくりし、呉服屋に物言うのもはばかるほどであったおかげで、半年経たぬうちにやっと元の額になったのをに、いつまでも二階借りしていては人に侮られる、一軒借りて焼芋屋でも何でも良いから商売しようとさっそく柳吉に持ちかけると、「そうやな」気の無い返事だったが、しかし、あくる日から彼は黙々として立ちまわり、高津神社坂下に間口一間、奥行三間半の小さな商売家を借り受け、大工を二日雇い、自分も手伝ってしかるべく改造し、もと勤めていた時の経験と顔とで剃刀問屋から品物の委託をしてもらうと瞬く間に剃刀屋の新店が出来上った。安全剃刀の替刃、耳かき、頭かき、鼻毛抜き、爪切りなどの小物からレザー、ジャッキ、西洋剃刀など商売柄、銭湯帰りの客を当て込むのが第一と店も銭湯の真向いに借りるだけの心くばりも柳吉はしたので、蝶子はしきりに感心し、開店の前日朋輩のヤトナ達が祝いの柱時計をもってやって来ると、「おいでやす」声の張りも違った。そして「主人うちがこまめにやってくれまっさかいな」と言い、これは柳吉のことを褒めたつもりだった。たすきがけでこそこそ陳列棚のき掃除をしている柳吉の姿は見ようによっては、随分男らしくもなかったが、女たちはいずれも感心し、維康さんもよくが出るとなかなかの働き者だと思った。

 開店の朝、向う鉢巻でもしたい気持で蝶子は店の間に坐っていた。ひる頃、さっぱり客がえへんなと柳吉は心細い声を出したが、それに答えず、眼を皿のようにして表を通る人をにらんでいた。午過ぎ、やっと客がきて安全の替刃一枚六銭の売上げだった。「まいどおおけに」「どうぞごひいきに」夫婦がかりで薄気味悪いほどサーヴィスをよくしたが、じんが悪いのか新店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それもほとんど替刃ばかり、売り上げはめて二円にも足らなかった。

 客足がさっぱりつかず、ジレットの一つも出るのは良い方で、たいていは耳かきか替刃ばかりの浅ましい売上げの日が何日も続いた。話の種も尽きて、退屈したお互いに顔を情けなく見かわしながら店番していると、いっそ恥かしい想いがした。退屈しのぎに、昼の間の一時間か二時間じようけいしに行きたいと柳吉は言い出したが、とめる気も起らなかった。これまでぶらぶらしている時にはいつでも行けたのに、さすがにはばかって、商売をするようになってから稽古したいという、その気持を、ひとは知らず蝶子は哀れに思った。柳吉は近くのしたでらまちたけもとしように月謝五円で弟子入りし二ツ井戸のてんぎゆう書店で稽古本の古いのをあさって、毎日ぶらりと出掛けた。商売に身をいれるといっても、客が来なければ仕様がないといった顔で、店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなる、その声がいかにも情けなく、上達したと褒めるのもなんとなく気が引けるくらいであった。毎月食い込んで行ったので、再びヤトナに出ることにした。二度目のヤトナに出る晩、苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはりしようばい大事とつとめて、一人で座敷をさらって行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われるものではなかった。夕方、蝶子が出掛けて行くと、柳吉はそわそわと店を早仕舞いして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店で飯とおこぜの赤出しを食い、烏貝の味噌みそで酒を飲み、六十五銭の勘定払って安いもんやなと、カフェ「一番」でビールやフルーツをとり、肩入れをしている女給にふんだんにチップをやると、十日分の売上げが飛んでしもうた。ヤトナのもうけでどうにか暮しを立ててはいるものの、柳吉の使い方がはげしいもので、だんだん問屋の借りもかさんで来て、一年辛抱した挙句、店の権利の買手がついたのをさいわい、思い切って店を閉めることにした。

 店仕舞いメチャクチャ大投売りの二日間の売上げ百円余りと、権利を売った金百二十円と、合わせて二百二十円余りの金で問屋の払いやあちこちの支払いを済ませると、しかし十円も残らなかった。

 二階借りするにも前払いでは困ると、いろいろ探しているうちに、おきんの所へ出はいりして顔見知りの呉服屋の担ぎ屋が「うちの二階が空いてまんね、蝶子さんのことでっさかい部屋代はいつでもよろしおま」と言うたのをこれ倖いに、とび大門前通りの路地裏にあるそこの二階を借りることになった。柳吉は相変らず浄瑠璃の稽古に出掛けたり、近所にある赤れんの五銭喫茶店で何時間も時間をつぶしたりして他愛なかった。蝶子は口が掛れば雨の日でも雪の日でも働かいでおくものかと出掛けた。もうヤトナ達の中でも古顔になった。組合でも出来るなら、さしずめ幹事というところで、年上の朋輩からも蝶子ねえさんと言われたが、まさか得意になってはいられなかった。衣裳のすそなども恥かしいほど擦り切れて、咽喉のどから手の出るほど新しいのが欲しかった。おまけに階下したが呉服の担ぎ屋とあってみれば、たとえめいせんの一枚でも買ってやらねば義理が悪いのだが、我慢してひたすら貯金に努めた。もう一度、一軒店の商売をしなければならぬと、親のかたきをとるような気持でわれながら浅ましかった。

 さん年経つと、やっと二百円たまった。柳吉が腸が痛むというので時々医者通いし、そのため入費が嵩んで、歯がゆいほど、金はたまらなかったのだ。二百円出来たので、柳吉に「なんぞ良え商売ないやろ」と相談したが、こんどは「そんなはしたがねではどないも仕様ない」と乗気にならず、ある日、そのうち五十円の金を飛田のくるわで瞬く間に使ってしまった。四、五日まえに、妹が近々むこ養子を迎えて、梅田新道の家を切りまわして行くという噂が柳吉の耳にはいっていたので、かねがね予期していたことだったが、それでもしようを相手に一日で五十円の金を使ったとは、むしろあきれてしまった。ぼんやりした顔をぬっと突き出して帰って来たところを、いきなり襟をつかんで突き倒し、馬乗りになって、ぐいぐい首を締めあげた。「く、く、く、るしい、苦しい、おばはん、何すんねん」と柳吉は足をばたばたさせた。蝶子は、もう思う存分せつかんしなければ気がすまぬと、締めつけ締めつけ、打つ、なぐる、しまいに柳吉は「どうぞ、かんにんしてくれ」と悲鳴をあげた。蝶子はなかなか手をゆるめなかった。妹が聟養子を迎えると聴いたくらいでやけになる柳吉が、腹立たしいというより、むしろ可哀想で、蝶子の折檻は痴情めいた。隙を見て柳吉は、ヒーヒー声を立てて階下へ降り、逃げまわった挙句、便所の中へ隠れてしまった。さすがにそこまでは追わなかった。階下の主婦は女だてらとたしなめたが、蝶子は物一つ言わず、そでを顔にあてて、肩をふるわせると、思いがけずはじめて女らしく見えたと、主婦は思った。年下の夫を持つ彼女はかねがね蝶子のことを良く言わなかった。毎朝味噌みそしるをこしらえるとき、柳吉が襷がけでかつおぶしをけずっているのを見て、亭主にそんなことをさせて良いもんかとほとんど口に出かかった。好みの味にするため、わざわざ鰹節けずりまで自分の手でしなければ収まらぬ柳吉の食意地の汚さなど、知らなかったのだ。担ぎ屋も同感で、いつか蝶子、柳吉と三人連れ立って千日前へ浪花なにわぶしを聴きに行ったとき、立て込んだの中で、誰かに悪戯いたずらをされたとて、キャーッと大声を出して騒ぎまわった蝶子を見て、えらい女やと思い、体裁の悪そうな顔で目をしょぼしょぼさせている柳吉にほとほと同情した、と帰って女房に言った。「あれでは今に維康さんに嫌われるやろ」夫婦はひそひそ語り合っていたが、案の定、柳吉は或る日ぶらりと出て行ったまま、幾日も帰って来なかった。

 七日経っても柳吉は帰って来ないので、半泣きの顔で、種吉の家へ行き、梅田新道にいるに違いないから、どんなようかこっそり見て来てくれと頼んだ。種吉は、娘の頼みをねつけるというわけではないが、別れる気の先方へ行って下手に顔見られたら、どんな目で見られるかも知れぬと断った。「下手に未練もたんと別れた方が身のためやぜ」などとそれが親の言う言葉かと、蝶子は興奮の余りくちげんまでし、その足で新世界のはつのところへ行った。「あんたが男はんのためにつくすその心があだになる。大体この星の人は……」年を聞いてひのえうまだと知ると、八卦見はもう立板に水を流すおしやべりで、何もかも悪い運勢だった。「男はんの心は北に傾いている」と聴いて、ぞっとした。北とは梅田新道だ。金を払って出ると、どこへ行くという当てもなく、真夏の日がカンカン当っている盛り場を足早に歩いた。熱海の宿で出くわした地震のことが想い出された。やはり暑い日だった。

 十日目、ちょうど地蔵盆で、路地にも盆踊りがあり、無理に引っぱり出されて、単調な曲を繰りかえし繰りかえし、それでも時々調子に変化をもたせて弾いていると、ふと行灯あんどんの下をひょこひょこ歩いて来る柳吉の顔が見えた。行灯の明りに顔が映えて、まぶしそうに眼をしょぼつかせていた。途端に三味線の糸が切れて撥ねた。すぐ二階へ連れあがって、積る話よりもさきに身を投げかけた。

 二時間経って、電車がなくなるよってと帰って行った。短い時間の間にこれだけのことを柳吉は話した。この十日間梅田の家へいりびたっていたのは外やない、むろん思うところあってのことや。妹が聟養子をとるとあれば、こちらは廃嫡と相場は決っているが、それで泣寝入りしろとは余りの仕打やと、梅田の家へ駆け込むなり、毎日ひざづめの談判をやったところ、一向に効目がない。妻を捨て、子も捨てて好きな女と一緒に暮している身に勝目はないが、廃嫡は廃嫡でももらうだけのものは貰わぬと、後へは行けぬ思てでも動かへんなんだが、親父の言分はどうや。蝶子、お前気にしたあかんぜ。「あんな女と一緒に暮している者に金をやっても死金同然や、結局女にだまされてられてしまうが落ちや、ほしければ女と別れろ」こない言うたきり親父はもう物も言いくさらん。そこで、蝶子、ここは一番芝居を打つこっちゃ。別れた、女も別れる言うてますとうまく親父を欺して貰うだけのものはもろたら、あとは廃嫡でもはい神楽かぐらでも、その金で気楽な商売でもやって二人すえなごともしらまで暮そうやないか。いつまでもお前にヤトナさせとくのも可哀想や。それで蝶子、明日家の使の者が来よったら、別れまっさときっぱり言うて欲しいんや。ほんの気持で言うのやないねんぜ。しし芝居や。芝居や。金さえ貰たらわいはき帰って来る。──蝶子の胸に甘い気持と不安な気持が残った。

 翌朝、高津のおきんを訪れた。話を聴くと、おきんは「蝶子はん、あんた維康さんに欺されたはる」と、さすがに苦労人だった。おきんは、維康が最初蝶子に内緒で梅田へ行ったと聴いて、これはうっかり芝居に乗れぬと思った。柳吉のはらは、蝶子が別れると言ってしまえば、それでまんまと帰参がかない、そのまま梅田の家へすわり込んでしまうつもりかも知れぬ。とそうまではっきりと悪くとらず、又いくら化粧問屋でもそこは父親が卸してくれぬとすれば、その時はその時で悪く行っても金がとれるし、いわばふたみちを掛けているか、それとも自分で自分の気持がはっきりしてないか、何しろ、柳吉には子供もあることだと、そこまでは口に出さなかったが、いずれにせよ蝶子が別れると言わなければ、柳吉は親の家にれぬ勘定だから結局は柳吉に戻って欲しければ「別れると言うたらあきまへんぜ」蝶子はおきんの言う通りにした。噓にしろ別れると言うより、その方が言い易かった。それに、間もなく顔見せた使の者は手切金を用意しているらしく、貰えばそれ切りで縁が切れそうだった。


 三日経つと柳吉は帰って来た。いそいそとした蝶子を見るなり「阿呆やな、お前の一言で何もかも滅茶苦茶や」不機嫌極まった。手切金うんぬんの気持を言うと、「もろたら、わいのもらう金と二重取りで良えがな。ちょっとはよくを出さんかいや」なるほどと思った。が、おきんの言葉はやはり胸の中に残った。

 父親からは取り損ったが、妹から無心して来た金三百円と蝶子の貯金を合わせて、それで何か商売をやろうと、こんどは柳吉の口から言い出した。剃刀かみそりのにがい経験があるから、あれでもなし、これでもなしと柳吉の興味を持ちそうな商売を考えた末、結局焼芋屋でもやるより外には……と困っているうちに、ふとかんだきが良いと思いつき、柳吉に言うと、「そ、そ、そら良え考えや、わいが腕前ふるって良い味のもんを食わしたる」ひどく乗気になった。適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田大門前通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。現在年寄夫婦が商売しているのだが、土地柄、客種が柄悪く荒っぽいので、大人しいおなは続かず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといったあんばいで、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、案外安くぞうさくから道具一切附き三百五十円で譲ってくれた。階下は全部しつくいで商売に使うから、寝泊りするところは二階の四畳半一間ある切り、おまけに頭がつかえるほど天井が低く陰気臭かったが、廓の往き帰りで人通りも多く、それに角店で、店の段取から出入口の取り方など大変良かったので、値を聞くなり飛びついて手を打ったのだ。新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ梅をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋のれんをくぐって、味加減やちようの中身のあい、商売のやり口などを調べた。関東煮屋をやると聴いて種吉は、「海老えびでも烏賊いかでもてんならわいに任しとくなはれ」と手伝いの意を申し出でたが、柳吉は、「小鉢物はやりまっけど、天婦羅は出しまへん」と体裁よく断った。種吉は残念だった。お辰は、それみたことかと種吉をあざけった。「わてらにつどうてもろたら損や思たはるのや。誰がびた一文でも無心するもんか」

 お互いの名を一字ずつとって「蝶柳」と屋号をつけ、いよいよ開店することになった。まだ暑さが去っていなかったこととて思い切って生ビールのたるを仕込んでいた故、はよ売り切ってしまわねば気が抜けてわや(駄目)になると、やきもき心配したほどでもなく、よく売れた。人手を借りず、夫婦だけで店を切りまわしたので、夜の十時から十二時頃までの一番たてこむ時間は眼のまわるほど忙しく、小便に立つ暇もなかった。柳吉は白い料理着にたかという粋なかつこうで、ときどきぜにばこのぞいた。売上額が増えていると、「いらっしゃァい」剃刀屋のときと違って掛声も勇ましかった。俗に「おかま」という中性の流し芸人が流して来て、あおやぎにぎやかに弾いて行ったり、景気がよかった。その代り、土地柄が悪く、性質たちの良くないさけみ同志が喧嘩をはじめたりして、柳吉はハラハラしたが、蝶子は昔とったきねづかで、そんな客をうまくさばくのに別に秋波をつかったりする必要もなかった。くるわをひかえて夜おそくまで客があり、看板を入れる頃はもう東の空が紫色に変っていた。くたくたになって二階の四畳半でいつときうとうとしたかと思うと、もう眼覚ましがジジーと鳴った。寝巻のままで階下に降りると、顔も洗わぬうちに、「朝食出来ます、四品付十八銭」の立看板を出した。朝帰りの客を当て込んで味噌みそしる、煮豆、漬物、ご飯と都合四品で十八銭、細かい商売だとをくくっていたところ、ビールなどをとる客もいて、結構商売になったから、少々の眠さも我慢出来た。

 秋めいて来て、やがて風が肌寒くなると、もう関東煮屋に「もって来い」の季節で、ビールに代って酒もよく出た。酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、銘酒の本舗から、看板を寄贈してやろうというくらいになり、蝶子の三味線も空しく押入れにしまったままだった。こんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、柳吉の身の入れ方は申分なかった。公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄費いもないままに、勢いたまる一方だった。柳吉は毎日郵便局へ行った。体のえらい商売だから、柳吉は疲れると酒で元気をつけた。酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を知っていたので、蝶子はヒヤヒヤしたが、売物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。そういう飲み方も、しかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ廻っても心配は尽きなかった。大酒を飲めば馬鹿に陽気になるが、チビチビやる時は元来どもりのせいか無口の柳吉がいっそう無口になって、客のない時など、椅子に腰掛けてぽかんと何か考えごとしているらしいようを見ると、やはり、梅田の家のこと考えてるのと違うやろか、そう思って気が気でなかった。

 案の定、妹の婚礼に出席をねつけられたとて柳吉は気を腐らせ、二百円ほど持ち出して出掛けたまま、三日帰って来なかった。ちょうど花見時で、おまけに日曜、祭日ともんが続いて店を休むわけに行かず、てんいしながら二日商売をしたものの、蝶子はもう慾など出している気にもなれず、おまけに忙しいのと心配とで体が言うことを利かず、三日目はとうとう店を閉めた。その夜おそく、帰って来た。耳を澄ましていると、「今ごろははんしちさんが、どこにどうしてござろうぞ。いまさら帰らぬことながら、わしというものないならば、はん様もお通に免じ、子までなしたるさんかつどのを、くにも呼び入れさしゃんしたら、半七さんの身持も直り、ご勘当もあるまいに……」と三勝半七のサワリを語りながらやって来るのは、柳吉に違いなかった。

 夜中に下手なじようを語ったりして、近所の体裁も悪いこっちゃと、ほっとした。「……お気に入らぬと知りながら、未練な私がりんゆえ、そいしはかなわずとも、お傍に居たいと辛抱して、これまで居たのがお身のあだ……」とこっちから後を続けてこましたろかという気持で、階下したへ降りた。柳吉の足音は家の前で止った。もう語りもせず、気兼ねした容子で、カタカタ戸を動かせているようだった。「どなたッ?」わざと言うと、「わいや」「わいでは分りまへんぜ」重ねてとぼけてみせると、「ここ維康や」と外の声は震えていた。「維康いう人は沢山たんといたはります」にこりともせず言った。「維康柳吉や」もう蝶子のせつかんを観念しているようだった。「維康柳吉いう人はには用のない人だす。今ごろどこぞで散財していやはりまっしゃろ」となおもいじめにかかったが、近所の体裁もあったから、そのくらいにして、戸を開けるなり、「おばはん、せせ殺生やぜ」と顔をしかめて突っ立っている柳吉を引きずり込んだ。無理に二階へ押し上げると、柳吉は天井へ頭をっつけた。「痛ァ!」もくそもあるもんかと、思う存分折檻した。

 もう二度と浮気はしないと柳吉は誓ったが、蝶子の折檻は何の薬にもならなかった。しばらくすると、またほうとうした。そして帰るときは、やはり折檻を怖れてあおくなった。そろそろ肥満して来た蝶子は折檻するたびに息切れがした。

 柳吉がゆうとうに使う金はかなりの額だったから、遊んだあくる日はさすがに彼も蒼くなって、さかずきも手にしないで、黙々となべの中をきまわしていた。が、四、五日たつと、やはり、客の酒のかんをするばかりが能やないと言い出し、混ぜない方の酒をたっぷり銚子に入れて、どうの中へけた。明らかに商売に飽いた風で、酔うと気が大きくなり、自然足は遊びの方に向いた。こうしろばかまどころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだん後悔した。えらい商売を始めたものやと思っているうちに、酒屋への支払いなどもとどこおりがちになり、結局、やめるにかずと、その旨柳吉に言うと、柳吉は即座に同意した。


「この店譲ります」と貼出ししたまま、陰気臭くずっと店を閉めた切りだった。柳吉は浄瑠璃のけいに通い出した。たくわえの金も次第に薄くなって行くのに、一向に店の買手がつかなかった。蝶子のはらはそろそろ、三度目のヤトナを考えていた。ある日、二階の窓から表の人通りを眺めていると、それが皆客に見えて、商売をしていないことがいかにも惜しかった。向い側の五、六軒先にある果物屋が、赤や黄や緑の色が咲きこぼれていて、活気を見せた。客の出入りも多かった。果物屋はええ商売やとふと思うと、もういても立っても居られず、柳吉が浄瑠璃の稽古から帰って来ると、早速「あかもんをやれへんか」柳吉は乗気にならなかった。いよいよ食うに困れば、梅田へ行って無心すれば良しと考えていたのだ。

 ある日、どうやら梅田へ出掛けたらしかった。帰って来ての話に、無心したところ妹のむこが出て応待したが、話の分らぬ頑固者の上にけちんぼと来ていて、結局びた一文も出さなかったとしきりに興奮した。そして「果物屋をやろうやないか」顔はにがり切っていた。

 関東煮の諸道具を売り払った金で店を改造した。仕入れや何やかやでだいぶ金が足らなかったので、しようや頭のものを質に入れ、なおおきんの所へ金を借りに行った。おきんは一時間ばかり柳吉の悪口を言ったが、結局「蝶子はん、あんたが可哀想やさかい」と百円貸してくれた。

 その足で上塩町の種吉の所へ行き、果物屋をやるから、二、三日手を貸してくれと頼んだ。西瓜すいかの切り方など要領を柳吉は知らないから、経験のある種吉に教わる必要に迫られて、こんどは柳吉の口から「一つおとつつぁんに頼もうやないか」と言い出していた。種吉は若い頃お辰の国元の大和やまとから車一台分の西瓜を買って、上塩町の夜店で切売りしたことがある。その頃、蝶子はまだ二つで、お辰が背負うて、つまりおや三人総出で、一晩に百個売れたと種吉は昔話し、喜んで手伝うことを言った。かんだきのとき手伝おうと言って柳吉にねつけられたことなど、根に持たなかった。どころか店びらきの日、筋向いにも果物屋があるとて、「西瓜屋の向いに西瓜屋が出来て、西瓜同志(好いた同志)の差し向い」とたんかいぶしの文句を言い出すほどの上機嫌だった。向い側の果物屋は、店の半分が氷店になっているのが強味で氷かけ西瓜で客を呼んだから、自然、蝶子たちは、切身の厚さで対抗しなければならなかった。が、言われなくても種吉の切り方は、頗る気前がよかった。一個八十銭の西瓜で十銭の切身何個と胸算用して、柳吉がハラハラすると、種吉は「切身で釣って、丸口でもうけるんや。損して得とれや」と言った。そして、「ああ、西瓜や、西瓜や、うまい西瓜の大安売りや!」と派手な呼び声を出した。向い側の呼び声もなかなか負けていなかった。蝶子も黙っておられず、「安い西瓜だっせ」と金切り声を出した。それがあいきようで、客が来た。蝶子は、かばんのような財布を首からるして、売り上げを入れたり、釣銭を出したりした。

 朝の間、蝶子は廓の中へはいって行きのきごとに西瓜を売ってまわった。「うまい西瓜だっせ」と言う声が吃驚びつくりするほどれいなのと、笑う顔が愛嬌があり、しかも気性が粋でさっぱりしているのとがたまらぬと、しよう達がひいきにしてくれた。「明日あしたも持って来とくなはれや」そんな時柳吉が背にのせて行くと、「ねえちゃんは……?」良え奥さんを持ってはると褒められるのを、ひと事のように聴き流して、柳吉は渋い顔であった。むしろむっつりして、これで遊べば滅茶苦茶に破目を外す男だとは見えなかった。

 割合熱心に習ったので、四、五日すると柳吉は西瓜を切る要領など覚えた。種吉はちょうど氏神の祭で例年通りお渡りの人足に雇われたのをに、手を引いた。帰りしな、りんはよくよくふきんでいてつやを出すこと、すいみつとうには手を触れぬこと、果物はほこりをきらうゆえ始終掃塵はたきをかけることなど念押して行った。その通りに心掛けていたのだが、どういうものか足が早くて水蜜桃など瞬く間に腐敗した。店へ飾っておけぬから、つらい気持で捨てた。毎日、捨てる分が多かった。といって品物を減らすと店が貧相になるので、そうも行かず、うまけないと焦りが出た。儲けも多いが損も勘定にいれねばならず、果物屋も容易な商売ではないと、だんだん分った。


 柳吉にそろそろ元気がなくなって来たので、蝶子はもう飽いたのかと心配した。がその心配より先に柳吉は病気になった。まえまえから胃腸が悪いと二ツ井戸の実費医院じつぴへ通い通いしていたが、こんどは尿に血がまじって小便するのにたっぷり二十分かかるなど、人にも言えなかった。前に怪しい病気にかかり、そのとき蝶子は「なんちゅう人やろ」と怒りながらも、に、がわらにへばりついている猫の糞とみようばんせんじてこっそり飲ませたところ効目があったので、こんどもそれだと思って、黙って味噌みそしるの中に入れると、柳吉はすすってみて、変な顔をしたが、それと気付かず、味の妙なのは病気のせいだと思ったらしかった。気が付かねば、まじないは効くのだとひそかげんのあらわれるのを待っていたところ更に効目はなかった。小便の時、泣き声を立てるようになり、しまうちようどう病院が泌尿科専門なので、そこで診てもらうと、尿道に管を入れてのぞいた挙句、「ぼうこうが悪い」十日ばかり通ったが、はかばかしくならなかった。みるみるせて行った。て違いということもあるからと、てんのうの市民病院で診てもらうと、果して違っていた。レントゲンをかけじんぞう結核だときまると、華陽堂病院が恨めしいよりも、むしろなつかしかった。命が惜しければ入院しなさいと言われた。あわてて入院した。

 附添いのため、店を構っていられなかったので、蝶子はむなく、店を閉めた。果物が腐って行くことが残念だったから、種吉に店の方を頼もうと思ったが、運の悪い時はどうにも仕様のないもので、母親のお辰が四、五日まえから寝付いていた。子宮癌とのことだった。こんこうきように凝って、お水をいただいたりしているうちに、衰弱がはげしくて、寝付いた時はもう助からぬ状態だと町医者は診た。手術をするにも、この体ではと医者は気の毒がったが、お辰の方から手術もいや、入院もいやと断った。金のこともあった。注射もはじめはきらったが、体が二つに割れるような苦痛が注射で消えてとろとろと気持よく眠り込んでしまえる味を覚えると、痛みよりも先に「注射や、注射や」夜中でも構わず泣き叫んで、種吉を起した。種吉は眠い目をこすって医者の所へ走った。「モルヒネだからたびたびの注射は危険だ」と医者は断るのだが、「どうせ死による体ですよって」と眼をしばたいた。弟の信一は京都しもがもの質屋へ年期奉公していたが、いざという時が来るまで、戻れと言わぬことにしてあった。だから、種吉の体は幾つあっても足らぬくらいで、蝶子もあきらめ、結局病院代も要るままに、店を売りに出したのだ。

 こればっかりは運よく、すぐ買手がついて、二百五十円の金がはいったが、すぐ消えた。手術と決ってはいたが、手術するまえに体にりきをつけておかねばならず、舶来の薬を毎日二本ずつ入れた。一本五円もしたので、怖いほど病院代はかさんだのだ。蝶子は派出婦を雇って、夜の間だけ柳吉の看病してもらい、ヤトナに出ることにした。が、焼石に水だった。手術も今日、明日に迫り、金の要ることは目に見えていた。蝶子のうたもこんどばかりは昔の面影をうしのうた。赤電車での帰り、帯の間に手を差し込んで、思案を重ねた。おきんに借りた百円もそのままだった。

 重い足で、梅田新道の柳吉の家を訪れた。養子だけがうてくれた。沢山とは言いませんがと畳に頭をすりつけたが、話にならなかった。自業自得、そんな言葉も彼は吐いた。「この家のしんだいは僕が預っているのです。あなた方に指一本……」差して貰いたくないのはこっちのことですと、しりを振って外へ飛び出したが、すぐ気の抜けた歩き方になった。種吉の所へ行き、お辰の病床を見舞うと、お辰は「わてに構わんと、はよ維康さんとこィ行ったりィな」そして、病気ではご飯たきも不自由やろから、家で重湯や草炊いて持って帰れと、お辰は気持も仏様のようになっており、死期に近づいた人に見えた。

 お辰とちがって、柳吉は蝶子の帰りが遅いと散々叱言こごとを言う始末で、これではまだ死ぬだけの人間になっていなかった、という訳でもなかったろうが、とにかく二日後に腎臓を片一方切り取ってしまうという大手術をやっても、ピンピン生きて、「水や、水や、水くれ」とわめき散らした。水を飲ましてはいけぬと注意されていたので、蝶子はたんでんに力を入れて柳吉のわめき声を聴いた。

 あくる日、十二、三の女の子を連れて若い女が見舞いに来た。顔かたちを一目見るなり、柳吉の妹だと分った。はっと緊張し、「よう来てくれはりました」初対面のあいさつ代りにそう言った。連れて来た女の子は柳吉の娘だった。ことし四月から女学校に上っていて、セーラー服を着ていた。頭をでると、顔をしかめた。

 一時間ほどして帰って行った。夫に内緒で来たと言った。「あんな養子にき、き、気兼ねする奴があるか」妹の背中へ柳吉はそんな言葉を投げた。送って廊下へ出ると、妹は「ねえはんの苦労はお父さんもこの頃よう知ったはりまっせ。よう尽してくれとる、こない言うたはります」と言い、そっと金を握らした。蝶子は白粉おしろいもなく、髪もバサバサで、着物はくたびれていた。そんなところを同情しての言葉だったかも知らぬが、蝶子はほんのことと思いたかった。思った。柳吉の父親に分ってもらうまで十年掛ったのだ。姉さんと言われたこともうれしかった。だから、金は一旦は戻す気になった。が無理に握らされて、あとで見ると百円あった。有難かった。そわそわして落ちつかなかった。

 夕方、電話が掛って来た。弟の声だったから、ぎょっとした。危篤だと聞いて、早速駆けつける旨、電話室から病室へ言いに戻ると、柳吉は、「水くれ」を叫んでいた。そして、「お、お、お、親が大事か、わいが大事か」自分もいつ死ぬか分らへんと、そんな風にとれる声をうなり出した。蝶子は椅子に腰掛けてじっと腕組みした。そこへなみだが落ちるまで、大分時間があった。秋で、病院の庭では虫の声もした。

 どのくらい時間が経ったか、隙間風が肌寒くすっかり夜になっていた。急に、「維康さん、お電話でっせ」胸さわぎしながら電話口に出てみると、こんどは誰か分らぬ女の声で、「息引きとらはりましたぜ」とのことだった。そのまま病院を出て駆けつけた。「蝶子はん、あんたのこと心配して蝶子は可哀想なやっちゃ言うて息引きとらはったんでっせ」近所の女たちの赤い目がこれ見よがしだった。三十歳の蝶子も母親の目から見れば子供だと種吉は男泣きした。親不孝者と見る人々の目を背中に感じながら、白い布を取って今更の死水を唇につけるなど、蝶子は勢一杯に振舞った。「わての亭主も病気や」それを自分のはらへの言訳にして、お通夜も早々に切り上げた。夜更けの街を歩いて病院へ帰るみちみち、それでもさすがに泣きに泣けた。病室へはいるなり柳吉は怖い目で、「どこィ行って来たんや」蝶子はたった一言、「死んだ」そして二人とも黙り込んで、ざんにらみ合っていた。柳吉の冷やかな視線は、なぜか蝶子を圧迫した。蝶子はそれに負けまいとして、持前の勝気な気性が蛇のように頭をあげて来た。柳吉の妹がれた百円の金を全部でなくとも、たとえ半分だけでも、母親の葬式の費用に当てようと、ほとんど気がきまった。ままよ、せめてもの親孝行だと、それを柳吉に言い出そうとしたが、せたその顔を見ては言えなかった。──

 が、そんな心配は要らなかった。種吉がかねがねかき人足に雇われていた葬儀屋で、身内のものだとて無料で葬儀万端を引き受けてくれて、かなり盛大に葬式が出来た。おまけにお辰がいつの間にはいっていたのか、こっそり郵便局の簡易養老保険に一円掛けではいっていたので五百円の保険金が流れ込んだのだ。上塩町に三十年住んで顔が広かったからかなり多かった会葬者に市電のパスを山菓子に出し、こうでん返しの義理も済ませて、なお二百円ばかり残った。それで種吉は病院を訪ねて、見舞金だと百円だけ蝶子に渡した。親のありがたさが身にみた。柳吉の父が蝶子の苦労を褒めていると妹に聞いた旨言うと、種吉は「そらええあんばいや」と、お辰が死んで以来はじめてのニコニコした顔を見せた。


 柳吉はやがて退院して、ざき温泉へ出養生した。費用は蝶子がヤトナで稼いで仕送りした。二階借りするのも不経済だったから、蝶子は種吉の所で寝泊りした。種吉へは飯代を渡すことにしたのだが、種吉は水臭いといって受取らなかった。仕送りに追われていることを知っていたのだ。

 蝶子が親の所へ戻っていると知って、近所の金持から、めかけになれと露骨に言って来た。例の材木屋の主人は死んでいたが、その息子が柳吉と同じ年の四十一になっていて、そこからも話があった。蝶子は承りおくという顔をした。きっぱり断らなかったのは近所の間柄気まずくならぬように思ったためだが、一つには芸者時代のかけきの名残りだった。まだまだ若いのだとそんな話のたびに、改めて自分を見直した。が、心はめったに動きはしなかった。湯崎にいる柳吉の夢を毎晩見た。ある日、夢見が悪いと気にして、とうとう湯崎まで出掛けて行った。「毎日魚釣りをしてさびしく暮している」はずの柳吉が、こともあろうに芸者を揚げて散財していた。むろん酒も飲んでいた。女中をとらえて、根掘り聴くとここ一週間余り毎日のことだという。そんな金が何処どこからはいるのか、自分の仕送りは宿の払いに精一杯で、煙草代にも困るだろうと済まぬ気がしていたのにと不審に思った。女中の口から、柳吉がたびたび妹に無心していたことが分ると目の前が真暗になった。自分の腕一つで柳吉を出養生させていればこそ、苦労の甲斐がいもあるのだと、柳吉の父親の思惑をも勘定に入れてかねがね思っていたのだ。妹に無心などしてくれたばっかりに、自分の苦労も水の泡だと泣いた。が、何かにつけて蝶子は自分の甲斐性の上にどっかり腰を据えると、柳吉はわが身に甲斐性がないだけに、その点がほとほと虫好かなかったのだ。しかし、その甲斐性を散々利用して来た手前、柳吉には面と向っては言いかえす言葉はなかった。興ざめた顔で、蝶子の詰問を大人しく聴いた。なお女中の話では、柳吉はひそかに娘を湯崎へ呼び寄せて、せんじようじきさんだんぺきなど名所を見物したとのことだった。その父性愛も柳吉の年になってみるともっともだったが、裏切られた気がした。かねがね娘を引きとって三人暮しをしようと柳吉に迫ったのだが、柳吉はうんと言わなかったのだ。娘のことなどどうでも良い顔で、だからひそかに自分にうぬれていたのだった。何やかやで、蝶子は逆上した。部屋のガラス障子にさかずきを投げた。芸者達はこそこそと逃げ帰った。が、間もなく蝶子は先刻の芸者達を名指しで呼んだ。自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチをつけたくないと、そんな思いやりとも虚栄心とも分らぬ心が辛うじて出た。自分への残酷めいた快感もあった。


 柳吉と一緒に大阪へ帰って、日本橋のくらあと公園裏に二階借りした。相変らずヤトナに出た。こんど二階借りをやめて一戸構え、ちゃんとした商売をするようになれば、柳吉の父親もえらい女だと褒めてくれ、天下晴れての夫婦めおとになれるだろうとはげみを出した。その父親はもう十年以上も中風で寝ていて、普通ならとっくに死んでいるところを持ちこたえているだけに、いつ死なぬとも限らず、眼の黒いうちにと蝶子は焦った。が、柳吉はまだ病後の体で、滋養剤を飲んだり注射を打ったりして、そのためきびしい物入りだったから、半年経っても三十円とまとまった金はたまらなかった。

 ある夕方、三味線のトランクを提げて日本橋一丁目のこうてんで乗換えの電車を待っていると、「蝶子はんと違いまっか」と話しかけられた。北の新地で同じかかえぬしの所で一つかまの飯を食っていた金八という芸者だった。出世しているらしいことはショール一つにも現われていた。誘われて、戎橋のまるまんでスキ焼をした。その日の稼ぎをフイにしなければならぬことが気になったが、出世している友達の手前、それと言って断ることは気がひけたのだ。抱主がけちんぼで、食事にもしおいわし一尾という情けなさだったから、その頃お互い出世して抱主を見返してやろうと言い合ったものだと昔話が出ると、蝶子は今の境遇が恥かしかった。金八は蝶子の駈落ち後間もなく落籍ひかされて、鉱山師の妾となったが、ついこの間本妻が死んで、あとがまに据えられ、いまは鉱山の売り買いに口出しして、「言うちゃ何やけど……」これ以上の出世も望まぬほどの暮しをしている。につけても、想い出すのは、「やっぱり、蝶子はん、あんたのことや」抱主を見返すと誓った昔の夢を実現するには、是非蝶子にも出世してもらわねばならぬと金八は言った。千円でも二千円でも、あんたの要るだけの金は無利子の期間なしで貸すから、何か商売する気はないかと、事情をくなり、早速言ってくれた。地獄で仏とはこのことや蝶子は泪が出て、改めて金八が身につけるものを片ッ端から褒めた。「何商売がよろしおまっしゃろか」言葉使いも丁寧だった。「そうやなァ」丸万を出ると、歌舞伎の横ではつに見てもらった。水商売がよろしいと言われた。「あんたが水商売でわては商売や、水と山とで、なんぞこんないつないやろか」それで話はきっぱり決った。

 帰って柳吉に話すと、「お前は良え友達持ってるなァ」とちょっぴり皮肉めいた言い方だったが、肚の中ではまんざらでもないらしかった。

 カフェを経営することに決め、翌日早速周旋屋をのぞきまわって、カフェの出物を探した。なかなか探せぬと思っていたところ、いくらでも売物があり、盛業中のものもじゃんじゃん売りに出ているくらいで、これではカフェ商売の内幕もなかなか楽ではなさそうだと二の足を踏んだが、しかし蝶子の自信の方が勝った。マダムの腕一つで女給の顔触れが少々悪くても結構流行はやらして行けると意気込んだ。売りに出ている店を一軒一軒まわってみて、結局下寺町電停前の店が二ツ井戸から道頓堀、千日前へかけての盛り場に遠くない割に値段も手頃で、店の構えも小ぢんまりして、趣味このみかなっているとて、それに決めた。ぞうさく附八百円で手を打ったが、飛田のかんだきのような腐った店と違うから安い方であった。念のため金八に見てもらうと、「ここならわても一ぺん遊んでみたい」と文句はなかった。そして、代替りゆえ、思い切って店の内外を改装し、ネオンもつけて、派手に開店しなはれ、金はいくらでも出すと、随分乗気になってくれた。

 名前は相変らずの「蝶柳」の上にサロンをつけて「サロン蝶柳」とし、蓄音器はしんないうたなど粋向きなのを掛け、女給はすべて日本髪か地味なハイカラのばかりで、下手に洋装した女や髪の縮れた女などは置かなかった。バーテンというよりは料理場といった方が似合うところで、柳吉はなまこの酢の物など附出しの小鉢物を作り、蝶子はしきりに茶屋風のあいきようを振りまいた。すべてこのように日本趣味で、それがかえって面白いときやくだねも良く、コーヒーだけの客などづらかった。

 半年経たぬうちに押しも押されぬ店となった。蝶子のマダム振りも板についた。使ってくれと新しい女給が「顔見せ」に来れば頭のてっぺんから足の先まで素早く一目の観察で、女の素性や腕が見抜けるようになった。ひとり、どうやら臭いと思われる女給が来た。体つき、身のこなしなど、いやらしく男の心をそそるようで眼つきも据っていて、気が進まなかったが、レッテル(顔)が良いので雇い入れた。べたべたと客にへばりつき、ひそひそ声のぜつも何となく蝶子には気にくわなかったが、良い客が皆その女についてしまったので、追い出すわけには行かなかった。時々、二、三時間暇をくれといって、客と出て行くのだった。そんなことがしばしば続いて、客の足が遠のいた。てっきりどこかへ客を食わえ込むらしく、客もみになるとわざわざ店へ出向いて来る必要もなかったわけだ。そのための家を借りてあることもあとで分った。いわばカフェを利用して、そんな妙なことをやっていたのだ。追い出したところ、他の女給たちが動揺した。ひとりひとり当ってみると、どの女給もその女を見習って一度ならずそんな道に足を入れているらしかった。そうしなければ、その女に自分らの客をとられてしまってやって行けなかったのかも知れぬが、とにかく、蝶子はぞっと嫌気がさした。その筋に分ったら大変だと、全部の女給に暇を出し、新しく温和おとなしい女ばかりを雇い入れた。それでやっと危機を切り抜けた。店で承知でやらすならともかく、女給たちに勝手にそんな真似をされたら、もうそのカフェは駄目になると、あとで前例も聞かされた。

 女給が変ると、客種も変り、新聞社関係の人がよく来た。新聞記者は眼つきが悪いからと思ったほどでなく、陽気に子供じみて、蝶子を呼ぶにもマダムでなくて「おばちゃん」蝶子の機嫌は頗る良かった。マスターこと「おっさん」の柳吉もボックスに引き出されて一緒に遊んだり、ひどく家族的な雰囲気の店になった。酔うと柳吉は「おい、こら、らっきょ」などと記者のあだを呼んだりし、その挙句、二次会だと連中とつるんでいまざと新地へ車を飛ばした。蝶子も客の手前、粋をきかして笑っていたが、泊って来たりすれば、やはりせつかんの手はゆるめなかった。近所では蝶子をおにばばかげぐちたたいた。女給たちには面白い見もので、マスターが悪いと表面では女同志のひいきもあったが、しかし、はらの中ではどう思っているか分らなかった。


 蝶子は「娘さんを引き取ろうや」とそろそろ柳吉に持ちかけた。柳吉は「もうちょっと待ちィな」と言い逃れめいた。「子供が可愛いことないのんか」ないはずはなかったが、娘の方で来たがらぬのだった。女学生の身でカフェ商売を恥じるのは無理もなかったが、理由はそんな簡単なものだけではなかった。父親を悪い女にられたと、死んだ母親は暇さえあれば、娘に言い聴かせていたのだ。蝶子が無理にとせがむので、一、二度「サロン蝶柳」へセーラー服の姿を現わしたが、にこりともしなかった。蝶子はおかしいほど機嫌とって、「英語たらいうもんむつかしおまっしゃろな」女学生は鼻で笑うのだった。

 ある日、こちらから頼みもしないのにだしぬけに白い顔を見せた。蝶子は顔じゅうしわだらけに笑って「いらっしゃい」駆け寄ったのへと頭を下げるなり、女学生は柳吉の所へ近寄って低い声で「お祖父じいさんの病気が悪い、すぐ来て下さい」

 柳吉と一緒に駆けつける事にしていた。が、柳吉は「お前は家にりィな。いま一緒に行ったらが悪い」蝶子は気抜けした気持でざんぼうぜんとしたが、これだけのことは柳吉にくれぐれも頼んだ。──父親の息のある間に、枕元で晴れて夫婦になれるよう、頼んでくれ。父親がうんと言ったらすぐ知らせてくれ。飛んで行くさかい。

 蝶子は呉服屋へ駆け込んで、柳吉と自分と二人分の紋附を大急ぎでこしらえるように頼んだ。吉報を待っていたが、なかなか来なかった。柳吉は顔も見せなかった。二日経ち、紋附も出来上った。四日目の夕方呼出しの電話が掛った。話がついた、すぐ来いの電話だと顔を紅潮させ、「もし、もし、私維康です」と言うと、柳吉の声で「ああ、お、お、お、おばはんか、おやは今死んだぜ」「ああ、もし、もし」蝶子の声はかんだかく震えた。「そんなら、私はすぐそっちィ行きまっさ、紋附も二人分出来てまんねん」足元がぐらぐらしながらも、それだけははっきり言った。が、柳吉の声は、「お前は来ん方がええ。来たら悪い。よ、よ、よ、養子が……」あと聞かなかった。葬式にも出たらいかんて、そんな話があるもんかと頭の中を火が走った。病院の廊下で柳吉の妹が言った言葉は噓だったのか、それとも柳吉が頑固な養子にまるめ込まれたのか、それを考える余裕もなかった。紋附のことが頭にこびりついた。店へ帰り二階へ閉じこもった。やがて、戸を閉め切って、ガスのゴム管を引っぱり上げた。「マダム、今夜はスキ焼でっか」階下から女給が声かけた。栓をひねった。

 夜、柳吉が紋附をとりに帰って来ると、ガスのメーターがチンチンと高い音を立てていた。異様な臭気がした。驚いて二階へ上り、戸を開けた。団扇うちわでパタパタそこらをあおった。医者を呼んだ。それで蝶子は助かった。新聞に出た。新聞記者はに居て乱を忘れなかったのだ。かげもの自殺を図るなどと同情のある書き方だった。柳吉は葬式があるからと逃げて行き、それきり戻って来なかった。種吉が梅田へたずねに行くと、そこにもいないらしかった。起きられるようになって店へ出ると、客が慰めてくれて、よく流行はやった。めかけになれと客はさすがに時機を見逃さなかった。毎朝、かなり厚化粧してどこかへ出掛けて行くので、さては妾になったのかと悪評だった。が本当は、柳吉が早く帰るようにと金光教の道場へおまいりしていたのだった。

 二十日余り経つと、種吉のところへ柳吉の手紙が来た。自分ももう四十三歳だ、一度大患にかかった身ではそう永くも生きられまい。娘の愛にもかされる。九州の土地でたとえ職工をしてでも自活し、娘を引き取って余生を暮したい。蝶子には重々気の毒だが、よろしく伝えてくれ。蝶子もまだ若いからこの先……などとあった。見せたらだと種吉は焼き捨てた。

 十日経ち、柳吉はひょっくり「サロン蝶柳」へ戻って来た。行方をくらましたのは策戦や、養子に蝶子と別れたと見せかけて金を取る肚やった、親爺が死ねば当然遺産の分け前にあずからねば損や、そう思て、わざと葬式にも呼ばなかったと言った。蝶子は本当だと思った。柳吉は「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘った。法善寺境内の「めおとぜんざい」へ行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びたふく人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤いおおぢようちんがぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。おまけに、ぜんざいをちゆうもんすると、女夫めおとの意味で一人に二杯ずつ持って来た。碁盤の目の敷畳に腰をかけ、スウスウと高い音を立ててすすりながら柳吉は言った。「こ、こ、ここのぜんざいはなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫たゆうちゅうじようのお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方がぎようさんはいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方がええいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。蝶子はめっきり肥えて、そこのとんしりにかくれるくらいであった。


 蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃に凝り出した。二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた大会で、柳吉は蝶子の三味線で「たいじゆう」を語り、二等賞をもらった。景品の大きな座蒲団は蝶子が毎日使った。

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夫婦善哉 織田作之助/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official

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