所在なき断章の綴

九川 歩町

夜に関する覚書


 

 夜は強欲の化身。

 空間の摂理をすら侵す闇が満ち、闇は欲しいものを端から食らい、食らい尽くせぬうちに全てのものを漆黒へ囲い込むのです。

 斯くなるわたくしもその眷属であります。

 しかしながら、夜の眷属はそれ自身が力を持つようなものではありません。

 闇の底なき腹の中に姿を隠し、黒き帷に抱かれ、守られているだけのものなのです。闇が食らうものによって精気を養い、あるいは表裏一体となったその口の端からこぼれ落ちたものを齧って、長らえているような弱きものです。

 そういったものが、果たして存在しているかということも、確かとは言い切れません。闇のなかに長く在るものは、次第に溶け出すように同化していってしまいます。そもそも、輪郭を見てとることも難しいような暗がりの中で、何かしらのものたちが「存在している」ということ自体、あり得ないのかもしれません。昼の眷属は夜に眠りますが、よく考えてみるとそれは、「非・存在」の状態から自身を守るためであり、そういった状況を経たことを忘却し続ける自衛のためであるかもしれません。

 話が逸脱してしまいました。

 兎に角、夜には夜の摂理が流れています。夜における存在というのは、昼におけるそれとは全く別の根拠や意味合いをもつということです。

 では私についてはどうかって。おそらく、この記述をおこなう主体があることからして、存在していると言えるのではないでしょうか。あるいはまた、その程度には。

 夜はそうして無数の「存在」を抱えています。ただ単に、闇の中を満たすためだけに、囲い込んでいきます。満たすとはいえ、決してその腹が一杯になることはありません。内容物が増えるに従い、闇の領域も拡大していくからです。水でいっぱいの容器にガラス玉を投げ込んでいくようなものです。屈折率の近いものは、あたかも同じであるかのように透過し、体積の総和だけを増大させてゆくのです。

 あるいは、透過という例えは似つかわしくないかもしれません。けれども濁りきった泥沼に石を沈めるようなもの、と言い換えるだけのことです。

 夜は空間も時間も、その枠組みごと食らっていきます。夜の中では空間も時間も、無限なものに感じられますが、実際はそうではありません。空間や時間そのものが存在していないのです。

 夜は、形あるものから食らっていきます。

 人間や猫や酢漿やゾウリムシといった有機物、コップや水や放射性物質といった雑多な無機物、学校や会社といった人の枠組み、科学や神話といった世界の枠組み、こんな順で腹へ収めてゆくのです。形あるもののほうが咀嚼しやすいからだと思われます。

 それゆえ、夜の中には輪郭のないもの、意志や精神や執念といった主体しかないものが残ります。地球上に、存在を軽んじられるものたちです。なかったことにされがちなものたちです。夜は、そのからだたる闇は、それらを受け入れるように寛容であるのです。

 世界の原理すら書き換えてしまう、無痛の暴力、底なしの包容力。食らいたい欲求を際限なく叶えられる世界。しかしその権力も無限ではありません。

 夜は朝の到来を拒むことができません。夜が怠惰を蔓延らせるとすれば、朝は勤勉の修験者の一行です。闇とともにそこへ巣食う規律も、許容された夜の存在たちも、すっかり祓われていきます。街は曙光に洗われ、修験者たちの視認に清められていきます。

 朝は勤勉で即物的な世界です。形なきものは形なき故に消去され、物質もつものが輪郭という、存在の特権を取り戻してゆきます。そうやって、世界はからっぽに成ってゆきます。からっぽが権力を握る時間がやってくるのです。これは非常に明確な現象であります。少なくとも私たちにとっては。脅威的な侵略なのです。もちろん、これらを夜の住人独自の解釈と捉えていただいて構いません。わたしとあなたの棲む場所が違えば、そう感じるのはごく自然なことですから。

 夜は計り知れぬ膨大な権力をふるいます。はかるという行為すら意味をなさないほどです。しかしそれでも、朝を拒絶することは決してできないのです。その一点に関して夜は抵抗しうる一切の力を持ち得ません。だから、夜は漆黒の帷を丸めて、その中へあらゆる無限を包み込み、小さく畳んで、世界の裏側へと自らを隠します。世界の裏側は、空気のなかに微細な粒子となって無数に存在しており、全部がつながっています。大気が光に侵されてしまう前に、夜は夜自身を食らい尽くしてそこへ逃げ込むのです。

 高さも幅も奥行きも持たない点。それが世界の裏側の実体です。見つからない代わりに、こちらからも何も見えませんし、何も感じ取れません。完全なる自己完結の世界です。静寂に浸りきった孤独しかない世界です。われわれはここで、朝が引き連れてくる引き伸ばされた余韻——すなわち、昼の時間——を息をひそめてやり過ごします。全ての感覚を閉ざし、気配を消しているのは一つの死のようでもあります。

 けれどやがて修験者が遠ざかると、夜はその気配を感じ取ります。感覚がなくても本能的にわかるものなのです。そうして次第に仮死状態から覚醒し、夜は少しずつ街の中へ這い出してゆきます。

 朝の一行とは、やってきて、ゆき過ぎていくものです。同じ一行は、二度と通りがかることはありません。朝というのは、そうやって毎度新たなものに取り替えられることによって、消耗や劣化を逃れ、同じように機能していくのです。保守性がよいとは言えないでしょう。ですから、朝を維持管理していくには、世界を張りぼてにする必要があったのです。からっぽが価値になるのは、必然であったのです。なぜなら、低コストで維持してゆけるのですから。

 すみません、朝の悪口をつらつらと記述するつもりはないのですが。事実を述べようとすると、どうしても棘を排すことが難しいのです。われわれを脅かす危険な存在ですから。

 一方で、夜は真逆の方法によって自らを保持していくといえます。闇の帷を広げて世界を席巻し、仮死状態になって細い糸と成り、それを繰り返すことで永遠に命を繋いでゆくのです。その存在は途切れることのない不滅のものと言えましょう。死ぬことはありませんし、新しく生まれることもありません。

 ところで、ひとり閉ざされた世界に永遠に生きる生き物とは、あり得るものでしょうか。永久機関的な生物のことです。

 たとえばその生き物を一匹の蛇と仮定します。

 食べ物も水もない。他者もなく背景の世界もない。空気くらいはあっても良いとしましょう。蛇は生命として絶望的な境遇です。

 蛇の行く末は飢え、乾涸びて、死にゆく道のひとつしかありえないのでしょうか。きっとそうではありません。

 蛇は己の尻尾の先を口に咥え、飲み込み始めます。生き物は皮だけの空洞ではありませんから、蛇の体は尻尾の先から胃の中で吸収され、消化されます。ある程度蛇の臓器は失われますが、問題はありません。蛇は取り込んだ分の栄養で自己修復することができるのです。

 そんなこと不可能だって?いいのです。喩え話ですから。それに、夜はそれを真実だとする誤謬だらけの証明も許容します。——そんな喩えにも意味はない。自家撞着にしかすぎない。……と、あなたはそんなふうに、新たな指摘を持ち出すでしょうか。いいえ、いいのです。それでいいのです。わたしの意図はじゅうぶん示唆できたはずですから。

 それはただひとつ。

 蛇が生きながらえたということです。

 夜はそうして、自らを食らって命を繋いでいるのです。そういったものが夜である、と言うこともできます。つまり、夜の命は、夜という存在は、永遠という意味を内包しており、あるいは永遠そのものであるのです。

 夜は永遠でありながら、永遠である自らを食らい、永遠となる。永遠を永続させていく——それが、夜の本性です。

 永遠はそもそも永続することが定義であり、前提である。

 だから、永続する永遠を、さらに永続させることに意味はない、って?

 ……たしかに。それには反論のしようがありませんね。

 けれど、夜はそうせずには居れないのです。食らう意味のないものも、自らの存在すらも、そこにある限り食らわずには居れないのです。

 何故なら、夜は強欲の化身なのですから。

 

 私はいつその腹の中に収まったのでしょう。

 果たして何回食べられたところでしょう。

 その記憶すら曖昧です。自己と夜を隔てる境界は闇に溶け薄れつつあります。

 私はもう、残滓という程度にしか存在していないのかも知れません。

 最後の塵埃すら、夜へと溶け出しでゆくようです。

 けれども私は消失するわけではありません。

 私は夜そのものに成るのです。

 思い返せば、ここまで記述できたのも私が夜に成り果てた証拠なのでしょう。

 そして今これを読んでいるあなたも

 

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