こころの亡骸

exa(疋田あたる)

第1話


 やわらかな色に包まれた庭で鳥が鳴いている。降り積もった雪が溶け、そこかしこに春を感じられた。

 暖かそうな景色につられて下駄をつっかけ庭に降りてみると、やわやわとした草の芽のあいだから顔をだす土筆(つくし)があった。

 裾を汚さないように手繰り寄せ、しゃがんで手を伸ばしたところでふと、気がついた。


 ちいさな茶色いものが、木にしがみついている。


 一年をとおして葉をしげらせているイヌマキの濃い色をした葉かげに、隠れるようにしてあったそれにふれてみる。

 つぶさないように力を加減して、千切れてしまわないように慎重に枝からはずしたそれを手のひらに乗せた。乾いたちっぽけな重みが、あまりにも頼りなくそこにたたずむ。


「蝉の脱け殻……」


 早起きにしては、あまりに早すぎる。夏の気配はまだ遠く、昼間のやわらかな陽射しが沈もうとしているいま、ときおり吹く風はおとずれた春を打ち消すほどに冷ややかだ。


 昨年の夏から、ここにあったのだろうか。

 なかの幼虫が生まれ、飛び立ち、鳴き騒ぎ、子を成して死に絶えてなお、朽ちることもなく暗い葉陰にあり続けたのだろうか。

 問うてみたところで、答えなどあるはずもない。いくら蝉の幼虫にそっくりな形をしていようとも、所詮は脱け殻だ。

 思い至ったその事実がもたらすのは虚しさばかり。通り抜ける風は刻々と冷えてゆきこの身を凍えさせるばかりで、胸にふりつもる思いのかけらさえも吹き飛ばしてはくれない。

 ただ、手のなかの脱け殻がかさり、かすかな音を立てるだけだった。





「待ってください!」


 あなたに追いすがったわたしの口からは、こらえきれない胸のうちがこぼれていた。

 

 夜も明けきらぬ薄暗がりのなか、旅装を整えたあなたは今まさに船に向かおうとしているところだった。長い、長い旅だ。国を出て海を渡り、遠く離れた縁もゆかりもない土地に追いやられるためだけに旅立つ、虚しい船出だ。


 無言のままに行ってしまおうとするその背に追いすがり、たくましい腕を抱きしめるようにして引き止める。こんなはしたない真似、これまで一度だってしたことがない。けれども胸に湧きあがるのは、触れることへの恥ずかしさや喜びではなくて、取り残される不安と悲しみばかり。


「……はなして、ください」


 振り向きもしないあなたから降ってきたかたい声で、わたしの体はびくりとかたまった。

 身じろぎしたあなたとの間にできた、わずかなすき間を埋めることさえできなくて、取り残された手が宙をさまよう。


 陽がのぼれば気だるいほどの暑さが待っているはずなのに、どうしていまこんなにも寒いのだろう。芯から凍えるように冷えきった体がふるえるのは、なぜだろう。


「お帰りください。お嬢さまが、こんな職人風情の見送りになど、来てはいけません」


 職人風情。それは、あなたとわたしの思いを知った父が吐き捨てたことば。それまで腕のいい職人としてかわいがっていたあなたを切り捨てたことば。

 絞り出すように言うあなたはわたしに背を向けたままで、どんな顔をしてそれを言ったのかわからない。


 目をかけていた職人を躊躇なく切り捨てる当家の非情さを憎んでいるだろうか。身分差を知りながらしなだれかかり、自身の未来を奪ったおんなを恨んでいるだろうか。

 それとも、それとも……一度は将来を誓いあったわたしとの別れを惜しんでくれているだろうか。


 聞くのが怖かった。あなたの口からわたしを拒絶することばが出るのが、たまらなく怖かった。

 けれども、会いたかった。

 もう顔も見たくないと言われるかもしれない。そう思いながらも、会わずに別れることも選べなくて、押し寄せる感情の重さに耐えきれず、胸がつぶれそうに痛む。


 けれど、いまここで言わねば、二度と伝えられないだろう。あなたがこれから向かう船旅は、そういうものだ。生きて目的地にたどり着けるかさえ、確かではない。

 そのことが、わたしの気持ちを奮い立たせた。張り裂けそうなままではあったけれど、胸のうちを口にすることができた。


「父は、あなたさまとのことを許してはくれませんでした。けれど、わたしは諦めきれません。どうか。どうか、わたしを共に!」


 今日の出立を知って、ここまで連れてきてくれた兄さまは気を使って離れてくれている。距離はあるけれど姿の見える位置にいる兄さまに聴こえてしまわないように、抑えた声で言いつのる。


 受け取って、せめてことばだけでも。返すことばはなくていい。せめて、あなたに伝わったと思わせていて。


 けれど、必死に吐きだしたことばは、背をむけたまま首を横にふるあなたの拒絶にあい、虚しく途切れる。


 叶うと思って言ったわけではなかった。けれど、言わずにおれなかった。せめてこの思いだけでも居場所があるのだと思っていたくて口にしたことばだったけれど。

 あなたの首のひとふりで、ふりしぼった勇気はあっけなく燃え尽きた。それ以上の否定は耐えられなくて、すがりたい思いに声が伴わない。


 冷たい、冷たい沈黙がふたりのあいだに落ちる。


 じわりと、空が明るんでいく。

 わたしの心がいくら閉ざされようとしていても、この身の内がどれほど冷え切っていようとも、時は止まらず陽は容赦なく登ってくる。


 出航できずにいる船長が船べりを指でとんとん叩いている。待ってもらうために兄さまが渡した金は少なくないはずだけれど、もうそれほど時間は残されていないだろう。

 あの楽しかった日々を、心の浮き立つような時を居心地の悪い沈黙で終わらせるなど、かなしすぎるというのに、わたしの口はかすかな音さえ発せずにいる。


「…………もしも」


 長い静寂をやぶったのは、あなたの声だった。

 

「もしも、わたしが……」


 つぶやくように言うその続きは、聞こえない。けれど、わたしにはわかった。それをよく口にしていたのは、わたし自身だから。

 息を飲んで止まりかけた呼吸を無理に動かして、ふたたびやって来ようとしていた沈黙を打ち払う。


「もしも、わたしがあなたと同じ町民だったなら。もしもわたしが、親兄弟を捨ててしまえたなら。わたしは、あなたと、生涯を共に。共に、歩んでいけた、でしょう……」


 ふたりきりのおりに何度も言ったことば。それを繰り返しているだけだというのに、こみ上げる思いに邪魔されて声が詰まる。


「お嬢さまの」


 途絶えた声をつなぐように、あなたが静かに言う。


「お嬢さまの、そのことばをいただいて行っても、よろしいですか」


 どんな顔をしてそれを口にしたのか。わからないけれど、わたしの背を押すにはじゅうぶんだった。


 髪からかんざしを抜き取って、ふたりのあいだにある距離をなくす。あなたの手を引き寄せて、そこにかんざしを乗せた。ごつごつとした手に、きらきらしくも愛らしい飾りは不似合いなようで、しっくりとおさまる。それもそのはず、このかんざしは、その手によって作られたのだから。

 

「これを届けてくださったときのこと、覚えておいでですか」


 問いながら思い出すのは、つくりあげたばかりのかんざしを届けてくれたときのあなたの様子。あまりにも素晴らしい出来に感激したわたしの言ったことに、頬を染めたあの顔。


「あなたの込めてくれた心ごと、いっしょう大切にいたします。そう、言いましたね」


 かんざしを受け取ったあなたの指は、わたしと同じくらい冷たくて、震えている。

 渡すだけでは伝わらない。受け取るのを拒むようにかたまったあなたには、伝わっていない。だから、わたしは思いを添える。震える指にこの手を添えて。


「あなたの心がこもったかんざしに、わたしの心も乗せてください。ここにひとり残されれば、この心は長くは生きられません。あなたとともにどこまでも、連れて行ってくださいませ」


 返ることばはなかったけれど、かんざしもまた返っては来なかった。

 そうしてあなたは恨みごとのひとつも残さずに、帰るあてのない旅路へと行ってしまった。わたしの心を乗せたかんざしを抱きしめて。

 

「……もう、いいだろう」


 船が波の向こうに消えてしまっても立ち尽くしていたわたしの背に、声がかけられる。


「……兄さま」


 わたしの思いを知っていて、あなたの誠実さを知っていて、最後の別れくらいはと今日の日に連れ出してくれたのは兄さまだ。

 父のように割り切りきれない、やさしい兄さま。

 けれど、それでも根底にあるのは父と同じ、添い遂げるには身分が釣り合うべき、という考え方。


 この別れは、どれほど時間をかけたところで納得などできはしない。どれくらい立ち尽くしていたとしても、もういいと思えるときなど、来やしない。

 それが父も兄さまもわからないのだ。きっと、永遠に。


「ええ。ありがとうございました、兄さま。おかげで憂いが晴れました」


 そう答えたわたしは、きれいに笑っていたことでしょう。

 兄さまも安心したように笑ったことで、それがわかった。


 笑うのなど造作もない。心が伴わなくとも、やり方は体が覚えていた。


 旅立ちからしばらくして、あなたの乗った船が転覆したらしいと知らせがあったときでさえ、涙はこぼれなかった。船長をはじめとした船員すべてが助かったというのに、あなただけが見つからなかったことを「不運であった」とひとことで片付ける父にも、なんの思いも湧きはしなかった。


 わたしの心はとうの昔に体を残して、あなたとともに逝ってしまったのだから。





 風が運んできたのだろうか。遠く離れた宴席のにぎわいが耳に届き、現実に引き戻される。

 いまごろ、屋敷じゅうの障子やふすまを取り払って、集まった親族一同が飲み食いをしながら日暮れを待っていることだろう。


 手に取った脱け殻をそっと枝の影にもどし、わたしは立ち上がった。

 練帽子を整えて、纏った真白の打掛を引きずらぬように指を添えれば、白無垢をまとった花嫁ができあがる。


 きっちりと飾り立てられたこの身は、どこから見ても嫁入りする娘だろう。形だけは花嫁の姿をしたその顔にやんわりと控えめな笑顔を添えて、わたしはきれいな脱け殻を完成させた。


 これからこの身は、誰とも知れぬひとの元へ嫁ぐ。

 なくした中身はあなたと添い遂げて逝っただろうか。

 のこされた脱け殻にはわからないけれど。ただ、幸せだった日々を模倣して、たとえ心(なかみ)をなくしても、この身は朽ちずに、永らえる。

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