第27話 帰郷
がたごとと、不規則な馬車の揺れを感じながら、男は目を伏せている。それなりに長い道程を経た疲れが、全身を支配していた。どれくらいそうしていたのか。不意に、窓から入り込んでくる空気が心を高揚させた。何年かぶりの、故郷の空気だ。男は瞼を上げて、馬車の小さな窓から外を見た。そこは間違いなく、見知った故郷。レーヴライン王国の首都・ファウゼンだ。
賑やかな往来。外の街、あるいは外の国からやってきたのだろう露店商たちが広げているのは、色とりどりの果実や宝飾品だ。彼らは威勢の良い声をあげながら客を引いていたが、馬車が横を通ると、それを見て一礼する。首都に出入りする商人は、礼儀を弁えていた。そうでなければ、この街で商売する権利は得られない。馬車が掲げている
往来を抜け、坂道を上っていくと、平民街から貴族街へと差し掛かる。貴族街は、急な坂道もある平民街と違い、緩やかな坂のつづら折りのようになっている。貴族の多くが、馬車を使っての移動を中心としているためだ。以前は何も意識せずにいたが、こうして外から帰ってくると、回り道をさせられているようで少しもどかしい。ゆっくりと馬車は貴族街を上っていき、そうして、目的地――シェーンヴァルト伯爵家の屋敷に、辿り着いた。
男は何年かぶりに、その門扉をくぐり、手入れされた庭を横切り、屋敷の玄関へと足を踏み入れた。そこには使用人一同がずらりと居並び、彼の来訪と共に深々と頭を垂れた。そのうちのひとり――伯爵の侍従を務める男が、代表して口を開く。
「お帰りなさいませ、ヴィルヘルム様。長きに渡るご遊学、お疲れ様でございました」
「……ああ、ただいま。皆も壮健なようで何よりだ」
ようやく男は、ほっと息をついて表情を穏やかにした。長い長い旅だった。四年という歳月を経て、ようやく彼は故郷へと帰還を果たしたのである。彼は出迎えた使用人たちの顔をひとりひとり眺め、自分が不在の間欠かさず屋敷を清潔に保ってくれたことや、父である伯爵を支えてくれたことに感謝を述べた。その姿に、使用人たちは輝いた視線を向けている。
彼こそは、シェーンヴァルト伯爵家の後継者である若き貴公子――ヴィルヘルム・シェーンヴァルト。伯爵家現当主であるドミニク・シェーンヴァルトと、それを支えた才媛・エルザ夫人の息子である。
彼は幼少の頃より才知に長け、成長するにつれて、思慮深く公正な人柄を表しはじめ、屋敷の使用人たちからよく好かれていた。家の主人であるドミニクが、穏やかな微笑みの裏に様々なものを隠している人だということは、使用人たちもそれとなく分かっていた。だからこそ、裏表のない真っ直ぐなその令息の姿には、皆安らぎを得ていたのである。
皆に一通り言葉をかけ終えてから、ヴィルヘルムは辺りを見回し、溜息をついた。
「どうかされましたか、坊ちゃん」
「いや。……四年ぶりの兄の帰還にも顔を見せないとは。グリューネが、私を嫌っていることは分かっていたが……」
そう彼が呟くと、使用人たちは一斉にはっとして顔を見合わせた。急にあたりが静かになったので、ヴィルヘルムは悪い方に想像して慌てた様子で口を開いた。
「なに――どうしたんだ。まさか、グリューネに何かあったのか?」
「いえ、そうではないのです、ヴィリ坊ちゃん」
侍従が、至極真面目な様子で言った。その面持ちに、深刻な話が続くことを予感して、ヴィルヘルムは固唾を飲んで、侍従の言葉の続きを待った。
「グリューネお嬢様は――ご結婚されました」
「……なん、だって?」
目を見開いて絶句する貴公子に、侍従は丁寧に説明をした。
「市井の者の、妻となったのです。なのでもう屋敷にはおられませんし、お帰りになることもないのです」
「なんと――父上は、手紙でそのようなことは何も……」
その言葉には、多くの使用人が閉口するしかなかった。伯爵が『妖精令嬢』こと、娘のグリューネを疎んじていたことは周知の事実である。その結婚を心から祝福などしていないだろうことは明白だったし、それをわざわざ国外にいた親族に伝えるなどするはずはないだろう。伯爵の方針に倣い、彼女を尊重してはいなかった使用人たちが気まずそうに口を噤んだのには、彼女が伯爵家の一員で無くなる少し前に、その理不尽な横暴さを改め、優しい心根を覗かせつつあったことを、皆覚えているからだ。その様子を見て、ヴィルヘルムは頭を振って息をついた。
「いや、皆に言っても仕方の無いことだな。父上にご挨拶し、直接お話しを聞いてくるよ」
「……閣下でしたら、執務室に」
そう告げる侍従に頷いて、彼は父親のいる部屋へと歩みを進めた。侍従はその後ろからついていき、途中、彼らは幾つかの言葉を交わした。
「申し訳ありません、坊ちゃん。お伝えすべきだとは思ったのですが――伝えずとも良いと、閣下の仰せで」
「……仕方が無い。勝手をしたことが父上に知れれば、気まぐれにお前に暇を出したかもしれない。お前にはお前の生活があるのだから、それを責めることはできないよ」
侍従はなんとも言えない、苦虫を嚙み潰したような表情をした。そんな会話をしているうちに、執務室の扉が近付いてきた。二人は話すのを止め、呼吸を整えた。若い貴公子は久方ぶりに父と顔を合わせることに緊張があるらしい。固い表情のまま、執務室の扉を叩く。
「入りなさい」
扉の向こうからは、常と変わらない穏やかな声が返ってきた。一呼吸置いて、ヴィルヘルムは扉を開けた。革張りの椅子に腰掛け、机の上の書面に視線を向けたまま、シェーンヴァルト伯爵は口を開いた。
「ああ、おかえり、我が息子。久しぶりだね。会えて嬉しいよ」
「……お久しぶりです。父上もお変わりないようで、安心致しました」
伯爵の言葉は淀みなく、まるで完璧に打ち合わせた台本かのようにすらすらと紡がれた。相変わらずの隙の無さに気圧されながら、ヴィルヘルムは続ける。
「父上。何故、妹の結婚を知らせてくださらなかったのですか」
「妹?」
小さく鼻で笑いながら、伯爵は返す。
「何をおかしなことを言っているのだね。我がシェーンヴァルト家の子は、お前ひとりではないか、ヴィルヘルム」
「……父上!」
扉の傍で控えていた侍従が引き留めるよりも早く、ヴィルヘルムは伯爵に詰め寄り、机を強く叩いた。大きな音が響いたが、伯爵は顔色ひとつ変えることはない。その態度がなおのこと、若者の激情に油を注いだ。
「どうして、そのような不義理をなさる。どうしてそんなにも、あの子を邪険になさるのですか。確かにグリューネは、普通の娘ではなかった。しかし、私と同じく貴方の子ではありませんか。……リーリエ様を夫人に迎えたのも、貴方の意思だったではありませんか。なのに、何故」
「何故? 分かりきったことを訊ねるな、我が息子よ」
感情を懸命に抑えつけようと声を震わせる息子に対し、伯爵は大きな溜息をついて続けた。
「確かに、私はあの女を妻とした。あの女が、我がシェーンヴァルト家の、水楢の印章を持っていたからだ」
「彼女が一族の縁者である証明だと、そう仰っていましたよね」
「そうだ。だからこそ、受け入れた。たとえ何処の馬の骨かも知れぬとしても、あの印章が誰かの手に渡り悪用されるよりは余程良い。……身寄りを無くし、その印章を頼って私の元を訪れた女に多少の情もあったとも。――だが、そこまでしてやって、あの女が遺したものはなんだったか!?」
伯爵は次第に語気が強くなり、机の上で組んだ手をわなわなと震えさせ始めた。常に平静で、いかなる時も凪のような態度を崩さない彼のこのような様子は、非常に珍しいものだった。勿論、息子もそれを分かっているので、父のその様子に思わず一歩後退った。それとほぼ同時に、伯爵は声を張り上げた。
「あの女ときたら! 化け物のようなあの娘と、隠さざるを得ない醜態しか遺さなかった! ……お前も憶えているだろう、ヴィルヘルム。あの女の正気ならざる末期の様子を」
「……それは、」
ヴィルヘルムは苦い顔をして押し黙る。憶えている。優しく慎ましやかだった義母が、どのように死んでいったかを。それがきっかけで、なおのこと義妹が恐ろしくなり、道理に悖ると思いながら遠ざけてしまったことを。
――リーリエ・シェーンヴァルト伯爵夫人は病死した。世間に公表されたその報は、実のところ半分真実で、半分は嘘である。
彼女は病を患った。しかし、身体の病ではなかった。
分かっているのは、末期の彼女が何故か自分の娘――グリューネにひどく怯えていた、ということだけだ。
「……私には、シェーンヴァルトの名誉を守る責務がある。君ならば分かるだろう、賢い息子よ。あの母娘の名を歴史に残すことは、我々に害はあっても利は生まないのだ。決して」
平静さを取り戻し、落ち着いた伯爵は、淡々とした調子で言った。
「事実、グリューネは既にシェーンヴァルトの姓を捨て、新しい生活を送っている。相手は貴族ではないが、それなりの社会的信用も、経済力もある。君が心配することは何もない。……だから、もうあの娘のことは忘れなさい」
「……」
「長旅で疲れているだろう。しばらくはゆっくり休みなさい。これからは私の傍で、多くのことを学んで貰う。君は、シェーンヴァルト家の未来の当主なのだからね」
「……はい」
その言葉には、貴公子も頷くほかない。自身がこの家を継ぐのだという意識は、幼少の頃から育まれていた。父の傍で学ぶことに異論はあるはずもない。促されて退出したヴィルヘルムはそのまま、無言で自室へと歩いて行った。部屋に辿り着き、溜息をつきながらベッドに腰掛けると、ずっと黙ってついてきていた侍従がおずおずと口を開いた。
「あの――坊ちゃん……」
「先程、私と父上の話していたことは、他言無用に頼む」
「ええ、ええ、それは勿論ですとも」
侍従はうんうんと激しく首を縦に振って、貴公子の足元に跪いた。この伯爵の侍従は元々、ヴィルヘルムの世話係であった。だから、侍従の中では彼こそが、真なる主人であるという意識が少なからずある。伯爵が命令すれば逆らえはしないが、仮にヴィルヘルムが伯爵とは別の命令を下すのなら、そちらに従おうと考える程度には。
伯爵がこの男を自分の侍従として任命し、身の回りの世話や仕事の補佐をさせるようにしたのは、嫡子のヴィルヘルムが帰国し、いずれ爵位を継いだ際に助けをさせるためであった。ドミニク・シェーンヴァルト伯爵は、時に血も涙もない冷酷さを見せる父親である一方で、貴族としての責任を理解している人でもある。彼にとって、後継者を立派に育てあげることは、使命にも等しい。彼は彼なりの責任感を以って、息子に接していた。――残念ながら、正しく伝わってはいないのだが。
「……グリューネの夫となった人のことを知っているか?」
「……はい」
訊ねられて、侍従は苦々しい顔をした。この侍従はかつて、晩餐会でグリューネの共をしていた。あの日の彼女は、常と同じように機嫌が良くなく、各所への挨拶もそこそこに、壁の花にもならず庭園へ散歩に出掛けてしまったのである。そして、あの男と出会った。結婚に至るまでの経緯を簡潔に、侍従は説明をした。ヴィルヘルムは、聞き終わってひとつ頷く。
「そうか、『
「目立った功績は少ないですが、優秀な人物だと聞いております。お嬢様も大変気に入られて、彼と出会ってからは随分お優しくもなられました」
「それは、驚いた」
異母妹のグリューネは、お世辞にも愛想の良い娘ではなかった。一度社交界で発作を起こして以来それは顕著になり、周囲の恐怖や蔑視を鏡に映したように、彼女もまた周囲に攻撃的になり、遠ざけるようになった。その彼女が心を開いた人物、ともなれば俄然興味も湧こうというものだ。
どの面を下げてと思われるかもしれないが、彼女のことを恐れ、幼い義妹が蔑ろに扱われるのを守ってやることができなかったという過去は、この生真面目な若者の心に影を落としていた。そのこともあり、グリューネにとってこの結婚が喜ばしいことになったのであれば祝福したいという、ごく当たり前の気持ちが、ヴィルヘルムにはある。
「……遅ればせではあるが、グリューネの結婚を祝ってやりたいと思う。その、ロバーツ氏に連絡は取れるだろうか?」
「彼でしたら、天文台へ申請すれば面会の約束を取り付けられるかと。手続きを致しますか? 一応、自宅の場所も私は存じておりますが……」
「いや、いきなり自宅を訪問するのは失礼だろう。天文台へ手続きしてくれ」
「かしこまりました」
侍従は頷いて手帳を取り出し、面会の候補日を幾つか挙げる。最終的に五日後を第一候補として先方に申し入れることとした。それからヴィルヘルムは持参した身の回りのものを整頓し、簡単に夕食を――伯爵は多忙のため一緒ではなかった――摂ってから、自室で紅茶を飲んで寛いだ。遊学中、アンシャン共和国でも香り高い紅茶を多く嗜んだが、やはり舌に馴染んだ故郷の味は、旅の疲れを癒やしてくれるようだった。
「……四年か」
そう呟いて、窓の外を見やる。
見慣れた風景は、四年前と変わらない。しかし確実に変化したものもある。義妹は、グリューネは、今どのような少女になっているのだろうか。
期待と不安を胸の内に抱えながら――彼は静かに、再会の時を待ち侘びるのだった。
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