第26話 ただ、己が為すべきことを
――グリューネ。
眠りの中で、誰かに呼ばれた気がした。いやに鮮明に聞こえてくるそれは、驚いたことに、こちらに向かって語りだした。
――今回は、危なかったわね。でも、貴女が無事で良かった。
今回? 危なかった? ファニーに連れて行かれそうになったことを言っているのだろうか。どうしてこの声の主は、そのことを知っているのだろう。微睡んだ意識の中で不信感を募らせていると、声の主はくすくすと笑った。どうして笑うのか。そう考えていると、まるでその思考を読み取ったかのように、声が応えた。
――だっておかしくて。ずっと貴女のことを視ていたのに、知らないはずがないでしょう?
ぞくりと、肌の表面が粟立つような恐怖心が沸きあがる。
視線、視線、視線。視線視線視線視線視線。宙ぶらりんになった裸の身体を、ありとあらゆる角度から視られているような感覚に、寒気を感じる。
不意に、ぐるりと視界が回るような気持ち悪さがあって、意識が自分の姿を形作る。無重力を揺蕩っていたグリューネの意識は、重力を得たように、真っ暗な闇の中に立っていた。見回してみても、誰もいない。フレッド。真っ先に思いついた名前を口にしてみるが、声は闇に吸い込まれたかのように、音にならずに消えた。
肩をいからせて震えていると、闇の中から真っ白な腕が伸びてきて、その両手で頬を包んだ。その生温い質感に悲鳴を上げたはずだが、やはり何の音も響かない。先程の声が聞こえる。
――あの花、気に入っていたのにね。でも、気分を変えてみるのも良いと思うわ。
あの花――? そう疑問を浮かべていると、片方の白い手が人差し指を立てて、ちょん、と側頭部に触れた。それはちょうど、ファニーが毟り取った花が咲いていた部分だ。途端、花の香りが辺りに広がる。触れられた部分に、花が咲いたのだ。痛みも何もなかったが、はっきりとそう感じた。
――またね、グリューネ。本当に会えるその日まで、彼方から見守っているわ。
名残惜し気に頬を撫でながら、白い手は闇の中に消えていき、そして――再び意識は宙に放り出された。足場を失った意識は闇の中を漂いながら、次第に正しい眠りへ戻ろうとしていた。
あの手の主と、ずっと聞こえていた空耳の主は同じだ。このことを、フレデリックに相談しなくては。きっと新しい手掛かりになるに違いない――
***
「――それでは、今期の研修講義の担当はフレデリック・ロバーツに決定だ。皆、異論無いだろうか?」
壇上に立ち呼びかけるアルブレヒトの声に、薬学科の一同――そう呼ぶには些か寂しい人数ではあるが――の控えめな拍手が起こった。その様子を満足そうにうんうんと頷きながら見回したアルブレヒトは、最前列の端の席についているフレデリックを手招いた。彼は渋々といった様子で、壇上へ上がってくる。明らかに気乗りしていない様子の親友の肩を叩いて、発言を促す。
「ではフレッド。意気込みのほどを聞かせてくれ」
「……不慣れではあるが……世俗への貢献へのために……善処しようと思う」
極めて当たり障りの無いその言葉に、極めて当たり障りの無い再度の拍手が鳴る。続いて、薬学科を取り纏めているハインツェル教授が立ち上がって発言した。
「うむ、良い心がけだ。では諸君、ロバーツ氏の素晴らしい講義に期待しよう! 願わくば我々薬学科に、多数の在籍希望者が集いますように! 来期こそ! 予算が増えますように!」
末尾部分を一同が唱和するのは、ここ数年のお決まりの流れだった。以上で、薬学科の臨時集会は終了した。席に戻るものや退室するものなど各々が自分の作業または生活に戻っていく。閑散とした研究室で、深い溜息をついているフレデリックに、アルブレヒトは感謝の言葉を述べた。
「引き受けてくれてありがとう。これで俺も事業の方に専念できるよ」
この『
「……まさか、俺に講師をやらせて在籍者が増えるだなんて思ってないだろうな」
フレデリックは、恨めしげな視線を向けてくる。彼はここ数年、研修講義の担当になることを固辞していた。自分に教師の真似事は向いていない――事実、以前彼が講師を勤めたときの薬学科の評判と言えば散々であったことは事実だ。アルブレヒトはもちろん、そのときのこと憶えている。それでも今年、彼に講師をやってもらおうと推薦した。
「どうだろう。数年前の君にだったら、期待しなかったが……」
今の彼は、かつてと比べ随分と変わった。理由は、言うまでもない。
あの小さな女の子が、たった数ヶ月のうちに、彼に変化を齎したのである。
「今の君は案外、良い先生になるんじゃないかと思ってるよ」
その言葉に、フレデリックは閉口した。それは機嫌を損ねているというよりも、喉に引っかかっている言葉を飲み込むべきか、吐き出すべきか、迷っているような表情だった。あえて、言葉を促すことはしなかった。そのうちに、ゆっくりと彼は口を開いた。
「――俺に、人に何かを教えるような資格があるのだろうか」
ひどく漠然としたその問いかけに、言葉が続いた。
「裁かれることのなかった罪は、いつまで罪になると思う? その罪を雪ぐことはできると思うか? 君の意見を聞かせて欲しい。俺の知る限り、もっとも善良な友よ」
フレデリックが友と呼んでくることも、何かを問いかけることも、極めて珍しい。学術上の問題点なら、これまで彼に解決できないことは少なかったからだ。だからこそ、この問いかけが彼にとってどれほど難解で、どれほど重要に感じているものなのか、善良な友人は理解することができた。
この問いが――それ自体がひとつの、罪の告白に近いものだということも。
「……罪を罪とも思わない者なら、裁かれなかった時点でそれを罪とは見做さなくなる。けれど、裁かれなかったことによって罪を雪ぐ機会を失ったと考えるなら、その罪は一生消えないままだろうね」
アルブレヒトは一度言葉を切って、慎重に続きの言葉を組み立てた。親友だと思っている男が、おそらく初めて打ち明けたであろう心情に、不誠実な回答はできないと考えたからだ。
「けれど、その罪と共にあることが、ひとつの贖罪たり得ると思うよ。……だから、為すべきことを為せばいいのさ。そうして果たした使命がいつか、その罪を許すだろう。――あくまで、俺の意見だけれどね」
たとえ彼にどのような罪があったとしても、それを聞き出すつもりはない。アルブレヒトのその考えに変わりはなかった。彼の妻にも話したとおり、これまで自分が見てきた彼の姿を、信じているからだ。
「……為すべき、こと」
「そうさ。天文台が言うところの、世俗への貢献とかね」
「……なるほど。分かりやすい例えだ」
そうしてようやく、フレデリックの表情は穏やかになった。
「感謝するよ、アルブレヒト。……先日、妻を見ていてくれたことも含めて」
「どういたしまして。君はあまり経験がないかもしれないが、手が足りないときには人を頼るものだ。魔法使いでも、そうでなくてもね。……また必要なときには言ってくれよ」
「……ああ」
彼の返答は淡々としていて、いつもとなんら変わりが無いように見えたが――少なくともそこに、彼なりの親しみが込められていることは、確かに分かったのだ。
***
部屋に規則正しいノックの音が転がり込む。珍しく、フレデリックがグリューネの部屋を訪ねに来た。
「グリューネ、少しいいか」
夫婦は互いの時間を尊重している。夕食を揃って食べた後は大抵、自由にそれぞれの部屋で過ごしていることがほとんどである。今もグリューネはベッドに寝転がって小説の続きを読んでいたところで、呼びかけられて身を起こした。
「どうぞ」
そう応えると扉が開いて、大きな本を二冊、小脇に抱えたフレデリックが入ってきた。グリューネはベッドに腰掛けて、行儀良く本を読んでいた素振りをしながら問いかけた。
「どうしたの?」
「……ある程度考えがまとまった。今の段階で君の体質について、考えられることを話そうと思う」
心臓が跳ねた。グリューネの身体についてどこまで何が分かったのかということは、彼が話してくれる機会を待つばかりだったのだが、その時がいよいよ訪れたということだ。グリューネは唾を飲み込み、居住まいを正した。フレデリックは空いている椅子をベッドの傍に寄せ腰掛けると、話し始める。
「君の身体に起きる、爆発的に植物を繁茂させる現象について、近しい事例を『禁書』の中から見つけた」
「本当……!?」
少女の期待と不安の入り交じった声に頷いて、フレデリックは一冊の本を開いた。そのままベッドの上にそれを置き、更にもう一冊を示して見せた。
「この本は『レーヴライン風土記』。およそ五百年前に記された、レーヴラインの領地内の様子について記述した本だ。そしてもう一冊。こちらは『大陸地理史』という書物。こちらは前者が記されてからおよそ五年以内に出版されたものだと、古書鑑定の専門家が見解を述べている」
二冊の本はかなり古ぼけてはいるが、どちらも表紙には非常に精緻な装飾が施されている。五百年も遡れば、書物の価値は今よりも高かったはずだ。さらにこれだけの装飾をすれば、これらの価値がどれほどだったかは計り知れない。間違いなく、これは『禁書』と呼ばれているものだろう。なるほど、文化的価値があるとされていることも頷ける。そんなことを思いながら、彼の言葉の続きを待った。
「この二冊の本に描かれているレーヴラインの地図に、大きな違いがあるのが分かるだろうか?」
グリューネは二つの本のページを覗き込む。どちらもよく目にするレーヴラインの地図と大きくは変わらない。しかし、何か違和感がある気がする。目を凝らして、二つの地図を見比べる。そして、ある事に気が付いた。
「……あ、『禁足地』が無い……?」
そう呟くと、フレデリックは静かにその通り、と言った。
『禁足地』というのは、レーヴライン王国の北西、ちょうどメードライデン帝国との国境までの間に広がる、広大な森林区域のことである。森林の保護、そしてかの国を危険視する王国の方針により、そこは王国の管理下に置かれ、一切の立ち入りを禁止されている地域だった。それが、『レーヴライン風土記』には描かれておらず、『大陸地理史』の方にだけ確認できるのである。
「今ほど測量技術が発達していなかったにしろ、これだけの範囲の森林を書き漏らすなどあり得ないだろう。まして、レーヴライン国内の記述に限った本が、その存在を失念するはずがない。つまり、このように推測できる――この広大な森林区域は、二冊の禁書が記された時期のずれ、僅か五年以内のうちに、忽然とこの場所に現れた、と」
うっすらと――彼の言わんとすることを、グリューネは理解した。顔を上げると、フレデリックの青い瞳と視線がぶつかった。
「あなたはここで何かが起きて、わたくしの身体のように――緑が生い茂った、と言いたいのね」
「そうだ。君は賢いな」
「ふふん。ですが、わたくしと関係がある、というほどではないのではないかしら? 確かに、そうそうないことだとは思うけれど……」
その指摘に対し、ごもっともだと頷きながら、フレデリックは『大陸地理史』の本の一部分を指差した。
「俺がこの件と君の関係性を見出したのはこの記述からだ」
彼が指し示した部分に目を向け、その文字を追う。そこには、このように記されている。
――……メードライデンとの国境までの間に広がるその森林地域を、その地域の住民は『シェーンヴァルト』と呼んでおり……――
目を見開いて、その文字を見た。シェーンヴァルト。それはグリューネが生まれた、あの家と同じ名前だ。
シェーンヴァルト伯爵家は、首都の外に領地を持っている。多くの貴族がそうして領地を持っていて、かつてはそこに居城を構え、各領地で独自の政治を行っていた。現在は首都に政治機能が集中されることになったため、領地という概念はほとんど形骸化したものになっているが、それでも貴族たちは自分の所有している領地を把握しているし、当然子息子女にそれらを教えている。
しかし、この森林地域――『禁足地』がシェーンヴァルト家の領地だったという話は聞いたことがない。それどころか『禁足地』がそのように呼ばれていたということも初耳であるし、現代の地理史にも、そのような記述はない。
「関係性というには根拠が薄いかもしれない。しかし、偶然で片付けるには出来過ぎだと思わないか」
その言葉に、グリューネは小さく頷く。
「じゃあ……この体質は、シェーンヴァルト家に由来したもの……」
「いや、おそらくそうではない」
少しの間も置かず否定の言葉が飛んできたので、猛然とフレデリックに抗議する。
「ちょっと! 今のは絶対、そういう話の流れだったでしょう!」
「仕方ないだろう。それに関しては信頼できる否定材料があるんだ」
「いいわ、言ってみなさい」
不機嫌に腕を組むグリューネに発言を許されたので、フレデリックは再び話し始めた。
「もし君の体質がシェーンヴァルト家に由来するものであれば、伯爵が知らないはずはない。だが彼は、得体の知らない魔法使いに有利な取引を持ち掛けてまで、君を一族から追放しようとした」
グリューネは押し黙って聞いている。事実ではあるが、改めて自分が家を追い出されたのだということを思い返すと――今の生活に一切の不満がなくとも――多少なり苛立たしい気持ちが湧いてくるのは仕方の無いことだろう。彼の話は続く。
「仮にこの五百年前の『禁足地』の件が関係していて、それを把握していたのなら、伯爵はもっと効果的に利用したはずだ。先祖より賜った奇跡の力だとか適当に耳障りの良いことを吹聴して君を持ち上げ、より良い相手との縁談を決めることもできたはずだ。それをしなかったということは、シェーンヴァルト伯爵家と君の体質との間に、因果関係は無いと見ていい」
直にシェーンヴァルト伯爵と取引をしたフレデリックには、伯爵がそうした、自らの権威をより強固にする機会を逃すはずがないという信頼があった。だからこそ、これはこの説を否定するのに十分な根拠となり得たのである。これにはグリューネも、納得せざるを得なかった。
「確かに、そうね……。じゃ、じゃあ、結局のところ、わたくしの体質はどこから来たものだと考えているの?」
「それについては――君の母親に関係しているのではないかと考えている」
思いもよらない人の話が出てきて、グリューネは息を飲んだ。
リーリエ・シェーンヴァルト。グリューネの母親にして、伯爵の第二夫人。そして、娘のグリューネがまだ幼い頃に病で早逝してしまった、幸薄い貴婦人。それが、世間の彼女に対する認識だ。悲しいかな、母との想い出が少ないグリューネからしても、それ以上のことは分からなかった。
「気を悪くしないで聞いて欲しいが――君のお母さんについては、いくつか気になる点がある」
「……たとえば?」
膝の上で拳を握りしめ、怖々と問い返すグリューネを見て、フレデリックは少し話すのを躊躇った。ひとつ息をつくと椅子から立ち上がり、幼い妻の横に腰を下ろして、その手を小さな握り拳の上に添えた。話題に上ることは少なくとも、この少女が母親を慕っていたことを、この男はそれとなく理解していた。その母親に、少なからず疑いの眼差しを向けることは、少女にとって辛いことのはずだ。
「……大貴族の妻となった人の出自が曖昧にぼかされることは、そう珍しくない。容姿は美しいが身分の低い家の娘を娶った時などは、遠縁などと表現することがあると聞く。まさしく、君のお母様の出自はそのように記録されている」
「……わたくしも、そう聞いているわ」
握っていた拳を開いて、両手で夫の手を掴みながら、グリューネは彼の話に耳を傾けた。
「だが実際には、リーリエ・シェーンヴァルトは、伯爵家に嫁いでくるまで、歴史の中に名を残すような人ではなかった。彼女がどこから来た何者だったのか、そして彼女に何を見出して、伯爵が夫人として迎えたのか――それを、今後調べることになるだろう」
フレデリックは広げていた本を全て閉じて、自分の膝の上に積んだ。
「――以上が、現時点で俺が調査して判明したことと、推測していることだ」
「……なんだか、分かったような分からないような、複雑な気分ね」
そのままベッドに仰向けになり、グリューネは溜息をついた。いろんな話を一度にたくさん聞いたせいか、知恵熱が出たかのように頭が熱い。掴んでいたフレデリックの手を額に乗せると、体温が低い彼の手はひんやりと心地良かった。
「遅い時間に話をしに来て、すまなかった」
「別にいいわ。……話してくれて、ちゃんと調べてくれてありがとう」
感謝の言葉を述べると、夫は薄く微笑んで首を振った。
「感謝には及ばない。妻の憂いを晴らすのは――夫の為すべきことだろう」
「まあ」
その言葉に、グリューネは目を丸くする。まるで、妻を思いやる夫のような言葉ではないか。いや、彼はずっと思いやりのある夫ではあったはずなのだが、こんなにすらすらと、こなれた夫のようなことを言う人だっただろうか。むず痒い心地になっていると、ふと何か、話さなくてはいけないことがあったような気になった。しかし、どうしても思い出せない。難しい顔をしていると、フレデリックが問いかけてくる。
「どうした?」
「いいえ。……何か、あなたに言いたいことがあったのだけど、思い出せなくて」
「そうか。思い出したら、いつでも言いに来てくれて構わないよ」
「あなたが眠っていても?」
「勿論」
意地悪を言ったつもりだったのだが、フレデリックが当然のようにそう返すので、全く意味をなさなかった。つまらなさそうに頬を膨らませる妻の頭を撫でて、彼は自室へ戻っていった。
夫を見送ってから、グリューネは鏡を見た。右の側頭部に白い花がみっつ、頭の形に沿うように、綺麗に並んで咲いている。もはやそこに花が咲いていることに慣れた彼女は、鏡を見て上機嫌に微笑んだ。フレデリックに何を話そうとしていたのだったか。すごく大事なことだった気がするけれど、すっかり忘れてしまっていた。
でも、仕方がないわよね? あれは全部、夢だったのですもの。
今はまだ――触れることのできない、夢だったのですもの。
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