第25話 青い瞳のゲシュペンスト
市街地の外。街道からも、旧街道からも外れた、およそ人の寄りつかないような獣道の先で、彼らは邂逅した。示し合わせたわけでは無くとも、互いの気配を辿れる以上、それは必然だった。朽葉を静かに踏みしめて後ろから近付いてくる、その気配に振り返らずに、ファニー・ファーカーは口を開いた。
「――十五年前。メードライデンの首都・ヘイムウェー郊外で、数名の魔法使いが殺害される事件があった」
フレデリックは足を止めた。ゆっくりと振り返りながら、ファニーはその続きを語る。
「下手人は不明。目撃者はおらず、殺害された魔法使いについても素性の一切は伏せられ、事件は時と共に、降り積もる雪の下に埋もれていった――」
「……」
「あなたが天文台に籍を置いたのは十三年前。その二年前はまだ、メードライデンにいたのではありませんか? あの国に居続けることが困難になったから、あなたは出奔してきたのでは?」
男は黙したまま語らない。その沈黙は否定か、あるいは肯定か。どちらとでも判断でき、しかしまだ何か裏がある、そう思いたくなるような態度だった。ファニーは苛立ちながら溜息をついた。
「だんまりですか。まあいいでしょう――もうひとつあなたには聞きたいことがあります」
一度言葉を切ってから、女はゆっくりと口を開いた。
「『
その名を知らぬ魔法使いは、この大陸にはおそらくいない。メードライデン帝国最古の魔法研究機関にして、かつての戦争の大戦犯――『
「魔法使いを兵士として用いない」、その協定を反故にし、戦争に参加したのが彼らである。戦闘に熟練した魔法使い一人が、何人分の兵士に値するかは、語るに及ばない。戦争に公平も平等も無いと言えばそれまでだが、多くの兵士が「戦死」ではなく「虐殺」の運命を辿ったことは、歴史の中で語り継がれている。
『
「――その名を軽々しく口にしない方が良い。これは親切心での発言だ」
身構えるファニーに、彼は続けてこう投げかける。
「取引をしよう、ファニー・ファーカー。俺が君を降参させたら、君は俺の望む一切を口外しないこと。もし君が俺を降参させることができたら、君の質問に答えても良い」
「あら、素敵。でもそれは、取引ではなく決闘と言うのでは?」
ファニーが指を鳴らすと、フレデリックの立っていた地面に小規模の爆発が起き、抉れた。直撃していれば、人体の大部分が吹き飛んでいただろう。すんでのところで避けたフレデリックは、外套の埃を手で払う。女の声が愉快そうに響いた。
「せっかく市街地の外まで来て頂いたのだもの。全力で、殺りあいましょう?」
「全力か。残念ながら、それは無理な相談だ」
「……はい?」
「俺は――天文台の魔法使いだからな」
金属の鳴る小さな音と共に、フレデリックが懐から取り出したのは――『
まさか、この男――その枷をつけたまま、戦おうというのか。本気で戦えるよう、わざわざ街の外まで誘導したのにも拘わらず、である。ファニー・ファーカーは、彼に矜持を傷つけられたと考えている。だからこそ、その鬱憤を晴らすためには彼を、枷の無い彼を完膚なきまでに叩きのめす必要があったのだ。それがまさか、なおも煽られることになろうとは、思いもしなかったのである。
「……どこまでも、コケにしてくれますね」
女の指先に収束した魔力が拡散して光の矢のように降り注ぐ。そのひとつひとつが致命傷になり得る威力の熱光線だ。地面に落ちた光は、轟音を立てて地面を穿った。フレデリックは二種類の魔法を即座に展開する。ひとつは加速の魔法。もうひとつが防壁の魔法。どちらも人を害する力を持たない魔法だ。
「本当に腹立たしい。魔法使いが、自ら進んで枷をかけられるなんて馬鹿げてる。お行儀良くしてどうするつもりですか? 私たちは、人間とは根本的に違う生き物なのに」
「そうか。俺はよくできた仕組みだと思うが」
「魔法使いに絶対的な権力が与えられていた、メードライデンの生まれとは思えない発言ですね」
その言葉に、フレデリックは僅かに顔を顰めた。彼と付き合いが浅いファニーには、その些細な表情は読み取れなかったかもしれない。苦虫を噛むように、彼は呟く。
「……俺たち魔法使いは、人間と違う生き物だが、同時にただの、人間でしかない」
光の雨が途絶えた。フレデリックは背を伸ばして立ち、女を見据える。
対峙しているファニーは、悪寒を感じた。いや、そうではない。この一帯の温度が、急激に下がっているのだ。膝が、微かに震えた。気を抜けば、そのまま身体の魔力を引き抜かれそうな、そんな重圧感。あれは、なんだ。淡々とした声が静かに告げる。
「主義と主張のぶつけ合いは、ひとまずここまでにしよう。君の思想を否定はしないが――あの子を傷つけた、その償いだけはして貰おう」
男の左目の奥が、青い光を灯した。禍々しくも美しい、
***
深夜。アルブレヒトに言われて早くから眠っていたグリューネは、虫の知らせのように、唐突に目を覚ました。その瞬間、傍らに腰掛けていた人が驚いて目を瞠った。フレデリックだ。しかしその顔はすぐに、穏やかになって口を開いた。
「おはよう、グリューネ。いや、まだおはようには早すぎるか」
「っ……フレッド、おかえりなさい」
勢いよく起き上がって彼の手を取る。頭のてっぺんから足先まで見た限り、フレデリックはひとつの怪我もしていないように見える。ひとまずは、そのことに胸を撫で下ろした。無事に帰ってきてくれた。何よりもそれが喜ぶべきことだ。握った手に僅かに力が込められた。
「身体の調子はどうだ?」
「もうほとんど大丈夫。……ファニーと、会ってきたの……?」
そう問うと、フレデリックは静かに頷いて答えた。
「二度と君に危害を加えないと、彼女に約束させた。もう心配いらない」
「……そう」
その言葉で改めて、本当に彼女が自分を騙していたのだという事実を思い知る。グリューネは暗い気持ちになりながら聞いていた。ファニーとの間にあったやり取りは、知らないほうがいいのだろう。今はまだ。
『妖精令嬢』にとって――人を疑って生きることなんて慣れっこだった。向けられる好意や笑顔は常に偽りのもので、内心誰もが自分のことを、化け物だと思っている。それが日常だった。だから、誰のことも信じられなかった。
しかしそれが、ここに来てからというもの一変していた。誠実に向き合ってくれる伴侶。そしてその友人や知人。市井の人々。反応は人それぞれだったが、少なくとも、出会い頭からその好意を疑ったりと言うことはしなくて良くなった。好意も信頼も、関わり合いのうちに積み重ねていくものだということに、慣れ始めていたところだった。
しかし、これからも疑うことは忘れてはならないのだ。
どんなに親しげに微笑まれたとしても。憧れるような、素晴らしい人であっても。
この身体が、普通では無い、何かである限り――
そのようなことを考えていると、目の前でフレデリックが欠伸を噛み殺した。心なしか普段より瞬きが多い。彼が眠気を押して様子を見に来てくれていたのだと悟って、グリューネは手を強く握った。
「眠った方が良いわ。わたくしはもう平気だから……」
「ああ。そうさせてもらう――」
フレデリックは立ち上がってから、ふとグリューネのベッドを見た。彼女のために用意されたベッドは広々としていて、華奢な彼女が横たわっても十分すぎるほどの広さがある。その空いているスペースに、ふらりとフレデリックが倒れ込んだ。突然倒れ込んだ夫を心配して覗き込むが、彼は多少眠そうな以外いつもと変わらない調子で言った。
「うん――良い寝心地だ。奮発した甲斐があった」
「ちょ、ちょっと、なあにいきなり……!」
「君が来る際に購入した寝具の寝心地が、以前から気になっていたんだ。良いものだな。俺も新調するときは、同じものを買うことにするよ」
そう言って彼は身体を起こして立ち上がろうとする。その背を見つめながら、咄嗟にグリューネはその手を引いた。彼は、不思議そうな顔で見つめてくる。その視線から逃れるようにそっぽを向きながら、グリューネは言う。
「ここで、休んではどう? 疲れているのでしょう? 寝心地の良いベッドを半分、貸してあげたって良いのよ。……夫婦、ですからね」
そうだ。夫婦なのだから、同じベッドで休んだって何ら問題では無いはずだ。そう言い聞かせてはみたものの、とんでもないことを言ってしまったのではないかと、グリューネは心臓をばくばくさせていた。それでも、あらん限りの勇気を振り絞って彼を引き留めたのには――どうしようもなく、孤独を感じていたからだ。
フレデリックはしばし微動だにせず考え込んでいるようだったが、そのうちに再度ベッドに倒れ込んで、薄く笑った。睡魔のせいかいつもよりもその顔は、一層気を抜いていて穏やかに見えた。
「……君が構わないのなら、そうしよう」
広々としたベッドに、夫婦は微妙な距離を取って横になった。手はなんとなく握ったままだ。自分の心臓の音の煩さに、聞こえたりしていないだろうかと不安になりながら、グリューネは隣へ視線を送る。どうやらそれは杞憂のようで、穏やかな笑みを湛えた夫は眠たそうに瞼を降ろした。
「いつぶりだろう。こんなに眠たいのは……」
「……そんなに疲れているの?」
「いや。多分……安心、している」
君が連れて行かれなくて、と。その言葉に胸がいっぱいになって、グリューネはもう少しだけ身を寄せた。
近付いた距離が、互いの熱をほんのりと伝える。ほどなく静かな寝息が聞こえ始め、グリューネはフレデリックの顔を覗き込む。こんなに無防備な彼の姿を見るのは初めてだ。そのまま額を軽く付き合わせ、彼の鼻先に、そっと、震えながら口付けた。
「……おやすみなさい」
自分からそうしたくせに、グリューネは顔を真っ赤にして夫に背を向けた。自身の心臓の音の煩さになかなか寝付けずにいたが、聞こえてくる健やかな寝息に耳を傾けるうちに、ゆっくり、ゆっくりと眠気がやってきて、瞼を降ろした。
隣に誰かがいることはこんなにも温かいものなのだと、いつか寄り添って一緒に眠ってくれた母のことを、思い出しながら。
***
獣道に、点々と血の痕が続いている。その先に、木の幹に身体を預けて不規則な呼吸をするファニー・ファーカーがいた。右肩には深々と貫かれた傷があり、腹部にも大きな外傷があった。桃色の唇は血の気を失い、噎せるたびに赤黒い血を吐き出していた。
「……『損傷、修、復』……」
息も絶え絶えに、治癒魔法を使用する。治癒魔法は魔力の他に、治癒対象の体力を消費する。細胞を活性化させ、本来時間をかけて修復されるはずのものを、高速で回復させる手段だからだ。ファニーの手は、疲労と恐怖で震えていた。
フレデリック・ロバーツと戦闘して、敗北した。生きているのが奇跡的だと思えるほど、惨めな敗北だった。しかもあちらには、『
「……あんな、エーテル機関の出力を抑えて、あれほど、だなんて、まるで……化け物――」
――脳裏には、先程の戦闘の様子が焼き付いている。
彼が魔法で創造した無数の氷の槍が、嵐のように降り注ぐ。それらを爆破の魔法で撃ち落とすが、数も速度もとても対応しきれない。捌ききれずにそのうち一本が右肩に刺さると、瞬間その槍は溶解したように形を失い水となって、右肩を濡らす。そのあまりの冷たさに、思わず悲鳴を上げた。
たたみ掛けるようにもう一本が腹に刺さり、しかしそちらは形を失わないまま、背後にあった大木にファニーの身体を縫い付けた。身動きがとれないでいると、その手に氷の槍を携えたフレデリックが、ゆっくりと歩み寄ってくる。暗闇の中、彼の左目だけが青々と、異様な輝きを放ち、揺らめく尾を引いていた――まるで、亡霊のように。
「……苦手だな、戦うのは」
この期に及んでそのようなことを口にした男に、ファニーは口の端をつり上げて言った。
「は……なんです、それ。私への、皮肉ですか?」
勝負はもう、決していた。この男には、勝てない。そう悟ったファニーだったが、口でまで負けるわけにはいかなかった。精一杯屈していない態度でそう言い返すが、男は無感情に言う。
「いや、事実を述べたまでだ。殺さずに負かすというのは、本当に骨が折れる」
「……!」
男はさらに近付いてくる。それはさながら、刑の執行を待つかのような恐ろしい時間だった。男は持っていた氷の槍を溶かして水に変えてしまうと、ファニーの喉笛にぴたりと人差し指を当てた。その指先もまた、氷のように冷たい。殺される――本能的にそう感じて、ファニーは震えた。
「さて、ファニー・ファーカー。事前に言った通り、取引をして貰おう」
触れた指先に、魔力の流れを感じる。男は続けた。
「君は二度と、グリューネ・シェーンヴァルトおよび、グリューネ・ロバーツ、そしてフレデリック・ロバーツの名を、口頭またはそのほかのあらゆる手段を用いて、他人に伝聞してはいけない。この契約に背いた場合、代価は君の命で支払って貰う。この契約を結ぶことを拒否した場合も同様に、命の保証は無い」
なんて暴力的で一方的な取引だ。しかし、敗者は勝者に従うと、事前に了承したことである。まして、こんなところで命を落とすなどまっぴらだ。ファニーは屈辱で唇を噛みながら、途切れ途切れに返した。
「……っ、いい、でしょう。従います。従いますから……命までは、どうか」
「賢明な判断だ。『――契約、調印』」
指先から流れ込む魔力が、喉の奥で組み立てられていく。首輪をつけられたような不快感。契約を破れば、この魔法はたちまち喉笛を食い破り、命を奪うだろう。魔法が完成し指を離した男は、このように付け加えた。
「術式の解除を試みるのも止めるように。死ぬぞ」
「それは、それは……手が……込んでますこと……」
「当然だ。――妻の平穏を守るためなのだから」
フレデリックが、氷の槍を溶解させた。突き刺さった槍を支えにしていたファニーの身体がぐらりと傾いで、その場に膝をつく。外傷の大きさに反して、出血はあまりひどくないが、どうやら傷口が凍っているからのようだ。
這いつくばったファニーの手元に、小さな薬瓶が転がってくる。見上げれば、フレデリックが相変わらずの無感情な目で見下ろしていた。
「滋養強壮の薬だ。治癒魔法は体力を消耗する。使うと良い」
「……」
それを受け取ることは、情けを受けることと同義だった。半ば自ら戦いを挑んで、返り討ちにされた挙げ句に、その相手に情けをかけられるという、考え得る限り最高に見苦しい流れである。押し黙るファニーに、男は言った。
「敗北した時点で、矜持などあってないようなものだろう。遠慮せずに使え。脅威を取り除いた以上、俺は君を死なせようと思わないし、グリューネもそんなことは望まないだろう」
――グリューネ。良い商品になると思い連れ去ろうとした、あの娘。生意気で、小賢しくて、気位ばかり高くて、世間知らずでお人好しの少女。きらきらとした目で熱心に嘘の話に胸を躍らせて、好きな男の話を恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに語る女の子。
獲物を取り逃した悔しさのせいだろうか。思い返すとひどく腹立たしくて――同時にとても、恋しいような気持ちになった。
「……それでもなお、意地を張りたいというなら好きにすれば良い」
そう言って、男は踵を返し、去って行った。
――というのが、数刻前の出来事。ファニーは結局、渡されたその薬を飲んだ。苦いその薬を飲み干すと、腹の底から気力が湧いてくるような感覚があった。悔しいが、さすがは天文台の魔法使いの処方だ、と言わざるを得ない。おかげで治癒魔法は存分に使用でき、しばらくこうして治癒に専念すれば、損傷した内臓まで問題なく修復できるだろう。
木に凭れたまま、瞑目する。脳裏に、あの娘のことが過ぎった。
――あなたが写真機で撮ったの?
写真を撮るのが好きだった。美しい故郷の景色が好きだった。いつかこの美しさを、誰かに伝えたい。ここだけではなく、たくさんの人目につかない美しい景色を、人々に届けたい。幼い頃、確かにそういう夢があった。あまりにもありふれた、そんな夢が。
しかしそれは、叶わなかった。魔法使いの素質があると知れてすぐ、ある魔法研究機関に連れて行かれた。あとになって、両親がその機関に金を貰って自分を売ったのだということが分かった。
そこは天文台のように、お行儀の良い研究機関では無かった。命の危険がある実験や訓練は日常茶飯事だった。その機関で育てられた魔法使いはまた、いろんな国の諜報機関に売り飛ばされるようだった。それが嫌で、命からがらそこから逃げ――しかし、その頃には、実験の後遺症のせいなのかいろんなことを忘れていた。
そうだ。もう憶えていない。本当の名前も。あの美しい、故郷の場所も。
ファニーは自嘲気味に笑う。そうだ。無いのだ。夢を見せてくれた、あの故郷の美しい景色は、記憶の片隅にあるきりで。もうずっと、探し続けている。
世界のあらゆる情報をかき集めながら――帰るべき場所を、探し続けている。
――それでも、あなたが映した世界は綺麗だわ。
嬉しかった。腹立たしくなるほど、その言葉が嬉しかった。
世界は美しくなどないのだと、分かってしまった。知ってしまった。それでもまだ、この目に映した世界は美しくあるのだと、言ってもらった気がして。
もし、嘘をつき続けていたならば。彼女と過ごしたあのくだらない時間は、本物になったのだろうか?
小さなテーブルの上にたくさんの写真を並べて。案内人のように、その場所のことを教えてあげて。目を輝かせる彼女を、旦那様と行ってみてはどうですかとからかって。
彼女ならきっと――故郷の景色を綺麗だと言ってくれる気がするのだ。
いつか、幼い自分がその景色に心を震わせていたように。
「……ハッ、何を考えているんだか……」
感傷的になっている自分に笑えてきて、ファニーは空を仰いだ。
じき、夜が明ける。
傷が癒えたら、またあてのない旅に出る。
いつか、忘れてしまったあの場所へ、帰り着くために。
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