第22話 秘密は甘い果実にも似て
それから――些細なすれ違いは双方の謝罪によって早々に修復し、夫婦は平穏な時間を過ごしていた。
これでもかというほど警戒していたが、ファニー・ファーカーと邂逅することはひとまずなかった。グリューネは図書館へ行ったり、薬局の手伝いをしたり、日用品の買い出しをしたり、これまでと変わらない日常が戻ってきていた。そもそも、ファニーは旅行者であると言っていた。ひとところにずっと留まってはいないのかもしれない。そうした考えから、日に日に彼女への警戒は薄れていった。
フレデリックの方はというと、どう考えているのか分からなかった。ファニーに会ってしばらくは、彼もまた警戒を強めていたが、このところは外へ出るなとも気をつけろとも言ってこない。気になって、朝食中に問いかけてみる。
「フレッド。……ファニーのことだけれど」
「ああ……彼女ならここ数日、この街にいないようだ」
「そんなことが分かるの?」
驚いて、グリューネは問いかけた。彼は頷いて、このように述べた。
「定期的に、街全域対象に探知魔法を作動させている。彼女はエーテル機関を覆い隠すような偽装魔法を施しているが、その偽装を探知するよう術式を構築しておいた。探知にかかった魔法使いは今のところいない。安全と言い切るには心許ないが、現状ありもしない驚異に怯えすぎるのもな。……君の精神衛生上、良くないだろう」
言いながらトーストを囓るフレデリックを見て、ふと思う。
魔法使いが、およそ常人には起こし得ない力の使い手であることは承知している。その中の優劣を判断することは、魔法使いではないグリューネにはできないことだ。しかし、それを差し引いたとしても、この男は何でもできすぎる気がしている。以前、できないことはやらなくていいと言ったとき、彼はそんなものあると思っていなかったと言って笑っていたが、本当にそうなのかもしれないと思うほど、彼の魔法に不可能は存在しなかった。
「……あなたって、もしかしてすごい人?」
「漠然とした問いかけだな。このくらいのことは、天文台の魔法使いなら多くの者ができる。ただ、彼らは皆それを実際に使うような状況にはそうならないというだけだ」
知らないことが、たくさんある。フレデリックという男について。彼が自分より大人だから、それは仕方のないことだ。魔法使いだったなら、もっと彼のことが分かるのだろうか。
朝食の皿を洗っているフレデリックの隣へ行って、濯ぎ終えた皿を受け取る。役割は入れ替わることもあるが、大体こうして一緒に家事をしていた。巷で話を聞くに、一緒に家事をしてくれる――もっとも彼は分担しているつもりはなく、ひとり暮らしの延長でいるだけのことだろうが――夫というのは珍しいらしい。並んで皿を綺麗にしながら、話しかけた。
「ねえ。この間、外国へ行ったことがあると言っていたでしょ。どんなところ?」
「ああ……」
何かを考えるように、フレデリックの手が一瞬止まった。
「……正確に言うと、行ったことがある、というわけじゃない。俺はこの国の生まれではないんだ」
「まあ、移民だったのね」
レーヴライン王国は、内陸の比較的開けた位置に存在している。戦乱の世が幕を閉じてからは、流通の要地として商業を中心に発展し、各国から人が出入りしている。そのため移民として入ってきて根付いた者たちも少なくないのだ。彼がそういった経緯を持っていても、別段驚くほどの話ではない。
彼の過去の話は、猫を飼っていた話を聞いて以来のような気がする。興味津々になって、グリューネはどこの生まれなのかを訊ねた。彼は濡れた手を拭きながら、再び考え込む様子を見せた。それから、意を決したように口を開いた。
「――メードライデン帝国」
彼の口から出てきた言葉は意外なものだった。それを小さく復唱して、知ってる限りの知識を引き出した。
メードライデン。大陸北西の山岳地域に位置し、一年を通して寒冷な気候に晒されている、常冬の帝国。かつて大陸で起きた戦乱で、協定を破って魔法使いを戦闘に参加させ、敵味方双方に多くの犠牲者を出した。その結果、同盟を組んだ他の大陸各国からの集中砲火を受け、その後は敗走を繰り返して終戦を迎えるに至った。現在も各国から厳しく貿易の規制を受けている、断崖の鎖国なのである。
グリューネが歴史書から軽く学んだだけの情報からでさえ、かの国が多くの国や人々にとって、好意的に思われないであろうことは察するにあまりある。メードライデンの民は排他的で閉鎖的な性質の者が多く、そもそも外国へ出ることは少ないと聞くが、外へ出たところで歓迎される要素も無いのだから当然だろう。彼が言い淀んだ理由は明白だった。
「俺はメードライデンの生まれで、君くらいの年齢の頃まで、あの国にいた。その後、たまたまあの国を訪れていた『
「そう、だったの……」
好奇心で彼を不快にさせてしまったかもしれないと思い、グリューネが謝罪の言葉を選んでいると、頭の上にそっと彼の手が乗せられた。心なしか、普段よりもたどたどしく、躊躇っているような、そんな気配さえあった。
「意図的に隠していたことを弁明はしない。先入観を持たれたくなかったんだ」
彼の心情は尤もだろう。どこの国に生まれたかによって、勝手な印象を持たれるなど、馬鹿げていることだとグリューネも思う。しかし、もしも特異な体質を持たず、真っ当な貴族として生きていたら――やはり、かの国の民のことを嫌悪したり、あるいは見下したかもしれない。貴族は皆、レーヴライン建国以来の民である。その血統を守ることに固執しているのも、それが至上の誇りであり自負であるからだ。
けれど、疎まれていた『妖精令嬢』を躊躇いもなく抱き上げたのは他でもない、彼なのである。
「……聞かれなかったから言わなかった、と適当に言っておけばいいでしょうに」
「君が俺の昔の話を聞きたがらないよう、日頃話題を選んでいたのは事実だからな」
「そういう小賢しいところも、馬鹿みたいに正直なところも、あなたの性格であって、生まれは関係無いものでしょう」
――自分ではどうにもならないもののために、人から好き放題言われることのやるせなさは、よく知っている。彼の生まれがかの国であることについて、他の誰がなんと言おうとも、彼への評価や愛情が変わることはあり得ないことだ。それだけは、自信を持って言える。言える自分で、ありたいと思う。
「わたくしが、今更その程度で不快に思うような狭量な妻だと思って?」
「君が何やら、難しげな顔をしていたから」
「それはねえ! わたくしの質問のせいで傷ついたのじゃないかと思って……!」
不意に降りる沈黙。
やってしまった。最初から素直にそう言えば良いものを、中途半端に隠そうとするから、本音が口をついて出たときに恥ずかしくなるのだ。嫌というほど思い知ったはずなのに、またやってしまった。じわじわと顔が熱くなってくる。ああ、また微笑ましげに笑われてしまう――と思っていたが、早々に沈黙が破られることはなく、頭の上に乗せられた手が控えめに髪を撫でるだけだった。
「……そうか。それなら心配には及ばない。いずれ君には話すべきだろうと思っていたから、きっかけができて良かった。……ありがとう」
それだけ言うと、なんてことなかったように彼は手を下ろした。そのとき、グリューネは一瞬彼の顔を見上げたのだが――横を向いて押し黙る、視線を逸らした彼の頬が、うっすらと赤くなっていたような気がした。まさかそんな、フレデリックに限って照れていたとか、嬉しそうだなんて、そんなことがあるのだろうか。
「そろそろ薬局を開ける時間だが、君はどうする?」
背中を向けたまま、そう問いかけてくる彼の表情は窺い知れない。
「え、えっと……えっと……、わたくし、夕食の買い出しへ行ってくるわね!」
「分かった。気をつけて」
夫の返事を聞くのもそこそこに、グリューネはそそくさと身支度を済ませ、家を出た。
玄関の扉に背を預け、一息つく。まだ先程のフレデリックの表情が、瞼の裏に焼き付いている。度々、彼が笑顔を見せてくれることはあった。その笑顔のために、何度理性と心を乱されたことか。しかし、先程の赤らめたような顔は、これまで見たことがなかった。
フレデリックは言っていた。いずれ話すべきだろうと思っていた、と。だが少なくとも彼の中で、その「いずれ」は、今日ではなかったはずなのだ。きっと彼はもっと適切な機会を待ってからにするつもりだっただろう。――あるいは、適切な機会が訪れなければ、そっと隠し続けるつもりだったかもしれない。間違いなく、彼にとっての秘密のひとつだったのだ。断崖の鎖国で生まれたということは。
それを彼の口から話してもらえたことには、大きな意味があるような気がしていた。
誓いを交わした夫婦であるということとはまた違う、ひとりの人間としての信頼を、得られたような気がした。
――そう時間はかからず、買い出しは済んだ。実を言うと、あの場でフレデリックと二人きりでいるのがどうにも恥ずかしかったので、咄嗟に買い出しと言ってしまったのであって、それほど必要なものがあったわけではなかった。たまには、手作りのデザートでも作ってみるのもいいかもしれない。そう考えて、帰り道でリンゴを買い足した。
さあ、帰ろう――そうして踏み出したとき、不意に耳鳴りがした。
周囲から音が消え失せる。人々が通りを行き交っているはずのに、誰の声も、足音も聞こえない。
そのとき久しぶりに、あの空耳が聞こえたのだ。雑音のようなそれは、たった一言だけしか、明瞭に聞き取れなかった。
――来る。
来る? 訳が分からないまま、辺りを見回すと、不自然に目に入る人影があった。その人の存在だけが浮き彫りになっている。その人はゆっくりと街路を踏みしめながら、少しずつ近付いてきた。
「――こんにちは、グリューネちゃん。今日はずいぶん、ご機嫌ですね」
「……ファニー・ファーカー……」
後退って、距離を保つ。ファニーは相変わらずにこにこと微笑んでいるが、どことなく禍々しい気配を纏っているように感じる。不気味なほど笑みを深くして、ファニーは口を開いた。
「まあ、そんなに怯えて……もう私の正体、バレちゃったんですか?」
「……知ってるわ。どうして隠したりするの? ちゃんと手続きをすれば、この国は魔法使いでも普通に入国できるでしょう?」
「うーん、そうなんですけどねえ。でも面倒くさいんですよ? 魔法を使えないように制限をかけられてしまうんですもの。それじゃ私もお仕事に支障が出るというか」
グリューネは彼女の仕事のことを思い出した。記者だと言っていた。世界中を旅して、美しい景色を集めて、記事にするのだと、熱心にそう語っていた。写真をたくさん、見せてくれた。
「……仕事の話も、嘘だったの?」
「あ、あの話は気に入ってくださいました? 気に入りましたよね? とっても楽しそうに聞いてくださいましたもの!」
悪びれもしない態度に、頭が痛くなった。――冷静にならなくては。対面してしまった以上、逃げるより他にない。
「っ――誰か」
「叫んでも誰にも聞こえませんよ。今あなたと私は、くり抜かれた『偽装空間』の中にいるのだもの」
外にいるであろう人に助けを求めようと手を伸ばしたが、壁のようなものにぶつかって阻まれてしまった。この空間ごと、物理的に遮断されているらしい。
「便利でしょう? ここで拷問を始めたって、誰にも気付かれないで済むんです」
「……何が目的なの。勿体ぶってないで言いなさい」
「まあ怖い。短気は損気ですよ、お嬢さん」
ファニーは足を組んで、空中に浮き上がった。
「取引をしましょう。耳寄りな情報があるんです。お聞きになりませんか? あなたの愛しのご主人様について」
その言葉に、俄に鼓動が速くなった。その僅かな変化を見逃さなかった女は、狡猾な笑みを浮かべて言う。
「調べたんです、フレデリック・ロバーツ――都合の悪いことは全部隠している、卑怯者のことをね。彼の秘密を教えてあげますよ。私についてきてくださればね」
今しなくてはいけないことは、すぐにここから逃げること、その方法を考えることだ。大人しく、真面目に話を聞いてやる必要はない。必要はないのだが、我慢はできない。
「口を慎みなさい、無礼者」
「……はい?」
聞こえなかった、いや、聞き間違いではなかったかというように、ファニーは目を点にして聞き返した。
「そのぺちゃくちゃと喧しい口を、閉じなさいと言ったのよ。誰であれ、わたくしの夫を侮辱するのは許しません」
確かに、彼には秘密があるのかもしれない。それはもしかすると、彼にとって都合が悪く、彼のこれまでの誠実さを嘘にしてしまうかもしれない。これからの生活の安心のため、隠されていることを少しも知りたくないといえば、嘘になる。
ただ、分かったことがある。フレデリックは何も、小賢しさや、自分の都合だけで何かを隠しているわけではない。打ち明けることへの、恐れや、躊躇い。彼の中にも、それがあるのだ。どこにでもいる、普通の人のように。
それを勝手に暴くことは――彼の全ての信頼に背くことだ。
「隠していることは、あの人が話したいと、わたくしに話せると思ったときに話してくれたらそれでいい。嗅ぎ回ってそれを暴くような真似をしているあなたから聞くことではないわ――取引は不成立よ、ファニー・ファーカー。出直しなさい」
断固たる口調で、魔法使いの女に言った。ファニーはその様子を呆気にとられながら聞いていたが、聞き終えてから再び不敵な笑みを浮かべ、さらに拍手までした。
「さすがは元・シェーンヴァルト伯爵家のご息女。家名を捨てても、品位は捨てておられませんか。なんと高潔、なんとご立派なことでしょう。……ですが、お忘れですか? 目の前にいる女は、仕事熱心な魔法使いだということを」
その言葉の意味は、すぐに理解できた。
不意に、身体から力が抜けた。グリューネは膝からがくんと崩れ落ちて、手に持っていた荷物が無音の街路に散らばった。地面に手をついて身体を支えるが、肘すらぶるぶると、痺れたかのように震えている。何が起きたのか分からなかった。魔法を使われたような気配はなかったが――
ゆっくりと歩いて近付いてくるファニーの手には、香水の瓶のようなものが収まっている。彼女は大仰に溜息をついて口を開いた。
「あなたの顔が疑念と不安でいっぱいになるところを見たかったですけれど……仕方ありませんね。速やかに、商品になってもらいましょうか」
とても若い女の腕力とは思えないような強さで、グリューネは持ち上げられた。力の入らない四肢はだらりと垂れ下がり、されるがままに運ばれていく。街路に転がったリンゴが、視界に映った。
――フレデリック。
心の中で、その名を呼ぶ。
気のせいか――左手に嵌めた指輪が熱を持っているような、そんな気がした。
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