第23話 偽りの顔、偽らざる心

「先生、このところ楽しそうですね」


 フレデリックは手を止めて、薬が用意されるのを待っている男の客の方へ、視線を向けた。今日の薬局は訪れる客足もまばらで、ゆったりとした空気が流れている。その男は季節性の喘息を患っており、定期的に気道の炎症を抑える薬を受け取りに来ていた。その言葉を反芻し、首を捻る。


「そうだろうか」

「はい。以前は親切だけど愛想の無い方だと思っていたのですが、このところ先生はよく微笑んでおられますよ」

「自分では、さほど以前と変わりなく思えるが」

「無意識でしたか。それなら、なお良いことですね」


 あの可愛らしい奥様のおかげでしょうかね。そう言いながら男は笑っている。グリューネが薬局を手伝うようになって、しばらく経つ。よく訪れる客の多くは彼女と面識を持ち、ありがたいことに概ね好意的に受け入れられているようだった。薬を紙袋に包みながら、グリューネと結婚してからこれまでのことを、フレデリックは振り返る。


 慌ただしい日々だった。なにせ出会ってすぐに結婚することが決まった。悠々自適な独り住まいに、妻のための家具を急ぎ用意したり。何も知らない彼女に事情を説明しに屋敷へ赴いたり。料理や掃除など、家事全般を教えたり。どちらかというと最初は、子育てに近かった――などと言えば絶対に彼女は怒るだろうが――ような気さえする。


 新しいことを成し遂げるたびに、彼女は嬉しそうに笑っていた。心を閉ざし、敵愾心と猜疑心に満ち満ちていた令嬢はだんだんと、自尊心を取り戻して優しい淑女へと変わっていった。それは本来、彼女が持ち合わせていた性質のひとつだったのだろうと思う。その発露に自分が特別貢献したとは思っていないが、喜ばしいことだった。


 独りの生活に、不足や、まして寂しさを感じたことはなかった。故郷を離れたときから、ひとりで生きていくと決めていた。それがで、人生の計画として完璧だと思っていたからだ。

 けれど、今は。家の中に響く小さな足音を。視界に映るこむ長い髪を。空気に漂う花の香りを。不機嫌そうに、あるいは嬉しそうに自分の名前を呼ぶ声を。かけがえのないものだと、そう感じている。


 他人に対してこんなにも、穏やかな心持ちで向き合えるようになるとは、フレデリック自身さえ考えてはいなかった。その要因はきっと、グリューネが良き夫婦であろうと努力してくれているからだった。たどたどしく頭を撫でる手のことを思い返しては、温かな感情で胸が満たされていくような、そんな心地がした。


 グリューネは、優しい娘だ。誠意を持って接すれば、真摯に耳を傾けてくれるに違いない。たとえそれが、どんなにであろうとも。


 だからこそ、自分の過去について知られたくないと思うことが、近頃は多くあった。触れさせたくなかった。あの白い手が触れるのは、この穏やかな時間だけで良い。いや、そんなことは建前で、本当はごく個人的な感情で知られたくないと思っている。良き妻でいてくれる彼女のために良き夫でありたいという、一種の見栄なのかもしれない。そんなことを考える自分が愚かで、可笑しくて――悪くないと、そう思えた。


 ――緊急警報アラート。対象を検知。


 強制的に、思考に割り込む危険信号。定期的に作動させていた探知魔法の術式が、ファニー・ファーカーの偽装魔法を見つけた合図だ。流れ込んでくる情報に集中するため目を閉じると、三つの地点でその魔法は探知されていた。向こうも探知されることを想定して対策をしてきたのだろう。

 探知魔法が作動する間隔の合間に、適当な対象に囮の偽装魔法をかけておけば、それらの反応は同時に出現したことになり、どれが本人かを特定することは難しい。多少己の身を削ることになっても、常時探知する術式にすべきだったかと考えたが、万が一に供えて魔力の消耗は抑えるに越したことはない。そう結論づけて、すぐさま次の行動に移ることにした。フレデリックは待っている男に薬を手渡す。


「薬だ。すまないが、今日はここで店仕舞いさせてもらう」

「おや、それはまた急な」

「一刻を争うので失礼する。お大事に」


 言うが早いか、フレデリックは薬局を出て、軒先に置いてある箒を掴んで、宙へ飛び上がる。探知された三箇所の地点は、距離がある。それぞれの方角を一度見てから、息をつく。これらを全て見て回るのは時間の無駄だ。三分の一の賭けを外すごとに、更に距離を開けられる危険性もある。


 もちろん、この事態を想定してなかったわけではない。できれば、使わずに済めば良いと思ってはいたが。


「――術式、解凍。対象探知」


 フレデリックはの探知魔法を作動させる。探知魔法に呼応するように、新しい対象が見つかった。


 市街地を出て少し進んだところ、街道から外れた場所で反応は止まっている。ファニー・ファーカーの魔法が探知された場所のうちのひとつの、ほど近く。空中で旋回し、フレデリックはその場所へ急いだ。


***


 ファウゼン市街の外、寂れた旧街道沿いにぽつりと立つ小屋に、ファニー・ファーカーはいた。戦後新たに整備された新街道は、人や荷馬車の往来が絶えない一方で、今やほとんど利用するもののいなくなった旧街道はろくに舗装もされておらず、石畳が敷かれただけの獣道のようにすら見える。


 薄く粗末な板が使われている床には意識の朦朧とした――麻痺毒が回っているからだ――グリューネが転がっており、今にも目を閉じてしまいそうなのを必死に堪えて、恨めしげな視線を向けている。ファニーは、その様子を見ながら、にこにこと話しかけた。


「まあ怖い。可愛いお顔が台無しですよ」

「……」


 少女の厳しい視線は緩まない。恨まれているのか。当然だろう。でも、だからなんだというのだ。ファニーにとって、全ての他人は情報資源であり、商品であり、金を稼ぐための道具でしかない。だから、そんな視線など痛くも痒くもない。むしろ愉悦すら感じられる。その視線は敗者のものであり、それを受ける自分は無論勝者であるからだ。


「……あな……た、」


 横たわった少女が、途切れ途切れに言葉を紡いだ。


「しごと、が、恋人だって……しゃ、しん……あんなに、きれいなのに……」

「あれは作り話ですよ。箱入り娘のあなたが、興味を持ってくれそうだったから使っただけ。写真だって気まぐれに、適当に撮ったに決まってるでしょう」

「……うそ、つき……」


 その弱々しい言葉に、女の顔が険しくなる。


「てき、とうで……あんな……すてき、な、写真、は……とれ、ない……でしょ……」


 ファニーは舌打ちをしながら、少女の長い髪を乱暴に掴み持ち上げる。痛みに呻く少女に、女は吐き捨てるように言葉を浴びせる。


「写真なんて、レンズで映してシャッター切れば、誰にだって撮れますでしょ?」

「……それ、でも……あなたが……映した、世界は……きれい、だわ」


 少女の目には、なんとも言えない感情が浮かんでいた。哀しむような。憐れむような。愛おしむような。その目が、無性に腹立たしかった。そんな目で見るな。そんな目で見られる筋合いはない。見られていいはずがない。自分はこの場において勝者なのだ。


 もっと恨め。蔑め。そうでなければならない。

 敗者がそんな顔をしていいはずがないのだから。


「……ずいぶん余裕ですこと。お分かりですか? あなたの命は今、私の掌の上ですよ?」


 ふと、グリューネの側頭に咲く花が目についた。そうだ。この花は彼女と神経が繋がっている。彼女が、大好きな夫の助言によりそのままにしているのだという。それを気に入っていることは、話を聞けば明白だった。ふつふつと、加虐の心が沸き上がる。その花に手をかけ、力を込めると、少女の顔が苦痛と恐怖に歪む。


「ッ……! やめ、て」

「ほら、痛いですねえ? 引き抜いたらどうなってしまうのかしら?」


 ぶちぶちと、根が千切れるような感触が伝わる。歯を食いしばって耐えている少女の、泣き叫ぶ様を見たくなってきた。その好奇心には抗いがたい。魔法使いにとっては、なおのこと。女はそのまま、少女の身体に咲くその花を引き抜いた。


 ぷつん、と軽い感触。一拍置いて、花を引き抜いた手に激痛が走った。

 視線を巡らせれば、摘み取った花を握りしめた手に、大きな棘のようなものが突き刺さっている。赤い雫が腕を伝うのを見て、ファニーは慌てて身を引く。そして、目の前にいる少女の姿に愕然とした。


「あ……ぐッ……い、や……嫌……ッ!」


 手が。足が。頬が。喉元が。少女の白い肌が裂けていく。種子が芽を出すように、その内側から瑞々しく透き通った茨が伸び出してくる。その様子は幻想的とも言えたし、少女の苦痛の呻きを産声代わりに、見る間に生長していく様は、猟奇的でもあった。ファニーの手を突き刺していたのもその茨のひとつで、べっとりと赤い血を滴らせた茨が、少女の傍らでひとりでに躍動している。それはまるで獲物を見つけた獣のように、うねりながらファニーに迫ってくる。


「なッ……なんなの、これは……!?」


 舌打ちしながら、懐から取り出したナイフで茨を切り払う。しかし、次から次へと茨は伸びてきて、小さな刃物ひとつで太刀打ちできる域を超えていた。


 これが『妖精令嬢』だというのか。馬鹿げている。ほとんど無尽蔵に、茨が増えては迫ってくる。ありえない。これだけのことを、魔法使いでもない人間がしているのか。

 その茨は壁を這うように広がり、このままでは小屋に閉じ込められる。そうなれば――命が無い。本能的にそう判断したファニーは、一時撤退を即座に決めた。


「チッ……焦熱、爆散!」


 短い呪文の詠唱と共に、炎が爆ぜる。それは伸びてきていた茨ごと、小屋の扉を焼き払った。なおも女を捕らえようと蠢く茨を避けて外に出ると、今度は空中から飛来する気配がある。


 空を仰ぎ見れば、そこには飛行魔法で追跡してきた魔法使いの男――フレデリック・ロバーツがいた。ファニーは目を見開く。


 早すぎる。市街地に仕掛けたデコイは、ファニー本人にかかっている魔法と何ら差異の無い――判別のつかないものだったはずだ。まさか、当てずっぽうでここを決め打ってきたとでもいうのか。箒に乗った男は涼しい顔をして、ファニーの前に降り立った。


「不思議そうな顔をしているな」

「……ええ。想定より、ずいぶん早いお越しだったもので」

「そう難しいことじゃない。君よりも大事なものに、より確実な目印をつけていただけだ」


 実のところ――探知魔法で特定の人間を検知することは、難しい。魔法使いが対象の場合に限っては、対象の使用する魔法そのものを対象にとることで精度を上げることができるが、そうでない人間を探知する場合、条件の似通った――性別や背格好が近いなどの――反応を拾ってしまうことがある。そのため正確に探知するのであれば、探知したい対象に魔法で付票ラベルをつけておくことが手っ取り早い。


 非魔法使いであろうと、人間が魔力を有している以上は、かけられた魔法に対し抵抗力が発生する。その抵抗の強さは千差万別だが、場合によっては想定していたような効果を発揮できないことが珍しくない。そのため、付票をつけるのには無機物が適しているのだ。


 だが、グリューネはそんなもの何も持っては――


「……指輪か……!」


 思い出した。喫茶店で向かい合って話しながら、楽しそうに机の上の写真を広げる、彼女の左手には――小さな銀色の指輪が嵌まっていたことを。あまりにもそこにあることが当たり前で、すっかり意識の埒外に置いてしまっていた。魔法を施された物質の気配を見逃すなど、滅多に起こさないような失態だ。唇を軽く噛んでいると、事もなげに、目の前の男が言った。


「気付かなかったとしても無理はない。こちらで探知魔法を起動しなければ、あの指輪は、本当にただの指輪でしかなかったのだから」

「……偽装魔法、ですか。どうりで、私の偽装にもすぐに気付いたわけですね」

「嘘吐きはお互い様、ということだ。……さて、君には聞かなければならないことが多くあるが――」


 フレデリックは茨で覆われた小屋を横目でちらりと見て、一度言葉を切った。


「今、君への対処の優先順位は一時的に下がった。ここから立ち去れば、その手の怪我を治すくらいの猶予はくれてやってもいい」

「あら、その間に私が遠くに逃げるかも知れませんよ?」


 そう返すと男は鼻で笑い、冷ややかな視線を送ってきた。


「できるのならそうすれば良い。自分の詰めの甘さから目標を手放し、追跡を振り切ることもできず、尻尾を巻いて手ぶらで逃げることを、君の矜持プライドが許すならばな」

「……言ってくれますね……今ここで消し炭にしてやろうか……」


 激しい怒りと同時に、ファニーの背には冷や汗が伝っていた。


 もしも、この男の素性がなら。今、戦闘するのは確かに得策ではない。頭に血が上り、自分が浮き足立っていることを、女は理解していた。この状態で戦って勝てるほど、この男が容易い相手ではないことは分かっている。そのうえで、この男はと、そう言っているのだ。その言葉は、ファニーの矜持を傷つけるには十分だった。


「そう慌てるな。――すぐにもう一度、君の前に立ってやる」


 早く、ここから失せろ。氷のように冷ややかな男の声は、言外にそう示している。歯噛みしながら、ファニーはその場を離れることにした。ぐっと脚に力を込めて高く跳躍した、女の姿は次第に見えなくなっていった。


 寂れた街道に取り残された男は、ようやくそこで息をつく。十中八九、来るのが遅かったのだ。その小屋は扉が焼け落ち、その空白を埋めるように茨が絡み合っていた。その隙間から中を伺うと、床に倒れているグリューネの姿がある。手や足だけでなく、背からも茨が生えてきているようで、着ていた服はあちこちが破れてしまっていた。


「グリューネ」


 名を呼んでも反応は無い。気を失っているようだ。倒れている彼女の傍には、焼けて黒ずんだ茨が落ちている。ファニーの魔法だろう。やり切れない感情に、ぐっと身が強ばるのを感じた。


 茨は入り組んで絡み合い、小屋への侵入を阻んでいる。以前、彼女のこの体質は、彼女の意思に応え、望みを叶えるためにその力を発揮した。植物の生長は、彼女の意思である程度制御することが可能だというのが、そのときに出した結論だった。

 しかし、それは少し違っていたのかもしれない。今、グリューネは意識を失っている。にも拘わらず、彼女が生やした茨は明確に、この小屋へ人が侵入するのを拒んでいる。。ならば――


「……通してくれ。あの子を迎えに来たんだ」


 呟きながら、茨に触れる。棘の先端がざわざわと、手のひらを擦る。そして、ずぶりと、その棘が深く手のひらに沈み込む。棘が刺さった、などという言葉では到底足りないような激痛が走る。ぼたぼたと零れる血を舐め取るように茨は蠢き、そしてゆっくりと解けて、道を開けた。


 棘が突き刺した手が、ひどく痛む。痛みの原因を考えるのは、後回しにした。

 今はただ――あの子の傍へ行って、安心したかった。


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