第20話 あなたのことを信じたいのに

「もし、お嬢さん!」


 帰り道で呼び止められて、グリューネは振り返った。するとそこには、先程図書館で書架から本を取ってくれた――突然抱擁してきた女性がいた。思わず大きな声を出してしまいそうになったのを、どうにか思い留まって口を開く。


「あ――あなた、さっきの……」

「ああ、ごめんなさい。そんなに怖がらないでくださいませ。私、どうしても先程のお詫びがしたくって、追いかけてきてしまいました……」


 女性はもじもじと左右に身体を揺らしながら、そのように説明してくる。


「いきなり抱きついてしまって、すみません。図書館の中に漂う、甘い花の香りが気になってたものですから、つい……」


 その言葉にグリューネははっとして、気になっていたことを訊ねた。


「ね、ねえ、そんなにこの花って香りが強いのかしら……?」

「いえいえ、そんなことありません。私ったら少し鼻が良いものですから、気付いただけのこと。でなければ、あのように広い建物の中では気付かないと思います」


 その言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。常に自分の頭上に咲いているせいか、グリューネには花の香りは、意識しないとほとんど分からない。もし一緒に生活しているフレデリックが不快に思うくらい強く香っていたらどうしようと気が気では無い――できればすぐにでも本人に確認したい――のだが、ひとまずは、この女性のフォローによって、気を落ち着けることができた。フレデリックのことを考えていると、目の前の女性からも、彼の話題が飛び出した。


「私がはしゃいだばかりに、お連れ様もご気分を害されていたようでしたし……」


 しゅんとしながらそう呟く彼女を見て、今朝の彼の様子を思い出す。確かにどことなく常と雰囲気は違ったような気もするが、どこがと言われると困る、それくらいのささやかなものだった。そもそも、彼は愛想を振りまく方ではないのだ。気落ちしている女を気の毒に思い、慰めの言葉をかけてやる。


「あまり気にしなくて良いわ。あの人の愛想が無いのは、いつものことだから」

「なら良いのですが……。時に、あの方はあなた様のご家族様なので?」


 そう問われて、一瞬言葉に詰まる。家族。夫婦であるのだから、当然家族でもある。だがあまりそうした意識が無かったので、何か妙に気恥ずかしい。グリューネが頭に思い浮かべる家族は、早くに亡くなってしまった母、冷たく愛情のかけらも向けてくれなかった父、庇ってはくれたけれどあまり多くを話せなかった義兄――それだけだった。けれど、家族という言葉の中に、今はフレデリックを含めても良いのだと、このとき初めて意識したのである。


「ん……家族……には違いないけど……」


 あの人は、夫なの。もごもごと口籠もりながらそう小さく返すと、女は口をぽかんと開けた後、きらきらと目を輝かせて矢継ぎ早に捲し立てた。


「えー! ご主人様!? それはそれは意外でびっくり……あっ、でもでも、お嬢さんまだお若いでしょう? どんな馴れ初めだったのか、気になっちゃうなー」

「えぇ!? な、馴れ初め? それは、その……話すと長くなるから……」

「では、あちらの喫茶店カフェでお茶はいかがですか? お詫びに来たんですもの、私がごちそう致しますから! ぜひ、お聞かせください!」


 女は頬の横で両手の平を合わせ、首を傾げて上目遣いで訴えてくる。その必死な様子に、見知った道の道中であるし、少しくらい構わないかとグリューネはその提案に乗ることにした。女は嬉しそうな顔をして、跳ねるような足取りで喫茶店への道を先導していく。大人っぽく色気のある女が、少女のように浮かれているのを見て、微笑ましくなりながらその後に続いた。


 貴族の令嬢同士のお茶会ならば、数えるほどは経験がある。しかしこうして、市井の人が集う喫茶店に入るのは初めてだった。この間行った『白やぎ亭』とはまた雰囲気が違う。小さなテーブルに軽食や菓子を並べて談笑している女性たち、あるいは男女たちで多くの席が埋まっている。案内されたテーブルの席のひとつに腰を下ろすと、給仕の女性がメニューの書かれた表を持ってきてくれた。一枚の表をふたりで覗き込むと、女は、あ、と何かに気がついたように声をあげ、にこりと微笑んだ。


「申し遅れました。私、ファニー・ファーカーと申しますの」

「わたくしはグリューネよ。グリューネ……ロバーツ、ね……」


 うっかり癖でシェーンヴァルト姓を名乗るところであったが、もうあの家の一員では無い。元の身分を別段隠しているでもないが、わざわざ言う必要もないだろう。そういう思いからロバーツ――フレデリックの姓――を名乗ったが、口に出してみると、これがなかなか気恥ずかしい。ファニーのにやついた視線が頬に刺さってくるが、それに気付かないふりをして、焼き菓子と紅茶のセットを注文した。


 ほどなく、給仕の女性が二人分の菓子と紅茶を運んでくる。紅茶をひとくち口に含んでから、先に口を開いたのはグリューネだ。


「ええと、ファニー? あなたは、この国レーヴラインの人ではないわよね。何をしている人なの?」

「私に興味を持ってくださるのです? 私は記者でして。世界中を巡って様々な記事を執筆しておりますのよ」


 そう言いながら、彼女は鞄から紙の束を取り出す。それは執筆途中の記事のようで、合間合間に鮮やかな写真が留められていた。

 ファウゼンとは違う、どこか遠くの街並み。荒れた道を行く馬車と、旅人が一息ついている野外の風景。雪に覆われた断崖の城。菓子を頬張るのもそこそこに、グリューネは齧り付くようにその写真に目を凝らした。そこに映っているのは、見たこともない景色ばかりだ。


「わあ……! あなたが写真機で撮ったの?」

「ええ。記録を残すには、写真が便利ですからね。残したいものは自分で撮りに行くのが一番なんです」

「……綺麗な景色」


 目を輝かせて、うっとりとグリューネは呟く。

 かつては、自分が屋敷の外――貴族街の外に出るなんてことあまり考えられなかった。しかし今はそこを出て平民街にいるし、自分ひとりで道を歩くこともできる。

 いつか、もっと遠くへ行くことができるだろうか。開いた本の、その紙の上に躍る文字でしか知らなかった世界を、見ることができるだろうか。そうできたなら、良いなと思う。もちろんその時は、フレデリックも一緒に――フレデリックは、この国の外を見たことがあるだろうか。夕食のときに訊ねてみよう。そんなことを考えていると、目の前でファニーがにやにやとした笑みを浮かべていた。


「グリューネちゃん、今、旦那様のことを考えていましたね?」

「ど、どどどうして」

「それはもう、ぱあーと幸せそうな顔をされてましたもの。それでそれで? お二人の馴れ初めを聞かせてくださるお約束でしょう? さあ、さあ!」


 ずいと顔を寄せてくるファニーにたじたじになりながら、グリューネは掻い摘まんでフレデリックと結婚した経緯を話した。父親が彼に取引を持ちかけたこと。彼が父親に内緒で馬鹿正直にそれを言いに来たこと。そのうえで結婚しようと言ってきたこと。自然、『妖精令嬢』と呼ばれていた由縁である、自身の体質のことは話す流れになってしまい、それを話すのには、少し緊張した。しかし、彼女はそれを真面目な顔で聞いて、そして声を落として口を開いた。


「……では、その頭のお花は、髪飾りではなくてグリューネちゃんから生えているものなのですね」

「そういうこと。……だから、あまり触らないでちょうだいね。すごく、くすぐったいのよ」


 指先で花に触れる女にそう釘を刺すと、ファニーはぺこぺこと頭を下げて、自分の皿に乗った焼き菓子をひとつ、グリューネの皿に乗せた。そしてうんうんと頷く。


「なるほど、そうした経緯だったのですね。……で、その旦那様にベタ惚れである、と」

「う……」

「あらあら、照れちゃって」


 赤くなって押し黙るグリューネを見て、楽しそうにファニーは笑う。この後も、フレデリックについて、どこが好きなのかとか、どういうところが素敵に思うのか、どういうところを直して欲しいかなどを根掘り葉掘り訊ねられ、時々言葉に詰まりながらも回答した。世の中の女子たちは、集まって恋の話をするらしいと知ってはいたけれど、こういうものなのかと実感を得るに至った。


「ファニーは、そういう人はいないの?」

「特にいませんねえ。今は、お仕事が恋人というか。私、こう見えて仕事にお熱なんですよ」


 彼女が撮影した写真に再び目を落とす。何度見ても、美しい景色だ。きっと、彼女が実際に目に映した景色は、もっと美しかっただろう。確かに、こんなにたくさんの景色を追いかけることができる仕事ならば、夢中になってしまうのも分かるかもしれない。ファニーの生き方が、グリューネはとても輝いて見えた。


 今の生活に不満や不服はないけれど、彼女のような人生にもまた、憧れがある。自分の足で自由に世界を回って、美しいものに出会う。冒険小説でしか見たことのないような生活を、実際にしている人がいる。なんと羨ましいことだろう。――ふと、彼女が自分の話を聞いてどう思ったのかが気になった。


「……今更だけどわたくしのこと……あなたはおかしいと思わないの?」

「あなたの体質からだのことですか?」


 問いかけに首を捻りながら、ファニーは答える。


「うーん、そうですね。とても珍しいと思いますが、私も世界の全てを知っているわけではありませんので。『そういうこともある』、という感じでしょうか」


 驚くグリューネに、彼女はにっこりと微笑んだ。もちろん、ファニーは実際に人間の身体から草花が生えてくる様子を見てはいないから、怯えたり、変に思ったりしないのかもしれなかったが――それでも、そういうこともある、などというたったの一言で済まされてしまったことが、グリューネには嬉しいことだった。


 楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまうものだ。ファニーとの会話を名残惜しく思いながら、陽が傾く前には帰宅し、夕食の支度を始めた。グリューネは上機嫌だった。あのファニーという女性は態度こそ馴れ馴れしく、最初は困惑したが、話し上手で聞き上手、夫とは正反対の性質の人で、久方ぶりに、人との会話というものを楽しんだ。

 彼女の上機嫌さは帰宅した夫が驚いてしまうほどのもので、にこにことキッチンに立っている妻を見て、フレデリックはしばし帰宅の挨拶すら忘れてしまったほどである。


「おかえりなさい、フレッド。ちょうど夕食の支度ができたところよ」

「……ああ、ただいま。今朝の図書館は楽しめたか?」

「ええ、もちろん。あんなにたくさんの本、屋敷にもなかったもの。魔法で動く機械も面白かったし――」


 言いながら、グリューネは夕食を皿に盛り付けてテーブルへ並べる。白い皿に盛り付けられた白身魚のポワレには、ソテーした野菜と香草を添えてある。出来映えは上々だ。


「今日はまた、新しい料理にしたのか」

「そうよ。わたくし、どんどんできることが増えているんだから」

「知っているよ。君がこれほど努力家だとは、思いもしなかったが」

「もう、失礼な人ね」


 軽口を交わす夫婦の会話は、極めて和やかな雰囲気だった。そんな空気の中、グリューネは日中のことを思い出し、フレデリックに訊ねた。


「ねえ。あなたは、この国の外って行ったことがある?」

「うん? ――まあ、多少はある。それにしても、随分唐突な質問だな」

「それがね……」


 グリューネは、フレデリックと別れてから後のことを話した。図書館で出会った女性、ファニーが追いかけてきたこと。自分たちの馴れ初めに興味を持ってくれたこと。カフェでお茶をしたこと。彼女が世界のあちこちで映した写真がとても綺麗だったこと――それらはグリューネにとってまた新しく、素晴らしい体験を得た喜ばしいことであった。同じように、彼も思ってくれると思っていた。


 しかし、話を聞いているフレデリックの顔は、少しも動かない。淡々とした、いや、険しいと表現しても良かった。普段なら微笑みながら、話を聞いてくれるのに――


「グリューネ」


 氷のように冷ややかな声。彼のこんな声は初めて聞いたかもしれない。初めて会ったときですら、こんなに色のない声をしてはいなかった。思わずびくりと肩を振るわせて、恐る恐る彼と目を合わせた。星ひとつない闇のような瞳が、こちらを見ていた。


「二度と、その女に近付くな」

「ど――どうして?」

「彼女が、使だ」


 断固とした口調で言い切って、フレデリックは続けた。


「――残念なことに。この国に素性を誤魔化して入国してくる魔法使いは少なくない。ただ、何もしでかさないのであれば大目に見てやろうと思っていた。が、わざわざ君を追いかけてきたのでれば、話は別だ」

「……ファニーはそんなこと一言も」

「言うはずがない。どう誤魔化したかは知らないが、本来ならば違反行為と見做されることだからな。……魔法使いを、簡単に信用するな」


 彼の口調は厳しく、そして反論の隙を許さなかった。


「君はこの国の魔法使いしか知らないから分からないかもしれないが――本来、魔法使いは危険な存在だ。特に、君にとっては」

「……どういう意味よ」

「君が魔法使いにとって、興味深い研究対象になり得る、ということだ。魔法使いの多くは、自分の興味や関心を満たすことに意欲的だ。食欲や性欲と同様に、知的欲求を強く持っている。そして彼らが、必ずしもその欲求を満たす手段を、。彼女が君の花の香りに気付いて接触してきたというのなら、既に目をつけられている可能性が高い」


 不意に、少女の脳内にかつて聞いたフレデリックの言葉が思い出された。


 ――興味深い。

 そうだ。あの晩餐会の日、蔓まみれになった自分を見て、彼はそう言っていたのだ。もちろんその後の彼の行動が善意のものであったにしても、あのとき彼は最初にとして自分に目を留めたのだ。


 もし今も、それが変わらないままであったとしたら?

 優しく思える言葉や善意の裏で、今もそう考えているとしたら?

 君のためだなんて言って本当は、自分の研究や、知的好奇心や欲求を満たすために、自分を傍に置いているのだとしたら?


 違う。違う、違う。そうじゃない。グリューネは頭を振った。フレデリックはそんな人じゃない。この人を、夫を、信じようと決めたのに。どうして、信じられないのだ。


 重たい沈黙が、リビングに満ちる。その静寂を破ったのは、小さな雫が一粒、落ちる音。信じたい。信じられない。両極端の感情の板挟みにあって、少女の目からは涙が零れていた。唇を噛んで、声が漏れないようにしながら、グリューネは泣いていた。内心のジレンマを知り得ない傍目には、唐突に泣き出したようにも、見えたかもしれない。


「……あなただって――魔法使いじゃないの」


 小さな声でそう呟き、そのまま少女はリビングを飛び出して、階段を駆け上がっていってしまった。


 彼女がどこにでもいるただの少女だったなら。愛する人の言葉を、どんな言葉だって素直に受け取ることができただろう。どんな言葉だって、簡単に信じることができただろう。

 ただ、普通の少女ではないというその一点が、彼女を疑心暗鬼のどん底に突き落とすのだ。十余年燻り続けている他者への不信感は今もまだ――はびこる蔓のように、少女を離してはくれないのである。

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