三章 茨の冠を戴くは

第19話 妖精は図書館にいる


 (前略)


 ……『魔法使い』は我々と同じ姿をした、異なる生き物であると言える。

 例えば人間に、「何の武器も持たず、飢えた獣の前に引き出されたら、生き残るためにどう行動するか」と訊ねれば、そのほとんどが「為す術も無い」と答えるだろう。

 しかし、魔法使いであれば、十人が十人、各々の回答をするはずである。これが、我々と彼らの明確な違いである。この問いに対し答える術を持つことが、我々と彼らが異なる生き物であることの証左なのである。

 とはいえ、我々と彼らの間に、身体構造の違いは無い。違うのは、彼らが『エーテル機関』と呼ばれる、特殊な身体機能を保有していることである。『エーテル機関』はそれ単独で存在するのではなく、魔法使いの身体の組織に紐付いて機能する、彼ら特有の身体機能のひとつである。この機能の有無が、我々の体内に蓄積されている魔力を変換し、魔法として取り出すことができるか否かの差を生み出している。


 (中略)


 レーヴライン王国の『王立天文台シュテルンヴァーテ』に所属する魔法使いは、全世界的に見ても非常に信頼を得ている魔法使いの集団として知られている。その理由は、『世俗への貢献は魔法使いの義務である』という教義と、彼らが肌身離さず携行することを義務づけられている『輝く五芒星勲章ペンタグラム』とにある。


 この『輝く五芒星勲章』には、魔法による幾つもの処理が行われ、大きく二つの役割を有している。

 ひとつは、所持者である魔法使いの身分を、偽りなく証明することができる情報記録媒体であること。そしてもうひとつが、これ自体が非常に強力な反魔法術式を施された魔法道具であることだ。


 この『輝く五芒星勲章』に施された反魔法術式は、所持者が攻性魔法を使用した際、その術式に反応して魔法の効力を九割程度減衰させる。この効果は、即時に起動できるような攻性魔法の殺傷力をほとんど失わせることになる。人間と魔法使いが共生していく上で、目の前の魔法使いから、自分たちに為し得ない方法で、致命的な危害を加えられる可能性が無に等しいということは、非常に重要なことなのである。


 猛獣に枷を嵌めるのは当然のこと。そのうえで、猛獣が従順になってはじめて、我々人間は安心を得ることができる。

 『王立天文台シュテルンヴァーテ』はこのように、自分たちで自分たちに枷をつけることで、世俗からの信頼を勝ち取ってきたのだと言えるだろう。


 『人間から見た魔法使いの歴史』より、一部抜粋。


***


 グリューネとフレデリックは、珍しく比較的朝早い時間から、並んで街を歩いていた。仕事場へ向かう人や、開店の準備や家事に追われる人が、あちらこちらを右往左往している。早朝の街は、日暮れの繁華街とはまた別の意味で賑やかで、目新しい。グリューネがあたりを見回していると、傍らでフレデリックが口を開いた。


「あまりはしゃいで足元を留守にしていると、躓くぞ」


 ほら、と言って差し出された夫の手を自然に握りしめる、グリューネの顔には笑顔が浮かんでいる。フレデリックは呆れたように息をつくが、その表情は限りなく穏やかだ。彼を知る人たちでさえ、彼がこんな表情を他人に向けられるとは思いもしなかっただろう。様々な出来事を経て、ここしばらくの間に夫婦の仲は、以前よりも確実に深まっているといえた。


「こんなに早くから店の支度をしているのね。それに比べたら、うちの薬局はのんびりとした開店だわ」

「朝一番は皆、このように忙しい。一息つく頃に開いているくらいでちょうど良いんだ」


 そのような話をしていると、通りかかった果実屋の店先で、そこの店主が手に持っていた籠を取り落とした。籠の中には丸く艶やかな柑橘の実が入れられており、このまま中身が零れ落ちれば、遠くまで転がっていって――ファウゼンの街は地形上、坂が多いので――大変なことになってしまうだろう。それを横目で認めて、フレデリックが足を止めた。彼が小さく呪文を唱えると、傾いた籠は空中でぴたりと止まる。その籠をひょいと持ち上げ、フレデリックは驚いている店主に手渡した。それを受け取ってから、店主が慌てて頭を下げる。


「ああ、ありがとうよ、魔法使いさん」

「いや、商品に大事が無くて何よりだ。では、失礼」


 そう淡々と受け答えする夫の横顔を、グリューネはじっと見ていた。


 最近、気付いたことがあった。魔法を使うとき、フレデリックの左眼がぼんやりと光っているようなのだ。それに気付いてから、彼の左眼についつい目が向いてしまうようになった。黒に近い夜空色の瞳が明るくなって、青みを強く帯びた色になる。闇夜が星空に変わるような、その様がとても綺麗だと思ったのだ。


 果物屋を通り過ぎてしまってから、視線に気付いたフレデリックが問いかけた。


「どうした。そんなに人の顔を見て」

「瞳が光るのが、綺麗だと思って」

「よく気付いたな」


 フレデリックの言葉に、まさか頻繁に顔をじっと見つめているからだなどとは恥ずかしくて言い出せず、まあねと言いながら少女は目を逸らした。そんな乙女の心情は知らず、男は問いを投げかける。


「『エーテル機関』のことは知っているか?」

「本で少しだけ見たわ。身体の組織に紐付いてる、魔法使い特有の身体機能、でしょう?」

「概ね正答だ。加えて、『エーテル機関』は魔力を通すと発光するという性質がある。内臓に『エーテル機関』がある魔法使いの場合は、ほとんど確認できないが」

「じゃあ、あなたは左眼がそうなのね」


 そうだと頷きながら、しかしフレデリックは少しだけ不服そうな声で付け加えた。


「俺としては、あまり目立つ部分にあるのは、好ましくないのだが」

「そう? ……わたくしは、綺麗で良いと思ったけれど」

「そうか。君が良いと思うなら、良かったと思うことにしよう」


 引き続きフレデリックは妻の手を引いて道を進む。グリューネは顔が熱くなるのを感じながら、そういう物言いが人を誤解させるのよという言葉を飲み込んだ。少なくとも、自分が言われる分には問題ないし、嬉しいのだから。


 グリューネが好んで読んでいる恋愛小説には、芝居がかった甘い台詞が多くある。無論、そういった台詞を囁かれたいという願望が多少なりあることは否定できない。しかし、恋しい人に言われるのならば、飾り気の無い言葉にだって胸は高鳴るものだということを、フレデリックと過ごすようになってから思うようになっていた。言い回しは理屈っぽく小難しいが、自分の考えていることや感じていることを率直に口に出すある種の素直さ――これもまた良し悪しではある――が、彼に惹かれる理由のひとつであることは、間違いない。


 家事もいろいろとできるようになって――結婚生活は、上手くいっている。繋いだ手に少しだけ力を込めると、応じるように彼の手も握り返してくる。それが意識的にしていることかどうかは分からない。それでも十二分に嬉しくて、口角がむずむずと上がってしまう。


 幸せだ。この先ずっと、こんな時間が続きますようにと、何かに祈らずにはいられないほどに。


 そうしてしばし歩き、目的地にたどり着いた。


 ――王立天文台。その堂々たる偉容を、グリューネは初めて、間近で見上げた。貴族街から見たときには、すらりとした印象が強い建物だったが、近くで見ると細長い本棟に寄り添うように、幅のある建物が連なり、敷地もかなり広い。国内の最高学府と謳われるのに相応しい、重厚な建物群だ。


 だが、いま用事があるのはそちらではなかった。敷地内に併設された、これもまた大きな建築物。王立天文台と運営を同じくする付属図書館・『王立図書館ビブリオテーク』。フレデリックは今日、日々退屈を持て余している妻のため、天文台の仕事の前にここを紹介することにしたのだ。


 この『王立図書館』は魔法使いに限らず、知識を必要とするものであれば誰であれ、入館が許可されている。国内外の学術書や論文、娯楽本、さらには文化的価値を持つ稀覯本などが、建物内に余すこと無く収められている。そして『禁書』の名で分類される貴重な魔法研究資料の多くを、厳重に管理・保管しているのもこの場所だ。フレデリックは当然、この図書館の常連である。


 勝手知ったる足取りに続きながら、グリューネは図書館の中へ足を踏み入れる。まだ早い時間だというのに、館内は天文台の魔法使いたちや、一般の市井の人々がそれなりにやってきていた。入口付近のカウンターにいる司書の男――彼らも天文台の魔法使いだ――が、フレデリックの姿を認め、声をかけてきた。


「早いですね、フレデリック。……おや、そちらはご夫人ですか?」

「ああ。今日は彼女が本を借りに来た。説明をしてやってもらえるだろうか」

「勿論です。ではご夫人、どうぞこちらへ。図書館の利用方法についてご案内します」


 丁寧な司書の男がそう言って、先に歩を進めた。グリューネがちらりとフレデリックを見ると、彼は頷いて口を開いた。


「始業まではまだ時間がある。……ここにいるから、ゆっくり選んでおいで」


 その言葉に頷き返し、グリューネは図書館の奥へ進んだ。

 司書の説明は懇切丁寧だった。書架の並び順や貸出の手順、魔法で動く検索端末ターミナルの使い方などを一通り聞いてから、グリューネは目当ての本を探した。盤上遊戯チェスの目新しい戦術書も読みたいし、絶版になってしまった古い詩集や、贔屓にしている恋愛小説の作者の、昔の小説も見てみたい。検索端末に探したい本の大まかな情報を入力すると、その本が並んでいる書架が、空中に浮かぶ半透明の画面の上で点滅して場所を示してくれる。その情報を頼りに、本を選んでいった。


 本選びは実にスムーズに済んだ。しかし書架の背が高いので、本を取りづらいことだけが大変だった。背が低いグリューネは、さほど高くもない場所の本を取るのにも踏み台を使わなくてはいけない。横着して、そのまま背伸びをして手を伸ばしてみるが、僅かに届かない。仕方ない、また踏み台を持ってこよう、と溜息をついたとき、横からすいと手が伸びてきて、取ろうとしていた本を書架から引き抜いた。


「こちらでよろしゅうございますか? 可愛らしいお嬢さん」


 そう言って本を差し出したのは、目のぱっちりとした背の高い女性だった。踵の高い靴を履き、豊満な曲線美を惜しみなく強調する、ぴったりとした見慣れない服を纏っている。流暢な話し方だが、格好から察するにおそらくこの国の人では無いのだろう。グリューネは本を受け取り、小さくお辞儀をした。


「どうもありがとう。助かりました」

「いいえ、どういたしまして。……あら? あら、あら」


 女性はやや吊り上がった金色の目を丸くして近づいてくる。そして、どうしたのだろうと疑問符を浮かべているグリューネを、そのまま抱きすくめた。突然のことに小さく悲鳴を上げる少女をよそに、女性は少女の右側頭に咲いている花へ、鼻先を寄せた。


「この花の香り――……あなたからだったんですねぇ」


 囁くような吐息が、花を揺らした。グリューネの身から生えてくる草花は全て――仕組みは分からないが――身体同様に神経が通っている。耳に息を吹きかけられたような感覚に、思わず手にしていた本を取り落とす。ばたばたと音を立てて本が足元に散らばり、周囲からの視線が注がれる。が、女性は放してくれる気配が無い。そんな様子なので、周囲の人々も声をかけづらいようで、しばしそうして時間が過ぎた。


「あ、あの、もう放し――」

「――グリューネ。どうかしたのか」


 おそるおそる口を開いたところに、やってきたのはフレデリックだった。女性はようやく顔を上げ、腕の力が緩んだ隙にグリューネは素早くその腕から逃れ、夫の傍へ駆け寄った。心臓はまだ、驚きと緊張でばくばくと脈打っていた。フレデリックは床に散らばった本を拾い上げ、それから女性に向かって口を開いた。


「失礼。彼女が何か、ご迷惑を?」

「いいえ。そんなことありませんわ。困っていらしたようなので、本を取って差し上げただけです」


 ね、と女性は小首を傾げ、可愛らしい動作で同意を求めてくる。その言葉自体に、間違いはない。フレデリックから問い質すような視線を受けて、グリューネはこくこくと頷く。それを確認すると、フレデリックは本を片手に纏めて持ち、もう片方の手を妻の背に添えて言葉を続けた。


「本はこれで十分か? それなら、貸出カウンターへ行こう」

「え、ええ……」


 促すように背を押され、グリューネは歩き出す。どことなく、背に添えられた手は有無を言わせないような雰囲気があった。肩越しに小さく振り返ると、女性はにっこりと笑って淑やかに手を振っていた。


 貸出の手続きを済ませ、図書館の外へ出る。この後、グリューネは家までひとりで帰ることになっていた。フレデリックはまだやや難色を示しているが、少しずつ、彼女はひとりで行動する範囲を広げていた。やはりいつまでも、彼がいなくては外も出歩けないようではあまりにも不便だ。彼の不在の間に買い出しなどに行ければ、より生活は効率的になるだろう。


 過日――落下するマイヤ・ニッコラを救うために、グリューネは自らの意思で身体から若木を生やした。発作の危険性を忘れてはいけないが、どうやらこの体質は、自分である程度制御することも可能らしいということも分かってきた。本当にひとりで大丈夫かとフレデリックが念押ししてくるが、問題無いとグリューネは力強く返してみせた。こうなっては妻が聞く耳を持たないことが分かっている夫は渋々頷き、それから別の質問をした。


「先程の女性は、顔見知りか?」

「いいえ、知らない人よ。わたくしに、あなたの知らない知り合いなんているわけがないでしょう?」


 そうか、とフレデリックは息をついて、何かを思案するような素振りをしている。それから、グリューネの左手を取って目を伏せた。


「気をつけて帰ってくれ」

「心配性ね。分かっています。……あなたもお仕事……が、頑張ってね」


 おそらく頑張るような仕事ではないのだろうが、言葉を他に思いつかず、グリューネはそのように返す。天文台へ向かっていく夫の背を見送り、借りてきた本を胸に抱え、ひとり帰路につく。歩き出してからふと、先程の女性の言葉が頭を過った。


 この花の香り――どこからかと思っていたら……あなたからだったんですね。


 手を伸ばして、右の側頭に咲いている花に軽く触れた。この花が普通の花と同じように香っていることは知っていたが、彼女の言い方では、随分強く香っていたかのようである。それを思うと少し恥ずかしい。もしかして、家の中でもそうだったのだろうか。恥ずかしいが、フレデリックが帰ってきたら聞いてみよう――そう思いながら道を行く少女を、忍び見ている影があることに、気付いているものはまだ、誰もいない。


 この先ずっと、こんな時間が続きますように。

 祈りも虚しく――少女のささやかな願いは、さらさらと端から砂になっていくような、静かな崩壊を迎えつつあった。

 

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